http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/kaminosuugaku3-1.html
<転載開始>
古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(1)
平成12年2月 謹んで上載
人はよく「初心に戻れ」という、
それは物事が複雑になればなるほど
「正当」「本質」を問うための原点であり
複雑重畳を解き放つためには必要なものである。
それは歴史や伝統、あるいは神話でもまったく同じである。
日本神道の原郷としての縄文神道(原始神道)の中にあるものこそ
本来の「古代の叡智」であり、失われて久しいと言われるものである。
驚くことにそれらはあり得ない遠い過去の真実であり、未来の超知の数々である。
我々はそれに対し、どう対応し、どのような処置を施すべきなのであろうか…?。
無視か、それとも真実を求めて新たな旅立ちを始めるべきなのであろうか。
最早我々の文明は破綻寸前であり、新しい手法を求めているのである。
今、我々は温故知新の故事に倣ってもう一度過去をさかのぼり
新しい真実世界の基本原理を探し求めなければならない。
ぐずぐずしていると間に合わないことになる
今や限界ぎりぎりの状態の時である。
《温故知新》→(歴史、思想、古典などをよく調べて昔のことを知り、そこから新しい知識や道理を得ること)
そもそも古神道とは縄文神道とも言い、密教・仏教・道教などの外来宗教の影響を受ける以前の神道のことであり、純粋な日本民族の意識が遥かな年月をかけて培い、育て上げて来た自然にまつろう叡智の集大成と言えるものである。
しかし、それは甚だ不幸な出来事により失われ、途切れてしまったのであるが、歴史は一切そのことに関しては何も言わず口を噤みつづけて知らん顔しているだけである。。
心ある者もいるではあろうが、恐らくは古代日本に存在した叡智の姿は今ある西洋科学知とはまったく異なった姿を持つものである故に言い出すことが憚れるのであろうか、それとも未だ誰もその事実に気がついてはいないのであろうか…?。私はいぶかしむ。
ここにそれを証言する一つの古代文献がある、それは今を去ること1400年くらい前に聖徳太子が記したとされる古代の書、すなわち古代日本の歴史的な書物『先代旧事本紀』である。
<『広辞苑』には『先代旧事本紀』とは「神代から推古朝までの事跡を記した史書」とある。>
そこには確かに不可思議な言葉、すなわち「数」に関する意味不明な言葉がずらりと並んでいるのである。それは人類史上極めて優れた頭脳を持つと自賛しているあなた方現代人でも恐らく目を疑い、即否定するばかりの有ってはなない言葉の群れである。
それゆえに現代では打ち捨てられて誰も顧みようとはしない。恐らく。あなた方もそれらの不可解極まりない言葉の数々には、ただただ呆れて言葉も出ないはずであろう。
だから、江戸時代の学者達もその不可解さに大騒ぎをし、その結果幕府は発行禁止の処分をした曰くつきのものである。その結果すべては偽書として片づけられ、荒唐無稽な偽作文書として捨て置かれ、そのまま現代に至っているのである。
その名は『先代旧事本紀』の中に収録されている「神文傳(かみふみのこととぎ)」と言う不可思議な言葉を持っている記であり、一切は不可解な「数」にまつわる文言なのである。
この「神文伝(かみつふみのこととぎ)の内容はあまりにも常識外であり、それゆえ解釈も叶わず今まであまり人目を引くこともなかったものである。それを一つ紹介しよう。
●「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり。 <先天→先史文明>
