第一巻 上つ巻 第一帖 (1)
「二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあ らはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。」
岩戸開きの時節では神の国のまことの神の力が現される時代になって行くと読めます。
まことの神の力を発揮するために身魂を磨いて、誠実に誠を通しぬきなさいとも指令が出てます。
第一巻 上つ巻 第二帖 (2)
「神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳 引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。」
人に知られないように、誠一筋を貫き通し、人のため国のため働くことが出来るようになれば、まことの神の神民と言えるようです。
第一巻 上つ巻 第十二帖 (12)
「この道はちっとも心ゆるせんまことの神の道ぞ。」
誠実が欠けている臣民はまことの神の道を歩むことが困難な様です。
第一巻 上つ巻 第三十二帖 (32)
「ヒツグはまことの神の臣民ぞ、ミツグは外国の民ぞ。 と と結びて一二三(ひふみ)となるのざから、外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな。」
ヒツグとミツグという民がいるようですが、ヒツグがまことの神の臣民のようです。二つの民を掛け合わせて一二三となるようですので、何やら合成するみたいですが、お互いの存在があってこそ一二三(三千世界の真実の誠のようなもの)が浮き彫りになるとかそのように読めます。お互い御役があって存在しているようですので、大きい視野で見ればミツグも神の子になるようでまことの神の臣民は助けなければミツグを助けなければいけないように読めます。
第二巻 下つ巻 第二十帖 (62)
「神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。」
世の情勢が九分九厘まで神力を負けさせるようになったとき、まことの神力が発動するようです。
第二巻 下つ巻 第二十一帖 (63)
「ばかりでもならぬ、 ばかりでもならぬ。 がまことの神の元の国の姿ぞ。」
神の国にも外国にも通じる誠の精神のようなものが仕込まれた@がまことの神の元の国の姿と読んでいます。一厘の仕組は、(太陽・ミロクにのみ分かるシナリオ・人々の進化転生へ至る仕組)というようなものだとしますとミロクだけが知りえる神人を作り出す仕組みとでも云うのかなとも思います。
第二巻 下つ巻 第二十五帖 (67)
「臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。」
都市攻撃が起きた時節には、人類同士の戦争は出来なくなるものと思いますし、それまでのめぐりの蓄積なりで身魂の通り、まことの神の民と獣がはっきりわかれていくようです。
第三巻 富士の巻 第二十四帖 (104)
「富士(二二)を目ざして攻め寄する、大船小船あめの船、赤鬼青鬼黒鬼や、おろち悪狐を先陣に、寄せ来る敵は空蔽(おお)ひ、海を埋めて忽(たちま)ちに、天日(てんぢつ)暗くなりにけり、折しもあれや日の国に、一つの光 現はれぬ、これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、目にうつれるは何事ぞ、攻め来る敵の大将の、大き光と呼応して、一度にドッと雨ふらす、火の雨何んぞたまるべき、まことの神はなきものか」
キリストの軍隊の砲撃にまことの神はないと人類は思うようです。その後に、富士山に関わる噴火や竜宮の乙姫殿の起こす大風や雨がまことの神の力として出るようにも読める内容です。
第五巻 地つ巻 第七帖 (144)
「神にまつらふ者には生も死もないのぞ、死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。」
まことの神国の臣民・命・尊になると、死というものはなくなるようです。不死の生命体になるということを説明しているようです。
第六巻 日月の巻 第十七帖 (190)
「神の国にも善と悪とあると申してあろがな。この神示見せてよい人と悪い人とあるのざぞ。神示見せて呉れるなよ。まことの神の臣民とわかりたら此の神示写してやりてくれよ。神示は出ませぬと申せよ。時節見るのざぞ。」
神示は見せても良い人と悪い人がいるようです。まことの神の臣民には此の神示を写してやらなければいけなくて、基本的には神示は出ないと対応しなければいけないとあるようです。天明さんはこうして、蔭の御用として神示を受け取り守ったのかなと思います。
第六巻 日月の巻 第三十三帖 (206)
「いよいよとなりたら神がまことの神力出して宝取り出して世界のどんな悪神も神の国にはかなはんと申す所まで、とことん心から降参する所まで、今度は戦するのざから臣民余程見当取れんことに、どんな苦労もこばらなならんのざぞ。」
個人的には、このまことの神力を出して出てくる宝は乙姫艦のようなものにも思ったりします。黙示録に書かれている獣の様子が気になるところです。
