千成記
「神の数学」の 「神の数学」の証言例(その一)の>内容は貴重な内容のようなのですが、内容が長くて、その上わたしの分からない CSSという特別なタグで書かれています。
このページは、「神の数学」にアクセスして読んだらいいのですが、拡大してじっくり読みたいのに、ページを拡大すると右端が切れるという欠点があります。
そこで、なおひろさんにお願いして右端が切れないようにタグを作っていただきました。
全体があまりにも長いので、5ページに分割していただきました。
なおひろさんいろいろ教えていただきありがとうございます。
古くて新しい数学、『神の数学』( Hidden secret named Japanese Mathematics)の内容を紹介する ≪『神の数学』、それは人類に与えられた「古く、かつ新しい数学」(宇宙普遍の真実数学)であり、『意識(心)の数学』である事を知って欲しい。 それを知り自然に問いかければ『宇宙の秘密』、『神の知』は自ら姿を現し、我々に語りかけてくれるのである。 西洋科学文明のはざ間で心のささえをなくし、自信を失った日本の若者達よ、古の「数の理」に立ち戻り、その声を聞いて欲しい、それにより再び心に力が漲り、また明日への確かな希望が湧くであろう≫。 Try to study, and you will have another bright tomorrow.. . Don,t disapppoint yourself and boost your spirit by knowing “kamino suugaku(Hidden secret of old Japanese Mathematics)” !!. Free your mind 、 and you will find the unknown new world so easily. <NEWS> すべては「神の数学」の図表に開示されている数による真実答である。 See→ 朝日新聞2008年1月16日の記事 この事実こそ、まさに「古代の数の理」の実在証言そのものである。
それは3万年前の遺物、「エメラルド・タブレット」に印されている言葉である。 と。 そこには「次元界は1次元界から9次元界まである、そこには9つの宇宙があってそれぞれに1つの宇宙意識が入っている」 それはまさに「神の数学」の図が描いているものと完全な一致である。 …See→「まもなく世界は5次元に移行する」127p中丸薫著より。 09,6.15追記。
それは古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」のまばゆいばかりの真実性をもって「10進法」の不整合とその誤りを誰にでも分かる形で描き出しているものである。 すべては数が語る真実であり、数で語られている「宇宙普遍の真実」である。
それは同時に超古代の日本には現代を凌ぐ大文明が存在していた又とない証拠であり、その遥かなる「オ-パ-ツ」と言えるものである。 (証例…「ひふみ…天地の数歌」「カタカムナ古文献」「神の数学」等)(「オ-パ-ツ」とはそれを産出した時代や文化のレベルからは到底考えられない場違いな高度の知的及び工芸的産物のこと) しかし、あなた方の学は単なる西洋文明のコピ-に過ぎず、ただただ正しいものである、間違いのないものであると刷り込まれただけのものであり、蓋然的なものに過ぎないものと言っても過言ではない。
その事実は「数」と会話を交わしてみるとよく解かる。 ただし、現代数学手法で数と相対しても会話は成立しない、 何故ならば現代数学における「数」の処理法、その計算法は自然の持つ「数の処理法」とまったく異なるものであるからである。 ほんの少しだけ思考を変えて見るだけでよく、ほんの2~3ヶの新しい数の処理を覚えればすべてが解決するのである。 それもすべて数の実証つき、すなわち、数の真実物語が一緒に提示されるものである。 しかも如何なる学者でも決して反駁出来ない形をもってである。
