しばやんの日々さんのサイトより
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/153/
<転載開始>
学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。
改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。
しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。
幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務付けられている。もちろん伊達政宗の仙台藩も例外ではなく、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたり処刑されたりしているのだ。
伊達政宗が慶長遣欧使節を派遣した時期は、教科書には慶長18年(1613)と書かれていて幕府の禁教令公布の直後のことなのだが、この使節が派遣された背景などを詳しく知りたくなっていろいろ調べてみた。
ネットではWikipediaなどで慶長遣欧使節やその関連人物について詳しく記述されているし、関連した書物もいくつか出ているので、それらを参考にして簡単に纏めてみよう。
まず最初に、慶長14年(1609)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰路で台風に遭遇し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、地元民に救助された一行に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を贈って、メキシコに送還させたという出来事があった。
続いて、慶長16年(1611)に、その答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えてサン・フランシス号で来日した。そこには外交を開く条件としてカトリックの布教を認め、プロテスタントを排除することなどが記されていたらしい。
しかし家康は、スペイン側の条件を受け入れればわが国が植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかったという。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/153/
<転載開始>
学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。
改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。
しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。
幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務付けられている。もちろん伊達政宗の仙台藩も例外ではなく、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたり処刑されたりしているのだ。
伊達政宗が慶長遣欧使節を派遣した時期は、教科書には慶長18年(1613)と書かれていて幕府の禁教令公布の直後のことなのだが、この使節が派遣された背景などを詳しく知りたくなっていろいろ調べてみた。
ネットではWikipediaなどで慶長遣欧使節やその関連人物について詳しく記述されているし、関連した書物もいくつか出ているので、それらを参考にして簡単に纏めてみよう。
まず最初に、慶長14年(1609)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰路で台風に遭遇し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、地元民に救助された一行に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を贈って、メキシコに送還させたという出来事があった。
続いて、慶長16年(1611)に、その答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えてサン・フランシス号で来日した。そこには外交を開く条件としてカトリックの布教を認め、プロテスタントを排除することなどが記されていたらしい。
しかし家康は、スペイン側の条件を受け入れればわが国が植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかったという。
慶長17年(1612)9月にセバスティアン・ビスカイノは家康・秀忠の返書を携えて帰途に就いたが、11月14日に暴風雨に遭遇し、座礁して乗船(サン・フランシスコ号)を失ってしまった。メキシコに戻るために船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本の外交方針の変更により受け入れられなかったという。
このような状況のなか、伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功する。スペインやメキシコと通商条約締結のためには、どうしてもスペイン国王に使節を派遣すべきであると伊達政宗に説得し、さらに家康に説得してそれを認めさせた人物がいた。その人物がフランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロである。
当時は500トン以上の船を国内で造船することが禁止されていたので、政宗にすれば、幕府が関与することでその造船許可を得ることも、海外渡航証明の朱印状も発行してもらうこともできる。
また幕府にしても、幕府の資金を使うことなく、国賓として来日していたセバスティアン・ビスカイノ一行をメキシコに帰国させる目途がたち、国際的な面目を保つことが出来る。
