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第一巻 上つ巻 第一帖 (1)
臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあ か、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであ ろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。六月の十日、ひつくのかみ。

臣民には冒頭から身魂の洗濯をしなさいと云っているようです。そこには臣民同士の戦ではなく己の戦があるようで、その戦に対しては掃除が第一とのアドバイスがあるようです。


第一巻 上つ巻 第二帖 (2)
親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあ るのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあ とには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳 引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。早く (モト)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト 心になりて呉れよ、神頼むぞよ。
救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあ るに、きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。

臣民は一寸先さえ曇っている状況のようですが、神の臣民としてふさわしいことをするならば殺さず、食べ物が無くなってもやるべきことがあるため死にはしないと読めます。ふさわしいことも人知れず行うことが原則のようで、手柄は千倍万倍に返って来るようですが、人に知れず人のため国のために働くことがまことの神の臣民なようです。まだまだ助かる状況には至っていないようで、わかるためにまだまだ痛い目を見せなければ目も覚めないようです。


第一巻 上つ巻 第四帖 (004)
急ぐなれど、臣民なかなかに言ふこときかぬから、言ふこときかねば、きく様にしてきかす。神には何もかも出来てゐるが、臣民まだ眼覚めぬか、金(かね)のいらぬ楽の世になるぞ。
神ばかりで洗濯するのは早いなれど、それでは臣民が可哀そうなから、臣民みなやり直さねばならぬから、気をつけてゐるのに何してゐるのざ、いつ何んなことあっても知らんぞ、神祭第一、神祭結構。二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りて呉れよ。コハナサクヤ姫様も祀りて呉れよ。

終末の時節ではまだまだお金に狂うことがあるようです。その中で目を覚ますようなことも起きるようです。臣民は皆やり直さなければならないから気をつけているのに大して行動も伴っていないようで注意を促しているようにも思います。


第一巻 上つ巻 第五帖 (5)
富士とは神の山のことぞ。神の山はみな富士(二二)といふのぞ。見晴らし台とは身を張らすとこぞ、身を張らすとは、身のなかを神にて張ることぞ。臣民の身の中に一杯に神の力を張らすことぞ。大庭の富士を探して見よ、神の米が出て来るから、それを大切にせよ。富士を開くとは心に神を満たすことぞ。
臣民は身の中を神の力で満たすことが大事なようです。


第一巻 上つ巻 第六帖 (6)
臣民は目のさきばかりより見えんから、可哀さうなから気をつけてゐるのに何してゐるのか。大切なことを忘れてゐるのに気がつかんか。この知らせをよく読みて呉れよ。十月まで待て。
臣民にその時まで待ちなさいと云っているようですが、その時までに大切なことを理解しないといけないようです。


第一巻 上つ巻 第七帖 (7)
いくら金積んで神の御用さして呉れいと申しても、因縁のある臣民でないと御用出来んぞ。
因縁のある臣民にしか出来ない御用があるようです。


第一巻 上つ巻 第十三帖 (13)
この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ。
神がかりをする人はどうにも貧乏のようで、どんなに落ちぶれていても親切に対応しなさいとのことです。
これは貧乏人に言っている内容ではないようにも思います。
上の人に言っているように思います。


第一巻 上つ巻 第十五帖 (15)
顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ。やりかけた戦ぞ、とことんまで行かねば納まらん。臣民一度は無くなるところまでになるぞ、今のうちに この神示よく読んでゐて呉れよ。九月になったら用意して呉れよ。
外見は神の臣民でも成りすましの方がいるとでもとれるのでしょうか。
一度は臣民が無くなるとの内容があります。岩戸開きのいくつかの場面でお亡くなりになるということもあるように思います。
それまでにどのように身魂が磨けているかということが大事なように思います。うまい話には誠なしの典型のようにも思ったりもします。
九月になったら用意しなさいとは、十月が人類の落日の時節であるのなら、その直前の時節にはいろいろと用意しなさいということであれば、もしかしたらリアルタイムに今なのかなとも思います。


第一巻 上つ巻 第十七帖 (17)
この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、お土からとれた物、みな先づ神に供へよ、それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。
この世は皆神のものという前提があるようです。
神に供え、頂くという手順はこの時節を越えるためには必要なことでもあるようです。神は気持ちを頂くようですから、頂くときの気持ちだけでも持てば変わるのかなとも思います。


第一巻 上つ巻 第十八帖 (18)
この道はスメラが道ざ、すめるみ民の道ぞ。みそぎせよ、はらひせよ、臣民 早くせねば間に合はんぞ。岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、この世はまだまだ悪くなるから、神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、とことんまで落ちて行くぞ。九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ。臣民の心の鏡凹(くぼ)んでゐるから、よきことわるく映り、わるきことよく映るぞ。今の上に立つ人、一つも真の善い事致しては居らん、これで世が治まると思ふてか、あまりと申せばあまりぞ。神は今まで見て見んふりしてゐたが、これからは厳しくどしどしと神の道に照らして神の世に致すぞ、その積りでゐて呉れよ。神の申すこと、ちっともちがはんぞ。今の世に落ちてゐる臣民、高い所へ土持ちばかり、それで苦しんでゐるのざ。早う身魂洗濯せよ、何事もハッキリと映るぞ。
臣民は早く身魂が磨かれなければ間に合わないようです。
痛い目にあうことでわかることもあると思うのですが、人類の迎えるその時の時節の直前、九月の時節は学ぶ時節としては大切な時期のように読めます。
世に落ちている臣民も身魂が洗濯されるとはっきりと見えてくることがあるようです。


第一巻 上つ巻 第十九帖 (19)
神の国 の山に 祭りて呉れよ、祭るとは神にまつらふことぞ、土にまつらふことぞ、人にまつらふことぞ、祭り祭りて嬉し嬉しの世となるのぞ、祭るには先づ掃除せねばならんぞ、掃除すれば誰にでも神かかるやうに、日本の臣民なりて居るぞ、神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ。

祭るにはまず掃除しなければならないようになるみたいです。
曇りを落とすことで見えることもあるのだろうと推測します。
神がかりするためには掃除してキレイになることが先決のようです。


第一巻 上つ巻 第二十帖 (20)
言挙げせぬ国とはその事ぞ、理屈は外国のやり方、神の臣民 言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。
神の臣民は特に言挙げなくても、理屈抜きでおかしいことはわかったりするようです。


第一巻 上つ巻 第二十一帖 (21)
洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面 間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。初めつらいなれど だんだん分りて来るから、よく言うこと聞いて呉れよ、外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔のやうになるぞ、神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、今に元のままにせなならんことになるぞ。富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、富士にも祀りて呉れよ、富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。富士は神の山ざ、いつ火を噴くか分らんぞ、神は噴かん積りでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、肉体もなくてはならんから、さうして祀りて呉れ。まつりまつり結構。六月の二十八日、ひつ九のか三。

臣民の心も神で満たされたときに富士山の噴火のように何か起こることを振っているようにも思います。
それまでに屁理屈を言わずに云うことを聞いて御用をしなさいと云っている様にも読めます。


第一巻 上つ巻 第二十二帖 (22)
いよいよとなれば、外国強いと見れば、外国へつく臣民 沢山できるぞ。そんな臣民一人もいらぬ、早うまことの者ばかりで神の国を堅めて呉れよ。
臣民でも情勢が悪くなると外国へつき一緒になって神の国を攻める人たちがいるようです。実際に2001年頃から明確に売り渡しに協力している方々もいるようですので、そうした方々は一人もいらないようです。
最近の政局では小泉チルドレンと呼ばれた選挙要員も切り離しにかかられているような場面がありますが、それらもその一端なのかなとも思ったりしてみています。


第一巻 上つ巻 第二十五帖 (25)
この神は世界中のみか天地のことを委(まか)されてゐる神の一柱ざから、小さいこと言ふのではないぞ、小さいことも何でもせなならんが、小さい事と臣民思うてゐると間違ひが起るから、臣民はそれぞれ小さい事もせなならんお役もあるが、よく気をつけて呉れよ。
臣民は小さいこともしなくてはならないお役もあるようです。
どれくらいの規模の小ささかはよくわかりません。身の丈にあわせた大きさの中での小さい事なのかと思っています。


第一巻 上つ巻 第二十六帖 (26)
 「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、「や」とはその左の身魂、「わ」とは右の身魂ぞ、「や」には替へ身魂 あるぞ、「わ」には替へ身魂 あるぞ、「あ」も「や」も「わ」も も も一つのものぞ。みたま引いた神かかる臣民を集めるから急いで呉れるなよ、今に分かるから、それまで見てゐて呉れよ。
神祀るとはお祭りばかりでないぞ、神にまつらふことぞ、神にまつらふとは神にまつはりつくことぞ、神に従ふことぞ、神にまつはりつくとは、子が親にまつはることぞ、神に従ふことぞ、神にまつらふには洗濯せなならんぞ、洗濯すれば神かかるぞ、神かかれば何もかも見通しぞ、それで洗濯洗濯と、臣民 耳にたこ出来るほど申してゐるのざ。七月の一日、ひつくのかみの道ひらけあるぞ。

