しばやんの日々さんのサイトより
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/173/
<転載開始>
前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。
カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。
前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキリスト教を布教するべきとの考えであったのだが、それがキリスト教全体の方針ではなかったことを書いておかねばならない。
15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を「大航海時代」というが、この時代にローマ教皇が多くの教書を出している。
高瀬弘一郎氏によると、当時のローマ教皇は「キリスト教世界の首長として絶大な影響力を持ち、その決定はヨーロッパのキリスト教国王すべてにとって精神的拘束力となり、一種の国際法的な意味すらもつものであった…。ポルトガル国王もスペイン諸侯も、自己の海外発展の事業を正当化し、さらに鼓吹するために随時教皇に対してこの種の精神的支援を求め、一方教皇の側は、カトリック教勢の伸長を図る意味からも常にこれに応じて明確な援助を与えてきた。」(岩波書店『キリシタン時代の研究』p.7)とあり、当時においてローマ教皇の教書は影響力のきわめて大きい文書であったことは間違いがない。
ではこの時代のローマ教皇の公式文書で、奴隷制についてはどのように書かれているのだろうか。
この点については、西山俊彦氏の『近代資本主義の成立と奴隷貿易』という論文に詳述されている。西山俊彦氏はカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある人物だが、この論文はありがたいことに第4章までがネットで公開されており、誰でもPDFファイルを読むことができる。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htm
この論文をベースに加筆された『カトリック教会と奴隷貿易』という本も上梓しておられるようだが、残念ながら品切れになっているようである。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm
この西山氏の論文にキリスト教に敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書が紹介されていて、次のように書かれている。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/173/
<転載開始>
前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。
カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。
前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキリスト教を布教するべきとの考えであったのだが、それがキリスト教全体の方針ではなかったことを書いておかねばならない。
15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を「大航海時代」というが、この時代にローマ教皇が多くの教書を出している。
高瀬弘一郎氏によると、当時のローマ教皇は「キリスト教世界の首長として絶大な影響力を持ち、その決定はヨーロッパのキリスト教国王すべてにとって精神的拘束力となり、一種の国際法的な意味すらもつものであった…。ポルトガル国王もスペイン諸侯も、自己の海外発展の事業を正当化し、さらに鼓吹するために随時教皇に対してこの種の精神的支援を求め、一方教皇の側は、カトリック教勢の伸長を図る意味からも常にこれに応じて明確な援助を与えてきた。」(岩波書店『キリシタン時代の研究』p.7)とあり、当時においてローマ教皇の教書は影響力のきわめて大きい文書であったことは間違いがない。
ではこの時代のローマ教皇の公式文書で、奴隷制についてはどのように書かれているのだろうか。
この点については、西山俊彦氏の『近代資本主義の成立と奴隷貿易』という論文に詳述されている。西山俊彦氏はカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある人物だが、この論文はありがたいことに第4章までがネットで公開されており、誰でもPDFファイルを読むことができる。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htm
この論文をベースに加筆された『カトリック教会と奴隷貿易』という本も上梓しておられるようだが、残念ながら品切れになっているようである。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm
この西山氏の論文にキリスト教に敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書が紹介されていて、次のように書かれている。
「サラセン人等、キリストに敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書キリスト教徒の奴隷化を禁止する教書と対をなしているのが、キリストの敵の奴隷化を許容する教書で、次のものが代表的です―
(1) 教皇ニコラス五世『ドゥム・ディベルサスDum Diversas』(1452・6・18)
(2) 同 『ディヴィーノ・アモーレ・コンムニーティDivino Amore Communiti』(1452・7・14)
(3) 同 『ロマーヌス・ポンティフェックスRomanus Pontifex』(1454・1・8)
(4) 教皇カリスト三世『インテル・チェテラ・クエInter Caetera Quae』(1456・3・15)
ここに⑶『ロマーヌス・ポンティフェックス』を例に紹介すれば、次のように記されています―
『神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。・・・・・・
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年』」
下線部の「終身奴隷に…授与した」という文言は、上記(1)~(4)に共通した部分で、 (4) は(3)を再掲載したものだそうだ。