●「数は天、地、神、人、物の法(のり)を総(す)べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる。故にこの文、その 音は数によさす。これ先天の理なるのみ」
●「天皇(すめらみこと)はこの傳(つたえ)を得(さとりえ)たまい、聖人(ひじりびと)に請(まわし)たまい。聖人はもって その密(みふかさ)を察(さとり)たまひ、神代の数の音(こえ)をもちて、人代(ひとのよ)の義音(よきこえ)となしたまい、しかして理(ことわり)に合わせ章(つづり)をなされたまう。その学(まなび)は明らかにありて、人これを知得(さとら)ん。これ後天(いましよ)の傳(つたえ)なり。
●「中なる……の字(ふみ)は天上(たかあまはら)の数なり。その詞(ことのは)傳はらじ。下の……の字(ふみ)は、 黄泉(よもつくに)の数なり。また傳はらじ。
●「これを以ってこれを思うに、神文(かみつふみ)はフトミタカラなり。何れの世、何れの人がこの文(フミ=書いた もの)を宗(たっと)ばざる。この道を学ばざらんや。
……臣、大連の秦河勝、神文の傳を敬て白すこと璽れり。
以上、『先代旧事本紀』に収録されている「神文傳(かみつふみのこととぎ)」より…。 如何であろう、
《学びの道は「数」にはじまる、数は天、地、神、人、物の法(のり)を総(す)べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる》。何とまた意味の深い驚くべき言葉の現れなのであろうか。学者たちはこれを読んで心が動かされることはないのであろうか…?。
これははっきり言えばかのピタゴラスが言った「宇宙は数でつくられている」と全く同じ意味を持つ言葉と言ってもいいものである。いや含まれる概念、意味するものはさらに大きく、もっとストリクトで、甚だ正確な内容を持つ言葉と考えてもいいものである。
西洋の科学者達は今でもこのソクラテスの言葉を金科玉条として日々自然探求に明け暮れている。それを代弁するのが現代理論物理学の第一人者であるイギリスのステ-ブン・ホ-キング博士である。彼が初めて世に出た時の言葉には「宇宙は全て「数」で説明が出来る…」と言う言葉があったと確か記憶にはある。
現代的な言葉にすると次のようになる。
しかし、どうであろう、我が国日本ではそんなことを言うものならそれこそ気狂い扱いである。誰も相手にされないのは必定である。何だろう、この違いは…?。
ましてや、古代文献など引っ張り出して来ようものなら、そんな古代の言葉、学も定まらない古い時代の下らない書物を相手にしているとはおおたわけそのものであると叱咤されるだけである。若し、その内容が到底理解の出来ないものなら、即、無視であり、また、それが現代の知に即しているなら、そんなことはあり得ない、これは後代の誰かがつくった偽書であると断ぜられ、そこでお終になるのが常である。
「神の数学」とは……《学問の道とは「数」に教えを乞うことが必要である。なぜなら、「数」は天、地を始め宇宙万物の法則を操り、すべてを統治して納めているもの、すなわち、あらゆる法則の生みの親、すなわち「数」はあらゆるものの大元となり、すべてを導き納めているものなのである》。
まあ、このことはは一応さし置いてこれら古代の文を現代風な言葉に直して見よう。
●「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。
驚いたことに、これはまさに「神の数学」と内容がまったく一致しているものではないか…!。何と現代物理学者や数学者、はたまた歴史学者でさえも裸足で逃げ出すような驚くべき古代の言葉であり、未だかって誰も聞いたことの無いまさに驚くべき内容である。
それが古代日本に存在していたと伝えているのである。何と言うことであろうか…!!.
