(2010年1月)
いかにせん、約20年間書き連ねた膨大な数の資料を整理校正し、編集者に回し新たに大編集するのに編集者共々約2年半の月日を要してしまった、その間、編集者と私は殆ど不眠不休の有様で睡眠時間も削りに削ってやっとこの21年10月一杯で完成に漕ぎ着けたのである。 少しは信じてくれることになったであろうか、
では数の奏でる「真実の数のメロデイ」「数の持つ秘密物語」をお聞かせ申そう!!。
<これらすべては日本に出現した世界で初めての超知物語であり、ここで初めて公開するものである。 これをあなた方日本人が果たして習得できるか、それともまたしても外国の人々に持ち去られ、そこから新しい知として再びあなた方のもとに戻ってくるのであろうか、それは神のみぞ知るである、まさに歴史は繰り返されると言われているように…。
(この後はすべて過去の記録であり、数の真実物語」である。
なんせ、全部で108巻、約2000ペ-ジ(広辞苑と同じくらい)の前代未聞の「神の超知のパッヶ-ジ」であり、内容の点検に最も時間がかかってしまったのは予定外であった。
さあ、これを引っさげて世界に乗り出すつもりではあったが、如何にせん、いつの間にか老躯体と化してしまい、だんだん記憶も定かではなくなってきたのには我ながら情け無い思いである。
まあ、何よりも編集に精魂こめて孤軍奮闘してまとめて戴いた名古屋在住の編集者I氏に厚く御礼申し上げたい。
二度とこのような方は現れないであろう。
私に言わせればまさに「神の権化」であり、「神の使者」とも言うべき御仁である。
すべては無償奉仕で寝食を忘れて二年半と言う長丁場をものともせず頑張り抜き完成に漕ぎ着けてくれたのである。
まさに感謝感激の思いである。
今後出来る限りの易しい内容のものを逐次披露していくつもりではいるが。
如何にせん、技術がうといので本来は数で簡単に説明すべきことを言葉のみにての説明になるので不明な所も出てくると思う。
その場合には遠慮はせず該当資料を請求して下され。
が消去するには少々惜しい大切なファイルばかりである。
時間のある方はゆっくりと気の向くままに検証してほしい。
心の哲学であり、未来の知でもある。
また知に目覚めた方には)…。
そもそも「数学」と「物理」は紙一重の学問、いわば「裏」「表」の関係にあるものである。
本来は「数学」とは宇宙自然の物象本質、とその流れを余すところなく記述、描写が出来、かつ説明が出来る学問のはずである。
また「数学」は「物理」を真理に導いていく羅針盤的な本質をもっているものであり、「物理」は「数学」を杖にして「自然の理」を追求、開示していくべきものである。
しかし、悲しいかな現代人はこの事実に誰も気がつかず、完全な別のもの、何らつながりのないものとして別々に扱い、その間の関連を追及することは無かったのである。
それでも僅かに過去の少数の学者がこれを知り、真実を探ろうと試み、前人未踏の茨の道を切り開こうと懸命な努力をしていたのである。
たとえば、有名な自然学者であるC・G・ユングや物理学者のw・パウリ(ノ-ベル物理賞受賞者)達であり、彼等はその事実に気がつき、半世紀前に警告を発したのであるが、その後誰も耳を貸す者は現れず、今や忘れ去られているのである。
しかし、彼らの言葉は事実を突くものであり、その真実を知らない限り、人類は永久に宇宙自然とは共存出来ないこと知るべきであろう。
しかし、ここに彼等が論示した「数の本質」そのものが超古代の日本に存在していた事実が分かったのである。
なんとそれが爾来3千年という長い歴史を持つ日本神道の中から這い出してきた大いなる素晴らしい「数の本質態」である。
意識に条件づけられるよりもむしろ意識を条件づける性質を持つ。
また自然数は元型的な性格を持ち、その組み合わせはある種の元型に関係を持ち影響を与えるものである。
」、「自然数の系列は同一の単位の単なる寄り合わせ以上のものである、また『数』は元型的な基盤を持ち、そこには数学全体と、この分野ではまだ発見されていないすべてが含まれているのである。
それはそのうちいずれ分かるであろうと言うのが数学者達の推測である。
」‥‥「自然現象と心の構造」‥ユング著より