この(3)教書における異教徒は、時代背景からすると主にイスラム教徒との戦いを念頭に置いて書かれたものと思われるが、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布している。
この勅書の訳文は前掲の西山論文によると次のとおりである。
「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」
この勅書が、スペイン国王に絶対的支配権を与えたと解釈され、インディアスの征服が福音弘布のための「予防戦争」とみなされることになり、平和なインディオの社会が急激に崩壊していくことになるのだ。
スペイン国内においてもインディアスの扱いについて関心が高まり、ラス・カサスの地道な啓蒙活動が徐々に評価されるようになって、1537年には教皇パウルス3世がインディオを「真の人間」と認めて、たとえキリスト教徒でなくとも奴隷状態に貶めるべきでないとする勅令『スブリームス・デウス』を出している。西山氏の前掲の論文に訳文が出ている。
「インディオ、及び、キリスト教の知見に最も遅れて到達した人々も、たとえ現時点で、キリストへの信仰の外にいたとしても、自由と所有への権利を剥奪されたり、剥奪されるべき者ではない。反ってそれらは尊重されるべきであって、決して奴隷状態に貶められるべきではない。また、たとえ、そのようなことが起こったとしても、それらは無効であって、何らの効力も拘束力も有するものではない。…」
と、現代人なら誰もが納得する内容になっている。
しかし、この勅令は翌1538年に教皇パウルス3世自身が出した『 ノン・インデーチェンス・ヴィデートゥール』により撤回されている。教書の一部を紹介すると、
「…カルロ国王の尽力によって彼の地にキリストの御教えが短期間に弘布されたことに鑑み、同時に、聖なる事業の障げとなることは何物たりとも除去したいがために、使徒座の権威に基づいて、前記教書を撤回・失効・無効とし、そこに含まれるいかなる事項をも、逐語的に、撤回、失効・無効とされたと見なすよう欲する。…」
『スブリームス・デウス』が撤回された理由は、西山論文では王権からの横やりが入った旨説明されている。
それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だというのだ。
ここで日本の歴史を振り返ってみる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たのが1549年だ。大村純忠の洗礼が1562年、大友宗麟が1578年、有馬晴信が1580年。大友・大村・有馬の三氏が7遣欧少年使節を派遣したのが1582年である。この時期にはかなりの日本人奴隷が流出していた時期であり、秀吉の伴天連追放令は1587年だ。
この時期に日本に来たポルトガル人は、ローマ教皇の教書により我が国を支配する権利を付与され、日本人を奴隷にする権利を付与されていた状態にあったということになる。
例えば高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピンの同僚に送った書翰の一節が紹介されているが、そこには「シナ、日本、その他ポルトガル国民の征服に属する地域において…」という表現が使われており、わが国は「ポルトガル国民の征服に属する地域」になっている。同様な表現が他の文書にもあることが同書に紹介されているが、この言葉の意味を理解するには1494年に教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線が定められていたことを知る必要がある。下図の緑色の線がサラゴサ条約における境界線で、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。
これらの条約に基づきスペインは西回りで侵略をすすめ、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。いずれもキリスト教の神父が先兵となっているのは同じである。そして1549年に日本に上陸しキリスト教の布教が開始されたのだ。
1532年にスペインのフランシスコ・ピサロがインカ帝国をいかなる方法で攻撃したかが参考になる。
ピサロは1532年にインカ帝国皇帝アタワルパに部下と通訳と神父を送って交渉させている。神父の役割に注目である。Wikipediaの記述を引用すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91
「バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、『なぜこれは喋らない』と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣により殺された(この時使われた鉄砲はごくわずかで、スペイン人の武器の大半は剣だった)。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。」
と書かれている。アタワルパはピサロに金を大部屋1杯分、銀を2杯分提供し釈放を求めたが、幽閉されたまま絞首刑に処されたという。
この記録を読めば、バルベルデ神父が重要な役割を果たしていたことがわかる。
スペインは「贈与大勅書」により非キリスト教国を支配する権利をローマ教皇より付与されていた。従ってアタワルパがキリスト教に改宗する意思がないことを神父が見極めれば、いつでもその権利を行使してインカ帝国を堂々と侵略し、財宝をわがものにすることができるし、また住民を奴隷にすることもできるのである。現在の価値観では極めて非人道的行為ではあるが、当時に有効であった教皇の教書には全く矛盾しない行動なのだ。
日本がインカ帝国のようにならなかったのは、この当時の日本は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、天文12年(1543)に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。
以前このブログで書いた通り、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたのである。ポルトガルは日本よりも軍事的劣勢であったがゆえに、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、日本には容易に手を出せなかったのだ。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/105/