恐らく、この言葉は異形の物ではあるが、あまりにも真実を突いいるゆえに、本当の学者には甚だ耳が痛いものであろうし、目が点になり、のぞけかえるほどの驚愕を与えて止まないはずであろう。若し、彼が本当の学者魂を持っているならばである。とにかく、学者と言うものは己の知を過信するあまり、己の知に反するものは徹底して攻撃するという学者からぬ振る舞いをしがちであるが、それだけは慎むべきであろう。
確か、C・G・ユングとW・パウリの共書である「自然の解明と精神」には次の言葉が記されているはずである。そのあたりをしっかり心に止めて置いてほしい。
最近の書を開くと、欧米の学者たちは最近次々と数「0」について意見を述べ始め、大勢がその著作の中で0の持つ本質を語り始めている。それゆえに、今では0の持つ驚くべき真実、不可思議な性質はあまた世に知れることになって世を騒がせているのは諸氏もご存じであろう。いやそれどころか、今や、この奇妙な数「0」の持つ数学的、哲学的な性質は西洋の根本哲学と完全に衝突を始め、押し負かそうとしていると彼等、西洋の学者達は考え始めている、まさに「数」の革命が静かに起きつつあるのである。
「本当の数学を深く学んだ傑出した数学者によって、自然は計測され神秘のベ-ルがはがされる。しかし、偽物でいい加減な数学者にとっては、自然は明らかにならず隠されたままである。偽物は本質を計測する代わりに影しか計測出来ず、いい加減な見解で自らを装うしかない。一方、前述の傑出した科学者は影を拒否して、本質を掴まえ、真理を発見する喜びを得る…」。
さあ、次に進むことにしよう。
●「天皇(すめらみこと)はこの傳(つたえ)を得(さとりえ)たまい、聖人(ひじりびと)に請(まわし)たまい。聖人はもってその密(みふかさ)を察(さとり)たまひ、神代の数の音(こえ)をもちて、人代(ひとのよ)の義音(よきこえ)となしたまい、しかして理(ことわり)に合わせ章(つづり)をなされたまう。その学(まなび)は明らかにありて、人これを知得(さとら)ん。これ後天(いましよ)の傳(つたえ)なり。
訳…《天皇はこれら先天の伝承の伝える素晴らしい知の存在を知って、学者達に調べるように言いつけた。彼等学者達はその奥深い自然の存在を学び知り、その先天の数の発音をそのまま用いて今の言葉に取り入れて、それをそのままの理に合わせて一つの意味のある言葉を作り上げたのである。その上、そこに示されている天地の理にそのまま合わせて意味のある言葉を作り上げたのである。それ以降、その言葉の意味をだんだん人々は知るに及んで広くひろまっていった。これが今の世の初めにあった出来事であり、それが代々伝承されて今に伝えられているものである。これからも、これらの知は聖なる伝承知として子孫代々伝えていかなければならないものである》。
最後にもう一つ。
●「これを以ってこれを思うに、神文(かみつふみ)はフトミタカラなり。何れの世、何れの人がこの文(フミ=書いたもの)を宗(たっと)ばざる。この道を学ばざらんや。
訳…つらつら考えるに、この代々伝えられて来た古の「神文(かみつふみ)の伝承言葉こそは本当に大切な人類の宝であり、子孫代々に渡って伝えていくべきものである。しかるに果たして、この後のいづれかの時代に誰かがこの言葉文の内容を解き明かし、この大切な理の全容を知って学んでくれる者が出て来てくるであろうか…!?。願わくば是非これら古代の尊い言い伝えを知って学んでもらいたいものである。
さあ、考えてほしい、これらの古の言葉の表す「数の学びの道」とは一体何であろうか…?!。 「フトミタカラ」とは一体何を指すものなのであろうか…??!。
「フトミタカラ」この言葉の意味するものは果たして一体何なのであろうか、いろいろな文献、あるいは辞書等を調べてもこの言葉は見つからない、完全に、歴史上からは消え去った謎の言葉と言える。
