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<転載開始>
ミロクの大神 (二) : 構図
前項でも少し触れましたが、神経綸の中心軸に位置するほど重要な存在でありながら、実態が明らかとは言い難い神様が【ミロクの大神】です。これはミロクを重視する新興神道系の諸派の

以上のような
「ミロクの大神様と
曰へば至仁至愛の神、世界万民を平安無事に安楽に暮さして下さる神様の総称であつて、第一に宇宙の主宰に 坐します天之御中主大神の別称であり、 此神の全霊徳の完全に発揮されたる 天 照 皇 大 御 神も 乃ちミロクの大神様である。天下万民の為に 千 座の 置 戸を負ふて、世界に一旦流浪された 神 素 盞 嗚 命もミロクの御霊性であつて、 所 謂 月 読 尊である。 之は地のミロク様であつて、天照皇大神様は天のミロク様で、 撞 賢 木 厳 之 御 魂 天 疎 向 津 媛 尊と曰ふ別称の大神である。此の御神命を教祖の神諭には総合的に 頭の字一字を取つて 撞の 大 神と仰せられたのであつて、決して月界守護の 月の 大 神様の事ではありませぬ。又 五六七と書いて大本ではミロクと読んで居る理由は、 之も別に深遠な意義が在るのでは無い。只 仏典に五十六億七千万年の後に 弥 勒が出現されると 曰ふ文句の数字を 殊 更に略して応用したに過ぎぬのであります。要するにミロクと云ふ言霊は仁愛と云ふ事になるのであつて、天地万物の根元は 皆 天の御祖神の仁愛と、地の 祖 先の仁愛との大精神より創成されて居るのである」 『神霊界』 大正九年一月十五日号 「
高 天 原の総統神すなはち大主宰神は、大国常立尊である。またの御名は、天之御中主大神と 称へ 奉り、その霊徳の完全に発揮したまふ御状態を称して、 天 照 皇 大 神と称へ奉るのである。そしてこの大神様は、 厳 霊と申し奉る。厳といふ意義は、至厳 至貴 至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対 無始無終に 坐します神の意義である。さうして、愛と信との源泉と 現れます至聖 至高の御神格である。さうして ある時には、 瑞の 霊と現はれ、現界、幽界、神界の三方面に出没して、一切万有に永遠の生命を与へ、歓喜悦楽を下したまふ神様である。瑞といふ意義は、水々しといふことであつて、至善 至美 至愛 至真に坐しまし、かつ円満具足の大光明といふことになる。また 霊 力 体 の 三 大 元に 関 聯して守護したまふゆゑに、 三の 御 魂と称へ奉り、あるひは現界、幽界(地獄界)、神界の三界を守りたまふがゆゑに、三の御魂とも称へ奉るのである。要するに、神は宇宙にただ一柱 坐しますのみなれども、その御神格の情動によつて、 万 神と 化 現したまふものである。さうして 厳 霊は、 経の 御 霊と申し上げ、神格の本体とならせたまひ、 瑞 霊は、実地の活動力に 在しまして御神格の目的すなはち用を為したまふべく現はれたまうたのである。ゆゑに言霊学上、これを 豊 国 主 尊と 申し奉り、また 神 素 盞 嗚 尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は、高天原の太陽と現はれたまひ、瑞霊は、高天原の月と現はれたまふ。ゆゑにミロクの大神を月の大神と申し上ぐるのである。ミロクといふ意味は、至仁至愛の意である。さうして、その仁愛と 信 真によつて、宇宙の改造に直接 当らせたまふゆゑに、 弥 勒と漢字に書いて、「 弥 々 革むる 力」とあるのをみても、この神の御神業の、 如 何なるかを知ることを得らるるのである」 『霊界物語』 第四十八巻 第十二章
これによれば、ミロクの大神とは“総称”であって、基本的に“
「天之日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のやうなものと心得よ、一柱でもあるのざぞ」 『天つ巻』 第二十六帖 「133」
そして、恐らくは『
日月神示が降りる少し前の昭和十九年四月十八日、岡本天明氏らは
「何故、“
といったことを、【二】つ目のミロク論として、時節や神経綸とも深く関わるミロクの【構図】と一緒に論じたいと思います。
なお、以後の引用では原文を併記する場合が多くなりますが、原文と訳文の相違点の正誤については、原書が公開されていないので厳密には確認できないことを御了承ください。
◆
まず、日月神示の“ミロク”に関して、誤解のしようが無いほど明確な記述から引用します。
