この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、仏像仏閣がすべて破壊され、その後に教会と十字架が建てられた。
小さな子どもまでも仏像の破壊に加わり、その顔に唾を吐きかけたという。
また『郷村記』は、猛り狂ったキリシタンたちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ捨てられた、と記している。
6.キリシタン大名への軍事援助 キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の他にもう一つの手段があった。軍事援助である。
それを求めて、宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であった。
宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接した人物である。
永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職となり、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教師たちの期待も高かった。
宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求めた。
永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教にあてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼している。
大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。
ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。
これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備された。
天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人がキリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したのである。
大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に陥っていた。
晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と金子(きんす)を受け取った。
さらにマカオからやって来たポルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石を送られた。
こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで危機を脱することができた。
晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在していた3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべて破壊し、領民2万人を入信させた。
さらに浦上(長崎市浦上)の地を、イエズス会の教会領として寄進した。
宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大名とは交易関係すら結ばなかった。
つづく
天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリシタン勢力が急伸した。