僅かに、太占(フトマニ)=天地のロゴス(道理)、、太祝詞(フトノリト)=天地の数の原理、、太御宝(フトミタカラ)=天地の数の教え、などの言葉が残されてはいるが、これらの詳細内容のすべては時のはざまに消え去り、ただ、言葉のみが残っているのである。
今までこの「神文傳」の言葉は現代にあっては「意味不明」として放り出されたままであり、単なる愚言、埒の無いものとして誰も関心を持って調べようとはせずに打ち置かれたままなのである。そうかと思って歴史を探すと江戸時代には大いなる関心が持たれ、そのために偽書としては幕府やその御用学者から大弾圧を受けたと当時の書には記されているのである。
あなたはこれらの真実を解せなかったと言って当時の神学者、歴史家達を非難することは出来ない。なぜなら現代の名だたる学者、一流の知識層でさえも頭を抱えて否定に走ることは間違いないのであるからである。
当時はこれらの常識外の言葉、あり得ざる大それた内容、不可思議極まりない文意、すべてはあり得ないものであり、まるでバテレンの言葉のように聞こえたものであろう。そうかと言っても現代の日本にあっても余り事情は変わりなく、学者達は旧態依然の数の学に明け暮れて、あまり本来の「数」についての考えを誰も進めようとはしない。
このような事情が現在数学の世界を覆い、学者達は懸命にそれについて思索しているのであるが、現代の日本の学者たちは何も知らずにのほほんと惰眠をむさぼっているだけである。 誰ひとり、これらの真実に気づくことはなく揃って夢見心地で相変わらず旧態依然とした数学概念の中に身を置いて満足に浸っている現状である。
しかも、これらの古代における「数についての驚くべき箴言」、すなわち、世界的にも重大な意味を持つこれらの言葉を今の学者達は単なる戯言(ざれごと)であるとか、江戸時代の学者達が偽書であると判定したのだから偽書なのであろう、とただ傍観しているだけで取り上げようともしない。そこには、仲間には後ろ指を指されたくない、故に非常識なことは取り上げないと言う態度がありありと見えるのである。その罪はまさに重い。完全に学者としては責任放棄であり、失格であると言ってもいい態度である。また、自己保身のためと言われても言い訳がたたないものであろう。
要するに学者としてはあるまじき態度であり、故に、今更私がどのように解釈を下しても、口を挟める立場にはない、すなわち口出しは一切出来ないと言うことである。
もっとハッキリ言えば、現代の知識人と言われてはいても超古代の物知り(学者)と比べると一段と学の程度が低い、いや、感覚的な次元(精神性)に対する認識の程度がはなはだ劣っていると言ってもいいものである…!。
とにかく、現代の知識人達は余りにも西洋に心酔し、かぶれが甚だしい。口を開けば、「その昔ギリシャの大哲人プラトンはかって存在したアトランテック文明には驚くべき数哲科学と言う学があったがいまでは完全に失われてしまったと嘆いた」と残念そうに語って古代西洋文明知の存在を称賛している。しかし、それはおかしい。よく見るがいい、日本にはそれに格段優っているこのような古代文書が存在し、確かな筆で数の持つ驚くべき真実を語っている生々しい件(くだり)があるのである。それがこの『先代旧事本紀』に収録されている「神文傳(かみつふみのこととぎ)」にある驚くべき言葉の群れであり、その内容等である。
数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。
彼等、学者達はよく調べもせずにこれらの言葉尻だけを掴まえて偽言であり、偽書であると断じている。要するに、江戸時代の学者の言葉をそのまま流し、それを信じていると言うことである。ただそれだけであり、自らの手では調査は一切何もしていないのである。言葉を換えれば、彼等の知の程度は数百年前のものそのままであり、何も進歩はしていないと言っても何ら差し支え無いはずである。確かに、一般常識から言えば、あり得ないこと、理解できない内容ではある、しかしよく考えて見れば、これは哲人プラトンの語った幻の言葉よりはよほど現実的であり、理解可能な現実性のある言葉と言ってもいいはずのものである。