私は声を大にして叫びたい、一旦古(いにしえ)の心に帰れと。 すべての自然万象は古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」が封じていた古代の「天地の理」に従い、粛々と動いているのであると…。 それは大いなる自然の定めであり、永劫の自然の真理法則なのである。 それは如何に我々が知を揮って解こうとしても、まさに蟷螂に斧であり、いかんともし難いものである。 そろそろこのあたりで西洋科学文明からの脱却を計り、古の祝詞が語る自然に即した道を歩むべきではないのか。 もし、これからの日本の将来を見据えて、そこにいささかの不安を感じるならばである。 |
確か謎の書、「ひふみ神示」には「ひふみ…」は八通りの読み方があると示されているがまさにその通りである。
「神の数学」では基本的な読み方は八通りであるが、それを展開させ更なる真実の道の数十通りがしずしずと現れてきるのである。
その基本になる8通りの読み方とはあなた方誰でも知っているものである。
たとえ小学生あたりでさえも。
しかし残念ながらその本当のあるべき事実は誰も知らない。
その正しい姿、その正しい由緒由来をまったく誰も知らず、真実は隠されたままで数千年の間なおざりにされて来たのである。
だから今まで誰も開くことは叶わず、ただただ身をひそめ蟄居の状態にあったのである。
知自慢の方々よ、探すがよい。
しかし申し上げておく。
100年経ってもその片鱗さえも見い出すことは出来ないであろうと。
何故なら現代知ではまったく歯が立たず、ただ無常に流れて止まないだけであるからである。
しかし、「神の数学」を覗けば、あなたはその事実を掴む事が出来、すべてを了解するのである。
そのあたりは下にある数の内容により十分に理解でき、なるほど言う通りであり、無理もないことであるとおのずから頷ずき、合点がいくはずである。
私はかねてから申し上げている「ひふみ神示」は先触れの預言書であり、その経綸の本体はこの「神の数学」であると…。
なぜならば、「ひふみ神示」は現代の学では解けぬが「神の数学」では十分に紐解け、理解可能だからである。
そこ「ひふみ神示」には記されているではないか、
<「ひふみ神示」は経綸の計画書じゃ>、 <束ねの神は、束ねの人は後からぢや。 あとから出るぞ>、 <少しの時の早し遅しはあるなれど、いずれは神示通りに出てくるぞ> |
…と。
見るがいい、そこにはまたいろいろあるではないか、
「神力と学力のとのいよいよの力くらべぢゃ」、 「九の道(神の数学の九進法)をはよう開いてくれよ」、 「ひふみの秘密出てひらき鳴る」、 「学も神力ぞ。 神ざぞ。 学が人間の知恵と思っていると飛んでもないことになるぞ…。 「あの世とこの世を合わせて真実の世となるのぞ、 あの世ばかりでも片輪、 この世ばかりでも片輪、 まこと成就せんぞ。 あの世とこの世は合わせ鏡…」。 |
「今の裏のやりかたひっくり返して表のやり方にすれば、それでよいのじゃ」、 「神示読めよ、ひふみ世界にうつせよ、早ううつせよ、人間の知のみでは世界はよくならん」 …。 |
「モト(母答=計算仕組み)を正さねばならん。 間に合わないことになるぞ…」。 |
「今度の御用は九の花咲かすことぢゃ、真理に九の花咲くのであるぞ…」 「道開く理は九ぞ、根っこの理ぞ」 「九の道は神の理ぞ」 「五十になっても六十になってもひふみ(9の道)・イロハから手習いさせるぞ…」。 |
「この道(九の道)広めて金儲けしょうとする人間たくさん出てくるから皆気つけてくれよ」。 |
「世界中金の草鞋で探しても九九(九の道)より他判らん」、 「世界の何処探しても、今では九九よりほかに、神のマコトの道知らすところ無いのざぞ」 「この神示心で読みてくれよ、九エ(九の道)を出して読みてくれよ、病も治るぞ、草木も花咲くのざぞ」 「やがては二二に九の花咲かすのざぞ、見事二二に九の火が鎮まって、世界を治めるのざぞ。 」 |
