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フツーの人が書いた黙示録 〈 神示編 ― Vol.3 〉 |
『ひふみ神示(日月神示)』(上巻)の超解釈 |
岡本天明・筆 コスモ・テン・パブリケーション |
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☆ いよいよとなったら神がうつる | ||
☆ 日蓮も親鸞も耶蘇も脱け殻ぞ | ||
☆ 言波ほど恐いものはないぞ | ||
☆ 富士には臣民は登れんようになる | ||
☆ 仕事は行であるから、精出してくれよ |
人民同士の戦では到底かなわんなれど、いよいよとなりたら神がうつりて手柄さすのであるから、それまでに身魂みがいておいてくれよ。世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ。誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりていると、どんな気の毒できるか分からんから、くどう気つけておくのざぞ。腹掃除せよ。
「いよいよとなりたら」という表現はひふみ神示にはよく出てきます。九分九厘の状態を意味しています。つまり、神様(高次元の霊的存在)が人間に憑依して次元上昇の手助けをしていただくのは、終末のカタストロフィーの最終局面であることを述べているのです。その時に必要なのは「誠」だというわけです。これは「神様の前に隠し事がないこと」と解釈したらよいと思います。人間社会の価値観での誠実ということとは少しニュアンスが違います。現世利益にとらわれない「無私」という要素が大切になります。
神にまつらう者には生も死もないのぞ。死のこと、まかると申してあろうがな。生き通しぞ。なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ。それがまことの神国の臣民ぞ。みことぞ。
「まかる」は「行く」という意味です。この世では死は「生が消滅する」といったイメージがありますが、本来は「別の世界に行く」ということなのです。昔はなきがら(遺体)を残さずにそのまま別世界に「まかる(行く)」ことができたと述べられています。本当の神の国の住民はそこまで波動が高かったということです。わが国の神話に出てくる「命(みこと)」「尊(みこと)」はそういう存在だったのです。これから人類が次元上昇して、そのような存在になっていくことが述べられています。
祓いせよと申してあることは、何もかも借銭なしにすることぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それはらってしまうまでは誰によらず苦しむのぞ。人ばかりでないぞ。家ばかりでないぞ。国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ。世界の大祓いぞ。
「借銭」とはカルマのことです。生まれ変わりをする過程で、私たちはカルマの解消に努力してきました。しかし、いま生を受けている人でカルマのない人はありません。そのカルマの清算をするまでは、誰でも苦しみを味あわなくてはならないと述べられています。終末には、家庭のカルマ、国のカルマ、そして世界中のカルマの清算をしないといけないわけです。天変地異に遭遇することも避けられないということでしょう。
神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ。臣民の身体からも光がでるのざぞ。その光によりてその御役位わかるのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして、うれしうれしの世となるのぞ。今の文明なくなるのでないぞ。たま入れていよいよ光りてくるのぞ。手握りて草木も四つ足もみな唄うこととなるのぞ。み光にみな集まりて来るのざぞ。てんし様の御光は神の光であるぞ。
聖書でも、大本神諭でも、ひふみ神示でも、次元上昇した新しい地球は光り輝くと述べられています。人間の体も光り輝くようになるのです。その光の違いで魂のレベルがわかるということでしょう。今の文明はなくなってしまうのでなく、それぞれに魂が入れ直されて、光り輝いてくるのです。植物も動物もみんなてんし様の光に集まってきて唄うと述べられています。おとぎの国のようですね。この「てんし様」がどのような存在かはまだわかりません。イエス様のようなイメージだと思っていますが‥‥。
日蓮も親鸞も耶蘇も脱け殻ぞ [TOP]
この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も、今はたましいがぬけておれど、この道入れて生き返るのぞ。日蓮も親鸞も耶蘇も何もかも脱け殻ぞ。この道でたま入れてくれよ。この道はゝぞ。○の中にゝ入れてくれと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ。ゝ入れてくれよ。○を掃除しておらぬとゝは入らんぞ。今度の戦は○の掃除ぞと申してあろうがな。まつりとは調和(まつわり)合わすことと申してあろうがな。
黒住、金光、天理は同一霊系統からの予言の系譜となってひふみ神示へとつながっているのですが、それぞれはすでに宗教団体となっています。そして、今はたましいが抜けていると表現されているのです。だから「この道」すなわち「ひふみ神示」の教えを入れて生き返らせるとあります。日蓮や親鸞に代表されるわが国の仏教も、そして耶蘇すなわちキリスト教も、いまは抜け殻になっているとか。○は三次元の物質的形、ゝは四次元以上の霊的な型を意味していると思われます。「○を掃除する」とは波動を高めることです。そのやり方は神様(高位次元の存在)と調和することとあります。いろんな意味合いがありますが、私は「全託」ということが大切であると思っています。「人間知であれこれするのでなく、すべてを神様にお任せする」ということです。幼い子どもが親にまつわりつくイメージですね。
この道分かりた人から一柱でも早う出てまいりて、神の御用なされよ。どこにおりても御用はいくらでもあるのざぞ。神の御用と申して、稲荷下げや狐つきの真似はさせんぞよ。
「神の御用」とはどのような役割なのでしょうか。「稲荷下げ」や「狐つき」と並べてあるところを見ますと、要するに「神憑かりになる」ことを意味していると思われます。終末には肉体の波動を高めた人に高位次元の霊的存在が憑かって、必要な役割を果たすということです。