「ミロク様とはマコトのアマテラススメラ太神様のことでござるぞ」 『光の巻』 第五帖 「401」
「
三 九 三 十 八 九 十 の ア て 三 の 九 十 て 九 三 三」 『一火 の
キ』 第五帖 「401」
これに加えて、本来なら“
「ミロク様が月の大神様」 『梅の巻』 第二十帖 「447」
「
み ろ 九 三 か つ キ の 三 」 『ん
の
キ』 第二十帖 「447」
ただし、伊都能売神諭には「月の大神に
そして、ミロクの大神が月の大神である
他にも、内容的に似た記述があります。
「天からミロク様みづの御守護 遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ」 『雨の巻』 第三帖 「337」
「
て ん か ミ ロ 九 三 ま 三 の 五 四 五 ア 三 八 七 り 一 の お か 三 ゝ 八 一 の 五 四 五 七 三 七 り こ の 九 十 た 四 て 四 九 四 三 て お ら ぬ 十 五 お ん か ん の 三 三」 『アメの キ』 第三帖 「337」
「月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。この御三体の大神様、三日この世 構ひなさらねば、此の世くにゃくにゃぞ」 『風の巻』 第十二帖 「363」
「
つ キ の か 三 三 か 三 の 五 曰 五 一 の お 三 三 か 一 の 五 曰 五 お つ 千 つ 九 か の 八 九 二 十 九 千 の お か 三 三 ![]()
九 の 五 三 た 一 の お か 三 三 三 か 九 ノ 曰 か 一 七 三 ね 八 九 ノ 曰 九 二 八 /\ 三」 『カ千の キ』 第十二帖 「363」
火の守護と水の守護は、当然ながら日の大神と月の大神に対応しており、ミロクの大神が伊邪那美神であるなら、この記述にも一応の筋が通っていると言えます。また、「撞の大神様が水の御守護」という翻訳でも間違いではないのかもしれません。
ちなみに引用した内の後者の帖は、「御三体の大神」という言葉が
「御三体の大神様 三日 此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ」 『水の巻』 第十四帖 「288」
そして、この場合の御三体の大神に密接に関係しているのが、次に引用する第二十二巻『青葉の巻』第十七帖の記述です。これはミロクや日月について非常に
「日の神ばかりでは世は持ちては行かれんなり、月の神ばかりでもならず、そこで月の神、日の神が御一体となりなされて「ミロク」様となりなされるなり、日月の神と現はれなさるなり。「みろく」様が日月の大神様なり、日月の大神様が「みろく」の大神様なり、
千の御先祖様 九 二の御先祖様と御一体となりなされて大日月の大神様と現はれなさるなり、旧九月八日からは大日月の大神様とおろがみまつれよ」 『青葉の巻』 第十七帖 「486」
一見しただけでは判り辛いのですが、この記述は時節や神経綸の核心部分に触れており、同時に日月神示の説く“天地の構造”をも言い表しています。
それらの具体的な内容については、これから少しづつ言及して行きますので、まずは ここまでに引用した記述の中で説かれている“神の構図”を簡単にまとめてみます。
ミロク = 天照皇大神
日の大神 + 月の大神 = 日月の大神 = ミロクの大神
ミロクの大神 + 地の御先祖(国の御先祖) = 大日月の大神
ただし、『青葉の巻』第十七帖に込められた意味を正確には把握するためには、原文を参照した方が良いと思われます。その理由を明らかにするために原文と訳文を対比させてみます。

次に、この帖の内容を判り易く抽出して、適切だと思われる漢字を当ててみます。

ここでは原典に収録されている原文が正確であるという前提で話を進めますが、日の神と月の神が一体になったミロクの大神は、「
そして、この場合は“明”を「ヒツク」と
ただし、実体が別々というわけではないので、“
ミロク =
と書いてあるので、
もしくは、
という構図が成り立ちます。ですから、「ヒツク」と「ヒツキ」の違いは余り細かく気にする必要は無いはずです。ちなみに、この概論では両者を包括する意味で「
◆
また、『青葉の巻』第十七帖では、「
「大日月と現はれたら、何かの事キビシクなって来て、建替の守護と建直しの守護に廻るから、その覚悟よいか」 『海の巻』 第一帖 「493」
「
一 二 十 ア ![]()
七 二 の 九 十 キ 一 曰 九 七 て キ て て へ の 曰 五 十 て 七 曰 の 曰 五 二 ![]()
三 の か 九 五 曰 一 」 『
