なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0911-2.html#25
<転載開始>
癒す力の科学
高田明和・著  日本教文社
因縁の法則――善も悪もない
  仏教では、すべては因縁の法則で動き、どんな修行した人にも悪人にも平等にはたらく法則としています。因縁とは、ある原因にもとづいて結果が生まれるということです。そして私たちの行為や思いも原因になり、私たちの運が変化してゆくのです。私たちのやったこと、行為、思いなどは業(ごう)という一種の宇宙に預けた貯金通帳のようなものに記載され、これにもとづいて結果がきまってゆくのです。その結果、長い目でみて善因善果というようなことが起こるのです。
  しかし世の中は善因善果のように動いていないではないか、たとえば地下鉄サリン事件で亡くなった人はどんな悪いことをしたのだ、といった意見がすぐ出されます。
  実は、本当は善も悪もないのです。雨が降らない時の水は人々にとって大切で、いわば善ですが、洪水の時の水は悪です。大金待ちにとっては、1万円失うことはなんでもないことで、不幸でもありませんが、貧乏人にとって1万円は大変な額です。
  このように、善とか悪とかいう基準は人間が勝手に価値を決めたもので、客観的な基準はないのです。だいたい、苦しい結果をうむような原因は悪とし、楽しい結果を生む原因は善としています。しかしこれとて主観的なものです。本人があまり感情的にならないように修行している人にとっては、楽しいも苦しいもないのですから、結果は悪でも善でもありません。

無意志の意志
  有名な山岡鉄舟は、大変な暴飲暴食をし、最後は胃ガンになり非常に苦しまれたようです。しかしこれも修行と考え、「お医者さん、いかん(胃癌)、いかん(胃癌)というけれど、いかん(胃癌)なかにも、よいとこもあり」などと戯歌をよんでいます。したがって、悪いことをすれば悪いことが返るというのは、だいたい他人に嫌なことは自分にも嫌なことだ、という法則にもとづいたことで、それがだいたい当たるから悪因悪果というのです。
  しかし、この“原因結果の法則”は、別に神や仏、超人が考えてやっていることではなく、自然界、宇宙がこのように動いているという絶対的な法則なのです。これを「無意志の意志」などとよんでいます。
  つまり、神がいて、「この人は善いことをしたから幸せにしてやろう」などと思ってやられていることではないのです。このため、悪いことをしなくても、事件に巻き添えをくう人も出てくるのです。悪の前倒しといってもよいでしょう。また、別に善いことをしなくても宝くじに当たったり、偶然高い地位についたりする人もでてきます。これは善の前倒しと言えるでしょう。

宇宙の貯金通帳
  しかし、原因以上に幸運になれば必ずその報いを受けます。努力しなければ、将来思いもよらない不幸にみまわれることもおこるのです。この辺を間違えて、因縁の法則が神の褒美とか罰などと考えると、例えば原爆にあった人はどんな悪いことをしたのか、といった話になります。この辺のことを、達磨大師はつぎのように言っています。
  「ひとは思わぬ幸運にあうと有頂天になるが、これはいままで貯めた貯金を使ったようなものだ。したがって、すぐによいことをして貯金を増やさなくてはいけない。また、突然の不幸に見舞われた人はがっくりくるかもしれないが、これは今までの借金を返したようなもので、その時は苦しいが将来は幸運に恵まれるものだ」
  これは、今まで貯めた貯金のことを言っていますが、悪いことをしないのに受けた不幸は宇宙の貯金通帳に大金を預けたようなものですから、将来もっと利息がついてよいことがくると考えればよいのです。


関連してこちらもどうぞ → 悪口を言う人がおったら拝むのや
● 悪口を言う人がおったら拝むのや   2006年3月8日(水)
  前回の「つぶや記」をご覧になったある方からお便りをいただきました。その方はお父さんが天理教の文教会長をなさっているとのことで、天理教について大変くわしい方です。
  そのお便りの一部を以下にご紹介します。

最新ダイアリー(註「大難は小難にすることができる」3月6日)で
他人の悪口を言うと、その人のカルマを自分がもらってくることになるのです。人から悪口を言われたら喜ばないといけないのです。
とありますが、
天理の書物で「神に近づく道」(渡部与次郎)というものにも似た文章があります。