「九歳(1~9)は神界の元の年ぞ、神始めの年と申せよ」 「三千年の昔に返すと申してあろうが、今度九の花は真理に咲かすのみぞ」 「道開くは十八(九九)の極みぞ」 「祝詞の心(九九)はじめの開き字にあらわれるぞ」 「今開く字の理なりて、九の花の一次にドット咲く所、神代より生きし生き神引き合うぞ」 「秘継ぐ数字は大神、絶対開く元神は九神の理」 「五十意図初めの光り(九理)知りて、尊き御世とぞなりふる、まことの神の筆なるぞ心しめて読む時ぞ」 「よろずのものひふみと満ち、つづき鳴り成る、ひらく大道、真理の出でそむ中心に、マコト動きて元津神栄ゆ、元津神は真理、真愛、大歓喜の大道ぞ」。 |
ちょっと見ても「神の数学」の理そのものがこのように「ひふみ神示」の中に万遍なく姿を現し、しかも、すべては覚えがあり、心に引っ掛かるものばかりなのである。
なかんずく私が惹かれたのは次の文言である、
何と言うことか、!!。
(22、3 追記)
「千年行なってもどうにもならぬ道理じゃ、同じ山に登ったり降ったりご苦労のこと、馬鹿の散歩と申すもの。 悔い改めよと申してあろう…。 平面の上でいくら動いてももがいても平面行為で有限ぞ。 立体に入らねばならん…。 立体から複立体、複々立体と進まねばならん。 一から二に、二から三にと次々に進めねばならん。 進めば進むほど、始めに帰るぞ、神にいたるぞ」 |
[天人同士の文字は数字が多いぞ、 …日本の古(九)語がまことの言葉ぞ、言霊ぞ、 数霊とともに弥栄ゆく仕組み」。 |
確かに「神の数学」には平面、立体、超立体などの図の説明が飛び交い、囁き結び合っているのは誰にも判るはずである。
最初はある人に是非にと頼まれていやいやながら始めた解読であったが、この項に触れた途端に飛び上がって驚いた。
何故なら、これはまさに「神の数学」の真髄にある内容そのものだったからである。
それから「ひふみ神示」は常に傍らに置いている。
当時古本屋で求めた「ひふみ原書」には今から七年前の平成十七年購入と書かれてある。
懐かしい思い出の一コマである。
(22、3 追記)
心ある者は是非学んで心の奥に止めて置いて戴きたい。
それらすべては古神道の祝詞「ひふみ…」にからまる由緒のあるものであり、驚くべき宇宙普遍の哲科学を内蔵しているものである。
疑いを持つ方はサンプル資料を是非手元に取り寄せて一読し確かめてみるべきである。
それを知れば貴方は間違いなく椅子から転げ落ちること必定であり、いっぺんで心の持ち方が180度変わるはずである。
それはまた、現代知を一変させる魁(さきがけ)となるものであり、「日本の知」の素晴らしさを世界に轟かすものでもある。
すべては古神道の祝詞が発信元であり、それは我々日本民族の祖達が持っていた類の無い「宇宙自然の超真実」を遠い子孫に伝えるためのやんごとのない伝道知ともいうべきものである。
すべての知は数により伝えられ、数によって語られているものである。
数が人間知以上の超知を語れるなんて、そんなことはあり得ないと宣う方々よ、是非、諸資料を一見の上、じっくりと検証し、あらためてよく考えることである。
それによりすべては明らかになり、身が竦(すく)む思いがするはずである。
今、どうした訳か、経済の過度期と共に知の過度期も出現しているのであるが誰もそのことには気がつくものはいなく、太平楽の限りである。
これからは知で一歩先んずる、それが最も大切であり、必要なことでもある。
それは個人はもとより、国にとっても最重要課題となるものだからである。
とにかく、今の日本人は考えることが苦手、下手である、それも暗記、記憶力が大事とした戦後の学校教育の弊害の表れであり、今の世の中では最早役にたたないことに気がついて欲しい。
なぜならば、今は各自の机の上にはパソコンがあり、自由自在に世界中の現在、過去の知識を瞬時に何時でも手にすることができるからである。