三の
キ』 第一帖 「493」
「今迄は神様も別れ別れで勝手にしてゐたのであるから、神様の申された事にも間違ひとなることあったのぢゃ、今でも神様はウソを申されんのであるが、和合なく離れ離れであったから、自分の目で届くグルリは、自分の力の中では誠であっても、広い世界へ出すと間違ったことになってゐたのぢゃ、神のお示しが違ったと申して其の神様を悪く申すでないぞ、今の上に立つ人も同様ざぞ、心得なされよ。今度は愈々一致和合して、大神様の仕組 結構が相判り来て、大日月の神となりなされて現はれなさるのぢゃ。判りたか」 『海の巻』 第三帖 「495」
「
九 ん 十 一 曰 /\ 一 千 五 曰 て 三 の 曰 九 三 け 九 ア 一 て キ て 大 一 二 の 十 七 七 三 て ア 七 三 の 千 八 火」 『 三の
キ』 第三帖 「495」
「天の神 地に降りなされ、
地の神と御一体と成りなされ大日月の神と現はれなさる日となった、結構であるぞ」 『海の巻』 第十二帖 「504」 「
て ヽ ヽ 千 二 七 三 ![]()
千 ヽ 十 五 一 十 一 十 七 七 三 ![]()
一 二 ヽ 十 ヽ 七 三 十 七 十 三 ヽ 九 て ア 三」 『 三の
キ』 第十二帖 「504」
なお、“
◆
このような「天の神と地の神が一致和合する」という内容は、日月神示の中で何度も触れられています。それ故なのでしょうが、天の御先祖様と地の御先祖様は一緒に言及される場合が多いです。その箇所も引用してみます。
「天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。洗濯足らんのであるぞ」 『雨の巻』 第四帖 「338」
「今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお
地の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国と ユ ツ タ神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく」 『光の巻』 第六帖 「402」 「次の世がミロクの世、天の御先祖様なり、地の世界は大国常立の大神様 御先祖様なり、天の御先祖様 此の世の始まりなり、お手伝いが弥栄のマコトの元の生神様なり、仕上げ見事 成就致さすぞ、御安心致されよ。天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ」 『梅の巻』 第十七帖 「444」
「愈々天の御先祖様と地の御先祖様と御一体に成りなされ、王の王の神で末代治める
基つくるぞ、少しでもまじりけあってはならんのぢゃ、早う洗濯掃除 結構ぞ」 『梅の巻』 第二十二帖 「449」 「悪 抱き参らす為には我が子にまで天のトガをおはせ、善の
地の先祖まで押し込めねば一応抱く事出来んのであるぞ、ここの秘密知るものは天の御先祖様と地の御先祖様より他には無いのであるぞ」 『海の巻』 第十八帖 「510」
以上の記述の中で語られている“地の御先祖様”とは、大本教で「
そして、これらの記述からは次のような構図が見えて来ます。
天の御先祖 + 地の御先祖 = 王の王の神 = 光
次に、この構図に『青葉の巻』第十七帖の内容を組み合わせてみます。
大日月の神 = 天の御先祖 + 地の御先祖 = 王の王の神
こういった内容から考える限り、別の箇所に登場する“天の王”と“地の王”も、基本的に天の御先祖様と地の御先祖様を指していると考えられますので、該当箇所を引用します。
「日本が秘の本の国、
艮のかための国、 出づる国、国常立大神がウシトラの扉をあけて出づる国と言うことが判りて来んと、今度の岩戸ひらきは判らんぞ、こんなことを申せば、今のエライ人々は、古くさい迷信ぢゃと鼻にもかけないなれど、国常立命がウシトラからお出ましになることが岩戸ひらきぞ、今の学では判らんことばかり。善と悪とに、自分が勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方。天の王、地の王のこと、
のことがハッキリ判らねば足場がないではないか、足場も、めあてもなくてメクラメッポーに歩んだとて目的には行きつけぬ道理」 『極めの巻』 第四帖 「931」
「柱になる人民もあれば屋根になる人民もあるぞ。天の王と地の王とをゴッチャにしているから判らんことになるのぢゃ、その上に 又 大王があるなれど大王は人民には見当とれん、無きが如き存在であるぞ」 『紫金の巻』 第十三帖 「992」
