てんさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3929386.html
<転載開始>
王仁三郎の思想 霊界物語 
今日の作品は王仁三郎による菩提達磨大師像です。
まだまだ寒い日が続きますが皆様お元気でお過ごしでしょうか?
さて、昨日は311の一周忌ということで記事を連続3投稿しましたが今回
もこのブログとしては珍しく連日の投稿をさせて頂きます。
昨年の複合大災害や放射能汚染の拡散により、これまでもよりも「死」
が身近に感じられるようになってしまった方が増えているようです。
今回は、そんな、死に直面せざるを得ないという心境の方々にお読み
頂きたい、出口王仁三郎の文章を紹介させて頂きます。
死に直面しての安心立命
死というものは、人間にとってはもっとも大切なる大峠である、階段である。
霊肉分離の時をもって、普通一般に死だという。いかなる思想、いかなる境遇の人間も、死というものの境界に思いをいたした時は、なんらかの感慨にうたれないものはない。虚心虚無の境に入ったと平素いっている悟道者もまたそうとうの寂しみを有するのがつねである。いわんや俗人においておや。現世にたいして執着の感想を強うするとともに、行く末にたいしての欲求が沛然(はいぜん)として抬頭(たいとう)してくるだろう。
かなりの屁理屈をさえずって飯を食っている間は、別にその本心に衝動はないが、さて口でこそいろいろと強そうなことを言っていても、それがいよいよ何日の何時に汝の生命いな肉体は破滅すると断定された時には、人、相当の想いをいたすは事実である。
それが各人各様に、そうした事実が運命づけられていながら、明らかでないからよいようなものの、的確に断定されたら、かなり強烈なる衝動を感ずるであろう。万事は天運とあきらめてみようと思っても、それは生に対する欲求があまりに強いためにできにくい。
未来は天国へいって復活するという確信があっても、それが時間的に断定されたら、どうしても心魂がぐらついてくる。死の境に直面して、真個に微笑してゆくと言う人は、真の信者のほかには断じてないだろう。一段の宗教家らしい人も信仰者も、精神修養者も道徳体験者も、既成宗教のいずれの派の信徒も、真個に微笑して心から嬉しく楽しんでにこやかに死につくものはない。
ゆえに吾人は地上一般の人々にたいして、この大問題を解決し、心の底から安心立命させたいがため、日夜の活動をつづけているのである。
朝夕の教会もうでも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、かねをたたいて読経するのも、悪いことではない。それはただ信仰の行程であって、百万億土に極楽浄土があって、そこへ行ったら蓮華の台にのせられて、百味の飲食(おんじき)がえられると無我に信ずることができて、木仏、金仏、石仏、絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることのできる者は幸福者だが、現代の人間はそういう絶対他力の安心のできがたいものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめこんでいるものも、かならず助けてもらえると絶対他力の帰依者も、いよいよ死という一段に想いをいたした時はぐらついてくるものが多い。
あれほど信心深い同行(どうぎょう=註:念仏修行者、浄土教門徒のこと)でさえということがある。極楽浄土から便りのあったものは今に一人もない。ただ信ぜよ弥陀(みだ=阿弥陀仏)をキリストをといっても、それはあまりに安すぎて受けとりにくい者が多い。
こう思い考えてみると、真個に信心のできたものが幾人あるだろうか。それを思って自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとするために努力しているのである。(『神の国』昭和3年10月)
天国の富
…「モシ五三公(いそこう)さま、もしも私が天国へ霊肉脱離の後、上ることを得ましたならば、定めて貧乏人でしょうな」
「アゝそうでしょう、ただ今すぐに天国の住民となられるようなことがあれば、あなたはやはり第三天国の極貧者でしょう。しかし、ふたたび現界に帰り、無形の宝という善の宝を十分お積みになれば、天国の宝となり、名誉と光栄の生涯を永遠に送ることが出来ましょう」
「それでは聖言に、貧しき者は幸いなるかな、富める者の天国に到るは、針の穴を駱駝(ラクダ)の通うよりも難し、というじゃありませぬか」
「貧しき者は常に心驕らず、神の教えに頼り、神の救いを求め、尊き聖言が、比較的耳に入りやすうございますが、地上において何不自由なく財産のあるものは、知らず知らずに神の恩寵を忘れ、自己愛に流れやすいものですから、その財産が汚穢(おえ)となり、暗黒となり、あるいは鬼となって地獄へ落とし行くものです。もしも富者にして神のために尽くし、また社会のために陰徳(いんとく)を積むならば、天国に上り得るの便利は貧者よりも多いかも知れませぬが、世の中はようしたもので、富者の天国に来るものは、聖言に示されたるごとく稀(まれ)なものです。その財産を悪用して人の利益を壟断(ろうだん)し、あるいは邪悪を遂行し、淫慾(いんよく)に耽(ふけ)り、心身を汚し損ない、ついに霊的不具者となって、たいてい地獄に落つるものです。たとえ天国に上り得るにしても、天国における極貧者です」 (引用元:『霊界物語』第48巻第十章「天国の富」大正11年1月13日)

今日も最後までお読み頂きまして
誠に有難うございました。
<転載終了>
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3929386.html
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今日の作品は王仁三郎による菩提達磨大師像です。
まだまだ寒い日が続きますが皆様お元気でお過ごしでしょうか?