神の国のカミの役員わかりかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や知恵が邪魔してなかなかにわからんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言わなくなるぞ。この世の終わり近づいたときぞ。石物言う時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王も八王も作らせんぞ。一つの王で治めさすぞ。てん詞様が世界をみそなわすのざぞ。世界中の罪負いておわします素盞雄(すさのお)の大神様に気づかんか。盲つんぼばかりと申してもあまりでないか。
「神の国」は次元上昇した世界のことです。「カミの役員」はその新しい世界の要職につくべき人のことを言っています。しかし、この物質世界で身につけた知識や考え方が邪魔になって、次元上昇の意味が理解できないということです。人民がものを言わなくなり、石がものをいうようになる、とあります。この意味は理解できません。
新しい世界では、王となる存在は「てん詞様」だけということです。「すさのおの大神様」に気づけと言われていますが、ここも理解できないところです。
神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚してしもうて、それで不足申していることに気づかんか。一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申しているでないか。それはまだよいのぞ。神の面かぶりて口先ばかりで神さま神さまてんしさまてんしさまと申したり、頭下げたりしているが、こんな臣民一人もいらんぞ。いざというときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ。犬猫は正直でよいぞ。こんな臣民は今後は気の毒ながらお出直しぞ。神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ。
「神が臣民の心の中に宝いけておいた」というのは、法華経の「衣珠の喩」(親友が衣類に縫い込んだ宝玉のたとえ)とよく似ています。私たちにはもともと神様と同じ力が備わっているのに、それに気づかないために、自分には力がないと考えて本来の力が発揮できない状態になっているということです。
それは、すべてをお金で判断し、自分さえよければよいという「我良し」の考え方が身に付いてしまっているからなのです。しかし、もっとも良くないのは、そのような考え方を持ちながら、口先だけで神をあがめているように振る舞うことだと述べられています。そういう人は神様を心の底から信じているわけではないので、いざとなったら「尻に帆かけて逃げ出す」つまり、神様を頼りにしなくなるということです。終末に大切なことは「全託」すなわち「最後は内なる神様にすべてお任せする」ことなのです。ひふみ神示からは一貫してそのメッセージが届けられています。そのことが、ここでは飼い主を信じきっている犬や猫にたとえてあるのです。
この方明神とも現れているのざぞ。臣民守護のために現れているのであるぞ。衣はくるむものであるぞ。くるむとは、まつらうものぞ。神の衣は人であるぞ。汚れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すようなものではないぞ。熱さ寒さ防げばよいと申すような簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなっている。今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。モト(原文は○の中にゝ)の国、霊の国とこの世とは合わせ鏡であるから、この世に映ってくるのざぞ。臣民身魂洗濯してくれとくどう申してあろうがな。
「明神」というのは、この三次元の物質世界に直接働きかける神様のことを言っています。臣民を守護する働きをされているのです。「衣はくるむもの」とありますが、「神の衣」は「人」なのです。つまり、神霊界の存在がこの物質世界に働きかけるためには人に憑依する必要があるのです。波長の高い神様と同調できるような波動の人が少ないことを、「今は神の衣なくなっている」とおっしゃっています。それだけ人類の波動が粗くなっているということでしょう。
「今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ」という言葉が何とも気になります。「臣民の衣」とは守護霊様のことです。守護霊様も私たち人間と一緒に終末の洗礼を受けるということです。そのためには、肉体を持つ私たちが身魂を磨かないと、守護霊様も私たちを守護することができなくなるということでしょう。
一度に立て替えすると世界が大変が起こるから、延ばし延ばしにしているのざぞ。目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなむごいことになりても何も言うことできず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よくわかりているから、神が表に出て世界中救うのであるぞ。この神示腹に入れると神力出るのざぞ。疑う臣民たくさんあるが、気の毒ざぞ。一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三として読むように上の人してやりてくだされよ。生命あるうちに神の国のこと知らずに、死んでから神の国に行くことはできんぞ。
たくさんの人がこのひふみ神示の内容を疑うとおっしゃってます。そのいう人は気の毒なことになるから、いやがる人にも一通りはこの神示を読むようにしてあげなさいとのことです。肉体生命のあるときに神の国のことを知らないと、死んでから神の国には行けないからです。
言波ほど恐いもの
☆ 言波ほど恐いものはないぞ [TOP]
仕組み通りに出てくるのざが、大難を小難にすることできるのざぞ。神も泥海は真っ平ぞ。臣民喜ぶほど神うれしきことないのざぞ。曇りておれど、元は神の息入れた臣民ぞ。
神様も喜んで泥の海(大天変地異)にしたいわけではないのです。やはり人間が喜ぶ顔を見たいのです。終末の様相は決められた通りに現れてくるとしても、大難を小難にすることはできるとおっしゃっています。人間の心の持ち方次第ということでしょう。
