てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3914439.html
<転載開始>
王仁三郎の思想 脱原発・放射能汚染の真実 
王仁三郎近影(昭和10年頃)
今日は3月11日。
2011年3月11日から丁度1年です。
あの日、PCのライブ画像を通して、平和な街や村、堅牢な現代建築や車両、そして大地が、津波に呑み込まれて行くのを見て凍りついたかのように画面にくぎ付けになったのは私だけではなかったでしょう。
私はその映像を見ながら出口王仁三郎が作った『基本宣伝歌』を繰り返し、繰り返し、頭の中で、そしていつしか気づかず、小声で呟いていました。(下記は、一行づつ左から右端まで続けて読みます。)
あの日を境に多くの人と日本、そして世界の運命が変ってしまいました。
この1年、多くの方がもがき、苦しみ、闘い、声を上げ、意識を変革し、行動を起こしてきましたが、まだまだ曲津神(邪神や悪魔)に心を奪われたままの権力者や、お金に目が眩んだままの我利我利亡者が国を動かし、多くの人の運命、命、健康をあらぬ方向へと誤導している現実は変わっていないようです。
この苦しい一年での唯一の光明は、これまで他人に蔑まれようが、キチガイと罵られようが自らを信じ、家族や子供、隣人の命や健康を何物にも代えがたいと気付き、意識を変革し、行動を起こした人が少なからず増えているように思えることです。
『大本神諭』に言う、「強いもの勝ち、我良し、獣の世」である事が赤裸々に、311の大災害と放射能汚染への日本人の対応を通して浮かび上がっているように感じられます。
現在の政府や官僚や東電と密接に結び付いている大企業や「食べて応援」PRを推進する大広告会社等の国民の命や健康よりも己の富と自己保身を優先する「我良し」の心が今まさに浮彫になり、これに気付いた多くの人がこれまでの来し方を改めようとしているようです。
王仁三郎が阪神淡路大震災を予言したとされる『霊界物語』第69巻にはこのような和歌があり、私は長年納得がいかなったものです:
天地(あめつち)の 神の 恵みの深ければ 世を 守らむと 地震 至る
(引用元拙ブログ記事:
何故、天地の神の恵みが深いが故にあのような悲惨な大震災を起こし、それが世を守るためになるのかと。
しかし、阪神淡路大震災や 311の複合大災害を経て、日本社会の暗部の真実の姿がより鮮明になるにつれ「神の恵みの深ければ世を守らむと地震至る」の意味を感じることができるようになってきたような気がするのです。
政府や大企業などの「悪」とも取れる、呆れる程人命や国民の健康を蔑にするかのような政策や施策を見聞きする一方で多くの国民が原発の危険性に気付き、行き過ぎた拝金主義に疑問を持ち、脱原発デモや、俳優の山本太郎さんが関わることで有名になった福島のこども達を救出するプロジェクト、そして伝統的宗教団体も昨年の原発事故後、2,3か月頃から続々と脱原発の方針を表明して来ました。(曹洞宗や浄土真宗をはじめ日本仏教各宗派、団体や、キリスト教各種団体、神道諸教会、各派も相次いで原発継続に反対か、疑問を投げかけ、福島の子供に対する懸念を表明して来ているようです。)
上掲の基本宣伝歌の一節にある、「神が表に現れて善と悪とを立て別ける」とは当にこのようなことを言うのではないかと感じてしまいました。
王仁三郎は人間には生まれながらに神の御分霊が備わっていて自然に善悪の判断はできるものであるという考えから人間の精神を雁字搦めにするような厳しい戒律を説くことはありませんが、我々個人は世相や社会の動きを見て自ら自律的に判断を迫られる、善悪の分水嶺に立たされているのだと、私は思います。
王仁三郎の思想には、「善悪一如」「刹那心」と 言うものがありますが、これは一人一人の人間、個人では何が本当の「善か悪か」社会的制約や時代の制約、または立場や事情の違いで善悪の基準を判断することは難しい、人間はその場、その時、一刹那毎に最善を尽くすことしかできないというものです。
(「食べて応援」や「絆で放射能瓦礫拡散」、未成年の殺人犯への死刑求刑等、簡単に善悪正邪を判断できない事例でしょう。)
人間に判断できかねる善悪正邪の基準は「今、自分の行動が長期的、より大きな視野においても有害なものにならないよう」神仏に祈りながら決断し、それに基づいて行動するしかないのだと思います。
このブログをご高覧頂いている読者の方は、今の政府や自治体や企業の恐ろしいまでの拝金主義的政策を憂慮し、怒りさえ感じている方や、またこの先の日本はどうなるのか、我々の生活環境は大丈夫なのか、子供達の将来はどうなるのかと不安と恐怖と闘っている方も多いと思います。