神がかるといろいろと判ることがあるようです。


第一巻 上つ巻 第二十七帖 (27)
 何もかも世の元から仕組みてあるから神の申すところへ行けよ。元の仕組は富士(二二)ぞ、次の仕組はウシトラ三十里四里、次の仕組の山に行きて開いて呉れよ、今は分るまいが、やがて結構なことになるのざから、行きて神祀りて開いて呉れよ、細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして親から御礼申すぞ。行けば何もかも善くなる様に、昔からの仕組してあるから、何事も物差しで測った様に行くぞ。天地がうなるぞ、上下引繰り返るぞ。悪の仕組にみなの臣民だまされてゐるが、もう直ぐ目さめるぞ、目さめたらたづねてござれ、この神のもとへ来てきけば、何でも分かる様に神示で知らしておくぞ。秋立ちたら淋しくなるぞ、淋しくなりたらたづねてござれ、我(が)を張ってゐると、いつまでも分らずに苦しむばかりぞ。この神示も身魂により何んなにでも、とれるやうに書いておくから、取り違ひせんやうにして呉れ、三柱と七柱揃うたら山に行けよ。七月一日、ひつくのか三。
臣民は子なので、子にいろいろと活動させて手柄をさせるようです。
臣民は今、悪の仕組みに騙されているようですが、ある時に目が覚めるようです。臣民が訪ねる場所と、三柱と七柱が揃ったら山に行くことは何か関係があるようにも思えます。

三柱と七柱が理解できた頃には、秋立ちたら寂しくなるぞの時節も迎えているとも思います。

何度も読み込んでいくとわかるようにも匂わせているそんな気がします。
今の時点では、神がかりの身魂がそれだけ揃ったらとも読んでます。


第一巻 上つ巻 第二十八帖 (28)
この仕組、心で取りて呉れよ、神も大切ざが、この世では臣民も大切ぞ。臣民この世の神ぞ、と言ふて鼻高になると、ポキン折れるぞ。七月一日、ひつ九のか三。

親が子に手柄させてお礼を言うともひふみには記載されているので、何か必要な駒とは数えられると思いますが、所詮は何もわからない子供ですので、鼻高はポキンと折られるようです。


第一巻 上つ巻 第三十一帖 (31)
今度の御用は結構な御用ぞ、いくら金積んでも、因縁ない臣民にはさせんぞ。今に御用させて呉れと金持って来るが、一一神に聞いて始末せよ。汚れた金 御用にならんから、一厘も受取ることならんぞ。汚れた金 邪魔になるから、まことのもの集めるから、何も心配するなよ。心配 気の毒ぞよ。何も神がするから慾出すなよ、あと暫くぞよ、日々に分かりて来るから、素直な臣民うれしうれしで暮さすから。

今度の御用は因縁がある臣民でないとさせないようです。
汚れたお金では出来ないことがあるようです。お金をちらつかされても動じるなという忠告かと思います。


第一巻 上つ巻 第三十二帖 (32)
世の元からヒツグとミツグとあるぞ、ヒツグは の系統ぞ、ミツグは の系統ぞ。ヒツグはまことの神の臣民ぞ、ミツグは外国の民ぞ。 と と結びて一二三(ひふみ)となるのざから、外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな。

ヒツグはまことの神の臣民のようです。


第一巻 上つ巻 第三十四帖 (34)
何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん多陀用幣流天地(たたよへるくに)の修理固成(かため)の終りの四あけであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ、神々さま、臣民みなきいて呉れよ。一二三(ひふみ)の御用出来たら三四五(みよいつ)の御用にかからなならんから、早う一二三の御用して呉れよ。

臣民は一二三の御用から三四五の御用にかからなくてはいけないようですので早く一二三の御用をしなさいとあります。

一二三の御用とは、解読の内容=ひふみの云わんとしている事を提示するとするなら、それによって三四五の御用でミロクを表に見出すようなこともあるのかなと思ったりしています。


第一巻 上つ巻 第三十五帖 (35)
死んで生きる人と、生きながら死んだ人と出来るぞ。神のまにまに神の御用して呉れよ、殺さなならん臣民、どこまで逃げても殺さなならんし、生かす臣民、どこにゐても生かさなならんぞ。まだまだ悪魔はえらい仕組してゐるぞ、神の国千切りと申してあるが、喩(たと)へではないぞ、いよいよとなりたら神が神力出して上下引っくり返して神代に致すぞ、とはの神代に致すぞ。細かく説いてやりたいなれど、細かく説かねば分らん様では神国(しんこく)の民とは云はれんぞ。外国人には細かく説かねば分らんが、神の臣民には説かいでも分る身魂授けてあるぞ、それで身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。

臣民にもその時までの動向で生き死には決まるようです。
神の臣民には細かく説かなくても理解できる素養的なものがあるようです。
2008年現在、地球温暖化を訴えるキャンペーンが多いですが、冷静な人の中には、単にこれから氷河期に入る時期だからでは?という人も見かけます。
ひふみには他に何も知らなくとも必要なことだけを心得てれば助かるというようなことも記載してあります。
そう云える人はどこにいても助かるような人のようにも思えます。


第一巻 上つ巻 第三十六帖 (36)
 元の神代に返すといふのは、たとへでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ、生(なま)の物食うて暮らさなならんし、臣民 取り違ひばかりしてゐるぞ、何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの慾ばかり言ってゐると大変が出来るぞ。七月の九日、ひつくのか三。
その時を境に、文明社会的な生活ともしばしお別れとも思いますので、楽を取り違いしていると臣民は大変そうです。


第一巻 上つ巻 第三十八帖 (38)

 残る者の身も一度は死ぬことあるぞ、死んでからまた生き返るぞ、三分の一の臣民になるぞ、これからがいよいよの時ざぞ。日本の臣民同士が食い合ひするぞ、かなわんと云うて外国へ逃げて行く者も出来るぞ。

この終末の時節での、一つの死に方の記載でもあるように思います。
聖書曰くの掲挙の後に不死の生命を持つ身体となるための死があるようです。
その頃には、日本の臣民同士でも食い合いの共食いが続発しているようです。


第一巻 上つ巻 第三十九帖 (39)
神界ではもう戦の見通しついてゐるなれど、今はまだ臣民には申されんのぞ。改心すれば分りて来るぞ、改心第一ぞ、早く改心第一ざ。ひつくのか三。

どのようなシナリオかは臣民には云えない何かがあるようですが、改心すればわかってくるとのことです。


第一巻 上つ巻 第四十帖 (40)
北も南も東も西もみな敵ぞ、敵の中にも味方あり、味方の中にも敵あるのぞ。きんの国へみなが攻めて来るぞ。神の力をいよいよ現はして、どこまで強いか、神の力を現わして見せてやるから、攻めて来て見よ、臣民の洗濯第一と言って居ること忘れるなよ。一二のか三。

至る所敵だらけの終末の様相みたいですが、その時節臣民も洗濯の度合いが大事なようです。
洗濯度合いが足りないと、巻き込まれてジエンドもあるのかなと思います。


第一巻 上つ巻 第四十二帖 (42)
御苦労なれども世界の臣民の為ざから、何事も神の申すこと、すなをに聞いて下されよ。七月の九日、ひつくのか三かく。

御用する人は素直に神の言うことを聞いて下さいと云っているようです。


第二巻 下つ巻 第一帖 (43)
臣民いよいよ分らなくなるから、早う神心(かみこころ)になりて居りて下されよ。つぎつぎに書かしておくから、よく心に留めておいて下されよ。この道(おしへ)は宗教(をしへ)ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。道とは臣民に神が満ちることぞ、神の国の中に神がみちみつることぞ。金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。七月の十二日の神示(ふで)、ひつくのか三。

富士を開くこと=心に神を満たすことと上つ巻でありますが、道とは臣民に神が満ちることとして、神の国の中に神が満ち満ちることとあります。

富士を開いた臣民で切り開く道と云うのがこの道なのかなと思います。


第二巻 下つ巻 第二帖 (44)
神は見通しざから、つぎつぎによき様にしてやるから、慾出さず、素直に今の仕事致して居りて呉れよ、その上で神の御用して呉れよ。役員と申しても、それで食ふたり飲んだり暮らしてはならん、それぞれに臣民としての役目あるぞ、役員づらしたら、その日から代りの身魂(もの)出すぞ、鼻ポキンと折れるぞ、神で食うて行くことならんから、呉れ呉れも気をつけて置くぞ。七月の十三日、ひつ九のか三。みなの者 御苦労であったぞ。

ひふみを商売にして教会のような真似事はさせないようです。
それぞれの臣民の役目もあるようで、それらはひふみ的には商売に出来るようなことではないとも読んでます。

素直に現状の仕事をこなしながら神の御用をするというのが臣民のベストポジションのようです。
基本はボランティアなのかと思います。


第二巻 下つ巻 第五帖 (47)
淋しくなった人は集まりて その神示(ふで)見てよ、神示見れば誰でも甦るぞ。この神示うつす役要るぞ、この神示 印刷してはならんぞ。神の民の言葉は神たたえるものと思へ、てんし様たたえるものと思へ、人ほめるものと思へ、それで言霊(ことたま)幸(さき)はふぞ、それが臣民の言葉ぞ。わるき言葉は言ってはならんぞ。言葉はよき事のために神が与へてゐるのざから忘れん様にな。七月の十五日、ひつくのかみのふで。