神は言波(ことば)ぞ。言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ。まこととはまつり合わした息吹ぞ。言波で天地にごるぞ。言波で天地澄むぞ。戦なくなるぞ。神国になるぞ。言波ほど結構な恐いものはないぞ。
言葉の大切さはひふみ神示では繰り返し述べられています。「言葉で天地が濁ったり澄んだりする」ということです。私たちが普段何げなく使っている言葉には大いに注意を払わないといけませんね。
神の国に借銭ある臣民は、どんなえらい人でもそれだけに苦しむぞ。家は家の、国は国の借銭済ましがはじまっているのぞ。済ましたら気楽な世になるのぞ。世界の大晦日ぞ。みそかは闇ときまっているであろうがな。借銭(かり)返すときつらいなれど、返したあとの晴れた気持ちよいであろうが。昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらえて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返してくれよ。
「借銭」のことを別の言葉では「めぐり」と表現されています。一般的に言われる「カルマ」のことです。自分がしたことがきっちり巡って(戻って)くるという意味で「めぐり」、必ず返さないといけないという意味で「借銭」と表現されています。「昔からの借銭」というのは、この人生だけでなく、前世以前に作った「借銭」もあるということです。自分のカルマだけとは限りません。先祖や国のカルマもあるわけです。苦しみはカルマが消えていく姿だと思って、素直に耐えてくれと述べられています。
富士には臣民は
富士には臣民は登れんようになる [TOP]
二二は晴れたり日本晴れ。てんし様が富士から世界中にみいづされる時近づいたぞ。富士は火の山、火の元の山で、汚してはならん御山ざから、臣民登れんようになるぞ。神の臣民と獣と立て分けると申してあろうが。世の態見て早う改心して身魂洗濯致して神の御用つとめてくれよ。
富士山はこの世界の終末に大変重要な意味を持つ山なのです。日本の中でも霊的にもっとも重要なスポットとなっていて、地球が覚醒するために中心的な役割を果たすチャクラだとも言われています。
火の山というのは「霊(ひ)の山」にも通じます。しかも「火(霊)の元の山」それが転じて「日の本の山」ということです。汚してはならない山なのに、夏になると頂上付近は登山客の排泄物で汚臭が漂っていると言われています。日本人が神を敬わなくなっている状態を象徴しているとも言えます。それは西欧文明の物質主義、科学万能主義、人間中心主義の行き過ぎにより、今日の日本人の魂が汚れていることを表していると考えるべきでしょう。
「神の臣民と獣と立て分ける」とはっきり述べられています。人がこれから「光の子」と「獣」に二極分化していくことを意味しています。身魂の洗濯ができなかった人はミロクの世に行くことはできないのです。「早う改心して」という言葉は、「科学万能」「お金万能」「人間中心」の現代社会に対する警鐘と見なければなりません。
いづれは天(あめ)の日つくの神様御かかりになるぞ。おそし早しはあるぞ。この神様の御神示は烈しきぞ。早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ。よくとことん掃除せねば御かかりむつかしいぞ。
「天の日つくの神様」がどのような神様なのかはわかりませんが、土壇場ではこの神様が臣民である人間に憑依されることになるようです。おそし早しは身魂の磨けた時期によって違ってくるのでしょう。新約聖書の中にも似たような記述があります。ある日突然、人がこの世から消えていくという表現がされていますが、要するに、アセンションは準備のできた人から順次なされるということです。そして、魂の掃除が不十分な人には、霊格の高い神様が憑依するのは難しいと述べられています。
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仕事は行であるから、精出してくれよ [TOP]
この世に自分の物という物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になっているのざから、見当取れんのざぞ。神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になっているのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めてくれよ。(中略)
壊すのでないぞ。練り直すのざぞ。世界をすり鉢に入れてこね回し、練り直すのざぞ。日本の中に騒動起こるぞ。神の臣民気つけてくれよ。日本も神と獣に分かれているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。小さくしたいなれど。
三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、この世の裏に隠(か)れしまま、この世構いし大神のみこと畏みこの度の、岩戸開きの御用する、身魂は何れも生きかわり、死にかわりして練りに練り、鍛えに鍛えし神国の、まことの身魂天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、今落ちぶれているとても、やがては神の御民とし、天地(あめつち)駈けり神国の、救いの神と現れる、時近づきぬ御民らよ。今一苦労二苦労、とことん苦しき事あれど、堪え忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きてくれよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ。みたまさちはえましまさむ。
この神示声立てて読みて下されと申してあろがな。臣民ばかりに聞かすのでないぞ。守護神殿、神々様にも聞かすのぞ。声出して読みてさえおればよくなるのざぞよ。じゃと申して、仕事休むでないぞ。仕事は行であるから、務め務めた上にも精出してくれよ。それがまことの行であるぞ。滝に打たれ断食するような行は幽界(がいこく)の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物いただきて、神国のおん仕事している臣民には行は要らぬのざぞ。この事よく心得よ。
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