そこで彼らはキリシタン大名を育てて武器を融通し、彼らに日本を統一させようとするのだがそれも見破られて失敗した。
当時の日本に秀吉や家康のようなポルトガルの野望を見抜くリーダーがいたことも幸運であったが、もしキリスト教の伝来が天文18年(1549)ではなく、鉄砲伝来よりも20年以上早かったとしたら、日本も西洋の植民地になっていた可能性があるのではないか。少なくとも平安時代や南北朝時代の日本にキリスト教が伝来していたら、朝廷は祈祷をするばかりで簡単に征服されてしまい、インカ帝国と同様のことが起こっていても不思議ではないような気がするのだ。
新約聖書には「汝の隣人を愛せよと」いった言葉もあるのだが、旧約聖書には普通の日本人が読めば首をかしげるような言葉を目にすることがある。たとえば、
『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。』(申命記・7章16節)
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。』(同・20章・13節)
この旧約聖書の言葉を文字通り読むと、この時代のスペイン人もポルトガル人もこの言葉通りのことを行っただけだという解釈も可能だ。しかしこの言葉通りにキリスト教国が動けば、世界中がキリスト教に改宗しない限り、争い事がいつまでも繰り返されることになる理屈にならないか。
アフリカ大陸西端のゴレ島に1776年に建てられた「奴隷の家」という赤褐色の二階建ての建物がある。窓のほとんどない小部屋ばかりの一階には船に積み出しされるまでの奴隷が詰め込まれ、二階は奴隷商人である主人とその手下らの住いであったという。
1992年2月22日、この「奴隷の家」に、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「奴隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞うために」訪問されたそうだ。この記事で紹介した西山俊彦氏の『カトリック教会と奴隷貿易』の表紙にはその時の教皇の写真が掲載されている。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/JP2006.3.pdf
奴隷貿易が「キリスト教国とそれに属する人々によってなされた罪過」なのか、それとも同時に、「キリストの御名を戴く教会も関与した罪過」なのかという問いが良く発せられるのだが、ローマ教皇が奴隷貿易の謝罪のためにこの場所を訪れたという事実は、大航海時代以降のキリスト教会が奴隷貿易に関与していたことの、何よりの証になるのではないだろうか。
****************************************************************************
<転載終了>
(1) 教皇ニコラス五世『ドゥム・ディベルサスDum Diversas』(1452・6・18)
(2) 同 『ディヴィーノ・アモーレ・コンムニーティDivino Amore Communiti』(1452・7・14)
(3) 同 『ロマーヌス・ポンティフェックスRomanus Pontifex』(1454・1・8)
(4) 教皇カリスト三世『インテル・チェテラ・クエInter Caetera Quae』(1456・3・15)
ここに⑶『ロマーヌス・ポンティフェックス』を例に紹介すれば、次のように記されています―
『神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。・・・・・・
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年』」
下線部の「終身奴隷に…授与した」という文言は、上記(1)~(4)に共通した部分で、 (4) は(3)を再掲載したものだそうだ。
この(3)教書における異教徒は、時代背景からすると主にイスラム教徒との戦いを念頭に置いて書かれたものと思われるが、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布している。
この勅書の訳文は前掲の西山論文によると次のとおりである。
「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」
この勅書が、スペイン国王に絶対的支配権を与えたと解釈され、インディアスの征服が福音弘布のための「予防戦争」とみなされることになり、平和なインディオの社会が急激に崩壊していくことになるのだ。
スペイン国内においてもインディアスの扱いについて関心が高まり、ラス・カサスの地道な啓蒙活動が徐々に評価されるようになって、1537年には教皇パウルス3世がインディオを「真の人間」と認めて、たとえキリスト教徒でなくとも奴隷状態に貶めるべきでないとする勅令『スブリームス・デウス』を出している。西山氏の前掲の論文に訳文が出ている。
「インディオ、及び、キリスト教の知見に最も遅れて到達した人々も、たとえ現時点で、キリストへの信仰の外にいたとしても、自由と所有への権利を剥奪されたり、剥奪されるべき者ではない。反ってそれらは尊重されるべきであって、決して奴隷状態に貶められるべきではない。また、たとえ、そのようなことが起こったとしても、それらは無効であって、何らの効力も拘束力も有するものではない。…」
と、現代人なら誰もが納得する内容になっている。
しかし、この勅令は翌1538年に教皇パウルス3世自身が出した『 ノン・インデーチェンス・ヴィデートゥール』により撤回されている。教書の一部を紹介すると、
「…カルロ国王の尽力によって彼の地にキリストの御教えが短期間に弘布されたことに鑑み、同時に、聖なる事業の障げとなることは何物たりとも除去したいがために、使徒座の権威に基づいて、前記教書を撤回・失効・無効とし、そこに含まれるいかなる事項をも、逐語的に、撤回、失効・無効とされたと見なすよう欲する。…」
『スブリームス・デウス』が撤回された理由は、西山論文では王権からの横やりが入った旨説明されている。
それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だというのだ。
ここで日本の歴史を振り返ってみる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たのが1549年だ。大村純忠の洗礼が1562年、大友宗麟が1578年、有馬晴信が1580年。大友・大村・有馬の三氏が7遣欧少年使節を派遣したのが1582年である。この時期にはかなりの日本人奴隷が流出していた時期であり、秀吉の伴天連追放令は1587年だ。
