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アトランティス伝説 ~空想か実在か?謎に包まれた巨大文明を探る~ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今より9千年もの昔、ヘラクレスの柱と言われたジブラルタル海峡のはるか彼方、大西洋上に豊かで肥沃な大地を誇り、地上の楽園と 称された帝国があった。その帝国は、海の神ポセイドンが創設したと言われており、アトランティスと呼ばれていた。 アトランチスの首都アクロポリス(神殿のある都市)は、輪の形をした巨大な運河によって三重に取り囲まれている壮麗な一大水の都であった。これらの運河は外洋とつながる水路とつながっていたので、外から来た船は、水路を伝って自由にこの中に出入りすることが可能だった。その水路は巨船でさえも楽々と出入りさせられるほどの大きさであったという。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3つの輪の形をした運河はそれぞれ城壁に囲まれていて、一番外側の輪は、幅が90メートル、深さ30メートルほどあり、多数の船が停泊出来る港になっていた。水の輪同士は無数のトンネルで結ばれており、船はそのトンネルを通って他の輪にも行くことが出来き、さらにアクロポリスの中心部にまで行くことが出来る構造になっていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
巨大な輪の運河に取り巻かれたアクロポリスには、たくさんの建物があり、それらは、この地下で産出された石で造られていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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石には主に、白、赤、黒といった種類があり、建物はこれらの色とりどりの石を組み合わせて造られており、簡素ながらも人々の目を楽しませていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中でも、とりわけ、目立って人目を引くのは、何と言っても中心部に立っているポセイドンをまつる壮大な神殿とそれを取り巻く多くの宮殿であったろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中央に巨大なポセイドンの神殿を従え、三重の運河が周囲を取り囲むアトランティスの首都、アクロポリス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これらは、周囲を黄金の塀で囲まれ、一面を銀でおおわれ、金色をした小さな塔がたくさん連なり、屋根の内側には象牙をふんだんに使い、金、銀、スズ、高純度のオリハルク(記述に登場する謎の金属)などの貴金属を惜し気もなく使って飾り立てられた見事なものばかりで、これらの建築物こそ、アトランティスの最高技術と芸術とが結集された一大傑作と言ってもよかった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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このアクロポリスのある島の南方には、広い平野が広がっていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その規模は、東西530キロ、南北350キロほどあり、その周囲を深さ30メートル、幅180メートルの全長千8百キロもある堀が取り巻いていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀からは多数の運河が縦断しており、運河と運河の間には水路も設けられており、この発達した網の目のような治水のお陰で、年2度の収穫が約束されていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アトランティスのアクロポリス、中央には、ポセイドンの神殿がある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神殿内には、ポセイドンの巨大な黄金の像が安置されていた。ポセイドンの像は、百人のニンフに囲まれて、6頭のペガサスの引く戦車を駆る姿であらわされ、優に天井まで届く巨大さであった。神殿の外には、アトランティスの歴代の王と王妃をあらわした黄金の像が林立していた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この平野は、また10の地域に区分されていた。その一つの地域には、王がいて、これを統治していた。従って、王は全部で十人いることになり、その中から、王の中の王がいて、全体を取り仕切っていたのである。さらに、一つの地区は6万の区画より成り立っており、有事の際は、この区画より、16名の陸兵と4名の水夫を差し出すことが義務付けられていた。従って、一つの王国だけで、1千2百隻以上の軍艦と1万台以上の戦車を持っていることになり、アトランチス全体では、その十倍の規模になるというから、とてつもない軍事力だったわけである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アトランティスの十人の王は、5年か6年の期間ごとに、ポセイドンの神殿で会合する習わしがあった。そして、その場で、統治上の問題、種々の裁判などがとり行なわれたのである。その際、実に、奇妙で何とも不思議な儀式が催されるのであった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アクロポリスの神殿内には、牡牛が放牧されていたが、その中の一頭を捕らえて生けにえにするのである。牛は、神殿内にあるアトランティスの律法が刻まれている青銅の柱のところにまで引き立てられて、そこでのどを切られるのである。そして、流れ落ちる牡牛の血潮でおきての文字が染められた。それから、生けにえとなった牡牛は火に投じられる。それとともに、王たちは、酒に生けにえの血を注いだ血酒を飲み交わして、自らの潔白を誓い合う。日没とともに、王たちは、濃紺の大礼服に着替えて、灰と化した生けにえを取り囲んで、輪になって裁判をとり行うのである。判決の結果は、夜明けに黄金の板に刻まれて奉納される。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
・・・これは、プラトンの書いた著書の中で、謎の文明アトランティスについて述べられた下りである。プラトンは、ギリシアの哲学の祖と言われたほどの聡明な大人物であった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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彼は、紀元前590年に、ギリシアの大政治家ソロンが、エジプトを旅行した際に、神官たちから不思議だが真実に違いない話を聞いた内容に興味を持った。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ソロンは、その時の会話を書き留め、後代のために物語として書き残そうとしたが果たせなかった。結局、20年経ってから、プラトンがソロンの代わりに記述したというわけである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古代ギリシアの哲学の祖プラトン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プラトンの話は続く・・・ヘラクレスの柱の西方に存在したアトランティス帝国は、その強大な軍事力にものを言わせ、海の彼方の大陸をいくつか支配し、やがては、その侵略の矛先を地中海にまでおよぼそうとしていた。 |