放射能汚染食品や瓦礫が全国に拡散され、日本全国が汚染されようとしている今、我々はできる限りの平和的抵抗と自己防衛ををして、あとの結果は神に任せる、「復讐するは神にあり*」というキリスト教の聖書の一節のような心境になることも個人の精神衛生上、大切なことだと思います。
(*註: 復讐したい程の酷い仕打ちを受けても、復讐、攻撃するような悪い心、行動をするのではなく、神に任せておけば自然に然るべき結果に落ち着くという事)
今日は最後に、自分の中で最善を尽くしながらも、個人の手に負えない所は悩み過ぎず、神に任せなさい、という王仁三郎の言葉をご紹介させて頂きます。
愛と善の世界
愛ということになって来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛というものは千里ほど向こうに行ってしまっておる。また神様が罰するとか戒めるとかいうようなことがあれば、神そのものの御神格というものは、千里ほど向こうに脱出してしまっているのである。
この世の中は愛と善とで固まっている世の中でありますから、何事も総て愛善の神様にまかして、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎ越し苦労をしないよう-過ぎ越し苦労というものは、すんでしまってからのことである。
あいつはああいうことを言いよったとか、あいつのかたきをとらんならんとか、ああせなんだら今まで大分財産もできておったのにと、いうようなことで、また取り越し苦労をして、明日のことを明日はどうしようかと考えておってもしかたがない。
千里の路を行くのにも、左の足から右の足という風に出して行けばよい。行くところは東京なら東京と決めて置いて、一足ひと足を注意して行く。積極的刹那心をもって進んで行く。そうすれば影が形に伴うごとく、愛善の心が起こって来る。
取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の欲も起こって来ぬ。怨恨も忘れて来る。また妙な欲望もなくなる。それが惟神の精神である。(『愛善苑』 昭和25年一月号)
〇進むのみ ただ一心に進むのみ 積極主義の愛善の道
(引用元:みいづ舎刊 出口王仁三郎著 『瑞言集』より)

今日も最後までお読み頂き誠に有難うございました。
<転載終了>
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3914439.html
<転載開始>

王仁三郎近影(昭和10年頃)
今日は3月11日。
2011年3月11日から丁度1年です。
あの日、PCのライブ画像を通して、平和な街や村、堅牢な現代建築や車両、そして大地が、津波に呑み込まれて行くのを見て凍りついたかのように画面にくぎ付けになったのは私だけではなかったでしょう。
私はその映像を見ながら出口王仁三郎が作った『基本宣伝歌』を繰り返し、繰り返し、頭の中で、そしていつしか気づかず、小声で呟いていました。(下記は、一行づつ左から右端まで続けて読みます。)
たとへ | |
まことの | |
この | |
この | |
ただ | |
あの日を境に多くの人と日本、そして世界の運命が変ってしまいました。
この1年、多くの方がもがき、苦しみ、闘い、声を上げ、意識を変革し、行動を起こしてきましたが、まだまだ曲津神(邪神や悪魔)に心を奪われたままの権力者や、お金に目が眩んだままの我利我利亡者が国を動かし、多くの人の運命、命、健康をあらぬ方向へと誤導している現実は変わっていないようです。
この苦しい一年での唯一の光明は、これまで他人に蔑まれようが、キチガイと罵られようが自らを信じ、家族や子供、隣人の命や健康を何物にも代えがたいと気付き、意識を変革し、行動を起こした人が少なからず増えているように思えることです。
『大本神諭』に言う、「強いもの勝ち、我良し、獣の世」である事が赤裸々に、311の大災害と放射能汚染への日本人の対応を通して浮かび上がっているように感じられます。
現在の政府や官僚や東電と密接に結び付いている大企業や「食べて応援」PRを推進する大広告会社等の国民の命や健康よりも己の富と自己保身を優先する「我良し」の心が今まさに浮彫になり、これに気付いた多くの人がこれまでの来し方を改めようとしているようです。
王仁三郎が阪神淡路大震災を予言したとされる『霊界物語』第69巻にはこのような和歌があり、私は長年納得がいかなったものです:
天地(あめつち)の
(引用元拙ブログ記事:
出口王仁三郎の大予言:1995年の阪神淡路大震災)
何故、天地の神の恵みが深いが故にあのような悲惨な大震災を起こし、それが世を守るためになるのかと。