ところが、その後幕府は禁教令を公布し、慶長18年(1613)6月にソテロ自身も小伝馬町の牢屋に閉じ込められて危うく火刑に処されるところだったのだが伊達政宗の陳情により助けられ、その年の9月の伊達政宗の遣欧使節団に正使として参加することとなるのだ。外交には当然通訳が必要であり、日本語だけでなくスペイン語での交渉力も不可欠だ。政宗からすれば、ソテロはそのために欠かすことのできない存在だったようだ。
しかしソテロは、出帆直前になって伊達政宗に対し重大な要求を行っている。イエズス会のアンジェリス神父が、政宗とソテロとの駆け引きについて、1619年のイエズス会本部に宛てた報告書で次のように記録している。
「…船の準備が整うと、ルイス・ソテロは、…政宗がイスパニア(スペイン)の国王陛下とローマ教皇聖下の下に使節を派遣すべきであることを指摘し、また交渉をうまく進展させるために両者へ相当な進物を持参する必要があると述べた。そしてこの条件が受け入れられなければ、自分は乗船しないだろうと述べた。…政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言を受け入れてイスパニアとローマに使節を派遣することを同意した。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』洋泉社p67-68所収)
この使節の当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったのだが、サン・フアン・バウティスタ号が完成し、その出帆直前にソテロの一言によりスペイン、ローマにも使節を派遣することとなったのだ。そんなことを江戸幕府が許すはずがなかったのだが、伊達政宗は重臣たちから大反対されながらもそれを受け入れてしまうのだ。
なぜ政宗はそれを受け入れたのか。その手掛かりになるのが、使節団がローマ教皇に謁見した際に奉呈された文書で、今もヴァティカンに残されている。
一部を読んでみよう。最初は政宗がローマ教皇パウロ五世に宛てた親書である。
「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。しかしながら、私は、領分の国(奥州)で、しもじもの領民たちがことごとくキリシタンになるようにさらに勧奨するという目的のため、サン・フランシスコ御門派の中でもオウセレバンシアに所属するパードレ衆(宣教師)を派遣して頂きたく存じます。…」
「…なお、このパードレ・フライ・ルイス・ソテロと、六右衛門(支倉常長)とが、口頭で申上げるはずですから、この人々の申上げるところに従ってご判断頂きたく存じます。」
ソテロ自身がかなり作文した臭いが漂うのだが、伊達政宗自身も直接署名している文書であり、政宗が内容については承知していたと考えられるのだ。重要な極秘事項はこの時に口頭で語られたのだろうが、その内容についてはどこにも記録が残っていない。
次は同じく教皇に奉呈された、日本のキリスト教徒の連書状である。
「今年になってから新たな迫害が…将軍様によって引き起こされました。…
偉大な教父(教皇)よ、神が…奥州の王(伊達政宗)を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。…私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者(将軍)になることを期待しております…」(同上書p192-193)
他にもう一通連書状が残されているが、いずれも同様に伊達政宗を支持する内容のものである。この内容もかなりソテロが手を加えたことはまず間違いないだろう。
慶長の遣欧使節に詳しい大泉光一氏は「伊達政宗の密使」のなかで、こう書いている。
「ソテロが、船が完成する直前に、スペインやローマに使節を派遣することを政宗に進言したのは、『訪欧使節団』派遣の真の目的を最初から明かしたのでは、メキシコとの直接通商交易を開始することを第一と考えていた政宗が、使節派遣計画を取り止める恐れがあったからである。」(同上書p84)
では、ソテロにとって「訪欧使節団」の真の目的とは何なのか。
大泉氏はさらにこう書いている。
「ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で自分が洗礼を授けた多くのキリシタンが処刑されるのを目撃し、また自らも囚われの身となり、火刑に処せられる直前に救出されるという経験から、将来の日本におけるキリスト教の布教活動に対し強い危機感を抱いたに違いない。
そこでソテロは、…伊達政宗の保護の下、自ら東日本区の司教になって仙台領内に宣教活動を行うことを目論んだ。そして、キリスト教に対し理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタン改宗を勧めた政宗に日本全国のキリスト教徒の指導者になるように歓説したのだろう。
それを現実のものにするためには、日本中のキリスト教徒(30万人以上)の支持を得て政宗がローマ教会に服従と忠誠を誓い、彼らの指導者として承認してもらう必要があった。そのためにソテロは、政宗にスペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣することを持ちかけたのである。」(同上書p84-85)
と、なかなか説得力があるのだ。
大泉氏はさらに「政宗自身も天下取りの夢を捨て切れず、自ら「将軍職」に就くためにキリスト教を利用しようとした」とも書くのだが、この点について書きだすと長くなるので、次回以降に紹介することとしたい。
<転載終了>
このような状況のなか、伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功する。スペインやメキシコと通商条約締結のためには、どうしてもスペイン国王に使節を派遣すべきであると伊達政宗に説得し、さらに家康に説得してそれを認めさせた人物がいた。その人物がフランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロである。