さて、昨日は311の一周忌ということで記事を連続3投稿しましたが今回
もこのブログとしては珍しく連日の投稿をさせて頂きます。
昨年の複合大災害や放射能汚染の拡散により、これまでもよりも「死」
が身近に感じられるようになってしまった方が増えているようです。
今回は、そんな、死に直面せざるを得ないという心境の方々にお読み
頂きたい、出口王仁三郎の文章を紹介させて頂きます。
死に直面しての安心立命
死というものは、人間にとってはもっとも大切なる大峠である、階段である。
霊肉分離の時をもって、普通一般に死だという。いかなる思想、いかなる境遇の人間も、死というものの境界に思いをいたした時は、なんらかの感慨にうたれないものはない。虚心虚無の境に入ったと平素いっている悟道者もまたそうとうの寂しみを有するのがつねである。いわんや俗人においておや。現世にたいして執着の感想を強うするとともに、行く末にたいしての欲求が沛然(はいぜん)として抬頭(たいとう)してくるだろう。
かなりの屁理屈をさえずって飯を食っている間は、別にその本心に衝動はないが、さて口でこそいろいろと強そうなことを言っていても、それがいよいよ何日の何時に汝の生命いな肉体は破滅すると断定された時には、人、相当の想いをいたすは事実である。
それが各人各様に、そうした事実が運命づけられていながら、明らかでないからよいようなものの、的確に断定されたら、かなり強烈なる衝動を感ずるであろう。万事は天運とあきらめてみようと思っても、それは生に対する欲求があまりに強いためにできにくい。
未来は天国へいって復活するという確信があっても、それが時間的に断定されたら、どうしても心魂がぐらついてくる。死の境に直面して、真個に微笑してゆくと言う人は、真の信者のほかには断じてないだろう。一段の宗教家らしい人も信仰者も、精神修養者も道徳体験者も、既成宗教のいずれの派の信徒も、真個に微笑して心から嬉しく楽しんでにこやかに死につくものはない。
ゆえに吾人は地上一般の人々にたいして、この大問題を解決し、心の底から安心立命させたいがため、日夜の活動をつづけているのである。
朝夕の教会もうでも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、かねをたたいて読経するのも、悪いことではない。それはただ信仰の行程であって、百万億土に極楽浄土があって、そこへ行ったら蓮華の台にのせられて、百味の飲食(おんじき)がえられると無我に信ずることができて、木仏、金仏、石仏、絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることのできる者は幸福者だが、現代の人間はそういう絶対他力の安心のできがたいものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめこんでいるものも、かならず助けてもらえると絶対他力の帰依者も、いよいよ死という一段に想いをいたした時はぐらついてくるものが多い。
あれほど信心深い同行(どうぎょう=註:念仏修行者、浄土教門徒のこと)でさえということがある。極楽浄土から便りのあったものは今に一人もない。ただ信ぜよ弥陀(みだ=阿弥陀仏)をキリストをといっても、それはあまりに安すぎて受けとりにくい者が多い。
こう思い考えてみると、真個に信心のできたものが幾人あるだろうか。それを思って自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとするために努力しているのである。(『神の国』昭和3年10月)
天国の富
…「モシ五三公(いそこう)さま、もしも私が天国へ霊肉脱離の後、上ることを得ましたならば、定めて貧乏人でしょうな」
「アゝそうでしょう、ただ今すぐに天国の住民となられるようなことがあれば、あなたはやはり第三天国の極貧者でしょう。しかし、ふたたび現界に帰り、無形の宝という善の宝を十分お積みになれば、天国の宝となり、名誉と光栄の生涯を永遠に送ることが出来ましょう」
「それでは聖言に、貧しき者は幸いなるかな、富める者の天国に到るは、針の穴を駱駝(ラクダ)の通うよりも難し、というじゃありませぬか」
「貧しき者は常に心驕らず、神の教えに頼り、神の救いを求め、尊き聖言が、比較的耳に入りやすうございますが、地上において何不自由なく財産のあるものは、知らず知らずに神の恩寵を忘れ、自己愛に流れやすいものですから、その財産が汚穢(おえ)となり、暗黒となり、あるいは鬼となって地獄へ落とし行くものです。もしも富者にして神のために尽くし、また社会のために陰徳(いんとく)を積むならば、天国に上り得るの便利は貧者よりも多いかも知れませぬが、世の中はようしたもので、富者の天国に来るものは、聖言に示されたるごとく稀(まれ)なものです。その財産を悪用して人の利益を壟断(ろうだん)し、あるいは邪悪を遂行し、淫慾(いんよく)に耽(ふけ)り、心身を汚し損ない、ついに霊的不具者となって、たいてい地獄に落つるものです。たとえ天国に上り得るにしても、天国における極貧者です」 (引用元:『霊界物語』第48巻第十章「天国の富」大正11年1月13日)

今日も最後までお読み頂きまして
誠に有難うございました。
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「政府は」を「中国や台湾に弾圧されている日本政府は」に変換すると、辻褄が合う。
「議事録無し」がいかにも中国らしい。