臣民の言葉はその使い方を大事にしなくてはならないようです。


第二巻 下つ巻 第六帖 (48)
今までの神示 縁ある臣民に早う示して呉れよ、神々さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来るから、早う知らせて呉れよ、誰でも見て読める様に写して神前に置いて、誰でも読めるやうにして置いて呉れよ、役員よく考へて、見せるとき間遠へぬ様にして呉れよ、七月の十五日、ひつくのか三神示。

縁ある臣民はPCから閲覧するとすれば、早く公開しなさいと急かされているようにも思います。


第二巻 下つ巻 第八帖 (50)
この神示(ふで)皆に読みきかして呉れよ。一人も臣民居らぬ時でも声出して読んで呉れよ、まごころの声で読んで呉れよ、臣民ばかりに聞かすのでないぞ、神々さまにも聞かすのざから、その積りで力ある誠の声で読んで呉れよ。七月の十七日、ひつ九のか三。

基本的には、身、口、心を一致させることを差しているのではとも思います。


第二巻 下つ巻 第十帖 (52)
八月の十日には江戸に祭りて呉れよ。アイウは縦ぞ、アヤワは横ぞ、縦横揃うて十となるぞ、十は火と水ぞ、縦横結びて力出るぞ。何も心配ないからドシドシと神の申す通りに御用すすめて呉れよ。臣民は静かに、神は烈しきときの世 近づいたぞ。
その時を迎える直前の少し前の時節になるのでしょうか、八月の十日の関わる時節に何かあるようにも思います。
その頃は臣民は静かに淡々とやるべきことをしながら淡々と過ごすことが大事なのかと思います。


第二巻 下つ巻 第十二帖 (54)
この神は日本人のみの神でないぞ。自分で岩戸開いて居れば、どんな世になりても楽にゆける様に神がしてあるのに、臣民といふものは慾が深いから、自分で岩戸しめて、それでお蔭ないと申してゐるが困ったものぞ。
臣民は慾が深く見えるようです。


第二巻 下つ巻 第十三帖 (55)
この道は初め苦しいが、だんだんよくなる仕組ぞ、わかりた臣民から御用つくりて呉れよ、御用はいくらでも、どんな臣民にでも、それぞれの御用あるから、心配なくつとめて呉れよ。七月の十八日の夜、ひつくのか三。
何をすべきか判った臣民から御用を買って出なさいというような内容のように思います。
偶然か袂別れの日の最後の日の日付です。


第二巻 下つ巻 第十四帖 (56)
七から八から九から十から神烈しくなるぞ、臣民の思う通りにはなるまいがな、それは逆立してゐるからぞ。世界一度にキの国にかかりて来るから、一時は潰れたやうに、もうかなはんと云ふところまでになるから、神はこの世に居らんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたやうに見える時が来たら、神の代近づいたのぞ、いよいよとなりて来ねば分らん様では御用出来んぞ。七月の二十日、ひつ九のか三。
七八九の時節ではさらにさらに神が烈しくなると云っている様にも思います。その時には臣民の思う通りにはならないようです。
臣民が神はこの世にはいないと発言するところは一つの時節のサインのようにも思います。


第二巻 下つ巻 第十六帖 (58)
知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、悪の神わたりて来てゐるから、いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。神の国ぞと口先ばかりで申してゐるが、心の内は幽界人(がいこくじん)沢山あるぞ。富士から流れ出た川には、それぞれ名前の附いてゐる石置いてあるから縁ある人は一つづつ拾ひて来いよ、お山まで行けぬ人は、その川で拾ふて来い、みたま入れて守りの石と致してやるぞ。これまでに申しても疑ふ臣民あるが、うその事なら、こんなに、くどうは申さんぞ。因縁の身魂には神から石与へて守護神の名つけてやるぞ。江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。てん四様を都に移さなならん時来たぞ。江戸には人住めん様な時が一度は来るのぞ。前のやうな世が来ると思うてゐたら大間違ひぞ。江戸の仕組すみたらカイの御用あるぞ。いまにさびしくなりて来るぞ。この道栄えて世界の臣民みなたづねて来るやうになるぞ。七月の二十一日の夜、ひつ九のか三。
目が覚めない臣民ばかりのようです。どんなに言葉で示してもわからない臣民は沢山いるように思います。
この道が栄えることで神がかりをする臣民が増えた時に世界の臣民は皆訪ねてくるようになるのかなと読んでます。


第二巻 下つ巻 第十七帖 (59)
今の臣民 口先ばかり、こんなことでは神の民とは申されんぞ。
今の臣民は口先ばかりのようです。


第二巻 下つ巻 第十八帖 (60)
この道は神の道であり人の道であるぞ。この道の役員は神が命ずることもあるが、おのれが御用すれば、自然と役員となるのぞ、たれかれの別ないぞ、世界中の臣民みな信者ざから、臣民が人間ごころでは見当とれんのも無理ないなれど、この事よく腹に入れて置いてくれよ。
自分から行えばそれも自然に役員の仕事となるようです。世界中の臣民がミロクの信者のようなものなので、もっと視野を広く持つ必要があるようです。


第二巻 下つ巻 第二十帖 (62)
今でも臣民 神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。臣民 近慾(ちかよく)なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、岩戸開きぞ。いくら学力強いと申しても百日の雨降らすこと出来まいがな。百日雨降ると何んなことになるか、臣民には分るまい、百日と申しても、神から云へば瞬きの間ぞ。七月の二十三日、ひつ九の 。
臣民もこの道を通り、神心になれるのであれば、何でも思うとおりになるようです。現状は心が曇っているようです。
ノアの大洪水のスケールは臣民にはなかなか判るものでないと推測しています。


第二巻 下つ巻 第二十一帖 (63)
元の神の国の臣民は でありたが、 が神国に残り が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。 もかたわ もかたわ、 と と合はせて まことの (かみ)の世に致すぞ。
片輪と片輪を合わせるとまことの神の世になるようです。

臣民には足りないエッセンスがあるみたいです。


第二巻 下つ巻 第二十二帖 (64)
岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、言はねば臣民には分らんし、神苦しいぞ、早う神心になりて呉れと申すのぞ、身魂の洗濯いそぐのぞ。二三三二二(アイカギ)、 、コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ。一二 (ひつくのかみ)、七月の二十八日。
臣民にはなかなか理解することが難しいことのようですが、神心になって理解をしてくださいとも云っている内容のように思います。


第二巻 下つ巻 第二十三帖 (65)
神の国の臣民は神の申す様にして、天地を掃除して てんし様に奉らなならん御役ぞ。江戸に神早う祀りて呉れよ、仕組通りにさすのであるから、臣民 我を去りて呉れよ。この方祀るのは天(あめ)のひつくの家ぞ、祀りて秋立ちたら、神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ、神急けるぞ。七月の三十日、ひつ九のか三。
秋が立つ時節になると、神は烈しくなって、臣民の中の神と獣が区別される時節があるようです。


第二巻 下つ巻 第二十四帖 (66)
改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、臣民のものといふもの何一つもあるまいがな、草の葉一枚でも神のものぞ。七月の三十日、ひつくのか三。
改心と言うのは全てを神にお返しすることのようです。やるべき御用を果たしてその命もお返しできると言うことがあるのであれば、良い結果もありそうに思います。


第二巻 下つ巻 第二十五帖 (67)
今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも何うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。神は気(け)もない時から知らしてあるから、いつ岩戸が開けるかと云ふことも、この神示(ふで)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、改心が第一ぞ。七月の三十日、ひつくのか三のふで。
その時は臣民がまさしく神がこの世にはないものと言う様になる時であるのかもしれません。


第二巻 下ツ巻 第二十六帖 (68)
天(あめ)のひつくの家とは天のひつくの臣民の家ぞ。天のひつくと申すのは天の益人のことぞ、江戸の富士と申すのは、ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、仮でよいのぞ。こんなに別辞(ことわけ)てはこの後は申さんぞ。小さい事はサニワで家来の神々様から知らすのであるから、その事忘れるなよ。
天のひつくの臣民の家というものは、この道を歩むもののところに自然発生的に出来るもののようにも思います。


第二巻 下つ巻 第二十七帖 (69)
この方祀るのも、役員の仕事も、この世の組立も、みな七七七七と申してきかしてあるのには気がまだつかんのか、臣民の家に祀るのは神の石だけでよいぞ、天のひつくの家には、どこでも前に言ふ様にして祀りて呉れよ。
臣民の家に祀るのは神の石だけでよいそうですが、それは何だかさっぱりわかりません。