と、その時、決戦が終わるか終わらないかと言うまさにその時、耳をつんざく大音響とともに、天を切り裂くような閃光が幾筋も走り、ものすごい地鳴りが響き、凄まじい大地震が襲ってきたのであった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大地は、やにわに、ぱっくりと裂けたと思うと、アテネ軍を飲み込んでしまった。数万のアテネ軍は、アッと言う間に地中深く引き込まれ、跡形もなくなってしまった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その後、一昼夜に渡って打ち続いた大地震と大洪水のために、アトランティスの島も、多くの人間、動物を道連れに、何もかも一切合切のすべてが暗黒の大洋の水底深く沈んでいったということである。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火山が噴火し、大地震が全土を揺さぶり、アトランティス帝国は、わずか一日のうちに大西洋の水底深く姿を消してしまった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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プラトンが書いたアトランティスの物語は、それが書かれて以来2千3百年間、様々な絶えることのない熱き論争を巻き起こすこととなった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
果たして、この物語は、事実なのか、それとも全くのフィクションなのか? アトランティスの謎を巡って、信じる人と信じない人との間で、また、アトランティスがどこにあったのかというテーマについても、おびただしい説が取り交わされて来た。それを実証するために、様々な理論が提唱され、予言めいたものやオカルトめいたものまで、加わって、まさに収集のつかないほどに過熱したものになってしまった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
では、アトランティスが存在していたとすると、その場所はどこだったのだろう? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プラトンは、その著書の中で、アトランティスをヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の外にあったと書いている。そのために、この伝説の文明が大西洋上にあったと考える人は多い。19世紀以降、アトランティスが大西洋にあったことを信じて疑わない人々は、山ほどの証拠を持ち出して、独自の理論を展開するようになった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
まず、プラトン説に立って、アトランティスが、大西洋にあったことを様々な検証をもとに力説した第一人者は、アメリカ人のドネリーであろう。彼は、1882年に、わかりやすく説得性の高い著書をあらわすや否や、たちまち大衆の熱狂的指示を受けて、科学的アトランティス学の父と言われるようになった人物である。ドネリーは、プラトン説を土台にして、最後は、プラトンを越えて独自の理論を展開するまでに至った。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ドネリーは、現在、存在する古代文明は、すべて、アトランティス文明を母体としていると主張した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アトランティス大陸が海中に没する前に、脱出した少数の住民が、世界の様々な地域にアトランティスのすぐれた文明を波及させたというのである。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そして、アトランティスの断末魔の様子は、こうした生き残りによって伝えられ、現在、世界各地に共通する神話や洪水伝説となっていったものだとしている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イグネーシャス・ドネリー (1831~1901) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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例えば、エジプト文明は、何千年もかかってつくられたものではなく、アトランティス文明が持たらされた結果、突如、生まれたもので、中央アメリカのマヤ文明や古代ギリシア文明にしても、その元は同じだと主張した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そして、相互の遺跡間の類似性や文字などに見られる共通の特徴を具体的な例で持って示したのであった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彼の説は、わかりやすく、大衆受けして、その著書は、現代に至るまで、何十版も重ね、百年以上経った今でも多くの人に支持されている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドネリーが主張した大西洋上にあったと言われるアトランティス大陸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドネリー亡き後も、20世紀になって、彼の跡を継ぐ者は、次々とあらわれた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スコットランドのある学者は、サルガッソー海こそアトランティスが、あった場所にちがいないと主張した。海藻の密生している海域は、本来、海が浅く、陸地があった証拠だと考えたのである。そうして、レミングなどに見られる、海に向けて死の行進も、太古に陸地があったことの帰巣本能に基づく行為だと考えた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大西洋のアフリカよりのカナリー諸島がアトランティスであったと主張した動物学者もいた。それによると、カナリー諸島の動植物は、北アフリカのそれと非常に似ていることから、元々、陸続きだったものが、後になって分離していったというものである。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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また、フランスのある地質学者は、大西洋の真ん中にあるアゾレス諸島こそ、アトランティスのあった場所だと考えた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彼は、この海底で見つかった溶岩は、陸上で冷えた時に出来る構造をしていると主張したのである。したがって、海上にあった陸地が、太古の昔、沈んだ証拠だと考えて話題になったが、最近になって、これは、沈んだ大陸の名残りというよりも、火山活動によって押し上げられただけだと結論づけされたようである。 |