ここまでの記述からは、次のような構図が読み取れると言っても良いでしょう。
天の王 + 地の王 = 王の王 ≦ 大王 =
= 無きが如き存在
この他にも、“王の王”について やや詳しく述べられた記述があります。
「天地の先祖、元の神の てんし様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ」 『雨の巻』 第十七帖 「351」
「
一の王で治めるぞ。てんし様とは天千様のことぞと申してあろがな、この方シチニの神と現はれるぞと申してあろがな、 天 二様のことざぞ」 『風の巻』 第八帖 「359」
以上の二つの記述に登場する「てんし様」は、文章全体の文脈と、
また、“
更に、日月神示には“天地の王”に関する記述があります。これは天主様より“天子様”としての側面が強いのですが、参考として引用しておきます。
「
神 国の王は天地の王ざぞ、 外 国の王は人の王ざぞ。人の王では長う続かんのぢゃ」 『岩の巻』 第十一帖 「376」
そして、上で引用した記述で説かれている構図は以下の通りです。
天地の先祖 = 元の神 = 天主 = 王の王
天主 = 天地 = シチニの神 = 天父
これに先程からの内容を含めた構図をまとめてみます。
天の御先祖 + 地の御先祖 = 王の王の神 = 天主 = 元の神 = 大日月の神
つまり、「対偶の系譜の
◆
次に、ここまでの構図の大半を包括した記述を引用してみます。
「アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメの
の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちの
の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事 成就なされるので御座るぞ」 『雨の巻』 第七帖 「341」
「
ア メ の ひ つ 九 の か 三 十 八 ア メ の 一 二 の て 五 三 三 ア メ の の て 五 三 三 百 十 て 五 三 三 ム の 三 ウ の 三 百 十 の ゝ の 二 九 た 一 百 千 て 五 三 お ん 三 三 つ ち の ひ つ 九 の お ん 三 三 つ ち の の お ん 三 十 九 ん 十 八 五 一 た 一 十 七 り 七 三 れ て 九 ん 十 の 四 九 三 ゝ 五 十 上 十 七 三 れ る の て 五 三 三」 『アメの キ』 第七帖 「341」
この記述では、「
アメのひつ九のか三 = アメの一二の
= アメの
の
||
百十
= ムの
= ウの
||
つちのひつ九のおん
= つちの
のおん
この帖の内容は次項で再び取り上げますが、
◆
以上がミロクに関わる神々の基本的な構図です。ここまでに見て来たように、日月神示の説く“ミロク”は“
「何故、
と言えば、それは日と月が宗教的な“
例えば、この項の最初で引用した霊界物語の一節では「高天原の総統神は日と月として現れる」という主旨のことが述べられていますし、日月神示の『地震の巻』でも、霊界の全てが太陽と太陰から生まれ、
「霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と太陰とによりて生れてくる。それは地上に於ける場合と同じである。太陽と太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる」 『地震の巻』 第十四帖 「391」
「天国の政治は光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より光と熱とを発しているが、天国の太陽は一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の
如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは太陽そのものではない。太陽は火と現われ、月は水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである」 『地震の巻』 第十九帖 「396」
この場合、
そして、
ミロクや
何故なら、日の大神と月の大神、天の御先祖と地の御先祖、
そういった
“対偶的な存在の和合”が日月神示の説く“ミロクの
即ち“
そう考えれば、日月神示が“天地の和合”を目指す今回の立替え立直しにおいて、神の御用を果たす人間を「
◆
また、ミロクや
日本語のヒツクには「乾いてくっ付く」という意味の「