果たして、この古の神文傳(かみつふみのこととぎ)の持つ古の真実とは何を語るものなのか、そのあたりを日本の最も古い伝承を持つ「古神道」の祝詞とからませながら見るとよく解るのではないかと思い、試みたらまさにドンピシャリの様相を示したのである。
では、古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の歌」の数言葉とこの神文傳(かみつふみのこととぎ)と言う二つの古い文献の内容を同時進行の形で重ね合わせ、検証して見よう。
ひょつとすれば、これが古来から言われている「天地の岩戸開き(言答開き)」となるものかも知れない、そのあたりのことは天明さんの「ひふみ神示」にも何度か書かれているはずである。
あなたが本当に日本古代の文明の存在を少しでも納得したいならば常に「神文傳」の言葉を心にしっかり置いて、それから古代の知の詮索詮議を始めることが望ましい。偽書であるとの江戸時代の学者の言葉はもはや捨て去るべきであろう。
これは爾来3千年と言う歴史を持つ日本神道の根幹を揺さぶり、そこに坐する本当の「超古代の真実」を掘り起こそうと言う大それた企みであり、果てしのない時間と空間を横切って時の真実を探ろうとする誰も試みたことのない無謀な挑戦なのである。
さあ、ここからが本当の問題解決の端緒が始まる、これから「あらん限りの直感と洞察力のアンテナを高く掲げ、知を出来る限り鋭敏にセットし、可能な限りの本来あるべき本当の「古代の真実」をあぶり出して来るべき未来に備えなければならない。
まずは最も深い謎を秘めながら、巷間の神官達に軽侮されている古神道の祝詞「ひふみ天地の数歌」のあるべき本来の姿を見てみようではないか。それも明治期いらいの卓越した神道研究家達の研究足跡をたどりながら進めて見ようと言うのである。
確かに、そこにある真実をあぶり出すには余りにも時の経過が重なり、余りにも言葉の変化が大き過ぎて、今更解く術とて無いと思われる。発音の変化、言葉の変遷、時代の背景、それらを根気よく丹念に掘り起こして初めて真相に突き当ることが出来るのである。考えて見ればそれは僅か100年、200年単位の時の経過でも言葉や意味が不明、不鮮明となるものが多い今の世の中なのである。それを1000年単位という大きなエクステンドをもって大胆にも探ろうというのである。まさに狂気の沙汰と言うものであろう。
数年前の私のHPサイトの記述には確か次のような言葉があったと私は覚えている。
太祝詞「アイウエオ五十音図」を連れて奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」を解く、
すでにご存じであろう、「アイウエオ五十音図」と「ひふみ…天地の数歌」は神に対する誓文と同時にすべてを祓い清めるためのやんごとない「大いなる言葉」であることを…。そこには並々ならぬ「神」のご加護を受けた「天の叡智」が密かに眠り、相互共鳴と言う形で不可思議極まりない真実を述べているものである。そもそもこの二つはお互いに寄り合い、結び合って初めてそこにある本来の秘密が明らかになるのである。すなわち、「アイウエオ五十音図」と「ひふみ…天地の数歌」を互換的な形を用いて、はじめてそこに驚くべき「天の仕組み」が顔を出し、本当の真実を告げてくれると言うことである。
さあ、これら「双対の祝詞」の秘密を一つづつ明らかにしていこう。
<誰も知る者はいないが、祝詞「ひふみ…天地の数歌」には大いなる言霊が隠されているのである。それを押し開くことが、すなわち、「天の岩戸開き」の第一歩である。>
…。
<「アイウエオ五十音図」を揃えて共鳴させない限り、永遠に「ひふみ…天地の数歌」の持つ真実の内容(知)は「天の岩戸」の中に隠れたままであり、天地はそのまま闇の中に置かれたままなのである>。