しかし、阪神淡路大震災や 311の複合大災害を経て、日本社会の暗部の真実の姿がより鮮明になるにつれ「神の恵みの深ければ世を守らむと地震至る」の意味を感じることができるようになってきたような気がするのです。
政府や大企業などの「悪」とも取れる、呆れる程人命や国民の健康を蔑にするかのような政策や施策を見聞きする一方で多くの国民が原発の危険性に気付き、行き過ぎた拝金主義に疑問を持ち、脱原発デモや、俳優の山本太郎さんが関わることで有名になった福島のこども達を救出するプロジェクト、そして伝統的宗教団体も昨年の原発事故後、2,3か月頃から続々と脱原発の方針を表明して来ました。(曹洞宗や浄土真宗をはじめ日本仏教各宗派、団体や、キリスト教各種団体、神道諸教会、各派も相次いで原発継続に反対か、疑問を投げかけ、福島の子供に対する懸念を表明して来ているようです。)
上掲の基本宣伝歌の一節にある、「神が表に現れて善と悪とを立て別ける」とは当にこのようなことを言うのではないかと感じてしまいました。
王仁三郎は人間には生まれながらに神の御分霊が備わっていて自然に善悪の判断はできるものであるという考えから人間の精神を雁字搦めにするような厳しい戒律を説くことはありませんが、我々個人は世相や社会の動きを見て自ら自律的に判断を迫られる、善悪の分水嶺に立たされているのだと、私は思います。
王仁三郎の思想には、「善悪一如」「刹那心」と 言うものがありますが、これは一人一人の人間、個人では何が本当の「善か悪か」社会的制約や時代の制約、または立場や事情の違いで善悪の基準を判断することは難しい、人間はその場、その時、一刹那毎に最善を尽くすことしかできないというものです。
(「食べて応援」や「絆で放射能瓦礫拡散」、未成年の殺人犯への死刑求刑等、簡単に善悪正邪を判断できない事例でしょう。)
人間に判断できかねる善悪正邪の基準は「今、自分の行動が長期的、より大きな視野においても有害なものにならないよう」神仏に祈りながら決断し、それに基づいて行動するしかないのだと思います。
このブログをご高覧頂いている読者の方は、今の政府や自治体や企業の恐ろしいまでの拝金主義的政策を憂慮し、怒りさえ感じている方や、またこの先の日本はどうなるのか、我々の生活環境は大丈夫なのか、子供達の将来はどうなるのかと不安と恐怖と闘っている方も多いと思います。
放射能汚染食品や瓦礫が全国に拡散され、日本全国が汚染されようとしている今、我々はできる限りの平和的抵抗と自己防衛ををして、あとの結果は神に任せる、「復讐するは神にあり*」というキリスト教の聖書の一節のような心境になることも個人の精神衛生上、大切なことだと思います。
(*註: 復讐したい程の酷い仕打ちを受けても、復讐、攻撃するような悪い心、行動をするのではなく、神に任せておけば自然に然るべき結果に落ち着くという事)
今日は最後に、自分の中で最善を尽くしながらも、個人の手に負えない所は悩み過ぎず、神に任せなさい、という王仁三郎の言葉をご紹介させて頂きます。
愛と善の世界
愛ということになって来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛というものは千里ほど向こうに行ってしまっておる。また神様が罰するとか戒めるとかいうようなことがあれば、神そのものの御神格というものは、千里ほど向こうに脱出してしまっているのである。
この世の中は愛と善とで固まっている世の中でありますから、何事も総て愛善の神様にまかして、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎ越し苦労をしないよう-過ぎ越し苦労というものは、すんでしまってからのことである。
あいつはああいうことを言いよったとか、あいつのかたきをとらんならんとか、ああせなんだら今まで大分財産もできておったのにと、いうようなことで、また取り越し苦労をして、明日のことを明日はどうしようかと考えておってもしかたがない。
千里の路を行くのにも、左の足から右の足という風に出して行けばよい。行くところは東京なら東京と決めて置いて、一足ひと足を注意して行く。積極的刹那心をもって進んで行く。そうすれば影が形に伴うごとく、愛善の心が起こって来る。
取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の欲も起こって来ぬ。怨恨も忘れて来る。また妙な欲望もなくなる。それが惟神の精神である。(『愛善苑』 昭和25年一月号)
〇進むのみ ただ一心に進むのみ 積極主義の愛善の道
(引用元:みいづ舎刊 出口王仁三郎著 『瑞言集』より)

今日も最後までお読み頂き誠に有難うございました。
<転載終了>