8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名
セミナリオ(神学校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。
天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)は75人に上り、急速な布教が進められた。
信者数は京都から中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千人、合計15万人ほどにも急増した。
この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。
翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に拝謁した。
教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁するという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書を手渡した。
こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。
ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携を強化する一方、布教体制の改革を進めた。天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。
九州から京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へと全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づけられていた。
『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記している。
破天連方よりは便(たより)毎に今年は日本人何千人勤め、今年は何万人勤め入ると臺帳に記(か)きて、南蛮へ渡すとか。
宣教師たちが貧民病者を慈しみ、尚(な)ほ此等(これら)の妻子眷属に一人前金一銭づつを與(あた)ふる等、弓矢を不用(もちいず)して日本を随(おと)さんとの謀事、然るに信長、南蛮寺の取沙汰、あやしき宗門の様子及聞(ききおよんで)、心の内には後悔しけり。
宣教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけでなく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与えるなどして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企んでいること。 このため信長はキリストの教会内の活動や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、内心では後悔していたのである。[1,p8]) |
さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以という仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊して宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問したが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こることは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした。(続く)
(文責:伊勢雅臣)
信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にして何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であった。