この時期に日本に来たポルトガル人は、ローマ教皇の教書により我が国を支配する権利を付与され、日本人を奴隷にする権利を付与されていた状態にあったということになる。
例えば高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピンの同僚に送った書翰の一節が紹介されているが、そこには「シナ、日本、その他ポルトガル国民の征服に属する地域において…」という表現が使われており、わが国は「ポルトガル国民の征服に属する地域」になっている。同様な表現が他の文書にもあることが同書に紹介されているが、この言葉の意味を理解するには1494年に教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線が定められていたことを知る必要がある。下図の緑色の線がサラゴサ条約における境界線で、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。
これらの条約に基づきスペインは西回りで侵略をすすめ、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。いずれもキリスト教の神父が先兵となっているのは同じである。そして1549年に日本に上陸しキリスト教の布教が開始されたのだ。
1532年にスペインのフランシスコ・ピサロがインカ帝国をいかなる方法で攻撃したかが参考になる。
ピサロは1532年にインカ帝国皇帝アタワルパに部下と通訳と神父を送って交渉させている。神父の役割に注目である。Wikipediaの記述を引用すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91
「バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、『なぜこれは喋らない』と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣により殺された(この時使われた鉄砲はごくわずかで、スペイン人の武器の大半は剣だった)。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。」
と書かれている。アタワルパはピサロに金を大部屋1杯分、銀を2杯分提供し釈放を求めたが、幽閉されたまま絞首刑に処されたという。
この記録を読めば、バルベルデ神父が重要な役割を果たしていたことがわかる。
スペインは「贈与大勅書」により非キリスト教国を支配する権利をローマ教皇より付与されていた。従ってアタワルパがキリスト教に改宗する意思がないことを神父が見極めれば、いつでもその権利を行使してインカ帝国を堂々と侵略し、財宝をわがものにすることができるし、また住民を奴隷にすることもできるのである。現在の価値観では極めて非人道的行為ではあるが、当時に有効であった教皇の教書には全く矛盾しない行動なのだ。
日本がインカ帝国のようにならなかったのは、この当時の日本は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、天文12年(1543)に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。
以前このブログで書いた通り、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたのである。ポルトガルは日本よりも軍事的劣勢であったがゆえに、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、日本には容易に手を出せなかったのだ。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/105/
そこで彼らはキリシタン大名を育てて武器を融通し、彼らに日本を統一させようとするのだがそれも見破られて失敗した。
当時の日本に秀吉や家康のようなポルトガルの野望を見抜くリーダーがいたことも幸運であったが、もしキリスト教の伝来が天文18年(1549)ではなく、鉄砲伝来よりも20年以上早かったとしたら、日本も西洋の植民地になっていた可能性があるのではないか。少なくとも平安時代や南北朝時代の日本にキリスト教が伝来していたら、朝廷は祈祷をするばかりで簡単に征服されてしまい、インカ帝国と同様のことが起こっていても不思議ではないような気がするのだ。
新約聖書には「汝の隣人を愛せよと」いった言葉もあるのだが、旧約聖書には普通の日本人が読めば首をかしげるような言葉を目にすることがある。たとえば、
『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。』(申命記・7章16節)
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。』(同・20章・13節)
この旧約聖書の言葉を文字通り読むと、この時代のスペイン人もポルトガル人もこの言葉通りのことを行っただけだという解釈も可能だ。しかしこの言葉通りにキリスト教国が動けば、世界中がキリスト教に改宗しない限り、争い事がいつまでも繰り返されることになる理屈にならないか。
アフリカ大陸西端のゴレ島に1776年に建てられた「奴隷の家」という赤褐色の二階建ての建物がある。窓のほとんどない小部屋ばかりの一階には船に積み出しされるまでの奴隷が詰め込まれ、二階は奴隷商人である主人とその手下らの住いであったという。
1992年2月22日、この「奴隷の家」に、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「奴隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞うために」訪問されたそうだ。この記事で紹介した西山俊彦氏の『カトリック教会と奴隷貿易』の表紙にはその時の教皇の写真が掲載されている。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/JP2006.3.pdf
奴隷貿易が「キリスト教国とそれに属する人々によってなされた罪過」なのか、それとも同時に、「キリストの御名を戴く教会も関与した罪過」なのかという問いが良く発せられるのだが、ローマ教皇が奴隷貿易の謝罪のためにこの場所を訪れたという事実は、大航海時代以降のキリスト教会が奴隷貿易に関与していたことの、何よりの証になるのではないだろうか。
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<転載終了>