第二巻 下つ巻 第二十八帖 (70)
仮名ばかりの神示と申して馬鹿にする臣民も出て来るが、仕まひにはその仮名に頭下げて来ねばならんぞ、かなとは (カミ)の七(ナ)ぞ、神の言葉ぞ。今の上の臣民、自分で世の中のことやりてゐるように思うているが、みな神がばかして使ってゐるのに気づかんか、気の毒なお役も出て来るから、早う改心して呉れよ。年寄や女や盲、聾ばかりになりても、まだ戦やめず、神の国の人だねの無くなるところまで、やりぬく悪の仕組もう見て居れんから、神はいよいよ奥の手出すから、奥の手出したら、今の臣民ではようこたえんから、身魂くもりてゐるから、それでは虻蜂取らずざから、早う改心せよと申してゐるのぞ、このことよく心得て下されよ、神せけるぞ。八月二日、ひつ九のか三。
ひふみの威力に頭を下げる時節もあるようです。
ミロクが出す奥の手は臣民が耐えられるレベルでないようですので、巻き込まれないように改心をしっかりしておくことが大事みたいです。
改心と言うのもこの世の認識を改め、自らの行うべき使命を理解し、それを御用としてやり切った上で神にその身も含めてお返しするというようなのが今の大まかな改心のとり方になっています。


第二巻 下つ巻 第三十一帖 (73)
この神に供へられたものは、何によらん私することならんぞ、まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばして呉れよ、臣民喜べば神も喜ぶぞ、神喜べば天地光りて来るぞ、
神の供え物の私物化は出来ないようで、臣民には分けて喜ばすことが基本のようです。
自分の周りのもので臣民に分けて喜ばす。永久に繁栄する社会の基本概念なのかと思います。


第二巻 下つ巻 第三十二帖 (74)
この道ひろめて金儲けしようとする臣民 沢山に出て来るから、役員気つけて呉れよ、役員の中にも出て来るぞ、金(かね)は要らぬのざぞ、金いるのは今しばらくぞ、生命は国にささげても金は自分のものと頑張ってゐる臣民、気の毒出来るぞ、何もかも天地へ引き上げぞと知らしてあること近づいて来たぞ、金かたきの世来たぞ。八月三日、一二 。

この道は金儲けは出来ないようですから注意が必要なようです。


第二巻 下つ巻 第三十三帖 (75)
 親となり子となり夫婦となり、兄弟(はらから)となりて、生きかわり死にかわりして御用に使ってゐるのぞ、臣民同士、世界の民、みな同胞(はらから)と申すのは喩へでないぞ、血がつながりてゐるまことの同胞ぞ、はらから喧嘩も時によりけりぞ、あまり分らぬと神も堪忍袋の緒切れるぞ、

三千年の尺で考えると、その血の交配は大変に広い範囲でしょうし、神の分霊とも云える存在のようですから、時節が来ればちゃんと理解をすべきなのが臣民のわきまえることのようにも思います。


第二巻 下つ巻 第三十四帖 (76)
臣民はすぐにも戦すみてよき世が来る様に思うてゐるが、なかなかさうはならんぞ、臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、みな曇りてゐるから、これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、それで戦すむと思うてゐるのか、自分の心よく見てござれ、よく分るであろがな
九分九厘まで悪の仕組みが通る時節では、神かかるのも大変そうです。


第二巻 下つ巻 第三十五帖 (77)
何もかも持ちつ持たれつであるぞ、臣民喜べば神も喜ぶぞ、金(きん)では世は治まらんと申してあるのに まだ金追うてゐる見苦しい臣民ばかり、金は世をつぶす本ぞ、臣民、世界の草木まで喜ぶやり方は の光のやり方ぞ。臣民の生命も長うなるぞ、てんし様は生き通しになるぞ、御玉体(おからだ)のままに神界に入られ、またこの世に出られる様になるぞ、死のないてんし様になるのぞ、それには今のやうな臣民のやり方ではならんぞ、今のやり方ではてんし様に罪ばかりお着せしてゐるのざから、この位 不忠なことないぞ、それでもてんし様はおゆるしになり、位までつけて下さるのぞ、このことよく改心して、一時(ひととき)も早く忠義の臣民となりて呉れよ。
臣民は金だけがまかり通るやり方ではなく、@の光のやり方というものを体得すべきなようです。
九分九厘の時節というのは、ある面では@の光のやり方を検証するべき時としては最適な環境かもとも思います。
もっともそれには改心が必要なようです。改心できれば位までつくというのはすごいことと思います。


第二巻 下つ巻 第三十六帖 (78)
今のやり方ではとことんに落ちて仕まうぞ、神くどう気つけて置くぞ。国々の神さま、臣民さま改心第一ぞ。
改心が第一のようです。


第二巻 下つ巻 第三十七帖 (79)
世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神 申して居られるぞ。今の世では雨風を臣民がワヤにしているぞ、降っても降れず、吹いても吹かん様になりてゐるのが分らんか。盲つんぼの世の中ぞ。神のゐる場所塞いで居りて お蔭ないと不足申すが、分らんと申しても余りであるぞ。神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが、あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ、民草とは一人をまもる入れものぞ、ひつくの臣民は神がとことん試しに試すのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民 落ちぶれてゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ。
気象現象も、人の心の中が反映しているようにも思う印象です。ひつくの臣民は神がとことん試しに試すようで我慢が必要なようです。
改心することがすべての出発点で、そこは始まりに過ぎないからその時では遅いということも思ったりします。


第二巻 下つ巻 第三十八帖 (80)
日本の臣民みな取次ぎぞ、役員ぞ。この方は世界中丸めて大神様にお目にかけるお役、神の臣民は世界一つに丸めて てんし様に献げる御役ぞ。この方とこの方の神々と、神の臣民一つとなりて世界丸める御役ぞ。
日本の臣民は広報マンのような役割があるようです。


第三巻 富士の巻 第一帖 (81)
元の道は初めの道、神のなれる道、神のなかの なる初め、 は光の真中 は四の道、此の事、気のつく臣民ないなれど。「一が二」わかる奥の道、身魂掃除すれば此のことわかるのざ、身魂磨き第一ぞ。
臣民が身魂を磨くことで奥の道がわかるようです。臣民程度の物差しではわからないので示しているという感じの印象です。


第三巻 富士の巻 第二帖 (82)
か一の八マに立ちて、一(ひ)れ二(ふ)りて祓ひて呉れよ、ひつくの神に仕へている臣民、代る代るこの御役つとめて呉れよ。今は分かるまいなれど結構な御役ぞ。
ひつくの神に仕えている臣民がここでのお手伝い人を指すのであれば、確かに代わる代わる人が来ては去っていきました。


第三巻 富士の巻 第三帖 (83)
どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。
九分九厘の時節ではまだまだ曇りがあって、改心もなかなか難しいのが現状のようです。


第三巻 富士の巻 第四帖 (84)
 一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、今度は万劫末代のことぞ、気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。
五六七の仕組みでは獣と臣民をはっきりと分けるのがその仕組みの真骨頂でもあるように思いますので、巻き込まれないように洗濯と改心が大切なようです。
臣民のお役は次決まるとずっとそれが続くようですのでそれがどういうことなのか位はよく考える必要があるのかと思います。


第三巻 富士の巻 第五帖 (85)
喰うものがないと申して臣民不足申してゐるが、まだまだ少なくなりて、一時は喰う物も飲む物もなくなるのぞ、何事も行(ぎょう)であるから喜んで行して下されよ。滝に打たれ、蕎麦粉(そばこ)喰うて行者は行してゐるが、断食する行者もゐるが、今度の行は世界の臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、この行 出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ、この行 出来ねば灰にするより他ないのぞ、今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。今の神の力は何も出ては居らぬのぞ。この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、早く身魂みがいて下されよ。外国は 、神の国は と申してあるが、 は神ざ、 は臣民ぞ、 ばかりでも何も出来ぬ、 ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。今度の行は を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ、今は一分もないぞ、一厘もないぞ、これで神国の民と申して威張ってゐるが、足許からビックリ箱があいて、四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ、穴掘りて逃げても、土もぐってゐても灰になる身魂は灰ぞ、どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、この道理よく腹に入れて呉れよ、この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。
神がかる条件が臣民に揃えば、神がかる神にも達成しなければならないことがあるので、結果として死ぬことはないようです。
受け入れる器になれるかどうかがその時までにつくれるかどうかも大事なところのように思います。


第三巻 富士の巻 第六帖 (86)
今は善の神が善の力弱いから善の臣民苦しんでゐるが、今しばらくの辛抱ぞ、悪神総がかりで善の肉体に取りかからうとしてゐるから よほどフンドシしめてかからんと負けるぞ。親や子に悪の神かかりて苦しい立場にして悪の思ふ通りにする仕組立ててゐるから気をつけて呉れよ。神の、も一つ上の神の世の、も一つ上の神の世の、も一つ上の神の世は戦済んでゐるぞ、三四五(みよいづ)から五六七(みろく)の世になれば天地光りて何もかも見えすくぞ。八月のこと、八月の世界のこと、よく気つけて置いて呉れよ、いよいよ世が迫りて来ると、やり直し出来んと申してあろがな。いつも剣の下にゐる気持で心ひき締めて居りて呉れよ、臣民 口でたべる物ばかりで生きてゐるのではないぞ。
臣民も苦しい時節があるようですが、ひふみ曰くの苦を楽しむくらいのスタンスで乗り越えられるかでもずいぶんちがうようです。


