すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_2
<転載開始>

 日と月とミロクの関係を更に詳しく解説するために、時節の要にして鍵にして基点であり、旧九月八日がミロクの世の始まりであることが明かされている“天子様の年齢”を再び引用します。

「五十二才(ツキ)の世の始、五十六才七ヶ月ミロクの世」 『黄金の巻』 第五十四帖 [565]

 この記述では、天子様が五十六才七ヶ月の時に「ミロクの世」になる他に、五十二才の時から「二の世」が始まることが述べられています。日月神示の原文の“二”は「ツギ」や「ツキ」と訓む場合が非常に多く、天子様の年齢では どちらの訓み方をしても本質的な意味は変わりません。むしろ、二つの訓み方をして照らし合わせることにより、双方の固有の意味が更に鮮明に浮かび上がるようになっています。このような相互補完の関係にある言葉が【(つぎ)の世】と【(つき)の世】です。

 まずは“次の世”としての意味から考察します。

 日月神示の説く次の世とは、基本的に「八方的世界の()()()()()十方的世界」のことです。数霊的に表現すれば、八方的世界は“一二三四五六七八の世”のことであり、十方的世界は“一二三四五六七八九十の世”のことです。

 現在の八方的世界が十方的世界に切り替わる時期については、()()“大別的な区分”“個別的な区分”の二つの視点が提示されており、両者には十二年の時間差(タイムラグ)があります。神の大望である十方的世界が始まるのは個別的な区分では2024年からですが、天子様の年齢によると大別的な区分では2012年から始まることになります。これは“三十年の立替え”を解説していない現段階では納得し難いことかもしれませんが、時節の全体像から見る限り、2012年が大別的な区分での節目の年なのです。

 そして、天子様の年齢における次の世とは、「大別的な区分での十方的世界が始まる」という意味に加えて「ミロクの世の王の御代が始まる」という二重の意味が込められているらしいのです。この二つの出来事は相互に連携(リンク)していると思われ、“鶏と卵の関係”のように前後の順序が判別できない関係にあると推測されます。故に、この概論では天子様が五十二才の時である2012年2月23日から2013年2月22日の間に、実質的な(せん)()が起きると解釈しています。

 また、大別的な区分での十方的世界が始まる2012年は、2008年から2016年までの神経綸八の“真ん中の年”です。前編の第二章の第八節でも述べましたが、数霊の八の“どっちつかず”の性質が神経綸や時節にも一日単位で反映されているとすれば、2008年の8月17日から2016年の旧九月八日までの中間点である2012年の9月13日辺りが、実質的な践祚の計画上の予定日なっているはずです。現実的には多少のズレがあると思われるので確実ではありませんが、平成二十四年が元年になる可能性が高いと考えられます。

 なお、これは後編で論じる内容なのですが、大別的な区分での十方的世界が個別的な区分でも十方的世界になるまでの十二年の時間差(タイムラグ)が、()()の説く()()(いづ)の仕組”の期間であると考えられます。天明氏は訳文で三四五に()()()づ」の漢字を当て嵌めていますが、これは十方的(あたらしい)世界が現出する」という意味に加えて「天子様の()()()を中心とする政治形態に移行する」という意味もあるようです。

 次に“月の世”としての意味を考察します。

 日月神示の説く月の世とは、基本的に()()()()が主導する時代」のことです。()()の数霊論では()()()()(のかみ)“九十”を司ることが度々述べられており、神経綸の九と十の段階に相当する“九十の世”は日月の月の方に主導権があります。ただし、この場合の九十の世とは一二三四五六七八の世に九十が加わった時代のことなので、実体としては“一二三四五六七八九十の世”であり十方的世界のことです。

 以上のように数霊から見れば、次の世と月の世は本質的に同じ意味であることが判ります。この点を極めて明確に説いている記述があるので引用してみます。

「次の世とは月の世の事ざぞ、()(つき)の二の世ぞ、の月の世ぞ、取違ひせん様に致して呉れよ。智や学がありては邪魔になるぞ、無くてもならぬ難しい仕組ぞ、月の神様 祀りて呉れよ、()()(なる)の神様 祀りて呉れよ、今に()()る事ぞ、日暮れよくなるぞ、日暮れに祀り呉れよ、十柱 揃ふたら祀り呉れいと申してあらうがな、神せけるのざぞ」 『日の出の巻』 第三帖 [216] 第一仮訳と第二仮訳の「の月の世」は基本訳の「のよ」に準拠しています。原文Ⅳと原典では「月の月の四」ですが、象形文字的な記号に関しては基本訳の方が原書を忠実に書き写しているようです)

