大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

木の花ファミリーの経済から世界を見る

個性を生かすヒフミヨイムナヤコト

木の花ファミリーの経済から世界を見るさんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2021/09/blog-post.html
<転載開始>

ある日の大人ミーティングでジイジは以下のように語りました。


☆彡 ☆彡 ☆彡


男性性や女性性など〇〇性というのは、その存在の性質を表しますが、その性質は、この世界でのそのもののポジションを示しています。それが「カタチサキ」というように現象化されているのがこの世界です。だから微生物性だったり、例えば、猫らしいとか犬らしいとか、それらも性質で、さらに細かく見ると、ペットの猫と山猫は性質が違います。その仕組みを知り、その現象が起きている意味を理解する志が大切です。

「カタチサキ」の現象化をマスターし生きているということは、きわめてシンプルに生きているということです。つまり、そのカタチサキから人間には、「人間性」という最初の性質が与えられ、男性性や女性性などの分類が与えられます。その次の分類にカルマが来て、癖性分が表現されます。その癖性分を癖性分として使うのか個性として使うのか。つまり癖性分は、ポジティブに使えば、個性としてとても有効に働き役割を全うするのです。ところが、悪く使うと癖性分は世界に混乱をもたらします。どんな性質であっても性質が悪いのではないのです。それを有効に使うか無効に使うかが問題なのであって、そのことを考えなければいけません。私はこういう人間だから駄目だと考え自己嫌悪に陥っているだけならば、それは有効に使うことを放棄しているのです。ではどうしたら有効に使えるのか、なぜ無効にしてしまうのか、その無効にしている自分は日頃からどういう性質をしているのかを考えることです。自分を振り返る時に、私はなんでこうなっているのかと振り返るのかもしれませんが、どうしてそうなっているのかということは他者の目があってより良く見えます。客観視点があって世界観が広ければ自分で見ることも出来ますが、それが見えないものにとっては他者の視点を貰うことによって初めて自分を見ることができるのです。この世界は、生命が循環し多様性に溢れています。自分を表現することは、そのような場に出ていくということで、木の花ファミリーのようなフィードバックを貰える場で自分を出していくことは、課題をクリアし、自分を有効に活用できるチャンスを貰っているということです。多様性の中で自分の性質が表れてくるのですから。

なので、言われて駄目だったなと思うこともあるかもしれませんが、その時、それを誤魔化さずにまずは落ち込まなければいけません。自分の性質に落ち込むのではなく、自らがもたらした出来事に落ち込むのです。そして真剣になってどうしたらいいかと向き合った時、初めて課題をクリアできます。

これは悟りの道であり地上天国を創るためには人々が宇宙法則を悟らなければなりません。私たち人間は宇宙を生きているのです。だから宇宙(天)と共にあることの意識でいないと、そのことは見えてきません。自我にまみれていては、絶対に地上天国は出来ません。

この世界は「カ」によって出来ていて、それがそれぞれの性質に相応しく満つっています。だから「神(カミ)」の現象なのです。「カミ」は物理性、つまり「カタチサキ」にも、「カタカムナ」というこの世界そのものにも常にその物理性は働いていて、神さまは常に存在するわけです。その働きは、あなたがそこに向けてアクセスするようになったら、必ず働いてとても良い流れに自分が乗ることが出来るのです。その時に有難いなと思うのです。その流れは自分が創ったものではなく「神(カミ)」からいただくものなので。

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カタカムナ63首奏上 ー マヤの祭典@木の花ファミリー

カタカムナ63首奏上 ー マヤの祭典@木の花ファミリー
https://www.youtube.com/watch?v=yKJ0_sy6FQs&t=112s

46,624 回視聴2015/07/06
tomoko ikeya

2014年7月26日、「富士山は宇宙の中心とつながる場」とのインスピレーションを得たメキシコの太陽マヤ族最高司祭、尊母ナー・キン氏一行が静岡県富士宮市の木の花ファミリーを訪れ、富士山をアンテナとして世界へ愛を発信する、マヤ新年10OCの祭典を行いました。その中で、カタカムナの第63首が奏上されました。 日本の古代文明であるカタカムナには、全80首のウタヒがあります。63首は世界を元気にするウタヒと云われ、木の花ファミリーのみかちゃんがオリジナルのメロディをつけました。


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ただただ他者を思う心

木の花ファミリーの経済から世界を見るさんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2021/01/blog-post_13.html
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これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。

それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる 

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カルマとの対向発生、そして意識が変わる

木の花ファミリーの経済から世界を見る
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2020/10/blog-post.html
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ある日の大人ミーティングにて、ジイジはこんなふうに語りました。


☆彡 ☆彡 ☆彡



生命にとっては、変化変態することが進化することですが、人間が自我に取り込まれると、その自我が創り出すカルマ(=心の垢)に汚染されていって、カルマが変化を阻むようになります。


