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アラカルトより神の子、日の子、太陽について。

3. 「日の子」~天照大神によって産み出されていますので、太陽 (日)・天照大神の子供と云う意味で、「日の子」という言い方になります。ときには「神の子」と省略形式で使われることもあります
4. 「神の子」~「日の子」と同じような意味であるが、キリスト教のキリストも「神の子」を詐称していますので、神示を読むときはその区別をする注意が必要です。
5. 「太陽」~「日の子」と同じような意味ですが、「天照」が宇宙全体を領域にしているのに対して、「太陽は地球のある太陽系」と限定された領域で活動している人間のミロクを指し示しています。

神の子を含む帖からの抜粋。


神の子  上つ巻第2帖
「冬の先が春とは限らんぞ。 の国を八つに切って殺す悪の計画、 の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。」
ここの外国の神の子とは、キリスト教のキリストのことでしょうかね。岩戸が明ければ、どんな存在であったのかは人類も一度にわかるというのは納得です。


神の子  上つ巻第32帖
「外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな。一二三唱へて岩戸あくぞ。」
降りた日付が7月2日と読むと、自分はノストラダムスの命日を思うわけですが、ユダヤ人の血を持つ彼からの太陽への通信の中身にはキリストも将来皆さんの前で謝るということの予言の内容もあるので、例えキリストの軍隊がサタンの命により都市攻撃を行うとしても、恨みぬかずに事情を理解して抱き参らせることも必要なのかなとも思います。
ひふみには仏もキリストも救わなければならないというようなことも書かれてありますので、ひふみを読み解いて一二三として改心の道しるべくらいは記せるといいのかと思います。
概要はMFさんによってすでに読み解かれ始めてますので、それが各国の機関によって検証、実証されれば岩戸も目に見えて開くようにも思います。


神の子  富士の巻第25帖
「世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、殊に可愛い子には旅させねばならぬから、どんなことあっても神の子ざから、神疑はぬ様になされよ、神疑ふと気の毒出来るぞ。」
ミロクにとっては、世界中の臣民は可愛い子であり、神の子であるようです。


神の子  地つ巻第9帖
「ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ、からだ甦るぞ、神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな。」
ひふみの云うまことを照らす光を着、光をいただくことで身体が蘇るようです。神の子は日の子でもあって、同じ性質のものを取り入れなさいと云っているように取れます。


神の子  地つ巻第35帖
「外国人もみな神の子ざから、一人残らずに助けたいのがこの方の願ひと申してあらうがな、今に日本の国の光出るぞ、その時になりて改心出来て居らぬと臣民は苦しくて日本のお土の上に居れんやうになるのぞ」
外国人も神の子のようで、皆助けたいというのがミロクの願いのようです。


神の子  日月の巻第17帖
「神の子には神示伝へてくれよ。神せけるぞ。渦海(うづうみ)の御用結構。」
太陽に伝えてくれと指示が出ています。


神の子  日の出の巻第20帖
「この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。」
外国人も神の子で性来が違うようで、何かもともと持っている違いがあるのかなとも思います。それが地震の巻で説明してあるような、日の霊人、月の霊人のもつ性質を受け継いで地上人として生まれてきたことの差なのかなととか2008年初頭段階では考えてます。
日の霊人は本来素直、月の霊人は否定という方向に生きるというような内容はありましたが、ここでの神の子は今は曇っていると表現されているのは、本来素直に受け取れる血筋なりだけど、曇っていて受け取れない状態だと云っている可能性もあるのかなとアラカルト13以降での地震の巻の読み込みで少しでも理解が出来ればと考えてます。


第十巻 水の巻 第三帖 (277)
「神の子は神としての自分養ふことも、つとめの一つであるぞ。取違ひすると大層な事になるから、気つけておくぞ。」
神の子はちゃんと働いて自分の生活費は自分で工面する必要があるようです。勘違いして神が面倒見てくれると思っていると大変になるから注意しなければならないようです。外国の神の子は反対の状況であれば、善と悪二つの相対する二つ名のある神とも呼べるのかなとも思ったりします。