第三巻 富士の巻 第七帖 (87)
悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、草木はそれぞれに神のみことのまにまになってゐるぞ。一本の大根でも一粒の米でも何でも貴くなったであろが、一筋の糸でも光出て来たであろがな、臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。結構な血筋に生まれてゐながら、今の姿は何事ぞ、神はいつまでも待てんから、いつ気の毒出来るか知れんぞ。戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ。
臣民の行う神の御用とは大変に尊いことのようです。
戦を恐れることよりも自分の心の中に巣食っている悪の身魂をどうするかは重要なことのようです。


第三巻 富士の巻 第八帖 (88)
物足らぬ物足らぬと臣民泣いてゐるが、足らぬのでないぞ、足らぬと思ふてゐるが、余ってゐるではないか、上(かみ)の役人どの、まづ神祀れ、神祀りて神心となりて神の政治せよ、戦など何でもなく鳧(けり)がつくぞ。
上の人のやり方が与える神の政治になれば戦などは何でもないようです。人類の戦も現代は商売によるものが多いみたいですから、
戦をする根本理由がなくなれば何でもないことのように思います。


第三巻 富士の巻 第九帖 (89)
この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一。
地獄の三段目に入る時節が臣民、獣ともに正念場のように思います。この世は神がかりしている臣民(人間)の心次第のようにも取れます。


第三巻 富士の巻 第十帖 (90)
神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、その時になりたらハッキリするぞ、その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。神の臣民 言(こと)に気をつけよ、江戸に攻め来たぞ。
神の御用も自分の仕事をこなした上での余暇にするのが基本のようです。


第三巻 富士の巻 第十二帖 (92)
御土は神の肉体ぞ。臣民の肉体もお土から出来てゐるのぞ、この事分りたら、お土の尊いことよく分るであろがな。これからいよいよ厳しくなるぞ、よく世の中の動き見れば分るであろが、汚れた臣民あがれぬ神の国に上がってゐるではないか。いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。早う神の申すこと、よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりて呉れよ。
聖書にもありますが、臣民も土からできているようです。
その尊さを理解したなら、神の入れ物になれるように努力しなさいと云っているようです。


第三巻 富士の巻 第十三帖 (93)
この神示よく読みてさへ居れば病気もなくなるぞ、さう云へば今の臣民、そんな馬鹿あるかと申すが よく察して見よ、必ず病も直るぞ、それは病人の心が綺麗になるからぞ、洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、あわててゐるが、この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、よくこの神示読んで呉れよ。よめばよむほど身魂みがかれるぞ、と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。臣民と申すものは馬鹿正直ざから、神示よめと申せば、神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、裏も表もあるのぞ。役員よく知らしてやれよ。
身魂の掃除と洗濯は読むだけではなく日ごろの生活体験で行われることもあるようで、読んでばっかりの頭でっかちでは駄目みたいです。裏も表もあるようです。
病気もいろいろありますが、心に巣食う悪の身魂の強い状態もひふみ的には病気になると思うので、ひふみ的な理解は必要な気がします。
第三巻 富士の巻 第十四帖 (94)
臣民にわかる様にいふなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日 神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体(からだ)をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときは神にお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが
臣民が生きてると云うことの意味を何となく理解できそうな内容のように思います。


第三巻 富士の巻 第十六帖 (96)
北から攻めて来るときが、この世の終り始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意をいそぐぞよ。
臣民はこの時をどう迎えるかを踏まえて準備をすべきなようです。


第三巻 富士の巻 第十七帖 (97)
 九十が大切ぞと知らしてあろがな、戦ばかりでないぞ、何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、上の臣民 九十に気つけて呉れよ、お上に神祀りて呉れよ、神にまつらうて呉れよ、神くどう申して置くぞ、早う祀らねば間に合はんのざぞ、神の国の山々には皆神祀れ、川々にみな神まつれ、野にもまつれ、臣民の家々にも落つる隈なく神まつれ、まつりまつりて弥勒(みろく)の世となるのぞ。臣民の身も神の宮となりて神まつれ、祭祀(まつり)の仕方 知らしてあろう、神は急(せ)けるぞ。

上の臣民は時代の変わり目をよく理解して神を祀って気をつけなければいけないとも読めます。臣民も身魂を磨いて神の宮となる必要があるようです。


第三巻 富士の巻 第十八帖 (98)
辛酉(かのととり)はよき日と知らしてあろがな。これから一日々々烈しくなるぞ、臣民 心得て置いて呉れよ、物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、理屈は悪魔と知らしてあろが、保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、足らぬのは、やり方わるいのざぞ、食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。それぞれの神様にまつはればそれぞれの事、何もかなふのぞ、神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐるのでないか。戦には戦の神あるぞ、お水に泣くことあるぞ、保持の神様 御怒りなされてゐるから早やう心入れかへてよ、この神様お怒りになれば、臣民 日干しになるぞ。八月の辛酉の日、
辛酉の日以降は一日一日が烈しくなる時節のようで、少しずつ臣民の状況が変わるようです。
保持の神様も臣民の食物の保持の仕方には怒っているようで、臣民はそれまでの頂き方などを改めなければならにようです。


第三巻 富士の巻 第十九帖 (99)
神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震かみなりばかりでないぞ、臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、口あいたまま何うすることも出来んことになるのぞ、四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ、獣は獣の性来いよいよ出すのぞ、火と水の災難が何んなに恐ろしいか、今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。人間の戦や獣の喧嘩位では何も出来んぞ、くどう気附けておくぞ、何よりも改心が第一ぞ。八月の二十六日、 のひつくのかみ。
このサイトで説明されていることが云われている内容です。
富士の巻の三巻までで60くらいの帖を見てますが、改心の文字は多いです。
この時節ではとにかく臣民の改心が不可欠なようです。


第三巻 富士の巻 第二十帖 (100)
一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな、米ばかりでないぞ、何もかも臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ。臣民と云ふものは目の先ばかりより見えんから、呑気なものであるが、いざとなりての改心は間に合はんから、くどう気つけてあるのぞ。
改心は日々の積み重ねで進行させるしかないようです。


第三巻 富士の巻 第二十一帖 (101)
神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、何もかも神に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、臣民 神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、よく考へて見よ、今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。八月の二十八日、 のひつ九のかみふで。

臣民の知らせ方も御用としては工夫のしどころがあることですね。生活レベルの会話にどれだけ落として普通に淡々と話せるかが鍵のようにも思います。
配給や統制もその時以降は重大な命に関わることですが、臣民の心と神の御心と同じことになって行く事が出来れば、ずいぶん状況も変わるようになると読んでます。
温暖化も株価もそのつくろい続けてきたメッキが剥がれ様としてますし、かぐやの衛星画面でも今はいろんなことで話せる時期ですね。


第三巻 富士の巻 第二十二帖 (102)
まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、早うまつりて呉れと申すこと、よくきき分けて呉れよ。われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。ここまでわけて申さばよく分かるであろう、何事も真通理(まつり)が第一ぞ。

我をなくすことも臣民の課題の一つのようです。祭典にも雨の神と風の神がことに大喜びになる祭典が8月10日付近にひふみによればあるようですが、それまでに改心や身魂の洗濯がなく鼻高で取り違いをしていると巻き込まれてポキンとこんなはずではとなってしまうのかなとも思います。


第三巻 富士の巻 第二十三帖 (103)
世界は一つになったぞ、一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。覚悟はよいか、臣民一人一人の心も同じになりて居ろがな、学と神の力との大戦ぞ、神国(かみぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ。今あらはすと、助かる臣民 殆んどないから、神は待てるだけ待ちてゐるのぞ、臣民もかあいいが、元をつぶすことならんから、いよいよとなりたら、何んなことありても、ここまでしらしてあるのざから、神に手落ちあるまいがな。いよいよとなれば、分っていることなれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、今では何馬鹿なと申して取り上げぬことよく分ってゐるぞ。因縁のみたまにはよく分るぞ、この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居るぞ、おそし早しはあるなれど、いづれは何うしても、逃げてもイヤでも御用さすようになりて居るのぞ。北に気つけよ、東も西も南も何うする積りか、神だけの力では臣民に気の毒出来るのぞ、神と人との和のはたらきこそ神喜ぶのぞ、早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう。八月三十日、 の一二か三。

臣民も神との共同作業ということを忘れては何事も難しいようです。


第三巻 富士の巻 第二十五帖 (105)
 世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、殊に可愛い子には旅させねばならぬから、どんなことあっても神の子ざから、神疑はぬ様になされよ、神疑ふと気の毒出来るぞ。いよいよとなりたら、どこの国の臣民といふことないぞ、大神様の掟通りにせねばならんから、可愛い子ぢゃとて容赦出来んから、気つけてゐるのざぞ、大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。外国から早く分りて、外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来るぞ。それでは神の国の臣民 申し訳ないであろがな、山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、神の国の山川ばかりではないぞ、この方 世界の神ぞと申してあろがな。裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。凡てをてんし様に献げよと申すこと、日本の臣民ばかりでないぞ、世界中の臣民みな てんし様に捧げなならんのざぞ。八月の三十日、 のひつ九のか三。

