第一巻 上つ巻 第三十五帖 (35)
「まだまだ悪魔はえらい仕組してゐるぞ、神の国千切りと申してあるが、喩(たと)へではないぞ、いよいよとなりたら神が神力出して上下引っくり返して神代に致すぞ、とはの神代に致すぞ。」
九分九厘の時節までは、悪魔の蹂躙は続きそうです。九分九厘の時節にどう悪が改心されるのかが気になるところです。
第二巻 下つ巻 第三十三帖 (75)
「七人に知らしたら役員ぞ、神が命ずるのでない、自分から役員になるのぞと申してあろがな、役員は神のぢきぢきの使ひぞ、神柱ぞ。肉体男なら魂(たま)は女(おみな)ぞ、この道 十(と)りに来る悪魔あるから気つけ置くぞ。八月の三日、ひつ九のか三。」
この道をどう取りに来るのがわかりにくいですが、悪魔も役員に扮してこの道を取りにきているとも読めます。諸世紀の近づくものの予言にも似ているところがあるようにも思います。
第三巻 富士の巻 第九帖 (89)
「今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。」
三段目まで落ちる時節があるようですが、そこは凄まじい世界のようです。この時が、神と獣と分けるという予言の状態なのかと思います。極限状態に置かれると本性が見えるのかなと思います。
第三巻 富士の巻 第十八帖 (98)
「これから一日々々烈しくなるぞ、臣民 心得て置いて呉れよ、物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、理屈は悪魔と知らしてあろが、保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、足らぬのは、やり方わるいのざぞ、食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。」
屁理屈のような御託を並べて、その時に向かう時節では、食料に関する無駄に多い支配層の備蓄やその邪魔を減らすためのウイルスなどによる散布による虐殺もあるようにも思ったりします。
第四巻 天つ巻 第四帖 (111)
「百人千人の改心なれば、どんなにでも出来るなれど、今度は世界中、神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、そんなチョロコイ事ではないのざぞ」
世界中、神々も畜生も悪魔も餓鬼も外道も巻き込む三千世界の大洗濯の規模やスケールは大変に大きいようです。
第四巻 天つ巻 第五帖 (112)
「八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。」
いろんな食べ物も基本は神に献げてからいただかねばならないようです。ひふみの云う終末の時節では悪魔に魅入られている人間はいよいよ気の毒なことになるようです。
第六巻 日月の巻 第三十六帖 (209)
「神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いて呉れよ。それが第一等ざぞ。」
神界の事をよく理解しない臣民が現実界で考えられていることを持ち出していろいろと言い出してピントが合わないことが多々あるように読めます。
第六巻 日月の巻 第三十九帖 (212)
「我れよしと云ふ悪魔と学が邪魔してゐる事にまだ気付かぬか。」
我れよしと云う悪魔の仕込んだやり方と人類に仕込まれた学が真実の追究に何かとストップをかけるようにも思いました。
第九巻 キの巻 第九帖 (266)
「悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。」
ひふみによればミロクは元神にお願いをして一日でも長く伸びるようにお願いをしているようですから、自身の身勝手な思いでその日を清算の日として望み人生を送ればそれは悪魔に使われているとでも云う方がいいのかなとも思います。
第十巻 水の巻 第六帖 (280)
「キが元ぞと申してあろがな。神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ。」
終戦に近づいた当時は、その雰囲気から妄想混じりにそのような噂も絶えなかったことかと思います。その時の本番の際には、心を大きくゆとりを持てるように望めたらまだ悲観的にならずにすむかもとこれは希望しています。
第十巻 水の巻 第十一帖 (285)
「神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。」
当人の考え方次第で表に来る神は変わるようです。
第十一巻 松の巻 第十九帖 (310)
「道はまっすぐに行けよ。寄り道するではないぞ。わき目ふると悪魔魅入るぞ。それも我れの心からざぞ。」
都市攻撃時のその時が来たらわき目を振らずに逃げなさいと云っているようです。それを理解していないと悪魔に魅入られるようです。
第十三巻 雨の巻 第九帖 (343)
「今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。」
悪魔の企みは上に上がりきらないうちにグレンとなるようで、彼らにも予想にもしなかったことがいろいろと起こるようです。
第十三巻 雨の巻 第十二帖 (346)
未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。
なかなか悪魔に邪魔されて神示を読む気力すら無くなる臣民が出てくるようです。
第十三巻 雨の巻 第十三帖 (347)
「地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。」
人類の盲目な状態は上から見ると無残なことに映るのかなと思います。
第十六巻 荒の巻 第一帖 (377)
「絶対開く元神は(ゼッタイヒラくモトカミは)、独楽の理(コマのリ)、四十七音(ひふみ)四十八(意露波)(「四十七ノ四十八」)目にもの見せて神国の(メにものミせてカミグニの)、誠の善は(マコトのチは)、悪魔迄(アクママデ) 皆新め生くの始終光ぞ(ミナアラめイくのシジュウコーぞ)、惟完ざぞ(カンナガラざぞ)。」
誠の善は悪魔まで改心させていくようです。
第十八巻 光の巻 第三帖 (399)
「働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ」
きちんと長いスパンで実験してみると、案外このようなことは真実であるということが本来はわかるのかもしれないのかなと思います。カーネギーなどの著書には、真逆のことが書いてあったと記憶しています。
第二十三巻 海の巻 第五帖 (497)
「 今日(こんにち)までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教(みおしへ)ぞ」
意に沿わぬものは殺してしまえ、異教徒は殺しても良いは、この地球上で長らく君臨してきた教えのようにも思います。
第二十四巻 黄金の巻 第五十四帖 (565)
「目的よくても実行の時に悪い念入ると悪魔に魅入られるぞ。心せよ。」
始めの目的は良くても、さあいざと云うときに悪い念が入る=我善しに陥るとかそのようなことにも思いますが、そうなると悪魔に魅入られてしまうということがあるようで、うまい話には誠なしは地球上の民話としてよく知られた話にしなければならないかも。
第二十九巻 秋の巻 第六帖 (747)
「自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。一段昇らねば判らん。」
一段上の考えに昇って、自己愛も認めなることも必要なようです。
まとめ
悪魔についての記述でしたが、悪魔は忍び寄ることもあるかもしれませんが、自分から引き寄せる、自分の中に内包している部分もあるように思いますので、それらをどう改心に導くのかを考えなくてはいけないのかなとも思いました。自分の中の戦に負けると、肝心なときにアウトになりそうなのは、黄金の巻第54帖でも述べてそうです。