チャーリー中隊の中のカリーの小隊とは別のいくつかの小隊は、逃げ出した村民を包囲し、銃撃したあと、村の中に突入し、残っていた者たちを探し出した。ミッチェル・テリーという第Ⅲ小隊の兵士は、こう言っている。「ベイリーと俺は飯を済ませようとしたが、俺たちのすぐそばにはベトナム人の死体が山になっており、その中にはまだ苦痛のうなり声を上げてるのもいた。俺たちの前にカリーの小隊が通っていったのだ。ベトナム人は全部が撃たれていたが、まだ死んでいないものもかなりいた。連中が何か手当てを受けるなんてことはありえなかった。だからビリーと俺は立ち上がって、連中のいるところまで行った。俺たちが撃って、殺してやろうと考えたんだ。」


〔写真: 一人も生かしておかぬように、 撮影:ハーバール〕


後に、カリーは、公判廷で、自分の犯罪を隠そうと必死に努めたが、犯罪の事実は極めて明瞭だった。では、チャーリー中隊の責任者はどうだったのだろう? メディナは、虐殺を命令したことなど決してないし、考えたことすらなかった、と言った。もちろん、いくつもの証拠が、彼の言っていることを覆していた。



1968年3月16日、二人のベトナム人通訳、ドゥオン・ミン〔Duong Minh〕軍曹と、グエン・ディン・プー〔Nguyen Dinh Phu〕軍曹が、この作戦に随行していた。プーはこう語っている。1968年3月15日、機動部隊の司令部は、兵士たちに酔っ払うほどのビールを振舞った。そして明日は皆殺し作戦があるんだ、と言われた。

プー軍曹は半信半疑だった。酔っ払うにつれて、そんなことは本当じゃあるまい、と考えたが、しかし、それは本当だったのだ。プー軍曹はメディナとチャーリー中隊の本部にぴったりと同行した。10年後、彼はこう語っている。「銃撃がはじまると、C中隊の本部は、湾曲部の左側面に近い村に移動した。そのとき、生垣の隣に頭を砕かれて死んでいる赤ん坊が見えた。私はM-79でやられたんだな、と思った。十字路のところまでくると、恐ろしい光景が目に入ってきた。道路上に、乱雑に積み重ねられた死体の山、男、女、子ども、そして赤ん坊さえその中にいた。」 

当時26歳だったドゥオン・ミン軍曹は、やはり10年後に、こう言っている。「恐ろしい死の光景を見てしまったので、私はすぐにメディナに会いに行き、なるべく穏やかな言い方で彼の残虐な行為への抗議を伝えた。村民が撃たれており、家畜や家が燃やされています、と。メディナはこう答えたんです。『みんな敵さ』 私はすぐに聞き返しました。『いいですか、兵隊は武器や防御器具を持たぬ民間人を殺してはならないんですよ』 メディナは、奴らは俺の部下を相手に戦ってるんだ、と繰り返したんです。それで私は、もしそうなら、あなたの部隊の兵隊が、敵の武器を捕獲するか、あるいは負傷するかしてるはずです。でもそうじゃない。だとしたら、殺されてるのは敵じゃないと言うことになります、と言った。 「結局、メディナは困ってしまって、俺はそうするように命令されてるんだ、とはっきり言いました。聞きもしないのに、です。」 メディナはいらいらした顔つきをし、ドゥオン・ミンに向こうへ行け、と命じた。

兵隊の何人かも、メディナが虐殺の現場を目撃しており、彼自身もこの残忍な行為に関与していたと確言している。メディナの無線通信員、ジョン・ポールは、水田で5人が撃たれたが、うち死んでいなかった一人の女性がメディナの銃によってとどめを刺されたと言っている。また、リチャード・ペンドルトン一等兵はこう言っている。殺戮は終わろうとしていた。何人かの兵隊は、生き残った村民をめがけて銃を撃っていた。小さな男の子が、15人ほど山積みにされた死体の中で、誰かを探しているようだった。その子は、メディナの弾で殺された、と。

その日、ソンミへの飛行を担当していたヘリコプターのパイロット、ヒュー・トンプソン下級准尉は、こう語っている。彼は一人の負傷者を見かけた。それで、その場所を明示して、歩兵部隊に救援を要請した。そこへ一人の大尉がやってきて、その負傷者に銃を発射して殺した。後に、トンプソンは、その大尉がメディナだったと確認した。メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。

メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。

トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。

 ――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。

 ――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。〔注〕

しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。




(第2章 終り)
 

〔訳者注〕このソンミ記念館に記されている504人の犠牲者の氏名と年齢を、以下に掲げます。(氏名の中に Thi が含まれているのは、女性)



ここでは略:元記事へ




The inscription JN8:12 on the Army's new gunsights* is a reference to John, chapter 8, verse 12, which says: 'When Jesus spoke again to the people, he said, "I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life"  (*こちらは陰謀?)

12:ヨハネによる福音書 / 8章 12節

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

Bible inscriptions: One of the military sights in use with the code of 2COR4:6, which refers to the New Testament's Second Corinthians, chapter 4, verse 6, which says: 'For God, who said, "Let light shine out of darkness," made his light shine in our hearts to give us the light of the knowledge of the glory of God in the face of Christ'

コリントの信徒への手紙二 / 4章 6節

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

A spokesman for Trijicon said the inscriptions had always been on the sights and began under founder Glyn Bindon, who was a devout Christian. (こちらは「敬虔なクリスチャン」?創業者時代からあるそうな。)

++
「キリスト教」にキリストはいるんですかね?






++
無理矢理作り出した対立の下、儲けながら人口削減。その前線の実態はこんなもの。




<転載終了>