〔Ⅲ〕、「アイウエオ五十音図」の秘密の扉を開く…。
<「ひふみ…天地の数歌」を用いて開かない限り、永遠に闇の中であり、決して陽の目を見ることは無い。その言わんとする不可思議極まりない内容は1、とまったく同じ性質(天啓天与)のものと言うべきものである>。
≪「天啓」とは人知では及ばない導きのインスピレションの存在であり、「天与」とは神から与えられたものとの意味である。≫
まさにこれらの知は「人間の持つ知」ではないことをその内容が示しているのはこれらを紐解けば気がつくはずである。これらを読み解き、その知の仕組を納得すれば、自然々の中に解ってくるのである。
要するに、これらの二つの古神道の太祝詞同士は完全なる相関関係にあり、お互いに相手と相関的な共鳴状態を持ちながら真実を明らかにしているのである。まさにそれは青天の霹靂とも言うべき驚くべき仕組みであり。3次元の中の4次元的な現れと言うべき衝撃的な現れを持つものである。それは現在の常識世界の中では決してあってはならないものであり、おぞましいものと言ってもいいものである。敢えて言えば、それは一つの「神の息吹」の現れ、「神の作品」としか言いようのないものである。なぜなら、それはどう考えても、どう捻り回しても「神」が作り上げたものとしか言えない不可解極まりない構造を持つものであるからである。
さあ、知の誇りをもつ者達よ、あらん限りの知と力限りの洞察力を込めてこれら古神道の持つ双対の奥儀祝詞の正体を確かめて見てほしい、果たしてこれが人知の成果の所業であり、人の手になるものであろうか…!?。それとも遥か太古の昔に天空から日本に降り立った天津人(宇宙人)が携えて来た天空の叡智であり、その遥かなる口伝の業と言うべきものなのであろうか。
さりとて、驚くほど難しいものでもない、ただ表現的に難があるだけであり、現在の科学的な言葉では十分に表現が出来ないものと言うことである。しかし、何時の日か頭脳明晰な若者が現れて知と言葉を尽くして明快なる答えを出してくれるであろう。
ハッキリ言えば今の私にも解しかねるものである、この「双(左右)対の祝詞」の持つ不可思議な理を世の中に出してから、もう十数年の時が経つ、しかし今でも釈然としない、どうしても人間の知、人間の業とは思われものがそこには厳然として存在しているのである。 今回はそれを3回(2,3,4月)くらいに分けて説明を加えていくことにしたい。
今回は平成10年12月のHPのサイトの記である「祝詞『ひふみ…天地の数歌』の本当の姿を見る」にある内容をもう一度おさらいしてその概要を再び共に考え、その意義の詳細を補って見みることにしたい。
〔Ⅰ〕 「祝詞『ひふみ…天地の数歌』
に込められた言霊とは…?。
1、祝詞「ひふみ…」の言霊を見出す
(あなた方も直感と洞察力のアンテナを最大に伸ばし、これらの委細がっさいを点検認識してほしい、)
1 | 2 | | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
ひ | ふ | み | よ | いっ | む | なな | や | ここ | と(たり) |
日 (光) | 風 (空気) | 水 | 世 (地球自然) | 出 (現れる) | 虫 | 魚 | 鳥 | 獣 (毛々) | 人 (完了) |
天(1次自然象)……ア | 地(2次自然象)…ワ (『アワノウタ(天地の歌)』より) |
すなわち、ここにあるように、祝詞「ひふみ天地の数歌」とはこの地球自然界の創生順を高らかに歌っているものであり、その発生の順が言葉で綴られているのである。恐らく太古の知者が嵌め込んだ巧みな言葉の業と言うべきものである。おそらくこの二重言葉のことを称して後代の人々は「言霊」と呼んだのではないであろうか。確かに、これは世界にも類の無い恐るべき言葉のテクニックであり、まさに「言霊」=「裏言葉」の証言と言うべきものである。これらの証言は確かに岡本天さんの言葉にもあるはずである。