いいことも悪いこともカルマとなります。いいことも囚われていくと心の垢になっていきます。悪いことはなおさら心の垢になります。


だから常に柔軟性を持って、その都度、どこにいくかを見ていくという話をしています。


今、大人ミーティング中にマコモダケの処理をしていますが、365日毎日あんなことをやっていたら嫌になってしまいますが、今がマコモのピークだから、今はその気になってやりましょうね、ということでエネルギーが湧いてきます。そうやって地球でやることは変化していきます。


若い時もあれば、熟してきて終わっていく時もあります。それに相応しい自分自身の扱い方、そういうものも柔軟であれば、器用に有効に自分を使っていけます。


ですが柔軟でない人は、通り一辺倒になります。もっと酷いのは、自分の柔軟さに欠けている状態が見えない状態です。見えていて分析できる状態で、それをやるならば、それは超えていく作業になる可能性があります。分からないで頑なにやる人は、本当にいくら一生懸命にやったとしても、そのパターンを超えていくことが出来ません。それをやり続けていると、次へとクリアするために語る言葉が、その場逃れのものとなり、それが癖になってカルマになると、カルマが独り歩きするようになります。何か問題を起こして、周りから「これはこうだよ」と言われると、その「こうだよ」と言われる場面をクリアするための言葉を言うだけで、相手の言葉を心に入れなくなります。言葉では「改善する」と言いますが、それは魂の入った言葉ではなくて、その時点で噓八百を語りだすことになりますが、そういう自分も周りから言われないと分からなくなります。自分を全くコントロール出来ていない状態。こういうふうになるのは固いからで、その時その場に応じた相応しい自分の扱いが出来ていないのです。

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戦争を生み出す心を超えていく

木の花ファミリーの経済から世界を見る さんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2020/08/blog-post_17.html
<転載開始>

かなりの部分まで、20世紀の不平等を緩和したのは、経済的、政治的な衝撃を伴う戦争という大混乱だった。漸進的で、合意にもとづく、争いのない変化を通じて、平等の拡大へと至った例はひとつもなかった。20世紀において、過去を消し去り、社会がまっさらな状態で新たに始動できるようにしたものは、調和のとれた民主的合理性や経済合理性ではなく、戦争だったのである


HONZ「暴力と不平等の人類史:戦争・革命・崩壊・疫病」


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上記は、ウォルター・シャイデル著「暴力と不平等の人類史」に対するトマ・ピクティによる総括だそうです。耕作が始まり財を蓄積できるようになってから、平時においては貧富の差(不平等)が拡大し、何らかの理由で社会が崩壊することで貧富に差がチャラになる。人類はそんな歩みを繰り返してきたようです。貧富の差が拡大すれば、社会の中には不満が溜まります。それは戦争を生み出す土壌とも言えて、人類はその意識に相応しく、戦争という残酷な結果を頂き続けているのです。だからこそ、戦争という痛みを刻むことで、それを超える意識を育む必要があります。

8月15日。

日本にとって終戦記念日であるこの日は、戦争の痛みを刻む大切な日となっています。そんな日の大人ミーティングでジイジはこんなふうに語りました。


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21世紀に入って20年になるというのに、この生命の、奇跡の星ともいえる地球にいる人間という生き物は、本当に傲慢で自分たちの能力が高いと思っているけれども、これぐらい愚かしい生き物はないということが見えてきました。

メディアは日本の終戦を毎年振り返っていますが、犠牲者の立場になってしまっているのです。確かに犠牲的側面はありますが、その犠牲に至った過程を観ないで、ただ自分たちが受けている被害だけを言っていては、この戦争がなぜ起きたのかは分かりません。それからあまりにも酷すぎる犠牲が起きたので、いつまでもそれを忘れられないのだけれども、宇宙は常に未知なる未来に向かって進んでいるのだから、未来志向にならなければいけない時代が来ているのだとつくづく思います。

日々のニュースを見ていても、そのような、次の時代にいくという現象は見えませんが、宇宙的には明らかに未来に行くようになっています。だからそれを促すために新型コロナウィルスもあれば、50年に一度の特別警報が出るような雨が様々なところで降り、これから台風もやってきます。来年になれば、さらにひどくなるでしょう。そのうちに東南海地震や首都直下型地震が来たら経済は確実に崩壊します。それは生きていくための手段が奪われるということではなく、生き方を変えなさいというメッセージと受け取らないと、いくら反省して振り返ったところで姿勢は根本的には変わりません。今日、NHKで放映された「太陽の子」。若手物理学者たちが原子爆弾を作ろうとしていました。日本は原爆を落とされましたが、たまたまアメリカの方が開発が早かっただけです。先に日本が開発していたら、日本も確実に使っていたでしょう。そういう意味では被害者とは言えません。みんな加害者と言えます。それをしっかり振り返ってこの生活に反映させて次の時代の指針を示さなければいけません。人類は宇宙船地球号という同じ船に乗っています。生命システムは一つの流れなのにそこの中で人々は共有することが出来ないのです。多分、宇宙の法則は調和して生きることを人間に信託しているはずなのです。それをやらないからこのような大変なことが起きるのです。これは怪しい宗教の話ではなくて、物理性として神は人間にいい加減にしなさいというメッセージを与えているのです。もっと進化したヒトにならなければなりません。