臣民も改心、身魂の洗濯を進めた上でひふみの云う神の御用をしなければ神が動いたときに巻き込まれてしまう可能性があるようです。
世界中の臣民が動き出すのが見える時節を期待したいところではあります。
ひふみの云うてんし様に捧げるようになれるとずいぶん情勢も変わるように思いますが、大難を小難にすることも増えるのでしょうから、
そこでこの帖で注意しているように、一段と獣との区別も進むのではないかと思います。


第三巻 富士の巻 第二十六帖 (106)
戦は一度おさまる様に見えるが、その時が一番気つけねばならぬ時ぞ、向ふの悪神は今度は の元の神を根こそぎに無きものにして仕まふ計画であるから、その積りでフンドシ締めて呉れよ、誰も知れんやうに悪の仕組してゐること、神にはよく分りてゐるから心配ないなれど、臣民助けたいから、神はじっとこらへてゐるのざぞ。八月の三十日、 のひつ九の 。
臣民にはこの趣旨をよく理解してやれるべきことをやるようにしておいたほうが良さそうです。


第三巻 富士の巻 第二十七帖 (107)
 神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからはその場で引繰り返る様になるぞ。誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、これでこの方の神示の終わりぞ。
この時節は悪人にも臣民にも対応次第ではすごいサービスタイムのように思いますが、ひふみの云うように神に祀る姿勢を持って改心していかないと臣民もその時が来て枯れちゃうなんてこともありそうです。


第四巻 天つ巻 第二帖 (109)
 これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富や金(きん)を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ、戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ、星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。八月三十一日、一二 。
いろんな改造があるみたいですが、星の臣民の宇宙連合の皆さんでも難しいことがあるようでミロクが力添えをするようですので、
事の次第を理解できれば、地球の中の臣民は素直にミロクに協力すべきなのだと思います。


第四巻 天つ巻 第三帖 (110)
 一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、九、十に気附けと、くどう申してあろがな、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。八月三十一日、一二 。
5年前に読むのと現在読むのとでは確実に印象が変わっているひふみの内容です。確実に現実味を帯びている方向に向かっているのは感じるところです。
改心は大事な要素のようです。


第四巻 天つ巻 第四帖 (111)
この方は元の肉体のままに生き通しであるから、天明にも見せなんだのざぞ、あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ。百人千人の改心なれば、どんなにでも出来るなれど、今度は世界中、神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、そんなチョロコイ事ではないのざぞ。ぶち壊し出来ても建直し分かるまいがな。火と水で岩戸開くぞ、知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。悪も御役であるぞ、この道理よく腹に入れて下されよ。天の神様 地に御降りなされて、今度の大層な岩戸開きの指図なされるのざぞ、国々の神々様、うぶすな様、力ある神々様にも御苦労になっているのざぞ。天照皇太神宮様初め神々様、あつくまつりて呉れと申してきかしてあろがな、神も仏もキリストも元は一つぞよ。

この時節ではいろんなタイプの予言をする方が出てくるようです。でも皆さん九分九厘までのようです。
ひふみを検証分析する際の自分のこんな稚拙な文章でも多少の学や知恵は使います(笑)
支配層の方々にも大いに学や知恵を使っていただいて限界を感じて貰うことも一つの御役のようにも思います。


第四巻 天つ巻 第五帖 (112)
臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、獣と神とが分れると申してあろがな、縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、神に献げきらぬと獣になるのぞ、神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、くどう申すぞ、八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。
ずっとこの5年ほど考えてきた内容ですが、その時を迎えてしまったときに出来ることは、献げていただく気持で食したりすることかなと思います。
弱肉強食こそが生物の世界の真理だと考えていると、その時を境に隣の人が食材になりそうなのでそれだけは
ないようにしたいものです。


第四巻 天つ巻 第七帖 (114)
二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、二本のお足であんよせよ、二本のお手手で働けよ、日本の神の御仕組、いつも二本となりてるぞ、一本足の案山子(かかし)さん、今更 何うにもなるまいが、一本の手の臣民よ、それでは生きては行けまいが、一本足では立てないと、云ふこと最早分ったら、神が与えた二本足、日本のお土に立ちて見よ、二本のお手手 打ち打ちて、神おろがめよ あめつちに、響くまことの拍手に、日本の国は晴れるぞよ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、二二(ふじ)は晴れたり、岩戸あけたり。
ミロクも女王様と二本足、臣民も神と二本足でないと難しいみたいです。


第四巻 天つ巻 第十二帖 (119)
 遠くて近きは男女だけではないぞ、神と人、天と地、親と子、喰べる物も遠くて近いがよいのざぞ、カミそまつにすればカミに泣くぞ、土尊べば土が救って呉れるのぞ、尊ぶこと今の臣民忘れてゐるぞ、神ばかり尊んでも何にもならんぞ、何もかも尊べば何もかも味方ぞ、敵とうとべば敵が敵でなくなるのぞ、この道理分りたか。臣民には神と同じ分霊(わけみたま)さづけてあるのざから、みがけば神になるのぞ。神示は謄写(とうしゃ)よいぞ、初めは五十八、次は三百四十三ぞ、よいな。
臣民は尊ぶことを身に付ける必要がある様です。
神示も謄写することで、生活リズムの中に落とすことも出来るようにも思います。
解読のようなものも正確に出来るならそれにこしたことはないのですが、尊べば出来るようになるかな?
期待したいところですが。


第四巻 天つ巻 第十三帖 (120)
空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、いよいよとなりて来てゐるのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。人に仕へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、
臣民は助けられる立場であることを理解することが必要のようです。


第四巻 天つ巻 第十四帖 (121)
海一つ越えて寒い国に、まことの宝 隠してあるのざぞ、これからいよいよとなりたら、神が許してまことの臣民に手柄いたさすぞ、外国人がいくら逆立ちしても、神が隠してゐるのざから手は着けられんぞ、世の元からのことであれど、いよいよが近くなりたら、この方の力で出して見せるぞ、びっくり箱が開けて来るぞ。八月の七日、ひつくのか三。
宝はミロクが力添えして、まことの臣民の手で手柄を出させるように取らせると言う風に読めます。その日がどのようにして知られるものなのか知りたいものです。


第四巻 天つ巻 第十六帖 (123)
今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。神の国が勝つばかりではないのざぞ、世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ。

神の臣民はゴタゴタなどに一喜一憂せずにやるべきことに集中するべきなようです。


第四巻 天つ巻 第十七帖 (124)
昔から生き通しの活神様のすることぞ、泥の海にする位 朝飯前のことざが、それでは臣民が可哀そうなから天の大神様にこの方が詑びして一日(ひとひ)一日と延ばしてゐるのざぞ、その苦労も分らずに臣民勝手なことばかりしてゐると、神の堪忍袋切れたら何んなことあるか分らんぞ、米があると申して油断するでないぞ、一旦は天地へ引き上げぞ。
安心は禁物な様です。


第四巻 天つ巻 第十八帖 (125)
何時も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ、今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ、それには神の臣民の身魂掃除せなならんのざぞ、くどい様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ、神は急ぐのざぞ。八月七日、一二の 。
今度の戦は何やら大きく事を動かす一つのターニングポイントのような印象です。
身魂の掃除は大事みたいです。


第四巻 天つ巻 第十九帖 (126)
神の力が何んなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば納まらんのざぞ、世界ゆすぶりて知らせねばならん様になるなれど、少しでも弱くゆすりて済む様にしたいから、くどう気つけてゐるのざぞ、ここまで世が迫りて来てゐるのぞ、まだ目醒めぬか、神は何うなっても知らんぞ、早く気つかぬと気の毒出来るぞ、その時になりては間に合はんぞ。

世界の臣民に対して、大難を小難に出来る様に何とかしたいので注意していても、まだまだ気付かない臣民が多いようです。
まだ目醒めぬかとありますので、それは読み手にもそうだとすると、足りないところだらけで神もやきもきしているようにも思います。


第四巻 天つ巻 第二十帖 (127)
 神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。
貨幣経済のない世界というのは今の臣民にはなかなか想像し得ない世界のようです。
新しい世界を臣民に説明している内容です。


第四巻 天つ巻 第二十二帖 (129)
十柱の世の元からの活神様 御活動になりてゐること分りたであろうがな、けものの入れものには分るまいなれど、神の臣民にはよく分りてゐる筈ぞ。まだだんだんに烈しくなりて外国の臣民にも分る様になりて来るのざぞ。その時になりて分りたのではおそいおそい、早う洗濯いたして呉れよ。八月の九日、ひつ九のか三。
神の臣民には、十柱の世の元からの活神様がご活動になっていることは分かるようです。
獣の身魂の入っている方々には見えないようになっているようです。外国の臣民にも判る頃には遅いようで、その頃には獣の蹂躙もピークでしょうから間に合わないのでしょうね。
岩戸開きでのいろんなお亡くなりのケースがあるようですが、ここでは外国の臣民もその時になって分かるのだけれど、それは身を持ってお亡くなりになって理解するケースを暗示してそうな印象です。都市攻撃の場合のようにも思います。


