しばやんの日々さんのサイトより
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/154/
<転載開始>
前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。

今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。

慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプルコに入港した。
Wikipediaによると「3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし常長ら10人を除き武器を取り上げられた。」と記述されており、メキシコに着くなりいきなりトラブルからスタートしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80

大泉光一氏の『伊達政宗の密使』には、「無礼討ち」のことまでは書かれていないが、副王のグアダルカサール侯が3月5日付けで軍事裁判長に宛てた命令書で、そのようなトラブルがあったことが推察できる。

「…彼ら(日本人)は見ての通りの性質・気性の人たちなので、争い、騒動、喧嘩のいかなる機会もつくらぬように、…スペイン人、現地人…は日本人に対し、悪意な行為や言葉、不正、暴力、また彼等を苛立たせる、不和の原因となるようなあるいは他の暴挙をすることなく…行動するように。…日本人の誰からもその意思に反して商品や代金を取り上げたり、彼らがそれらをどこででも売却する自由を奪ってはいけない。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』p105-106)

文面から見てグアダルカサール侯は日本人に対して良い印象を持っておらず、日本人の傲慢な態度、相手に対する好戦性、気性の激しさなどから、もっと深刻な武力衝突を懸念して、日本人の武器を取り上げることをその命令書に明記しているようだ。

最初の訪問地であるメキシコでは決して歓迎されることなくスタートした使節団ではあったが、4月に使節団一行のうち42名が、サン・フランシスコ教会で洗礼を受けたという記録が残っているという。
大泉氏によると、当時のメキシコには「インディアス法」という法律があり、カトリック以外の宗教を信仰する者は法的能力が認められず「栄誉およびその財産を剥奪される」と規定されており、メキシコに渡航できる移住者は三代にわたってカトリック教徒であることを証明できるものに限られていたという。江戸幕府の禁教令にもかかわらず使節団の多くがここで洗礼を受けることにしたのは、この地において不利な条件を取り除くためにやむを得ないと考えたのだろう。次のURLでは、この集団受洗が副王および大司教の態度を軟化させ、ソテロはスペイン、ローマへの渡航の手掛かりをつかみ、商人たちは船で運んだ商品の販路を見出したということが書かれている。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1149

その後使節は二つに分かれて、支倉常長他約30名がソテロの引率でスペイン、ローマに向かい、残りの100余名の日本人は約一年間メキシコに滞在後日本に帰国したという。

スペイン・ローマを目指した支倉常長やソテロらは、遂に1614年10月にスペインのセビリヤ市に到着した。セビリヤは地中海航路と大西洋航路の中継地として繁栄していた、スペイン王国最大の商業都市であった。

セビリヤのファン・ギャラルド・セルペデスがスペイン国王宛に使節の処遇について意見を述べた書簡が残されていて、そこには
「フランシスコ会士(ソテロのこと)がスペインに到着した最初の訪問地セビリヤに、日本皇帝(将軍)と奥州王の大使を連れてきたことに敬意を払いました。…彼等は(スペイン国王)陛下と教皇聖下に服従するために来ました。…」と書かれているそうだが、この時支倉とソテロほかには国賓級のVIPが泊まるアルカサール宮殿が提供されたそうだが、よほどソテロの弁舌が巧みであったということなのだろう。

一方スペイン国王にはイエズス会のルイス・ピニィエロ神父から、日本において幕府がキリスト教を禁止し、キリスト教を弾圧していることについての情報がすでに入っていた。またメキシコ副王からは、1614年5月22日付けのスペイン国王宛書簡で、「ルイス・ソテロは政宗を籠絡して使節を派遣したものであり、この使節派遣は徳川家康の思惑に反する行為である。日本のキリスト教化のためには将軍と親交をもつのが最善であり、一領主(大名)にすぎない奥州王と個人的に結託すべきではない」と主張していたという。
こうした状況下でソテロと支倉常長が事情聴取を受け、この使節は幕府ではなく奥州王が派遣した使節であることが明らかになっていく。

使節一行がマドリードに近づくと、スペイン国王は使節の宿泊先を王宮ではなくサンフランシスコ修道院とすることを命じた。大泉氏の表現を借りれば、国賓待遇から地方諸侯級の待遇となったということになる。

マドリード到着から40日以上経った1615年1月30日、支倉常長とソテロはようやくマドリードの王宮でスペイン国王フェリペ3世に謁見することとなる。この時に支倉常長が国王に述べた口上が、アマーティの「遣欧使節記」に次の様に記されているという。