すなわち、「言葉の裏には数があり、数の裏には必ず言葉が隠されている」と…。 岡本天明の「古事記数霊解序説」より
現在までの神話学的な解釈では一番重要な「数の理」がまったく不明なので、いきおい中国観に結び付け、なんとか辻褄を合わせようとしているので、すべては落とし穴に落ち込んで意味がますます不明になっているのである。……田上晃彩著「古事記の謎」より。
【参考A】
●「日」→①太陽の光 ②霊・神霊 ●「世」→地球自然 ●「なな」→「な(魚)」の複数 ●「や」→矢であり、空をとぶもの、すなわち「鳥」を指す。(や=鳥、天地の歌48音図より)●「ここ」→「けけ=毛々」からの転訛、「毛々」は獣の複数、獣類を表す。 ●「と」→「人」の意、「ヒト」の「ヒ」は霊(ヒ)であり、「ト」は物(物質)、体(からだ)を表す。(広辞苑より)要するに「心」と「肉体」が見事に合体しているもの、それが「人」であり、「一(ひ=霊)」+「十(と=体)」であると説明しているのである(広辞苑)。確かにこれは「10進法」が根付いてからの、それに沿った解釈と言えるものである。しかし、そこには「ひ.ふ.み.よ.…ここ.たり」の元歌の精神が密かに隠され、流れていることに注意すべきであろう。すなわち「ひと(人)」とは〝ひ(一)であり、と(十)でもある(1=10)〟ことの大いなる天地の〝数の理〟なのである。
それが〝ひふみの心〟である「12345679123456…」の〝10が1に変わる〟、すなわち〝1=10〟という『日本9進法』の数循環の物語であり、宇宙的普遍の数の道である〝本当の数序〟の真相を歌っているものなのである。
それはまさに自然宇宙の〝循環の理〟を表している〝聖なる自然の道〟そのものであることに注目してほしい。
例えば自然界における万象の働き(動き)である「原子における電子の軌道回転」「地球を巡る月の自転・公転」「地球を含む太陽系惑星の自転・公転」「大銀河系の回転」「大宇宙全体の大回転」など、すべては回転により平衡を保ち、永遠性を紡ぎ出しているのである。それが宇宙自然の本当の姿であり、完全大循環のあるべき態(すがた)なのである。
【参考B】
「ヒト」は『ヒ(霊)=意識』と『ト(肉体)=物質』の合体したものであるとの認識が強く見られる。ところが、これは日本語辞典には見られるが漢和辞典には一切その解釈は見当たらない。そこに注目すべきである。そこには、漢字以前の大和言葉(神代文字)の影が強く見え隠れし、何かを囁いているのに気がつかなければならないのである。
【参考C】
『ひ』とは→霊=霊力、神霊、或いは祝詞等を示す言葉である。ここから神事に対し、祝詞が最初に奏上される理由が解るであろう。古代言葉とは、まさに多重多義な意味を持ちながら、決して筋が外れてはいないものである。
【参考D】
『や』の古代の意味は『鳥』を表す(「天地の歌四十八音図」日本超古代秘資料より)。この「天地の歌四十八音図」は首音「ア」(天)と尾音「ワ」(地)をとって『アワノウタ(天地の歌)』と呼ばれるもので、驚くことに今から2600年前、記紀より約1000年前に編纂された日本最古の超古代文書に記されているものである。その古代文書の名は『ホツマツタヱ』であり、江戸時代に失われて、昭和40年代に松本善之助氏により四国で再発見されたものである。
それによると「天」はアとも読み最初を意味する言葉であり、「地」はワと読み天の後に現れたあとの言葉と言うことである。
【参考E】
天地の『天』に属するものは天の神が創成した「ひ.ふ.み.よ.」であり、『地』に属するものは地の神が産み落とした「いっ.む.なな.や.ここ.」であると述べ、これこそまさに素晴らしい自然の恵みの姿、神の妙なる創造物、その自然の賜物の素晴らしさを称え、感嘆の声を挙げている様(さま)を見事に描いているものである。そのどよめきの姿が「ア」と「ワ」の感嘆の言葉で表されているのである。である。「ア-」は最初の畏れるほど吃驚した感嘆のことばであり、「ワ-」は最後に感じたどよめき、感激の言葉なのである。それを数で表したものが天(ア)の数は<1234→10→1>であり、地(ワ)の数は<56780→35→8>なのである。それがすなわち、天の数1+地の数8=0であり.まさに宇宙の本質を指しているものである。