少しでも自分で考え纏め上げるる、そしてそれを身につけていろいろな形で応用発展させる、要するに「固定的な知識の量」よりも持てる知識をどのように活用して「新たな流動的な知」を見出し、それを増幅して形をつくりあげるか、それがこれからの主題であろう。
それが今後5年、10年後には大きな力を生み日本という国を益々発展させることになるのである。
何を学んだか等は最早古いのであり、理解力ではなく、創造力が必要とされるのである。
すなわち、これからは「何が出来るか」、「何が生み出せるのか」が求められることになるのは間違いないことである。
今の日本には理解型の秀才は大勢いるようであるが、、概して彼等は想像力、創造力に乏しく従って文明の発展、知の開発には余り役には立ってはいない。
これはやはり社会のあり方、教育のあり方によるものであり、将来の日本にとっては大変な瑕疵となるものであろう。
そのあたりを考えると「神の数学」には人類の未だ知らない第一級の叡智、、人類の未来に役立つ「自然の知」がゴロゴロと転がっているのである。
それらは人間知のように三流。
五流のいかさま臭いものではなく、すべては永遠な姿を持つ超一流のものである。
また、それらはただただ数を追い、洞察力を膨らませて数と語り合うことですべてを悟り、知ることが出来るものでもある。
しかも、数学的には「足し算」と「引き算」さえ出来れば十分で、中学生並みの計算能力があれば十分である。
ただあとは熱意とイマジネ-ション、そして妄想的なビジョンをどれだけ描き出せるけるかである。
妄想とは悪いイメ-ジに聞こえるが、それは正しくは現実には無い生き生きとした生きた空想,超発想を意味するものである。
すなわち「神の数学」は考える力、学ぼうとする意欲を引き出すためには大いに役立つものであり、一つの生涯学習につながるものである。 (2009,6,30記載)
あなた方の誇らしい知、すなわち「現代科学知」は永遠なものではない、なぜなら、100年もたたずに時とともにコロコロ変わってきているからである。
しかし、ここにある「神の知」は永劫不変であり、それを学んだ場合不思議にも心は無限の広がりと大きな度量を得ることが出来るのである。
まるでそれは宇宙の心(意識)と合い感応するかのようにである。
知識自慢の学者達に「大法螺もいい加減にせい」、「ひとの心を弄ぶな」等のお叱りをうけそうである。
確かに今のまま、すなわち現代常識世界の中では形勢不利100%は間違いない。
そこで考えた、こちらはこちらで一つの「超知の世界)」、すなわち「神の数学」の世界への入場者を募り、賛同可能な御仁だけをご案内申し上げようと。
こで案内に従って心ある方々は自然の持つ真実哲理を楽しみ、かつ玄妙なる自然数の語りと共にあるフアンタジックな「数世界のロジック」を考察検証しながら大いなる感動を覚えて戴だきたいと願うのである。
そこは厄い、悩み、不幸などの禍々しいものは決して立ち入りが叶わぬ「神の世界」であり、絶対無比の「神の理の領域世界」でもある。
同時にここは「神の数学」の門陣であり、関所でもある、よってここに大変易しい「神の数学」の問題を掲示し、衆覧に供することにしたい。
そして、それを解いた方々だけが中に入り自由気ままに「神の数秘の花園」の探索を楽しみ、大いなる「数の囁くロジック」、そして「数の真実の叫び」を直観的に味わい、無限の感動に浸って戴くつもりである。
要するに、現代数学の熱狂的な信者には絶対に解けない、だから決して入ることは出来ないという大変論及的な難問題である。
しかし、実際には他愛も無い子供にでも解ける至極簡単な問題と言ってもいいものでもあり、素直な心、共鳴する心だけがすべてを解き放ち、数の神髄にタッチ可能と言うことである。
年齢、数学知の多少、専門知等は一切必要はない、ありのままの素直な心と強い熱意、そして直観があればそれでで十分である。
さあ、これらは小、中学生にはいとも容易く解ける問題である。
遠慮はいらない、ずずずいと進んでお入りくだされ、!!。
(つづく)