ただし、これはヒツクやヒツキの言葉から類推できる意味の一つに過ぎません。例えば、日月神示の原文には訳者の判断で濁音を当て嵌めるので、「ヒツグ」や「ヒツギ」と訓む方が正しいとする説も根強く残っています。そして、こちらの訓み方でも奥深い意味を見いだすことができ、この場合は“
以上のように、天之日津久神様がいかなる存在であるのかは、
「秘密は秘密でないぞ、火水であるぞ、明らかな光であるぞ、
火 水のマコトを悪神にたぶらかされて判らなくなったから、秘密となったのであるぞ、秘密は必ず現はれて来るぞ」 『海の巻』 第十三帖 「505」 「一切と手をつながねばならん。人民のみで世界連邦をつくろうとしても、それは出来ない相談、
片 輪 車と申してあろうが、目に見へぬ世界、目に見へぬ人民との、タテのつながりつけねばならん道理、人民同士の横糸だけでは織物にはならんぞ。天は火ぞ、地は水ぞ、火水組み組みて織りなされたものが、ニシキの御旗ぢゃ、ヒミツの経綸であるぞ」 『扶桑の巻』 第九帖 「858」
恐らく、天之日津久神様は「秘密とは、秘密が秘密ではなかったことに気付く過程の出来事に過ぎない」と仰っているのでしょう。
また、これらの記述では、“秘密の仕組”とは火水の仕組であり天地の仕組であり“光”であることが明示されており、それを“
日本の歴史における錦の御旗とは“
余談ですが、後鳥羽上皇は自らの持ち物に菊の紋を多用したため、以降は“
なお、日月神示や大本神示での錦の御旗とは“
そして、こういった“
ミロクの大神(三) : 仕組 / 旧九月八日の意味
前項で論じた
こういった関係性を、前項の最後で言及した“秘密の仕組”に絡めて述べている記述もあります。
「世の元からヒツグとミツグとあるぞ、ヒツグは
の系統ぞ、ミツグは
の系統ぞ。ヒツグはまことの神の臣民ぞ、ミツグは外国の民ぞ。
と
と結びて
一 二 三となるのざから、外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな。一二三唱へて岩戸あくぞ。神から見た世界の民と、人の見た世界の人とは、さっぱりアベコベであるから、間違はん様にして呉れよ。ひみつの仕組とは一二三の仕組ざ、早う一二三唱へて呉れよ、一二三唱へると岩戸あくぞ」 『上つ巻』 第三十二帖 「32」
この記述では「秘密の仕組とは一二三の仕組で
は不変不動」という主旨の記述が幾つかありますが、存在の中核や原理となる概念や
と
の違いは「
が有るか無いか」ですが、これは「根本的な
以上の意味において、造化三神は全ての存在や時空に浸透していると言えるのかもしれません。それは、この概論が「日月神示は
しかし、日月神示では天之御中主神と高御産巣日神と神産巣日神は、一種の概念的な存在として説かれており、具象的には現れないような書き方になっています。例えば、日月神示の創世神話を注意深く読めば判りますが、天之御中主神から伊邪那美神までの根元的な十七柱の中で、造化三神だけが「
そして、前項までに論じたように、狭義の意味と広義の意味でのミロクの大神は必ずしも一致していません。故に「どの
「手は頭の一部ぞ、手の頭ぞ。頭、手の一部でないぞ、この道理よく心得ておけよ」 『天つ巻』 第三十帖 「137」
中枢は末端に命令を下せますが、基本的に末端から中枢に命令を
これを「
その上で、“ミロクの中枢”として神経綸の中心軸に居ると推測されるのは以下の五柱の神様です。それは予言の大半が、この神々の物語として描写されていることからも推し量れます。
| 一、一柱だけでもミロクと明言されている“ |
| 一、天照大神と共に天の御先祖とされている“ |
| 一、天の御先祖と一体になって立替え立直しの総指揮を |
| 一、国常立神と同一神的に説かれ救世神とされている“ |
また、人体の頭が一つであるように最後の一柱まで絞り込む場合は、天照大神がミロクの大神になると思われます。恐らく この点が関係しているのでしょうが、立替え立直しでのミロクの大神の活動は、天照大神の別名である『
「何故、撞賢木向津媛神がミロクの大神なのか?」
この理由を考察するのが【三】つ目のミロク論である本項であり、ミロクの【仕組】の具体的な解説になります。そして、それは【旧九月八日の意味】を明らかにすることと同義でもあります。
<転載終了>





の
キ』 第五帖 「401」 

」は原典のままであり、基本訳では「すめ」、第一仮訳では「スメラ」です)
の

三の
のことがハッキリ判らねば足場がないではないか、足場も、めあてもなくてメクラメッポーに歩んだとて目的には行きつけぬ道理」