すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_3
<転載開始>

 そこで、ここからは【旧九月八日の仕組】について先に述べたいと思います。これは旧九月八日から起こる出来事が“ミロクの仕組”の具体的な内容を論じるための予備知識として必要だからです。

 そして、旧九月八日の仕組の内容は一つではなく、幾つかの出来事が複合的に折り重なって起こり、その全てに相関関係があります。それらの中でも神経綸の意味や理由と呼び得る【元神の神策】の核心部分を、()()()()(のかみ)()()()()(のかみ)“神話”及び“数霊”として明かしているのが以下の記述です。これらを「一神」や「一人」や「一方」という言葉に注目して読んでみて下さい。

「岩戸閉めの始めは()() ()()の時であるぞ、那美の神が火の神を生んで黄泉(よもつ)(くに)に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。(おっと)(がみ)(つま)(がみ)、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉(よもつ)(おお)(かみ)となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、()(びき)の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を(とも)にひらかんと申してあろうがな」 『碧玉の巻』 第十帖 [874]

「ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ」 『至恩の巻』 第八帖 [955] コトドは古事記では「事戸」であり、日本書紀では「絶妻之誓」ですが、日月神示では「九と十」としての意味が第一義であるはずです)

()(びき)(いわ)をとざすに際して 〔中略〕 その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七(ない)()八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れて それぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ」 『至恩の巻』 第九帖 [956] 対訳形式である昭和三十七年版の原文では「十千十火」であり、訳文では「十方十全」と書かれています。原文を基準にすれば「十全十方」と書くのが正しいと思われます)

「父のみ(おろが)みたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二柱でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神を(おろが)まねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ」 『星座の巻』 第十三帖 [896] 第一仮訳)

「何事もはらい清めて下されよ、清めるとは和すことぞ、違ふもの同士 和すのがマコトの和であるぞ。8迄と9 10とは(さが)が違ふのぞ」 『極めの巻』 第五帖 [932]

「一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは(まっと)う出来ん、九分九厘でリンドマリぞ」 『至恩の巻』 第十六帖 [963]

()()読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局(りんどまり)ぞ。(われ)(われ)ががとれたら判って来るぞ。慢心おそろしいぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

 

 これらの記述では、一神だけで生むことができるのは99%までであることが述べられています。つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしいのです。そして、ここでの「終わらせる」とは意味的に「完成させる」であり、三千世界が100%に()()には“対偶の存在”が必要であることが強調されています。つまり、(イザナギ)には(イザナミ)が、(プラス)には(マイナス)が、一二三四五六七八には“九十”が必要なのです。

これが日月神示の説く“神の計画”の核心部分です。

 以上の内容から、時節論とは本質的に“伊邪那岐/伊邪那美論”であることが判って頂けると思います。そして、夫神(イザナギ)妻神(イザナミ)が改めてが結ばれる旧九月八日が、神々が待ち望んだ“岩戸開きの日”であることを、()から裏付ける記述を引用してみます。

「今度の岩戸びらき、神と人との九十運動ぞ」 『黄金の巻』 第十一帖 [522] 第一仮訳では「合同運動」の漢字が当てられています)

「日の光を七つと思うてゐるが、八であり、九であり、十であるぞ。人民では六つか七つにしか分けられまいが。岩戸がひらけると更に九、十となるぞ 〔中略〕 九十の経綸、成就した暁には何も彼も判ると申してあらうが」 『白銀の巻』 第一帖 [612]

「八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ」 『扶桑の巻』 第四帖 [853]

「ナルの仕組とは(ナル)()経綸(しくみ)であるぞ、八が十になる仕組、岩戸ひらく仕組、今迄は中々に判らなんだのであるが、時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう」 『星座の巻』 第二帖 [885]

(モモ)不足(タラズ) ()()(クマ)() いまひらかんときぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

(あま)つ神の 寿()(ごと)のままに ()()岩明けぬ」 『極めの巻』 第二帖 [929]

「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけると〇と九と十との三が出てくる」 『碧玉の巻』 第五帖 [869]

「今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ」 『星座の巻』 第十五帖 [898]

「今迄は四の(いき)(もの)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ」 『扶桑の巻』 第十四帖 [863]

(あま)つ神の 寿()(ごと)のままに ()()岩明けぬ」 『極めの巻』 第二帖 [929]

「四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合わせて十葉となりなりなりて()み栄ゆる仕組、十と一の実のり、()()と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ、あな爽々し、岩戸あけたり」 『紫金の巻』 第十帖 [989] 第一仮訳)

「こんどは、八のくまではたらん。十のくま、十のかみをうまねばならんぞ」 『月光の巻』 第三帖 [790]

「四と八によってなされたのであるから森羅万象の(ことごと)くが その気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因は これで判ったであろうがな」 『至恩の巻』 第六帖 [953]

「八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸ひらきぢゃ」 『至恩の巻』 第十四帖 [961]

「八のつく日に気つけと申してあろう。八とはひらくことぞ。ものごとはひらく時が大切ぢゃ」 『月光の巻』 第四十七帖 [834]

「八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか」 『五葉の巻』 第十二帖 [975]