第四巻 天つ巻 第二十三帖 (130)
我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。八月の九日、一二 。
自分で考えて判断し動く人の中でも、自然にひふみの云う神の意図に沿って動くことが出来る人のバランス感覚のようなものを現しているのが我がなくてはならん、我があってはならずの表現かなと思います。
お人よしは善人でなく、神の臣民ではないようです。雨の神や風の神殿が活躍する富士の巻などで言う祭典の際にそれらは明らかにされることがあるように思います。アメリカのカトリーナの件でも醜いことが起こったり、いわゆる市民の生活を守る側が災害の拡大に手を貸している姿もありました。
2008年の北京オリンピックの開催される8月8日付近は日本や中国辺りでは時折台風の来る時期でもありますのでもしかしたら、雨の神と風の神が臣民の実情をより克明に知らせることになるのかもと思います。
そういう面では経済の成長がピークを迎えそうな中国に白羽の矢が当たるのかなとも思ったりします。
オリンピックは国を代表するスポーツ選手が集う祭典ですから、いわば現在一般的には臣民だと判断される方々でもあると思いますが
何かそのあたりで理解させられることがあるのかも知れないと思うと、大変に気になるところです。
アメリカだと報道規制を敷けばわからなさそうなことでも中国は近いので、何かあればそれは現地にいた日本人が情報をばら撒くことになると思います。


第四巻 天つ巻 第二十四帖 (131)
今の臣民めくら聾ばかりと申してあるが、その通りでないか、この世はおろか自分の身体のことさへ分りては居らんのざぞ、それでこの世をもちて行く積りか、分らんと申しても余りでないか。神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出て来るぞ、神は大難を小難にまつりかへてゐるのに分らんか、えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること分らんか、ひどいこと出て来ること待ちてゐるのは邪(じゃ)のみたまぞ、そんなことでは神の臣民とは申されんぞ。臣民は、神に、わるい事は小さくして呉れと毎日お願ひするのが務めぞ、臣民 近慾(ちかよく)なから分らんのぞ、慾もなくてはならんのざぞ、取違ひと鼻高とが一番恐いのぞ。神は生れ赤子のこころを喜ぶぞ、みがけば赤子となるのぞ、いよいよが来たぞ。九月十日、ひつ九のかみ。
臣民はまだまだ判らないことだらけのようです。
起こりうることは理解して、身魂の洗濯や改心を進めて行かないと、常識的に考えても、都市攻撃の規模を考えた場合、その破壊の規模と普段の生活の中での破壊の規模は大変に差がありますので、小出しに積み重ねて大変な思いをした上で本番を小さいかすり傷程度のものにするか、いきなり遭遇するかではこの身が継続するかいきなり無くなるかの違いがあるように思います。


第四巻 天つ巻 第二十五帖 (132)
今に臣民 何も言へなくなるのざぞ、神烈しくなるのざぞ、目あけて居れんことになるのざぞ。四つン這ひになりて這ひ廻らなならんことになるのざぞ、のたうち廻らなならんのざぞ、土にもぐらなならんのざぞ、水くぐらなならんのざぞ。臣民可哀さうなれど、かうせねば鍛へられんのざぞ、この世始まってから二度とない苦労ざが、我慢してやり通して呉れよ。九月十日、ひつくのか三。
めぐり落としの一環でもあるように思いますが、現実的にその時が来た時の様子を表現しているように思います。


第四巻 天つ巻 第二十六帖 (133)
天の日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のやうなものと心得よ、一柱でもあるのざぞ。この方はオホカムツミノ神とも現はれるのざぞ、時により所によりてはオホカムツミノ神として祀りて呉れよ、青人草の苦瀬(うきせ)なほしてやるぞ。天明は神示(ふで)書かす御役であるぞ。九月十一日、ひつ九 。
あめのひつくのかみプロジェクトは臣民のお役所のようなもののようで会社的に機能しているようです。
このお役所のすごいところは死をも追い払うお役所ですから人間だけでは出来ない仕事を担当しています。


第四巻 天つ巻 第二十八帖 (135)
おそし早しはあるなれど、一度申したこと必ず出て来るのざぞ。臣民は近慾で疑ひ深いから、何も分らんから疑ふ者もあるなれど、この神示一分一厘ちがはんのざぞ。世界ならすのざぞ、神の世にするのざぞ、善一すじにするのざぞ、誰れ彼れの分けへだてないのざぞ。

検証していることで判ってくる部分が多々あるように思います。


第四巻 天つ巻 第二十九帖 (136)
この方オホカムツミノ神として書きしらすぞ。病あるかなきかは手廻はして見れば直ぐ分かるぞ、自分の身体中どこでも手届くのざぞ、手届かぬところありたら病のところ直ぐ分るであろうが。臣民の肉体の病ばかりでないぞ、心の病も同様ぞ、心と身体と一つであるからよく心得て置けよ、国の病も同様ぞ、頭は届いても手届かぬと病になるのぞ、手はどこへでも届くやうになりてゐると申してあろが、今の国々のみ姿見よ、み手届いて居るまいがな、手なし足なしぞ。手は手の思ふ様に、足は足ぞ、これでは病直らんぞ、臣民と病は、足、地に着いておらぬからぞ。足 地に着けよ、草木はもとより、犬猫もみなお土に足つけて居ろうがな。
国も臣民はところどころ病だらけのようです。足を地につけたことをしなければ臣民の病気も治らないようです。
足が地に着かないことは、周りの仕事を見渡せば、たくさんあるように思います。
そこから何を見出すのかが臣民にとっては大事なことのように思います。
多分、内容が死を追い払うオホカムツミノ神にかかっていると思いますので、地に着いていない株やパチンコなどの仕事で大儲けしている方々を上から見ながらこぼしているのかなとも思ったりします。


第四巻 天つ巻 第三十帖 (137)
神示は印刷することならんぞ、この神示説いて臣民の文字で臣民に読める様にしたものは一二三(ひふみ)と申せよ。一二三は印刷してよいのざぞ。印刷結構ぞ。この神示のまま臣民に見せてはならんぞ、役員よくこの神示見て、その時によりその国によりて それぞれに説いて聞かせよ。日本ばかりでないぞ、国々ところところに仕組して神柱つくりてあるから、今にびっくりすること出来るのざぞ、世界の臣民にみな喜ばれるとき来るのざぞ。五六七(みろく)の世近づいて来たぞ。
臣民に見せるためにひふみは工夫をしなければならないようで、ひふみを一二三に変換したもの=解読したものを公開して見せなければいけないということを示唆しているようにも思います。
この動きの果てのびっくりを見ることは、検証の醍醐味のようにも思います。


第五巻 地つ巻 第二帖 (139)
この道信ずれは、すぐよくなると思うてゐる臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ、道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ、これまでのやり方スックリと変へねば世は治まらんぞと申してあるが、上の人 苦しくなるぞ、途中の人も苦しくなるぞ、お (かみ)のいふこときかん世になるぞ。
道を外れると臣民は区別されるし、うまい話がすぐに舞い込んでくるわけでもないようです。
知らない内に浸透して行くこの道は、上の人のこれまでのやり方を改めない限り人々には通用しない動きとなって返ってくるのはそろそろ見えてきている時節のように思う印象です。


第五巻 地つ巻 第三帖 (140)
世界中が攻め寄せたと申しても、誠には勝てんのであるぞ、誠ほど結構なものないから、誠が神風であるから、臣民に誠なくなりてゐると、何んな気の毒出来るか分らんから、くどう気つけておくのざぞ、腹掃除せよ。九月の十六日、ひつ九のか三。
誠が鍵を握るようです。腹の中を臣民は掃除して、神とのやり取りにおいては正直に思っているままにしか結果は返って来ないことをしる必要があるようです。


第五巻 地つ巻 第五帖 (142)
片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ、神にまつろへと申してあろうがな、臣民の智恵で何出来たか、早う改心せよ。三月三日、五月五日は結構な日ぞ。九月十六日、ひつ九のか三。
神との共同作業での岩戸開きだと云うことに気付かなくては難しいようです。三月三日、五月五日はどのような時節で結構な日とわかるでしょうか。
認識が改まるきっかけがその日にはあるようにも思います。


第五巻 地つ巻 第七帖 (144)
神にまつらふ者には生も死もないのぞ、死のこと、まかると申してあろうがな、生き通しぞ、なきがらは臣民残さなならんのざが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのであるぞ、それがまことの神国の臣民ぞ、みことぞ。
死に方もいろいろとあるような印象です。


第五巻 地つ巻 第九帖 (146)
ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ、からだ甦るぞ、神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな。九月二十日、ひつ九のか三。
臣民は、神の恵みを身に受けることで病からも抜け出せるようです。


