In Deepさんのサイトより
http://oka-jp.seesaa.net/article/249558153.html
<転載開始>

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▲ 今回の内容とは全然関係ない写真ですが、最近、地球に届いた「爆発の光」で、距離は 2500万光年だそう。つまり、マンモスなんかのいたあたりの 2500万年前に遠い銀河で爆発した光が今、地球に届いたということのようです。 Daily Galaxy より。

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最近、周囲の人々で、「どうもあんまり調子がよくない」というような「雰囲気」を感じることがあります。それは体調が悪いとかではなく、「なんだかどうも気持ちが晴れ晴れしくない」というような感じでしょうか。

まあ、非常に簡単に言ってしまえば、それは「不安」からきているものだと思います。しかも、あるいは具体的ではないもの。しかも、不安の対象があまりにも漠然としていて、その漠然性も何だか不安だ・・・みたいな。

というか、私もそれを感じ続けています。


ただ、最近、体調自体はどんどん良くなっているのか、ニシオギにいた頃と同じように「まったく寒く感じなくなってきた」ということがあります。今の新居に引っ越したのは昨年の12月の暮れでした。その頃はもう寒くて寒くてどうしようもなかったのですが、慣れたのか何なのか、今では「寒い」と思うことは昼でも夜でもまったくなくなりました。

やはり倒れたころはずいぶんと疲れていたんでしょうね。
それで寒く感じたのかなあと。
本当に毎日寒かった。

最近は何だか暖かいです。
暖房もあまりつけることがないです。


さて、そんな私のことはどうでもいいのですが、「世の中に漂う不安」をとても感じるということが最近あります。まあ、何かことさら不安なニュースがあるというわけでもないでしょうし、このあたりは「人々の全体的な感情」とか、あるいは「伝播」というようなこともあるのかもしれません。
私はむかしから「不安な空気のサイクル」だけは実感として感じるほうで、そういう時は、あまり人とも会えなくなるので、今も誰とも会っていません。

ま、しかし、いずれにしても、そういう不安な感じの空気が仮に今あるとしたら、何かこう、元気の出るっぽい資料でもないかなあと考えていて、ちょっと悩んだんですが、例の「聖書は日本人のために書かれた」という本を思い出しました。

過去記事は、



です。

この著作「聖書との対話」の中には、著者の方が戦後に差出人不明の相手から受け取った「大量の手紙」が紹介されています。それが誰が自分に出したものかを筆者はついにわからないままただったそうです。

その手紙は第二次大戦の終戦後すぐの 1948年から始まり、 1970年代まで続いたのだそうですが、それらの手紙はすべて「旧約聖書」をベースにして書かれてある手紙で、その個別の人称(たとえば、「汝よ」など)の対象が「日本と日本人」として書かれてあるものなのだそう。

ちなみに、著者は、法政大学の教員であった人で、退職後になって初めて自分の人生でのその一種不思議な経験を本にしたようです(出版は 1980年)。


その中に、「戦後から将来の日本」を書いたものがあります。

聖書に「アモス書」というのがあるそうですが、それをベースに書かれてあるもののようですが、この文章を転載したいと思います。

これが最近書かれたというような文章だとしたら、単にどうしようもなくナショナリズムに傾倒した人あたりの戯言にも聞こえますが、今から約 60年ほど前に書かれたものだと考えると、その内容がどれだけデタラメであっても、つまり、「預言でもなんでもない」としても、十分に考えるものでした。

なので、ご紹介します。

長いもの一部分の抜粋ですが、抜粋した部分は一切編集していません。
そのままです。

これが不安を解消するようなものとなるとは思いませんが、今も昔もいろいろな人が「日本」と「日本人」と「その未来と将来」を考えていたということは思い直してもいいのかなとも思います。

(引用こからです)




「聖書との対話 - 旧約篇」 アモス風の預言集より

(※ 著者の方がこの手紙を受け取った正確な年代は記されていませんが、おおよそ、戦後間もない頃だと思われます。)

(中略)

 金をとって人の未来について語る学者や占い師の言うことを信じてはならない。私につながる知識は、金をとって教えることができるようなものではなく、金を払いさえすれば教えてもらえるようなものでもない。自分の仕事に誇りをもっていた昔の職人は金をとって教えたか。親は子から金をとって教えさとすか。真に大切なものは金をとって教えることができるか。私を知ったものは教えないわけにはいかない。迫害されても教えないわけにはいかない。

 私は古い神、死んだ神とはちがって賽銭を必要としない。私は金や献げものによっては動かされない。私は金に動かされずに金を動かす。私が金を動かすときは、日出づる国よ、汝を罰するとき、汝に災をもたらすときである。企業がおろかな人びとを金で動かすように、私も金で汝をためす。だが、私を知るものは金よりも私の言葉を大切にする。私が生きていることを知っているからである。私の言葉は真の力、真の生命である。私は私の言葉を受けいれるすべての子らに真の生命をわけあたえる。

 日出づる国よ、今や、汝は自由である(※注)。汝は古い神がみの無能に気づき、天皇が人間であったことに気づく。だが、汝はまだ私を知らない。だから、万能なのは神ではなく金だと思いこむ。日出づる国よ、ひとつ、汝と賭けをしよう。私は汝を世界のうちでも最も富める国のひとつとする。さて、その上で、汝は何をするのか。汝にどんな気のきいたことができるか。金は万能であったか。私は私の勝ちを信じて汝のすることを見まもる。

 日出づる国よ、私は心から汝を愛する。汝に自由を与えたのもそのためである。ところが、汝はアメリカを自由の国と思いこみ、アメリカのように富める国になることばかり考えている。だが、私は私が賭けに勝つことを知っている。私は汝の全身が腐りきる前に健全な部分をえぐりとって私の国をつくる。このようにして、日出づる国は私の光によって全世界を照らす国となる。

(後略)

(※注)の部分は、この「自由」の意味は、日本が第二次大戦後に軍事国家から解放されたということも意味しているようです。






(引用ここまでです)


この中の、

私は汝を世界のうちでも最も富める国のひとつとする。さて、その上で、汝は何をするのか。汝にどんな気のきいたことができるか。金は万能であったか。


ということに関しては、戦後の数十年で何度も繰り返し考えられてきたことにも関わらず、その答えと将来の方向は見えていません。

ただ、実際には「ゆっくりと」ですが、お金に対しての価値観は変化しているということは感じます。それは私のような中年たちではなく、若い人たちにその新しい価値観を見ます。


そんなわけで、ちょっとかわったものをまたご紹介しましたが、これに関してもあまり真剣にならずに、適度に元気づけ程度にお読みいただけると幸いです。



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1年前の In Deep

2011年01月31日の記事

中国の不思議な「2つの太陽」


<転載終了>