てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3156057.html
<転載開始>
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寒い日が続きますね、読者の皆様いかがお過ごしでしょうか?
お風邪など召されてませんか?

こんな日には生の酵母菌が生きている米麹の甘酒などを沸騰する前に火をとめ暖めて飲むと昨今の世相に冷え切った心も(?)体も、ぽかぽかと温まりそうです。

さて、私の大好きな、出口王仁三郎作「基本宣伝歌」の一節には「神が表に現れて、善と悪とを立分ける」という有名な言葉があります。この言葉を見る度に今、上の方で悪いことと知りつつお金の為に多くの庶民の命を削るような政策を進めたり、せっかく戦後の大改革で国民が得た数々の権利を無にするような法律を作らせたり、公約やマニフェストをカエルの面にションベンで平気で破ったり、国民の涙で贅沢をしようとする人は、必ず、必ず、神さまからの御裁きを得ると信じつつ、今の政治家や官僚の方々の国民に対する信じられないような裏切り行為に落ち込む心を励ましつつ、久しぶりの記事更新をさせて頂きます。

今日は前回のお約束通り、王仁三郎の思想の根幹の一つである「相応の理」について書かれた文章をご紹介したいと思います。

「相応の理」では霊界が主で現界が従なのですが、現界で自分が行った行為も霊界に顕れるということでもあるということも言える様で、すごく簡単かつ乱暴な言い方をすると閻魔帳的事象は存在するんだろうということです。

だから、「悪を抱き参らせる」等という今流行の言葉を信じていると人間本来が持っている「恥じる、悔いる」と言った心を無理やり黙らせて、破廉恥な行為を正当化する方向に導かれてしまうのではないかと個人的には感じている今日この頃です。

王仁三郎の『霊界物語』や密教の教典などには平凡な人間からみると吃驚するような事が書かれている箇所があるかとは思いますが(密教の理趣経などでは性行為を通しても悟りを解説する行があるようですね)、そのような個所は凡人がそのまま読むと間違いの基であって、だからこそ、理趣経は密教では入門者や初心者には読ませないし、『霊界物語』の神々の自由恋愛とも取れる表現に見て取れる『天祥地瑞』について、王仁三郎は『霊界物語』の73巻までを3回以上読まないと読んではいけないと言っていたこともあるそうです。

ヒンズー教の密教にタントラ教というものがあるそうですが、これも門外漢や部外者から見れば最高の教えが性行為を通して表現されるような箇所があり、実際に究極の修行を積んだ僧や尼僧には稀にそのような行為を修行として行わせることもあったようですが、時代が下るにつれ破壊僧や凡人の欲の隠れ蓑になってしまったりして教え自体が歪められ、偏見を持って見られ、廃れてしまったということもあったようです。

王仁三郎の教えは非常に明るく、心に天国を築くことが大切だと説かれていたり、善悪の基準も時代や場所、状況に応じて必ずしも一定とは言えないと説かれている所もありますが、自ら悪と感じる行為をしてしまっても善悪の基準は一定じゃないから、とか悪を抱き参らせるから、などと自分に言い訳をして、自らの良心を裏切ることを推奨することはしていません。

そんなことをすると「自らの心の鬼が自分を責める」ことになってしまい、良心に嘘をついた時の嫌な気持ちを無理に忘れようとしても自らの心に天国を築くことにはならないのではないかと思います。

悪いと、自分で思う事をしたときは「宣り直す(のりなおす)」と言って速やかに過ちを認め、謝罪することが推奨されています。

また、王仁三郎自身が大正10年以降は神がかりを禁止としていることや、真の遺言を遺していることなど過去記事にも書いておりますので、是非「王仁三郎は実はこういっていた」とか「実は密かにある人に遺言を遺していた」などという言葉には惑わされませんように。

王仁三郎は遺言には「スの拇印」と呼ばれる○に・が入ったように見える自らの拇印を全ページに押印して本物かどうかが分かるように遺してくれています。王仁三郎は、その本物の遺言の中で『霊界物語』を読むことだけは何が有っても決して辞めてはいけないと、熱心に書き残しているという事を是非知って頂きたいと思います。

その『霊界物語』には、この「相応の理」という考え方が色々な形で表現されています、物語の登場人物に語らせたり、物語の全体を読むと分かるようになっていたり、直接的に「相応の理」を解説する文章があったりという具合です。

では「相応の理」の基本をご紹介するにあたり、私が霊界物語を読む以前に王仁三郎の思想について書かれた本を乱読していた時期に「これは!」と思った本から少し抜粋してみたいと思います。

以前のブログ記事で、ご紹介した王仁三郎の孫にあたる出口和明氏が作家としてデビューしてからしばらく使っていたペンネームである十和田龍の名前で出版された『出口王仁三郎の神の活哲学』(御茶の水書房から1986年刊行) からの引用です。

小説家 十和田龍、(出口和明氏)が王仁三郎の『霊界物語』やその他の著書を丹念に読み込んで咀嚼した内容を王仁三郎の言葉を引用しながら現代人にとっても分かり易く解説してくれている良書です。まだ『霊界物語』や王仁三郎の著書を読んだことが無いけれど王仁三郎の思想の概要について把握したいと云う人にとって最良の書ではないかと思います。

(引用開始)

第四章 相応の理 

●霊界は宇宙の実体界

霊界は宇宙の実体界で、現界は 霊界の移写(いしゃ)、つまり映像の世界である。

ヒンズー教では、この宇宙の創造はブラフマン(引用註:ヒンズー教の最高神の一柱で創造の神。仏教で云う「梵天」)の遊戯だといい、この世は神によって作り出されたマーヤ(幻影)だという考え方がある。仮の世というのも仏教の影響であろうが、日本人の多くに普遍化した思い方だ。

一方、唯物論者は 霊界とか天国は人間の創造力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。

王仁三郎によれば、幽界と顕界との間は、
相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれに相似のものがあるという。

「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神(かんながら)の順序によって、相応なるものがある。また人間の万事と天界の事物との間には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」『霊界物語』四十八巻十章「天国の富」
(引用註:王仁三郎による当該箇所の口述日= 大正十二年一月十三日 旧暦大正11年11月27日)

自然界とは、王仁三郎の定義によれば、
「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」『霊界物語』四十七巻二十一章「跋文」
(引用註:王仁三郎による当該箇所の口述日=大正一二年一月十日 旧歴大正11年11月24日)
だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の一切の事物の有力因(ゆうりょくいん=原動力)は霊界にある。

神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを王仁三郎は用(よう)と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が形体として実現する。

たとえば日常のこまごまとした用の積み重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、鳥や獣はそれなりのやり方で、用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。

神が宇宙を想像したとき、まず幽の幽なる霊界を創り、その用を発揮して、顕の幽、顕の顕なる現界を創った。

(引用註:幽の幽等の用語の概要を説明すると…目に見えないより微細な世界や事象から現実世界のより具体的世界に至る段階を4段階にして説明する時ににもっとも微妙な世界から最も具体的世界への段階として 「幽の幽」→「幽の顕」→「顕の幽」→「顕の顕」)

霊界と現界の間には「相応の理」なる法則が確立し、霊界事物と自然界事物との相応は、神の用によってつながる。ということは、霊界がなくなったら、自然界における一切の事物もまた存在し得ないのだ。

相応の 理に造られし世の中は 現界霊界 同一なりけり
現界に ありしことごと 霊界に 相応すると 思へば恐ろし
(歌:出口王仁三郎)

(引用終わり)

聖師様3
今日も最後までお読み頂き有難うございました。
<転載終了>