霊障解消物語さんのサイトより
http://doragonn10.web.infoseek.co.jp/tennib.htm
<転載開始>

    4.天意転換前と後の世の比較例(B)

    • 今までの逆法とこれからの正法

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宗教の無力化

 (イ)形骸化した宗教

 神向讃詞を理解してゆくために必要な根本的な問題のいくつかについてお伝えしたいと思います。問題となる一つとしては、いわゆる宗教の無力化ということです。これは私がいうのではなくて、宗教評論家というような、世界の学者、あるいは神道家、仏教者あたりが一番これを認めている問題です。以前法大の教授をされていた本田顕彰さんが、読売新聞に”化石化する宗教”ということを述べられていたのをみても「現在の宗教はまったく化石になってしまった」、「宗教の遺物が存続しているにすぎない」という考え方をしております。「宗教はもう数百年静止したままである」といわれていますが、それどころではない、二千年以上も静止したままである。観音様にしても、天照主大神様にしても、中風か幼児マヒで三千年も四千年も前から寝ていらっしゃるというように今の宗教家は思っているということ、そしてまた、権威の形骸にすがりついて命脈を保っているかのようにしかみられない。いわゆる宗教という今日までに大きく世界中に形成した一つの権威の座の上に、その死体にすがりついているというのが現在のすべての宗教である。神道家や仏教者のえらい方々も一様にこれを嘆いておられます。時代とともに生きて行こうとすれば、神道の異端者だとか、仏教に異端者だとかいって相手ばかりを弾刻している。古いカラを破って時代と共に生きて行くという考え方に切り換わらなければ宗教は皆化石化するであろうことは認めざる得ない。

(ロ)人物信仰化した宗教

 宗教は霊の世界、霊智の世界を忘れ去るどころでなく、近代では本職の人達までも無視して哲学化することをもって高級宗教であるかの自己錯覚さえしてしまって得々とさえするようになった。釈尊やイエスは泣いておられるであろう。したがって信仰に在り方においても、近世になりますと、さすがに神道だけには起こらなかったと思いますが、仏教にしてもキリスト教にしてもみんな人物信仰になってしまった。たとえてみると、イエス様が神様のようにされてしまった。これはとんでもないことです。イエス様は現界に降りられた以上、人である。その元は御神魂であったということはいえるけれども、大天津神様とは違って、四次元に近い神様であったのです(四次元界については神霊層界に記載します)。釈尊にしてもその通りで、たしかに御神魂であり、仏魂ではないのですが、大天津神とは違うのです。イエス様にしても、釈尊にしてもご自身が天の父とか、あるいは観音、梵天を拝んでおられた、徹底した創造の主神様の神向者であったのです。

 したがって仏教にすれば、釈尊を通し、弘法を通し、日蓮を通して大仏即ち聖観音とか、アミダ様とか、ミロクの大神様とかいうものを説いて、それを崇めさす役割を果たしてゆかなければならないにもかかわらず、日蓮を拝んだり、釈尊を拝むようになってしまっているのです。これは日蓮や釈尊にしてはいい迷惑です。そのために霊界で泣いておられるのです。イエスも同様に霊界で泣いております。(以前にイギリスの大聖堂にあるイエスやマリアの銅像から原因不明の涙の成分を含む水が瞳から溢れて世界を仰天させたことがありました。又日蓮上人は自分が説いた教えが弟子たちによって曲げられてしまい、アミダ如来様ではなく、自分のことを皆が仰いでいるので霊界で主の神様から大変な咎めを受けていると言います)。これらの方々は神様から遣わされた者であることは否定できませんし、幽界に帰られたときには、神界にも還られ得る方ですから(幽界でも下層部と上層部があり、その上の方)、人間として、神のみ魂として尊敬するということは当然で、いくら尊敬してもよいと思いますし、それに負けないだけの魂霊の昇華がなければ尊敬にはならない。立派な方々ですからその立派なところをまねして神性化してゆく一つの基準にするとか、反省の対象、磨きの対象等にすることはよい。しかし大神様と間違えたのでは、神霊界は順序がきわめてきびしいだけに、逆にご迷惑になる。かといって軽蔑すればこれは神様が喜んで下さらない。おのれの使いに出した者をバカにするのか、ということになってしまう。


(ハ)宗教の哲学化

 現在の宗教においては、以上説明してきたように、最も重大である霊的な面に対する考え方が一切哲学化されてしまった。神道やキリスト教も神学化してしまった。神のみ使いではない神学者即霊的体験一つない理論家が、イエスキリストを論ずるようになってしまった。まったく危険といわなければならない。もちろんキリスト教自体が、上級編で詳しく説明しますがイエスの作ったものではなく、み弟子が作ったものですし、仏教にしても、釈尊時代には仏教というようなものはなく、バラモン教しかなかったわけです。釈尊が死んで二百年目頃から弟子が集まって、釈尊が生きておられたときの教えはこうだ、ああだと、口伝えしてきたものが、ようやく四百年から七百年たって文章化即ち経文になったものです。釈尊の教えられたことが、ノートからノートへの宗教として伝えられたのならまだよいのですが、釈尊の時代からしばらくの間は、まだまだ文字のない時代でしたから、口伝えより仕方ない。それが数百年も続いてようやく文字ができたので、経文として書かれ、仏教というものができたのです。