()()()()()()()()()()()()()()() ()(ツキ)()(ツキ)()()() ()(ツキ)()(ツキ)()()() ()()()()()(セン)(ヨー)()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()(ムツ)()(シー)()()()()() ()()()(カミ)()()()()()()()() ()()()()()(カミ)()()()()()()()() ()()()()()()()()() ()()()()()()()() ()()()()()()()()()() ()()()()()(ロー)()()()()()()()()()(モー)()()()(ロー)()() (カミ)()()()()()() 『のてのまキ』 第三帖 [216]

 この記述では、次の世が月の世であることを間違えないように、わざわざ三日月を(かたど)った記号が使用されています。また、ここでのは根元神や全体を表す記号ではなく、意味を太陽だけに限定した“日の記号”として書かれています。そして、一般的に日は昼を象徴し、月は夜を象徴しますが、この“月の()が始まることに掛けてあるのが“日暮れ”という表現です。

()()れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、()()れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。のくれのことを申すのざぞ」 『地つ巻』 第二十三帖 [160]

 この場合の日暮れとは()の暮れ”のことであり、数霊的には“八の終わり”という意味になります。要するに、一二三四五六七八を司る()()()()が主導する時代が終わることを日暮れと掛けているのです。こういった認識を前提にしているのが次の記述です。

「日の大神様は日の御働き、月の大神様は月の御働き、日の大神様も世の末となって来て御神力うすくなりなされてゐるのざぞ、日の大神様も二つ、三つ、自分一人の力では何事も これからは成就せんぞ、心得なされよ」 『青葉の巻』 第十六帖 [485]

()()(オー)(カミ)()()()()()()()()()()() (ツキ)()(オー)(カミ)()()()(ツキ)()()()()()()() ()()(オー)(カミ)()()()()()()()()(ナッ)()()() ()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ()()(オー)(カミ)()()()(フタ)()(ミッ)() ()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()(ジョー)(ジュ)(セン)() ()()()()()()()() 『ア火八のキ』 第十六帖 [485]

 この帖では、今までに()()()()が主導して来た一二三四五六七八の世が終わりつつあることを、「世の末」や「日の大神の御神力が薄くなっている」という言葉で表現しています。即ち“日の暮れ”です。同時に、これは「八方的世界が終わりを迎える」という意味でもあります。だから()()には、

「旧九月八日とどめぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]

と書かれているのでしょう。何故なら、九を始めることは八を()()()()()ことと同じだからです。

 そして、前項でも触れたように、伊都能売神諭で月の大神をミロクの大神とする場合があるのは、この点に理由があると考えられます。数霊から見ると、時代が一から十に向かって順に進展して行く時、一から八までの時代には()()()()に主導権がありますが、九と十の時代になると()()()()の方に主導権が移るらしいのです。それを前提にして書かれたと思われるのが次の記述です。

「月の大神様 御出でまして闇の夜は月の夜となるのざぞ」 『日の出の巻』 第九帖 [222]

「一先づは月の代となるぞ。ひっくり返り、ビックリぢゃ」 『月光の巻』 第九帖 [796]

 ちなみに、二つ目の帖で「(ひと)()づ」と(ただ)し書きが添えられているのは、十方的世界の()()()()()()があるからです。終章で詳しく論じますが、十方的世界が実現した後に世界は再び引っ繰り返るのです。

 ただし、この場合の十方的世界を意味する“九十”は あくまでも「一二三四五六七八を内包した九十」なので、数霊的に表現すれば“一二三四五六七八九十”です。故に、()()()()()()()()が一体となった十方的世界は日月(ミロク)の大神の時代、即ち(ミロク)の世”でもあるわけです。

 これは()()()()()です。

 天の御三体の大神の(はたらき)を現れる順序の観点から見ると、(つき)の大神と(つき)の大神は互いに折り重なった存在なのです。この点を暗示するために、両神の通り名を意図的に(かぶ)らせてある可能性すらあります。日月神示や大本神示で「つきのおおかみ」が月と撞のどちらを指すのか判然としない場合があるのは、この辺りに理由を求められるかもしれません。

 以上のように、数霊や隠喩(メタファー)や順序から見ると、旧九月八日がミロクの世の始まりである理由が明瞭になって来ます。日月神示には「神漏岐命と神漏美命から判って来る」と書かれていますが、“対なるものの象徴(シンボル)である伊邪那岐神と伊邪那美神が司るものを詳細に検討すれば、()()の内容の多くは筋道を立てて読み解くことができるのです。
<転載終了>