九分九厘の時節のことかと推測しますと、富士の巻の「折しもあれや時ならぬ、大風起こり雨来たり、大海原には竜巻や、やがて火の雨 地(つち)震ひ、山は火を吹きどよめきて、さしもの敵も悉く、この世の外にと失せにけり」の様子も宝を取り出してのことなのかなとも思いました。
第七巻 日の出の巻 第十三帖 (226)
「斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。」
「下と申しても位の低い神様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇太神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示克く読んで下されよ、国土の事、国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらんのざぞ。神々祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝へと申してあろがな、吾れ善しはちょんぞ。」
まことの神の道を歩むと真上から真っ直ぐに神を戴くことになって、それによって出る影はあるけどないものになるようです。世を治めるために必要なまことの神を無いものとしていることが今の現状のようです。地上の大神的な存在を理解することが世を治めることにもつながると取っておきます。七人に伝えと申してあろがなの七人は黙示録に記載の獣の頭の数と一致します。黙示録に当てはめようとすると十の角と冠とキリスト教の神を冒涜する名前などがあるみたいなので、それに当たるものを探さなくてはならないみたいですが。
第七巻 日の出の巻 第二十帖 (233)
「外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。」
外国の方が早く改心するという内容が他の帖ではありますが、ここでは外国は後廻しと逆のことが記載されてます。昔からの計画のことなのでまずは、神の国の臣民がまことの神の子のそちらの方の洗濯などを進めるとも読めます。神の国の臣民と外国人の線引きがどこでなされるのかがまだまだ理解できていません。
第八巻 磐戸の巻 第七帖 (243)
「神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ。右行く人、左行く人とがむるでないぞ。」
まことの神がかりする人は右行く人も左行く人もその心のままに進むことを咎めないようです。いろんな人々の運命を受け入れるような姿勢なのかなとも思います。
第十一巻 松の巻 第二十三帖 (314)
「国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ。」
日の神と月の神と地の神が交わり結んで、大地固成してまことの神と現れる存在があるようです。ミロクは日の神と月の神が交わってミロクだったと思いますが、地の神=太陽のことだとすると神人鳴り響くというのはここにかかっているのかなとも思いました。世界各地での仁人とされる方々の働きもミロクの一部とするならそういう表現になるのかなと思いました。
第十二巻 夜明けの巻 第一帖 (321)
「神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。まことの神のおん心わかりたか。」
自分を殺して他人を助けるのも悪だそうで、自分を生かしつつ他人をも生かすのがまことの神の求むところのようです。
第十三巻 雨の巻 第十三帖 (347)
「時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。」
まことの神の集団とは、変化と順応性が高いような印象です。
第二十四巻 黄金の巻 第六十七帖 (578)
人の心がまことにならんと、まことの神の力 現はれんぞ。みたまみがきとは善いと感じたこと直ちに行ふことぞ。愛は神から出てゐるのであるから、神に祈って愛さして戴くやうにすると弥栄えるぞ。」
人の心がまこと=誠実にならないとまことの神の力は現れないようです。
第二十六巻 黒鉄の巻 第二十一帖 (639)
「身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。よく心得なされよ。」
この世でどのような状況環境であってもそこに天国を見出さなければ、それはまことの神の産物ではないようです。
第二十七巻 春の巻 第九帖 (666)
「真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。」
真理を知り、自分の身で体現できることがまことの神をつかむことにもなるようです。
まとめ
まことの神を理解し、神の国の住人として住むためには、身魂を洗濯し改心し、何より誠実であることは絶対の条件のように感じられます。まことの神の事象とは、仏もキリストも助けられるくらいの威力があるものでもあり、人の力などもまことにならない限り、力添えはない模様です。善も悪も生かし、自分を生かしながら他人も生かすことがまことの神の力でもあるようです。ある程度のことは書いてあっても、追求する部分はあるようで、普段の生活の中からまことの神の事象を引き出せるようにしていくことが真理を知ることでもあり、無限を知ることであり、ひふみ曰くのまことの神をつかむことと云えるかと思います。