「私の主君は日本の宗派は悪魔による偽りであると考え、キリスト教の信心こそが救霊の真の道であり、…この神聖な志をすべての家臣が王に追従するように努めたいと願っております。…」
「…この使節を通して(キリスト)教会の堅固な柱石である陛下に訴え、(わが王に)聖なる福音書の真実を説き、聖なる秘跡を授けて下さるよう修道士と宣教師を派遣されんことを強く請願することを考えました。…」
「この素晴らしい君主国(スペイン)との間に結びたいと望んでいる友好と提携を陛下と陛下の統治国に対して私が申し入れる命を請けてまいりました。されば陛下にささげる情愛を好意的で寛大に示して下されますよう、また我らの王国すべてにおいて軍事力を備えておりますので、陛下のお役に立つ機会があれば力を尽くしたいと望んでいますのでいつでもお使い頂きたく国王陛下に請願します。…」(大泉光一「伊達政宗の密使」p145-146所収)

と述べたあと、支倉常長は自身の信仰の意思表示として、国王陛下のご臨席のもとでキリスト教の洗礼の秘跡を受けたいことを表明するのである。

国王陛下は、以下の様な返答をされた。
「使節を遣わした(奥州)王が求めていることに対し、喜んで応じることに決めました。私たちに示された提案、および友好を重んじ深く感謝いたします。我々としては現在もまた如何なる時もそれに応じぬことはありません。これに対する最も相応しい処置については、最も好都合な折に新たな協議をする機会を与えるでしょう」(同上書p147) 最後の言葉でわかるように、肝心な事を曖昧にしたままで問題を先送りにした外交辞令である。その後、再び政宗の提案事項についてスペイン側と新たに協議する機会は与えられなかったのである。

フェリペ三世との謁見の中で支倉常長が手渡した政宗の親書の中に、九条からなる「申合条々」(協約案)が含まれていた。この文書は天理大学図書館に残されているが、最後の方に誰が読んでも驚くような内容の条文が書かれている。

「一、スペイン人で、当領内に滞在することを希望する者に対しては、その居住すべき場所及び土地を与える。万一、スペイン人と日本との間に、訴訟、論争または意見の相違が生じたときには、いかなる場合にも当人をスペイン人同士の統率者、または調停者であるスペイン人に引き渡すことを命令し、スペインの法律に基づいてその訴訟を解決し、右統率者または調停者の判断に従って裁判を行わせる。」

「一、スペイン国王と敵対関係にあるイギリス人、オランダ人、およびその他のいかなる国民でも、当領国内に渡来した者は、すべてこれを裁判に付す。詳細についてはルイス・ソテロが口頭で申上げます。」(同上書p152)

治外法権を認め、さらに単なる通商条約の枠組みにとどまらず、スペインの敵国であるイギリス、オランダ両国を政宗の領内から排斥することを約束している軍事同盟まで踏み込んだ内容になっている。

この「申合条々」は、船が出帆する直前に書かれたものであるが、明らかに幕府のキリシタン禁教方針や、オランダや英国との関係を重視する方針とも異なるものであり、幕府の承諾が得られるはずのない内容であった。
この時ソテロも熱弁を奮うのだが、フェリペ三世からはなんの返事も得ることが出来なかったという。

支倉常長はその後、国王に謁見時に口上で述べたとおり、フェリペ三世臨席のもと王立跣足女子修道院付属教会でキリスト教の洗礼を受けるのだが、対外交渉を良い結果に導くことにはならなかった。
結局使節団は、国王謁見の後約7ヶ月もマドリッドに居座るのだが、使節団が宿泊したサンフランシスコ修道院では厄介者扱いだったようだ。
スペイン政府にすれば、何の目的で来たかはっきりしない使節団に対し、巨額の経費をつぎ込むのは無意味であるとして、インティアス顧問会議が何度か国王に対して苦言を呈している記録が残っているし、使節団が修道院の病室や部屋に損傷を与え、それを修道院側が修理負担するのは理不尽だとの記録も残っている。

一方、この頃の日本はどういう状況にあったのだろうか。
慶長19年12月20日(西暦1615年1月19日)に豊臣家は大坂冬の陣で敗れ、慶長20年5月7日(西暦1615年6月3日)に大坂夏の陣で大坂城は陥落した。ソテロや支倉常長がスペインに滞在していたのはこういう時期だったのである。(使節団が国王に謁見した日:1615年1月30日)

また、同じキリスト教でもプロテスタントのオランダやイギリスは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、この考え方であれば幕府にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなってしまう。この時期の幕府は明らかにカトリックのスペインを冷遇し、オランダとイギリスを厚遇する措置を取っていた。
慶長14年(1609)にはオランダ、慶長18年(1613)にはイギリスが肥前国(長崎県)平戸に商館を置いて「平戸貿易」を活発化させ、元和2年(1616)には、幕府はヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限し、南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させた。
スペインにはそのような日本の情報が遅ればせながら入っていたはずで、国王フェリペ3世が、政宗が提示した「申合条々」に何の回答もしなかったのは、日本側の諸事情がある程度わかっており、使節団は日本国を代表するものではないと判断していたと考えられている。

そして、何の成果もないままに1615年8月22日に使節団はローマに向かうことになるのである。
(つづく)

<転載終了>