 したがって仏教というものは、又弟子の又弟子の又弟子が作ったものである。だからいま宗教界でいいますように、釈尊のいった”金口の説法”とは、どれとどれかとはっきり答えられる宗教家は誠に稀有とさえいえるでしょう。このように仏教にしてもキリスト教にしても、そのできるとき自体が大分生きていた釈尊、イエス時代からいうと曖昧なものとなっているし、それからさらに、弟子が勝手に相談したり、それから分派を作ったりした教えが少なくないのであるから、結局弟子の哲学化となってしまった。釈尊やイエスの霊行者としての教えではなくなってしまっている。

 釈尊やイエスは、上級編に記載しますが、歴史でみると、一切が霊について説いている。また自ら霊行をし、また実在する一人一人に対して救いの業をしては説法した人である。あちらでは仙人といっているくらいです。そして、み弟子にも天眼を開くとか、神への義を説き、いずれも人を救って歩けと第一にいっている。だから人物としても釈尊、イエスと、弟子の作った仏教、キリスト教に出てくるところの経典上の釈尊、イエスというものは非常に遠いものがある。その違いにすっかりカバーをかけてしまって、み弟子が自己流に解して作った教えも釈尊やイエスが説いたようにしてしまった。それが証拠に、この弟子たちが作った仏教、キリスト教には、ご承知のようにあらゆる分派ができている。仏教の宗門でも今日の宗教上認定されているものだけでも十三宗、百に近い余派に分かれている。キリスト教でも分派が沢山できてしまって、どれが本当のイエス様か、本当のキリスト教なのかわからないようになってしまった。そしてお互いが平気で喧嘩している。全くガタ馬車のような宗教界、救いの無力化宗教との世評を受けても文句がいえないのである。


医学から異学へ

 古代にはいろいろも呪術というのがありますが、これのあて字は医術となっています。神代では呪(いのり)が霊的なあらゆる面への医術であったわけです。それが今日では、唯物主だけの細胞医術に変えてしまったのが人類の大失態で、神様のおっしゃるように、「医学」を「異学」にしてしまった。異学=胃我苦だから胃で我苦しむで、それで胃腸病や胃癌が多いのかもしれないが、それは冗句としても、医術として呪が伝わったのが、それがいつの間にやらクスリを用いるようになって苦終止の世となってしまった。古代史では、明らかに薬師の神が出現しておられる時期がある。この薬師の神ははるか後世になって、仏教では薬師如来という言葉になっている。太古数万年前、文献では薬師の神と出ております。

 今日非常な行きすぎを起こした大きな間違い、医学を異学にしてしまった間違い、つまりカガクが神の神学ではなくなって、禾編の科学でもない、仮の科学にしてしまった(禾編科学即神学については御聖言「道と霊智」に記載します)。現代と同じ悪果を誘発してしまった。唯物の科(仮)学、唯物だけの医学にしてしまった。これらのことは行き過ぎになってしまうから、それを業(ゴー=行くの意味)という。それは神の世界から見ると罪穢になる。そこで「四つアの世がくる」という教えが出ております。

(ニ)四つアの世へ

 「四つアの世」「天炎呂(アホロ)の世」というのは、どのようなものかというと、アバキ、アガナヒ、アガキ、アカナヒの世、この四つを神様は「四つアの世」と教えられています。現在はまさにその通りである。アバキの世で、アガナヒ(償ひ)の世で、アガキの世で、それをすませると、一方では、アカナヒになる世である。アガキの世であるから、邪霊、悪業霊は、幽界現界で共々にアガく、従って国際関係、社会事情、家庭等の内外は荒れ狂ってくる。そしてアガナヒ現象がおきてくる。いろいろな病も業病化、集団化し、各種災害は、唯物主で対策を立てれば立てる程、あらゆる面が逆に悪化して行く世となって行くことは断言してきている通りです。これからますます国際的経済関係は混乱してくるにきまっている。経済的な人類共同のアガナヒがおきる。大金を使って軍備競争に喘ぐのであるし、また全学連が出ているように精神的な面においてもアガナヒの世がおきてくる。アガキの世がおきてくる。邪霊がさわぐ世がおきてくる。このような状態になることを心配して、釈尊は「いづれ人類に亡びがくる」といった。あるいは、イエスやヨハネは「天国は近づけリ、汝ら悔い改めよ」と警告したのです。

まとめ

 以上、主神の経綸上の大方針から天意転換とその後について記載させて頂きました。宗教、科学、医学、哲学思想、政治経済等があらゆる面でゆき詰まりを見せて、今までのような嘘やゴマカシが通用しない時代にはいってきます。正法の世、つまりこれからの時代は真実を説く宗教(主を崇める宗教、経綸に合った教え)でなければ救力が得られないようになってきます。あらゆる宗教も伝統や宗門保持にとらわれず霊智を復元させてゆけば救力を取り戻すようになるでしょう。又科学、医学も目に見えない世界に心を開いてゆけば、より一段進化し真の科学、人を救う医学に変わってゆくと言います。経済では物主金儲け主義から霊的経済学が発育し、人のためになる企業が伸びてくる。岡田光玉師が予言した通り、反から正へ、逆から正へと大転換期を迎え、個人の上にも改心、思いの持ち方の大転換を迫られている時代です。

5.三十字と三十字文明へ

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