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登り続けて流れ続ける。

木の花ファミリーの経済から世界を見る さんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2020/08/blog-post_27.html
<転載開始>

健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。


しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。


「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。


ジイジのブログ:「修行」とは本来必要ないもの・より


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新型コロナウィルスは、やさしいメッセージ

ジイジのブログさんのサイトより
https://jiiji-konohanafamily.org/2020/03/04/corona/

ひふみ神示 第01巻  上つ巻 / (うへつまき)

   第二帖 (二)
 親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳 引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。

<転載開始>

現在、新型コロナウィルスの拡散により、世界各地でも日本でも異例の措置が取られる事態となっています。この状況を心配する海外の友人たちより木の花ファミリーへメッセージが届き、その中に「この事態をジイジはどのように捉えているのかを聞きたい」という声がありました。これに対し、ジイジは以下のように答えました。


新型コロナウィルスの登場は、劇に例えるなら、物語のクライマックスとなる役者の登場のように感じます。それは、その劇を観ている観客達や、劇を演じている登場人物達が待ち望んでいたものですが、皆それまで劇に浸りすぎていたので、それが待ち望んでいた人物の登場であることを忘れてしまっていたのです。
これは、新たな劇の進行の予言のようなものです。そこで私たちは、なぜそれが登場したのかを理解し、その登場したものに対して敬意を表すると同時に、今までその存在を忘れて敬意を表さずにいたことを振り返る必要があります。忘れていたことに対する振り返りをしなければ、敬意を表することはできないのです。

今回の新型ウィルスは、非常にデリケートな形で登場しました。これは明らかに、人類を滅亡へと追いやるような、過激なメッセージは持っていません。過激ではなく、とてもソフトな形で登場しましたが、目に見えないからこそ、人々は恐怖を感じています。では、その見えないものに対して何を恐怖に感じているかというと、これまで人間は自分たちの力で全ての出来事を克服できると思ってきましたが、それが通用しない事態が発生していることに恐怖を感じているのです。

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自然で当たり前のことを当たり前にする(2020年)

木の花ファミリーの経済から世界を見るさんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2020/01/2020.html
<転載開始>
木の花ファミリーでは元日のお昼はみんなで集まり、一人ひとりが今年の抱負を語ります。「今年の抱負」と聞いてはじめ何も浮かばなかったのですが、そのうち「当たり前のことを当たり前にする」という言葉が浮かび、僕はそんなことを語りました。この言葉を語っているトキ、僕は昨年の7月に書いたこんな文章を思い出していました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自然のことを気にせずにやりたい放題をして来た人類の姿勢は、昼夜逆転の生活を送っているようなものとも言えます。その結果、人間社会は自然との繫がりや秩序を失ってきたのです。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

今の人間社会はそのことが出来ていない状態で、その表れとして、鬱や引きこもり、人々の分断や対立、そして自然災害があるのだと思います。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

そのことが最善を尽くすこととなり、ヒトとヒトは繋がり、出会う出来事をいただき実力をつけていく基盤となるのです。今まで見てきた景色は、乱れた思考や生活から生み出されたもの。それが未来を作り続けるわけではありません。


☆彡 ☆彡 ☆彡
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突破口は気づきにある(認識を更新していく)

木の花ファミリーの経済から世界を見る さんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
<転載開始>
 


我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。
突破口は気づきにあるより)

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泥の中から美しい蓮の花が咲くように(2019年)

木の花ファミリーの経済から世界を見る さんのサイトより
https://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2019/11/2019.html
<転載開始>
たとえばひどいことをしてくる人に出会ったとして、なんてひどいんだと思ったとしても、その人と出会いその反応を引き出しているのは自分です。だから出会う出来事はすべて、自分の鏡、自分自身と言えるのです。

だから甘んじてひどい仕打ちを受け入れるというわけではなくて、その出来事を通してひどい自分を知り、自分が変化していく、そのことが自分の出会う世界を変え、世界全体を変えていくのです。

自然災害や戦争、紛争、そして日々のトラブルなど。現代社会は、失敗や困難で溢れています。そんな中、今の自分のメンツや評価、利益に囚われると、落ち込んだり嫌な気持ちになりますが、過去から未来へと続くプロセスとして見れば、すべての出来事は変化のきっかけ、希望となっていくのです。


ひどい出来事、辛い出来事も心に刻めば、美しい花を咲かせるための糧となります。蓮池に泥があり続けるように、この世界には困難があり続けるのでしょう。ですが、それらを糧にし美しい花を咲かせ続ければ、すべての出来事は恵みとなっていくのです。

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大人ミーティングにて、毎日の生活を美しく生きていくをシェアしたトキ、木の花ファミリーでは、オーロビルのマルティさんをゲストに迎えていました。そして、とても素敵な場が出来上がったので、そこでの話を一部、紹介しますね。

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