第十巻 水の巻 第十四帖 (288)
「神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。」
神の国には神の子でないと住めないようで、何かしら時節が来れば予言の通りに外国に逃げる方々が続出するのかなとも見ています。


第十一巻 松の巻 第十三帖 (304)
「人は神の子ざから食ふだけのものは与へてあるぞ。神の子に餓死(うえじに)はないぞ。いやさかのみぞ。」
ちゃんと計算されての今の地球環境でもあるように思います。改心を志すならばそこには次の世に生きるという意志もあるわけで見出すものもあるのかなとも思います。


第十三巻 雨の巻 第四帖 (338)
「心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ。」
神の子もいろいろ種類があるようで、元のキの神の子ミロクと、サタンなり、乙姫なりでしょうか。火と水も入るようですが、様子を見ようと思います。


第十三巻 雨の巻 第十帖 (344)
「神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。」
神の子は神のキを頂いているということで餓死はしないようです。気持ちが死なないようにする心構えというのは育てていかないと子の時節を乗り切るのは大変そうです。


第十三巻 雨の巻 第十一帖 (345)
「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の止(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ、長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、神の申すこと聞く臣民人民まだまだぞ。」
神の子は元の神の生神が守っているようで、愈々となったら一寸の本命の都市攻撃よりは規模が小さそうな火と水でうでくり返すようです。人類の対応が鍵を握っているようにも思います。


第十六巻 荒の巻 第一帖 (377)
紹介だけとします。


第十八巻 光の巻 第三帖 (399)
「皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。」
人民であろうがみんな神の子であり、長い目で見て惜しみなく与える内に人民は元の姿を現すようです。そこまでの時間があるのかどうかが気がかりですが、ひふみが云うには惜しみなく与えればその内に神にまでなれるようです。


第十八巻 光の巻 第七帖 (403)
「アは元のキの神の子ぞ。ヤとワは渡りて来た神の子ぞ。 は渡りて来る神の子ざぞ。」
アがミロクであるとすると、ヤとワは渡りて来た神の子の火と水、渡りて来る神の子の は宇宙での何か戦闘とか彗星などによる何かでしょうか。太陽は十の星を司る何てもあったと思いますが、その関連とも思いました。


第二十四巻 黄金の巻 第四十四帖 (555)
「神の子ぞ、みたみぞ今の、この幸になく。」
神の子は人々が幸せを享受するような時期には地上にはいないようです。


第二十四巻 黄金の巻 第八十八帖 (599)
「分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。」
同じ神の子でも、色々と役目が分担されてるようです。


第二十六巻 黒鉄の巻 第十一帖 (629)
「いつ迄も小便かけてゐてはならんぞ。人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ。」
神の子なれば宗教などやっとらんで改心しなければならないということもあるのかなと思います。


第二十九巻 秋の巻 第一帖 (742)
「同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。本家は人間ぢゃ。分家は動植物ぢゃ。本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。」
神の子にも本家と分家があるようです。地震の巻などでは霊の栄養分としては植物の方が高かったり歓喜の度合いが高いとかありますので位置をかえるととはそのような世界などの位置が変わればという意味も含んでいるのかも知れません。


第三十巻 冬の巻 第一帖 (770)
「神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ。」
神の子は喜びの産物であって、喜びは永久に繁栄して行くようです。


補巻 月光の巻 第九帖 (796)
「気の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。」
総てが神の子だそうで、その中でのうまいやりくりが出来てこそ神の子なのかもと云う事を云っているように思いました。


五十黙示録 第四巻 竜音の巻 第一帖 (060)
「罪と言ふ 罪はあらじな 神の子なれば。」
神の子は罪の子でないとありましたが、ここでも同じように神の子であれば罪という罪はないと云っているようです。


まとめ
神の子にも、いろいろと意味合いがあるようで、大神から見た神の子の場合、人間を差す場合、などなど神の子は喜びであるということなので、喜びの本質などを理解出来てくると、人間として、ひふみ的に云うなら神の子としてどう生きればよいのかを知る道しるべにはなるのかもとも思います。ひふみにはこの世を天国と出来ないものは神の国には住めないともありますので、それらに関連することも神の子の記載された帖では解説しているように思います。

ひふみ神示目次