第五巻 地つ巻 第十一帖 (148)
 世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。
新しい世の中では、一つの王とそれぞれの小さいグループごとで統治するようです。


第五巻 地つ巻 第十二帖 (149)
この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れて呉れよ、この道は ぞ、 の中に 入れて呉れと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、 入れて呉れよ、 を掃除して居らぬと はいらんぞ、今度の戦は の掃除ぞと申してあらうがな、まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな、この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めて呉れるなと申してあらうがな。世界の臣民みな信者と申してあらうが、この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。この道でみな生き返るのざぞ。天明 阿房になりて呉れよ、我(が)すてて呉れよ、神かかるのに苦しいぞ。九月二十三日、一二 。
臣民は○を掃除してゝを入れないといけないようです。
その時を迎えるまでにこの道をどれだけ構築できるかが臣民の大事な御用のように思います。


第五巻 地つ巻 第十三帖 (150)
上も下も天地そろうてよくなりて世界中の臣民、けものまで安心して暮らせる新(あら)の世に致すのざぞ、取り違へするなよ。九月二十三日、一二 。
ミロクの方針は、世界中の臣民から獣まで安心して暮らせる新しい世にすることのようで、そのあたりを現代の戦争のあり方などと取り違いしてしまわないようにと忠告しているように思います。


第五巻 地つ巻 第十五帖 (152)
神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。

その時が近づけば近づくほど臣民は理解を深めて何も云わなくなるようだと読めます。


第五巻 地つ巻 第十六帖 (153)
神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。うへに唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。九月二十三日、ひつ九のか三。

お金に追従し尽くす臣民、おかげ信仰でおこぼれを期待する状態、病原菌の撒き散らしから、心の中のもん出てくる問題もいろいろ出てくるような印象です。
生かされているから存在していると言うことを理解できると少しは病も追い出せるでしょうか。
お金に関することは、少なくとも先進国と言われるところでは病だらけのように思います。


第五巻 地つ巻 第十八帖 (155)
神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。飛行機も船も臣民もみな同じぞ。足元に気つけて呉れよ、向ふの国はちっとも急いでは居らぬのぞ、自分で目的達せねば子の代、子で出来ねば孫の代と、気長くかかりてゐるのざぞ、神の国の今の臣民、気が短いから、しくじるのざぞ。しびれ切らすと立ち上がれんぞ、急いではならんぞ、急がねばならんぞ。

向こうの国はちっとも急いでいないようで、焦っているのは神の国の今の臣民との事です。
隠れユダヤの支配層の方々は基本的には焦っていないようですので、神の国の今の臣民は落ち着いて冷静に周りを見つつ、日々のことを頑張りながら、その時が来た際に対応できるように暮らすしかないようにも思います。

「神の印(しるし)つけた悪来るぞ。悪の顔した神あるぞ。」
一見良さそうに見えて悪で悪そうに見えて善のようなものもこの時節ですからいろいろと現れると思います。
一喜一憂したり、一つのことに惑わされてしまうと中々軸を保つのは大変のようにも思う時節かと思います。


第五巻 地つ巻 第二十一帖 (158)
今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。九月二十五日、ひつ九のか三。
臣民の中でも阿房に見えて、素直な人に神がかりがしやすいということのようです。


第五巻 地つ巻 第二十二帖 (159)
われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ。身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、 のうつりた人と のかかりた人との大戦ぞ、 と とが戦して、やがては を中にして がおさまるのぞ。その時は でなく、 も でないのざぞ、 となるのざぞ、 と のまつりぞと申してあらうがな。どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、今やめたらまだまだわるくなるのぞ、 の世となるのぞ、 の世界となるのぞ。今の臣民九分通り になりてゐるぞ、早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ。お洗濯第一ざぞ。九月の二十六日、ひつ九のか三。

自分だけが助かろうとしたら助からないと云うのは、それはそうかもと思います。
身魂が磨ければ、周りも変わっているはずだと思います。
臣民は九分通りアメリカナイズされているみたいなので、そこからの脱却を進められるかが今の課題なのかもと思います。


第五巻 地つ巻 第二十三帖 (160)
世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。 のくれのことを申すのざぞ。九月の二十八日、ひつ九のか三。
人それぞれ、理解の度合いもあるので、身の丈で良いと思ったことを伝えたり、出来ることをするのがいいのではないかと思います。
うまくいかなければ行き詰るともありますし、その都度振り返って反省しながら進めば良いように思います。


第五巻 地つ巻 第二十四帖 (161)
この方 明神(みょうじん)とも現はれてゐるのざぞ、臣民守護の為に現われてゐるのであ るぞ。衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であ るぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。 の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。十月とは十(かみ)の月ぞ、 と との組みた月ぞ。九月の二十八日、ひつ九のか三。
臣民の衣も九分九厘なくなる時節が来るようですが、身魂を洗濯することを心がけて日々を暮らすしかないように思います。
その時節までに出来ることをやるしかないように思います。


第五巻 地つ巻 第二十六帖 (163)
 雨の日は傘いるのざと申して晴れたら要らぬのざぞ、その時その時の御用あるのざぞ、晴れた日とて傘いらぬのでないぞ、今 御用ある臣民と、明日 御用ある臣民とあるのざぞ、二歳(ふたつ)の時は二歳の着物、五歳(いつつ)は五歳、十歳(とう)は十歳の着物あるのざぞ。十柱の御役もその通りざぞ、役変るのぞ。旧八月の十二日、ひつ九のか三。
臣民も段階段階で御用する方が変わったりもするのかなと思います。
ノアの大洪水のことなどが公に認められたりしたときには、そのお手つだいのレベルも変わってくるように思いますし、例えば自分なども
出来る範囲と言うものがあると思います。


第五巻 地つ巻 第二十七帖 (164)
天地には天地の、国には国の、びっくり箱あくのざぞ、びっくり箱あけたら臣民みな思ひが違ってゐること分るのぞ、早う洗濯した人から分るのぞ、びっくり箱あくと、神の規則通りに何もかもせねばならんのぞ、目あけて居れん人出来るぞ、神の規則は日本も支那も印度もメリカもキリスもオロシヤもないのざぞ、一つにして規則通りが出来るのざから、今に敵か味方か分らんことになりて来るのざぞ。学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ、一息入れる間もないのぞ。ドシドシ事を運ぶから遅れんやうに、取違ひせんやうに、慌てぬやうにして呉れよ。神々様もえらい心配なされてござる方あるが、仕組はりうりう仕上げ見て下されよ。旧九月になればこの神示(ふで)に変りて天(アメ)の日つくの神の御神示出すぞ、初めの役員それまでに引き寄せるぞ、八分通り引き寄せたなれど、あと二分通りの御役の者 引き寄せるぞ。おそし早しはあるなれど、神の申したこと一厘もちがはんぞ、富士は晴れたり日本晴れ、おけ。十月の四日、ひつ九のか三ふみ。

びっくり箱が開けた時に、臣民の思いが違っていたと云う場合はある程度覚悟しておいた方がいいこともあるように思います。
身魂が磨けていなければ、大難がそのまま大難になることもあるのでしょうし、何かをするために生かされているのであれば、その時その時に御用満了は人それぞれのように思います。
役員についての記載がありますが、もしもここがひふみの云う何かしらの場所であるのなら、現在袂別れして起動している人も少なくなっていますが、活動は継続していってますので、そのうち動きもあるのかなと思っています。


第五巻 地つ巻 第二十九帖 (166)
天明は神示書かす御役ぞ、蔭の役ぞ、この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。旧九月までにはその御方お揃ひぞ、カのつく役員うらなり、タのつく役員おもてなり、うらおもてあると申してあらうがな、コトが大切ぞコトによりて伝へるのが神はうれしきぞ、文字は通基(つき)ぞ、このことよく心得よ。天の異変は人の異変ぞ、一時は神示も出んことあるぞ、神示よんで呉れよ、神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな、神にくどう申さすことは神国の臣民の恥ぞ。神示は要らぬのがまことの臣民ぞ、神それぞれに宿りたら神示要らぬのざぞ、それが神世の姿ぞ。上に立つ人にこの神示分るやうにして呉れよ、国は国の、団体(まとひ)は団体(まとひ)の上の人に早う知らして呉れよ。アとヤとワから表に出すと上の人も耳傾けるのざぞ。アとはアイウエオぞ、ヤもワも同様ぞ、カはうらぞ、タはおもてぞ、サとナとハとマとまつはりて呉れよ、ラは別の御役ぞ、御役に上下ないぞ、みなそれぞれ貴い御役ぞ。この神示 上つ巻と下つ巻 先づ読みて呉れよ、腹に入れてから神集(かむつど)ふのぞ、神は急けるぞ。山の津波に気つけよ。十月の七日、七つ九のか三。
神示の内容を臣民は網羅しておくことは基本のようです。
「この神示はアとヤとワのつく役員から出すのざぞ、おもてぞ。旧九月までにはその御方お揃ひぞ、」
その時までに、ひふみに関連する重要な情報を提示する方がたが三人くらいいるようです。