また、それは最近やっと近代宇宙物理学が辿りついた宇宙の本質の姿と言えるものでもあろう。
「数学幻視考」講座 古神道(その3) より。
この祝詞『ひふみ…天地の数歌』の歌を〝うた〟と読んでいるが、本来は〝うたい〟と読むべきものであり、〝天地の万象を表す言葉〟とでも訳すべきものである。またそこには〝数歌〟と言う文字があるのでそれは数によってあらわされている大切なものとの解釈が出来るはずである。まさにこれは神文傳(かみつふみのこととぎ)の言葉である「深き数の道の理(ことわり)」と瓜々とも言うべき姿なのである。
また、〝うたい〟とは〝うたいだし〟に通じ、「在るものの初め」「最初の部分」「最初の出だし」を表す大変重要な意味を持つものと考えるべきである。そのあたりをしっかり判断して、その全体的なもの、祝詞『ひふみ…』が指し示す全体なるものを見出してほしい。 今の貴方なら十分に分かるはずである。すべては推して知るべし…!!。
一体、これら驚くべき仕組みを持つ双対の祝詞の発祥の地は何処であろうか、どうもその現代知よりも遥かに優れている仕組構造の存在から考えると、どうも遥かな宇宙から舞い降りた天空人の持つ宇宙の知の名残であると考えるのが最良のような気がする。 そうすると遥か古代の知として古神道に封じられ祭られていたのもうなずけるし、天孫降臨の神話も生きて来るのである。要するに、すべての「古神道物語」は 矛盾なく納まり、めでたし、めでたしに納まるのである。 如何かな…!?。
要するに、この古神道の祝詞『ひふみ‥天地の数歌』とは、何か非常に大切なものの〝最初の出だし〟であり、しかも〝数による歌いだし〟〝始めの部分〟〝最初の一章節〟であるとの意になるのである。すなわち「それをもって全体を指す名前として呼ばれていたものである」との判断が出来るのである。すると当然「そのあとに続くもの」の存在がくっきりと浮かび上がって来るのである。
それがすなわち、大いなる「数の道」、すなわち「ひふみ九九算表」の存在である。
(ちなみに広辞苑によれば「歌とは動詞ウタウの連用形であり、〝うたい〟と読む」と解している)
さあ、今まさに、古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」と遥かなる秘伝の言葉「神文傳(かみつふみのこととぎ)」の連用により超古代の日本の真実が明らかにされようとしているのである。一体何であろう、そこにある奇妙な言葉の群れの伝える真実とは…!?。
すべてはこれから開かれ、始まるのである。要するに、遥か超古代の神々の時代、すなわち現代の歴史以前に存在した神代と呼ばれる大いなる「先史時代」に存在した「天の叡智」の一切は先史文明の終焉と共に一旦閉ざされてしまった。
それが「天の岩戸が閉ざされた」との表現であり、すべては忘れ去られ、今まで人の目に触れることも無く永い眠りについていたのである。
ところがひょんなことから、ここに来て改めて「神の数学」として驚くべき復活を遂げ、甦りを果たすことになったのである。それがすなわち、再び「天の岩戸が開かれ始める」のと言う言葉であり、本来あるべき自然の知が陽の目を見てすべて天地は再び明るくなった、すなわち、自然の本当の叡智が広がり、すべては正常に戻ったと解せるものである。
すべては余りにも突飛な話ではあり、信じられない話である。何せ私自身も呆気にとられている現状なのである。信じるもよし、信じないのもよし、すべては神の御心のまま、すべてはあなた次第に尽きると言うことである。
あなかしこ…!、あなかしこ…!!。
<転載終了>