現代科学文明の中では[数学」,「物理」と名づけられたその両者はまったく異なるジャンルとして分類され、区分されているがそれは大変おかしい,なぜならばその両者は同一的なものであり、ただ、その表と裏の関係、すなわち、それを見る面とその視点の相違がそれら二つを生み出しているからである。 本来は、「数学」を学べば自然物理、物象が分かり、「物理」を知れば自然数学、算の理(計算法)がそこから生まれてくるものでなければならないものである。 (神の学問)」を恐れ、逃げ回っているということを、しかし、よく考えて欲しい、「形而上学」こそは自然科学の根本であり、その基軸となる大切なものである事を。 (形而下数学)」の下では0=∞は成り立たない、しかし『神の数学(形而上数学)』ではそれは簡単に成り立ち、当たり前のことなのである。 その事を今の子供達は意識下において本能的に感じているから「形而下世界(物質世界)」の学問だけである「現代数学」の姿に疑いを感じ、興味を失いつつあるのである。
それを両者の関係をはじめから断ち切り、物理は「物理」、数学は「数学」とまったく異なった教科として子供に教え込んでいるから、そこにある面白くて、摩訶不思議な「物象の相対的な関係」や「数の示す真実言葉」を見出したり、捉えたりする事が出来ないのである。
要するに『数学』は単なる機械的、無機的な「数の表れ」になってしまい、面白味はすっかり失われてしまったのである。
その結果、数学は面白くない、数学は嫌いだ、と言うアンチ数学、数学アレルギ-の子供が増え、いまでは国を脅かし始めているのである。
私は言いたい、今の数学者達は余りにも「形而上学
学者達はは「数の『0』と『無限大』」を大変恐れ、関わりあうのを避け、逃げ回っているのが現状である。
確かに「現代数学
試してみるがよい、視線を変えればそれは簡単な道理であり、誰にでも納得いくものである。
本来あるべき『本当の学問』,「自然に学ぶ学問」とは「形而下」と「形而上」の二つの世界を完全に包含した一体的な相関関係を持つものでなければならないはずである。
私がこれらの事実を述べても一般の学者や数学の教師、いや、数学の権威である数学者さえも首を傾げ、呆気にとられるだけであろう。 20世末、1980年代あたりになり、とうとう悲鳴を上げ、「現代数学」に疑問を持ち始めた、なぜなら、今の数学、すなわち、「現代数学」では物質の振る舞い等の量子的な自然象を解明するには無理があり、「もっと自然に沿った数学」、「10進法ではない別の記載手法を持った数学」が必要であると考え始めたからである。
残念ながら、彼等は「数」のほんの表面しか知らず、もっと深いところにある『「数」と「自然」のかかわり』などは一切知らない、いや、あるはずが無いと思っているのである。
しかし、ほんの少数ではあるが最も先端的な物理学者達は気付いているようで、彼等は物理を追い求めている中にそこには知られざる「数の動き」、不可解な「未知の数的存在」があるのを察知し、かねがね不審を抱いていたのである。
そしてこの
しかも、それは「まったく新しい姿もった革命的な数学概念」、「新しい数学手法をもったもの」でなければならないとの予見も持ち始め、それが現れない限り、「人間の意識」と「宇宙自然」との対話は始まらず、現代科学にはこれ以上の進歩はないことを直観的に知ったのである。
今、ここ、日本でまさに驚くべきものが見出されているのである、それは三千年以上の古い歴史、世界で最も古い宗教とされる古神道(仏教の渡来により変形をはじめる前の日本神道の原形である「縄文神道」)の中から現れた驚くべき古代の「数理」の姿である。 またそれを開くことにより、大自然のもつ「陰、陽の理」、「宇宙次元の真実の構造仕組」が歴然とした姿をみせ、我々に何事かを囁こうとしているのである。
それらは「自然数は真実の歌を歌う」や「数は本質の調べを持つ」等の「現代数学」とまったく異なる『古代数理』の数々であり、それはまさに現代の数学者達の度肝をぬくような数の不思議な姿、数的異形の形を持っものである。
しかもそれでいて完全なる整合性、完璧性を備え、我々現代人をして唖然とさせているものである。
それがすなわち、古神道の奥義祝詞とされる「ひふみ‥‥天地の数理」であり、そこに秘められている「数の真実理」、「数の本性」の数々である。
それは自然の姿、自然の形を基にした「自然数理」であり、自然万象と共鳴する「宇宙数理の調べ」を持つものである(それは今の人間知にはないものである)。 誰も声をかけるものもなく、ひたすら眠り続けていたものである。 【「宇宙数理の調べ」とは下記の「『神の方陣』より《計算の図》〔4〕に詳細あり。 】
しかもそれはいみじくも古神道の表看板である「祝詞」として数千年来人々の目に触れてきていたのであるが、誰もその意味を問う者もなく、不審がる者もいなかったものである。