当時は500トン以上の船を国内で造船することが禁止されていたので、政宗にすれば、幕府が関与することでその造船許可を得ることも、海外渡航証明の朱印状も発行してもらうこともできる。
また幕府にしても、幕府の資金を使うことなく、国賓として来日していたセバスティアン・ビスカイノ一行をメキシコに帰国させる目途がたち、国際的な面目を保つことが出来る。
ところが、その後幕府は禁教令を公布し、慶長18年(1613)6月にソテロ自身も小伝馬町の牢屋に閉じ込められて危うく火刑に処されるところだったのだが伊達政宗の陳情により助けられ、その年の9月の伊達政宗の遣欧使節団に正使として参加することとなるのだ。外交には当然通訳が必要であり、日本語だけでなくスペイン語での交渉力も不可欠だ。政宗からすれば、ソテロはそのために欠かすことのできない存在だったようだ。
しかしソテロは、出帆直前になって伊達政宗に対し重大な要求を行っている。イエズス会のアンジェリス神父が、政宗とソテロとの駆け引きについて、1619年のイエズス会本部に宛てた報告書で次のように記録している。
「…船の準備が整うと、ルイス・ソテロは、…政宗がイスパニア(スペイン)の国王陛下とローマ教皇聖下の下に使節を派遣すべきであることを指摘し、また交渉をうまく進展させるために両者へ相当な進物を持参する必要があると述べた。そしてこの条件が受け入れられなければ、自分は乗船しないだろうと述べた。…政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言を受け入れてイスパニアとローマに使節を派遣することを同意した。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』洋泉社p67-68所収)
この使節の当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったのだが、サン・フアン・バウティスタ号が完成し、その出帆直前にソテロの一言によりスペイン、ローマにも使節を派遣することとなったのだ。そんなことを江戸幕府が許すはずがなかったのだが、伊達政宗は重臣たちから大反対されながらもそれを受け入れてしまうのだ。
なぜ政宗はそれを受け入れたのか。その手掛かりになるのが、使節団がローマ教皇に謁見した際に奉呈された文書で、今もヴァティカンに残されている。
一部を読んでみよう。最初は政宗がローマ教皇パウロ五世に宛てた親書である。
「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。しかしながら、私は、領分の国(奥州)で、しもじもの領民たちがことごとくキリシタンになるようにさらに勧奨するという目的のため、サン・フランシスコ御門派の中でもオウセレバンシアに所属するパードレ衆(宣教師)を派遣して頂きたく存じます。…」
「…なお、このパードレ・フライ・ルイス・ソテロと、六右衛門(支倉常長)とが、口頭で申上げるはずですから、この人々の申上げるところに従ってご判断頂きたく存じます。」
ソテロ自身がかなり作文した臭いが漂うのだが、伊達政宗自身も直接署名している文書であり、政宗が内容については承知していたと考えられるのだ。重要な極秘事項はこの時に口頭で語られたのだろうが、その内容についてはどこにも記録が残っていない。
次は同じく教皇に奉呈された、日本のキリスト教徒の連書状である。
「今年になってから新たな迫害が…将軍様によって引き起こされました。…
偉大な教父(教皇)よ、神が…奥州の王(伊達政宗)を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。…私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者(将軍)になることを期待しております…」(同上書p192-193)
他にもう一通連書状が残されているが、いずれも同様に伊達政宗を支持する内容のものである。この内容もかなりソテロが手を加えたことはまず間違いないだろう。
慶長の遣欧使節に詳しい大泉光一氏は「伊達政宗の密使」のなかで、こう書いている。
「ソテロが、船が完成する直前に、スペインやローマに使節を派遣することを政宗に進言したのは、『訪欧使節団』派遣の真の目的を最初から明かしたのでは、メキシコとの直接通商交易を開始することを第一と考えていた政宗が、使節派遣計画を取り止める恐れがあったからである。」(同上書p84)
では、ソテロにとって「訪欧使節団」の真の目的とは何なのか。
大泉氏はさらにこう書いている。
「ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で自分が洗礼を授けた多くのキリシタンが処刑されるのを目撃し、また自らも囚われの身となり、火刑に処せられる直前に救出されるという経験から、将来の日本におけるキリスト教の布教活動に対し強い危機感を抱いたに違いない。
そこでソテロは、…伊達政宗の保護の下、自ら東日本区の司教になって仙台領内に宣教活動を行うことを目論んだ。そして、キリスト教に対し理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタン改宗を勧めた政宗に日本全国のキリスト教徒の指導者になるように歓説したのだろう。
それを現実のものにするためには、日本中のキリスト教徒(30万人以上)の支持を得て政宗がローマ教会に服従と忠誠を誓い、彼らの指導者として承認してもらう必要があった。そのためにソテロは、政宗にスペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣することを持ちかけたのである。」(同上書p84-85)
と、なかなか説得力があるのだ。
大泉氏はさらに「政宗自身も天下取りの夢を捨て切れず、自ら「将軍職」に就くためにキリスト教を利用しようとした」とも書くのだが、この点について書きだすと長くなるので、次回以降に紹介することとしたい。
<転載終了>