てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2538971.html
<転載開始>

ブログ読者の皆様、ブログ主はここ2週間程大変忙しくしておりましたので
全く記事をアップすることができませんでした。
記事をアップしていない時にもご訪問頂いた皆様、ありがとうございました。
さて、本日は既に以前の記事
(『王仁三郎の予言には三つのタイプがある』
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/1410372.html でもお伝えした事
なのですが、「日時を切った予言については、クレグレもお気を付け下さい。 」
ということを お伝えしたいと思います。
昨年末から年明けまでに大地震が来る可能性があるという、ある地震
予知の専門家の方の予測や多くの地震前宏観現象が現れたせいか
ここの所、年明けの日にちを特定した予言が一部の掲示板やブログで話題
になっていたようです。
例えば、夢などで1月24日あるいは、1月25日に大震災があるというお告げが
あったとか、311の反対の1月13日が危険だ、と言ったものです。
結果は皆さんご存知の通りでした。
勿論、今日本は大変な地殻の活動期に入ったという事は事実のようです
のでイザという時に備えての準備や心構えは常に怠らないようにしたいもの
ですが日限を切った予言に一喜一憂して一日中怯えて過ごすようなことは
したくないものですね。
毎日を怯えて過ごすのではなく、
毎日の神仏への祈りを欠かさず、その日、その日を精一杯生きることが
大切ではないでしょうか。
そうすれば、運も自然に好転し大難に巻き込まれる所が小難に済んだり
小難も無難に済むことになったり、果ては一人一人の幸運を呼び込む
祈りと行動が積み重なって、社会全体の大難が小難に、小難も無難に
繰り合わせされたりということも起きるやも知れません。
今日は「運命と宿命」についての出口王仁三郎の言葉をご紹介します。
「運命は人がつくる」
宿命とは、人間各自が先天的にもって生まれた境遇であって、後天的にどうする事も出来ない境涯をいうのである。運命は努力次第で、無限に開拓して行けるものである。
たとえば貴族に生まれた、平民に生まれた、醜婦に生まれた、農家に生まれた、商家に生まれたとかいうのは宿命であって、それを動かす事はできない。しかしながら平民に生まれたからというても努力次第で貴族にもなれん事もなければ貴族といえども懶惰(らんだ)を事として居れば、礼遇停止で平民に降下せんとも限らぬ。
農家に生まれたからというて一生農業をせねばならぬ訳もなければ商売が嫌いなら外の職業を選んだって、一向さしつかえない訳である。
美人だからって境涯が悪くって、くすぼっておれば、よい運命に導かれ化粧装飾を十分にする事の出来る醜婦よりも見劣りがするものである。すなわち運命は努力でどうとも転換する事が出来るものである。
(『神の国』「宿命と運命」昭和二年五月)
運命と宿命の違うことは、かつて話しておいたが、運命というものは、自分がつくって行くのである。運という字は「はこぶ」は訓(よ)むのである。
こちらから運んで運命を展開して行くのであって、自分の思わくの立つように、自分から仕向けて行くのである。そういう人を神さまはお助けなさるのであって、棚から落ちて来る牡丹餅を待っておるような人は、いつまで待っても運が開けることはない。
運ははこばねばならぬ。
(『神の国』昭和三年三月)
みいづ舎刊 出口王仁三郎著『瑞言集」より引用

今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2538971.html
<転載開始>

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全く記事をアップすることができませんでした。
記事をアップしていない時にもご訪問頂いた皆様、ありがとうございました。
さて、本日は既に以前の記事
(『王仁三郎の予言には三つのタイプがある』
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/1410372.html でもお伝えした事
なのですが、「日時を切った予言については、クレグレもお気を付け下さい。 」
ということを お伝えしたいと思います。
昨年末から年明けまでに大地震が来る可能性があるという、ある地震
予知の専門家の方の予測や多くの地震前宏観現象が現れたせいか
ここの所、年明けの日にちを特定した予言が一部の掲示板やブログで話題
になっていたようです。
例えば、夢などで1月24日あるいは、1月25日に大震災があるというお告げが
あったとか、311の反対の1月13日が危険だ、と言ったものです。
結果は皆さんご存知の通りでした。
勿論、今日本は大変な地殻の活動期に入ったという事は事実のようです
のでイザという時に備えての準備や心構えは常に怠らないようにしたいもの
ですが日限を切った予言に一喜一憂して一日中怯えて過ごすようなことは
したくないものですね。
毎日を怯えて過ごすのではなく、
毎日の神仏への祈りを欠かさず、その日、その日を精一杯生きることが
大切ではないでしょうか。
そうすれば、運も自然に好転し大難に巻き込まれる所が小難に済んだり
小難も無難に済むことになったり、果ては一人一人の幸運を呼び込む
祈りと行動が積み重なって、社会全体の大難が小難に、小難も無難に
繰り合わせされたりということも起きるやも知れません。
今日は「運命と宿命」についての出口王仁三郎の言葉をご紹介します。
「運命は人がつくる」
宿命とは、人間各自が先天的にもって生まれた境遇であって、後天的にどうする事も出来ない境涯をいうのである。運命は努力次第で、無限に開拓して行けるものである。
たとえば貴族に生まれた、平民に生まれた、醜婦に生まれた、農家に生まれた、商家に生まれたとかいうのは宿命であって、それを動かす事はできない。しかしながら平民に生まれたからというても努力次第で貴族にもなれん事もなければ貴族といえども懶惰(らんだ)を事として居れば、礼遇停止で平民に降下せんとも限らぬ。
農家に生まれたからというて一生農業をせねばならぬ訳もなければ商売が嫌いなら外の職業を選んだって、一向さしつかえない訳である。
美人だからって境涯が悪くって、くすぼっておれば、よい運命に導かれ化粧装飾を十分にする事の出来る醜婦よりも見劣りがするものである。すなわち運命は努力でどうとも転換する事が出来るものである。
(『神の国』「宿命と運命」昭和二年五月)
運命と宿命の違うことは、かつて話しておいたが、運命というものは、自分がつくって行くのである。運という字は「はこぶ」は訓(よ)むのである。
こちらから運んで運命を展開して行くのであって、自分の思わくの立つように、自分から仕向けて行くのである。そういう人を神さまはお助けなさるのであって、棚から落ちて来る牡丹餅を待っておるような人は、いつまで待っても運が開けることはない。
運ははこばねばならぬ。
(『神の国』昭和三年三月)
みいづ舎刊 出口王仁三郎著『瑞言集」より引用

今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>