悪口を言う人が恩人(という小題もくじの中で)
・・・・・・・・・・・
その中でも、世界始まって以来誰一人言っていない世界いちれつ陽気ぐらしへの決め手、切り札となるお言葉と思われる一つがある。
「悪口を言う人がおったら拝むのや その人がこちらのいんねんを取ってくれる恩人やで」

というものです。
真理はひとつですね。


  天理教の神さま(=親神様)も、『日月神示』と同じことをおっしゃっているのです。こうしてみますと、「他者(=人とは限らない)の悪口を言ってはいけない」というのは単なる道徳律というより宇宙の法則と言うべきかも知れません。
                         ☆ ★ ☆
  さて、本日は「カルマの法則」シリーズの第2話としまして、当サイトにもアップしております『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)の中にある「カルマ」についての記述を取り上げてみたいと思います。

あなたは永遠に責任から逃れられない

  私たちのほとんどは、「自分の行動のいくつかには責任があるが、そのすべてに責任があるというわけではない」というアイデアに慣れ親しんでいる。たとえば、自分が何かをして周囲の人たちと仲がよくなったときには、それを自分の手柄だと考えるが、結果的に彼らと議論になるような場合には、それは自分のせいではないと考える。

  あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようにきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。
  私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。

  他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。
  カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙はけっして裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスをふくむ、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。

  結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしもひとつの生涯のなかでとられるとはかぎらない。
                ――『魂との対話』(ゲーリー・ズーカフ著/サンマーク出版)


  いかにもキリスト教的な説明のように感じられますが、カルマの法則を大変わかりやすく表現しています。
  私たちのすべての「行動」「思考」「フィーリング」には必ず「意図」が存在していて、その意図がそれにふさわしい“結果”を生み出す“原因”になっているということです。この中に「言葉」が含まれていませんが、言葉も行動の一つととらえれば、まさに仏教で教える「身・口・意」が“因”となって“果”を生み出すことを述べているわけです。
  そして、「結果を生み出していない原因はまだ完結していない出来事で、それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある」ということです。しかも「必ずしもひとつの生涯のなかでバランスがとられるとはかぎらない」と述べています。私たちが過去世でつくり出した原因の結果が現在の人生である――と考えることができるのです。
  この『魂との対話』は「全米で300万部を超えた驚異的なロング・ベストセラー」と本の帯に書かれていますが、わが国ではそれほどヒットしなかったようです。それは、もしかしたら翻訳(の回りくどさ)に問題があるのかも知れません。しかしながら、内容は大変深淵な真理を述べていますので、ぜひ手にとっていただきたい本です。当サイトにもできるだけ多くの文章を拾い上げる目的で「見出し」部分はリストアップしています。
  なお、余談ですが、この本とよく似たタイトルの『神との対話』という本がシリーズで出されています。よく売れているということでしょう。私も何度か書店で手に取り、また1冊は購入して仕事帰りの通勤電車の中で読みましたが、電車を降りてすぐに駅のゴミ箱に捨てました。「百の真理に毒一つ」の本だと判断したからです。
  誰もが「なるほど」と思うようなことも書かれていますが、その中に大変危険な「嘘」が混入されています。これは料理に混ぜられた「ヒ素」のようなもので、知らずに読んでいるといつの間にか精神が犯されていく危険性があるのです。
  最近では、ここでも一度ご紹介した『天国と地獄』もその類の本だとわかりました。この本の中にある「死後の世界を支配する法律・33箇条」をご紹介するつもりで入力を始めたのですが、すぐに断念しました。それは、あらためて読み返したアラン・カーデックの既刊『霊の書』(桑原啓善・訳/潮文社)とは似ても似つかぬ低い波動の本だったからです。
  そういうわけで、お約束していました「死後の世界を支配する法律・33箇条」は当サイトには取り上げないことにいたします。ご了承ください。
                       ☆ ★ ☆
  さて、本題に戻しまして、最後は以前にも当「つぶや記」でご紹介したことのある『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)からの抜粋を再掲します。こちらはいかにも仏教的なカルマの説明となっていますが、内容は上記の『魂との対話』とそっくりであることがおわかりになると思います。まさに真理は一つなのです。

  カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
  「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。
  「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」。
  わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。(中略)
  わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。(中略)
  ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
  つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
            ―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)


  これをもちまして「カルマの法則」シリーズ第2話を終わらせていただきます。

<転載終了>