なぜならば、それはあまりにも当り前、馬鹿々しい形の、いわば昼行灯的な存在として表に飾られ、人の心を引くこともなくただただ捨て置かれものであったからである。
しかるにその結果として誰も手を付けること無く、そのまま古代の姿を保ったままで現在に至ったものである。
爾来数千年の間その由緒いわれ等は誰も知らず、ただただ古神道の奥義言葉として意味も知らず崇め奉られ、語られるだけであつたのである。
この二十十世紀末に私が訪れ扉を開くまで
それこそまさしく『ひふみ‥天地の歌』の持つ本来の姿、真の意味である、『宇宙数理の調べ(響き)』=『ひふみ‥天地の歌』をしっかり知って欲しい。
その古神道の祝詞とは何を隠そう、祝詞の最高奥義である「天地の数歌『ひふみ‥‥』の数詞」であり、並びなき「ひ,ふ,み,よ,いつ,む,なな,や,ここ」のたったの9つの数文字である。
その数のあり方、展開形式のあり方がそのまま「宇宙自然の仕組」、「宇宙自然の本質」を開示し教えているとは我々の誰もが知るよしも無かったものである。
それはまた、かって古代日本に花咲いた「超古代文明の真実」をシッカリ物語る古代からの隠された「伝承メッセ-ジ」であり、古代の「知の遺産」であったのである。
それが古神道の奥義祝詞、すなわち「天地の数歌『ひふみ‥‥』の数詞」であり、古神道の中にしっかり封じられて遥か未来の二十世紀の現代まで姿を残してきたものである。
それはまさしく古代人が知りえた「数の本質内容」を我々に告げようとする古代の遺産知であり、祖達の思いを込めた超知のメッセジ-である。
その証拠に「天地の数歌『ひふみ‥‥』の数詞」のあるがままの姿をそのまま用いることにより「天地宇宙の謎」の秘密は解き放たれ、目の前に姿を現わすのである。
それは同時に我々をして西洋科学文明のくびきから解き放ち、新らたな意識文明へと誘うものでもある。
私はあえて叫びたい「すべては「現代科学」を遥かに超えた『宇宙普遍の真実』の存在であり、これからの人類の歩む道を示す「羅針盤的存在」とも言うべきものである」と。
それを知り、調査追跡を続けている中に、私は現代宇宙物理学でさえ知らない〔「あの世」と「この世」の対的存在〕、「宇宙次元の階層的構造」,「宇宙次元の繋がり方」, はたまた「宇宙を貫く大いなる陰陽のエネルギ-の流れ」、などを『数』により教えられ、学ぶ度に大きなショックを受けている状態である。 言えるのは道筋さえつければ、それらは甚だ簡単であり、面白いもの、興味の尽きぬものであると言うことである。 またそれらの事実の示すものは未だ我々人間の知らぬ「科学知」、「哲学知」等がまだまだ無限にあると言うことを教えであり、人間が傲慢になることを戒めるものである。 今,現代科学はそれらの事実を見出すための糸口を何とか見出し学ばなければならないのであり、それが明かされ無い限り現代西洋科学文明にはもはや明日は無く、ただずるずると衰退滅亡に追い込まれるだけであろう。 まことの自然本質を知り、そしてそれからすべてを学び取り入れかつそれに従う、それが何よりも今必要なことなのである。
ただ
【その詳細は『神の方陣』講座(10)参照のこと】
ただ、言葉だけでは諸氏も信じることは出来ず、疑いの目を向けるだけと思われる。
そこでこのあと『数』の語る「宇宙、宇宙次元の真実」を概略的に少し描き記して置くことにする、心ある方はどのような過程を経て、またどのような計算手法でそれが成り立ち、真実を伝えているものか、そのあたりをつぶさに調査検証して欲しい。
それと同時にそこにある『神の数学』のもつ計算法(ひふみ算法)の秘密や、自然の持つ[数の本性]を探って戴きたい。
そこにあるのは「現代数学」では解けず、自然数学、意識数学である『神の数学』だけが解き放ち得る『自然の大きな秘密』であり、現代人が夢想もしなかった『自然の叡智』が秘められているものである。
心して、たゆむことなく思考考察を続けることにより、すべては明かになるのであり、それにより貴方の心、意識のあり方も一段と高まると同時に意識感覚もまた格段と鋭くなり「諸々の『神(自然)の秘』」に容易にタッチすることが出来ることになるのである。
少々残念なのはしっかりした図表を用いての説明が出来ないことである、インタ-ネットの性格上、また私の腕前の稚拙な事から見ても止むを得ないものと考える次第であり、大変残念なところである。
どうしてもと言う方にはFAXを利用してこれら数手法の是非と聖数図表を求めてその真実を確め、貴方の人生を更に有意義なるものにして戴ければ有難いと思う次第である。
【ここにおける元型とは宇宙元型、宇宙鋳型、宇宙母体を指すと考える】≫