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ポルトガルはアフリカ西海岸および沿岸諸島を次々と攻略していったが、そこでの特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって認められた。

その勅書は、征服した土地の所有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを教皇の権威によって正当化したのである。

1488年、ポルトガルの探検家バーソロミュ=ディアスがアフリカの最南端に到達し、それまで「嵐の岬」と呼ばれていたこの地を「希望(喜望)峰」と改めた。

その「希望」とは、ここから臨むインドから東南アジアなどの異教徒の土地をキリスト教化して、その豊かな物産を神の名において獲得することであった。

「希望」というより「野望」と言うべきだろう。


4.東アジア争奪戦 一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろうと、コロンブスの船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。

東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ローマ教皇は地球を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。

しかし、その解釈上の問題で、地球の反対側の地域では両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。

そこにたまたま日本が入っていたのである。

日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガルの宣教師フランシスコ=ザビエルであった。

ザビエルは、日本を強力なキリスト教国家にしてポルトガルの支配下に置こうとした。

一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配し、そこから中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。

ポルトガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に、是が非でも日本を植民地化しようと、信長に近づいていたのであった。


5.長崎に誕生したキリスト教王国

またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地から集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除する事を決定した。

フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都からも大勢の日本商人が交易を求めてやってくるようになり、 横瀬浦は貿易港として急速に発展した。

大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキリスト教に入信して、トルレスから「ドン=バルトロメウ」という洗礼名を授けられた。

以後、家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・大村(長崎県大村市)の領地で12百余名のキリシタンが生まれた。

純忠が戦いに臨む際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十字架」を描いた旗を高々と掲げた。

まさに十字軍の騎士さながらの出で立ちであった。

純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強く非難し、神仏と決別する証として、領内からあらゆる偶像崇拝を根絶し、一人の異教徒も住ませないよう強く迫った。

純忠はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。



つづく

ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年、肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強い説得に応じて、自領内の横瀬浦を貿易港として開港し、港とその周囲半径10キロメートルの土地をイエズス会領として寄進した。