 また、岩戸開きとは“伊邪那岐の国”“伊邪那美の国”の交わりであることを明かす記述もあります。

「天の(おしへ)ばかりではならず、地の教ばかりでもならず、今迄はどちらかであったから、時が来なかったから、マコトがマコトと成らず、いづれもカタワとなってゐたのざぞ、カタワ悪ぞ、今度 上下揃ふて夫婦和して、天と地と御三体まつりてあななひて、末代の生きた教と光り輝くのざぞ」 『青葉の巻』 第十九帖 [488]

「めでたさの九月八日の九のしぐみ、とけて流れて世界一つぢゃ」 『黒鉄の巻』 第三十八帖 [656]

「いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の()らす国もナミの命の治らす国も、双方から お互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ」 『至恩の巻』 第十一帖 [958]

「今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢゃ、早う改心して この神について御座るのが一等であるぞ」 『極めの巻』 第七帖 [934]

「岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ、この行、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ」 『碧玉の巻』 第二帖 [866]

「岩戸のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ」 『扶桑の巻』 第三帖 [852]

「新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十でひらく仕組」 『星座の巻』 第十一帖 [894]

「岩戸がひらけると言ふことは半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ」 『五葉の巻』 第十五帖 [978]

「マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ」 『五葉の巻』 第十六帖 [979]

 以上の記述からも判るように、伊邪那岐神と伊邪那美神によって象徴される“二つの()()とは天と地、()るいは霊界と現界のことであり、もっと判り易く表現すると()()()()のことです。

 このように、天と地が一つの(あめ)(つち)になることは日月神示で何度も述べられていますので、それを示唆する記述を幾つか引用してみます。

「一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて()(ろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れ」 『富士の巻』 第十九帖 [99]

「天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ」 『天つ巻』 第八帖 [115]

「天地一度に変ると申してあること近づいたぞ」 『地つ巻』 第三十三帖 [170]

「天地まぜこぜとなるぞ」 『水の巻』 第十二帖 [286]

「天も変るぞ地も変るぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「神代となれば天は近くなるぞ、神人共にと申してあらうがな。一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ」 『岩の巻』 第十帖 [375]

「天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ、あな(さや)け、あなすがすがし、あな面白や、いよいよ何も彼も引寄せるから その覚悟よいか、覚悟せよ」 『梅の巻』 第十七帖 [444]

「天も近うなるぞ、地も近うなるぞ、田舎に都、都に田舎が出来ると申してあろが」 『海の巻』 第九帖 [501]

「天地まぜまぜになったら、まだまだなるのである。彼れ是れ、何が何だか判らんことになると申してあらうが。早う神示 肚に入れておけよ」 『黄金の巻』 第六帖 [517]

「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は()が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、(カミ)(ヒト)とならねば生きては行かれんのぢゃ、(てん)()がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民 少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ」 『扶桑の巻』 第十五帖 [864]

「天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ」 『紫金の巻』 第五帖 [984]

 恐らく、こういった「天と地が一つになる」という点が、前節の第五項で引用した第二十二巻『青葉の巻』第十七帖で語られている「旧九月八日から天の御先祖様と地の御先祖様が一体になる」という内容の、一つの意味であると考えられます。

 以上により、八方的世界に本格的に九十が加わり始める旧九月八日が、岩戸開きの日として()()に重要視されているかが判ると思います。更なる参考として、“九十”について注意を喚起する記述も引用します。

「外国の飛行機が来るとさわいでゐるが、まだまだ花道ぞ、九、十となりたらボツボツはっきりするぞ。臣民は目のさきばかりより見えんから、可哀さうなから気をつけてゐるのに何してゐるのか。大切なことを忘れてゐるのに気がつかんか。この知らせをよく読みて呉れよ」 『上つ巻』 第六帖 [6]

「九十が大切ぞと知らしてあろがな、戦ばかりでないぞ、何もかも臣民では見当とれんことになりて来るから、上の臣民 九十に気つけて呉れよ」 『富士の巻』 第十七帖 [97]

「一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、九、十に気附けと、くどう申してあろがな、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ」 『天つ巻』 第三帖 [110]

「番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意して呉れよ」 『地つ巻』 第三十五帖 [172]

「役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けて呉れよ。神示よく読めよ」 『キの巻』 第六帖 [263]

「神は天からも地からも日も夜も()()で知らしてゐるのに、()()聞く身魂ないから、()()きく()()曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「日本が日本がと、まだ小さい島国日本に捉はれてゐるぞ。世界の日本と口で申してゐるが、生きかへるもの八分ぞ。八分の中の八分は又生きかへるぞ。生きかへっても日本に捉はれるぞ。おはりの仕組は みのおはり。骨なし日本を、まだ日本と思うて目さめん。()()()()と申してカラスになってゐるぞ。古いことばかり守ってゐるぞ。古いことが新しいことと思うてゐるなれど、新しいことが古いのであるぞ。取違ひいたすなよ」 『黄金の巻』 第二帖 [513]

 最後に、旧九月八日の仕組における日本国と日本人の役割について少々補完しておきます。

(てん)()が地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国が(かん)()(だい)ぢゃ」 『星座の巻』 第二十三帖 [906]

 ここまでに論じた内容から考えると、“天の理”とは()の世の法則”のことであり、岩戸が開くと霊界の法則が地上世界にも適用され始めることになります。

 また、“甘露台”とは日月神示や大本神示が神の計画を(にな)う団体の一つに挙げている奈良の天理教の言葉であり、“世界の始まりの場所に置かれている台座”や、それを象徴として見立てた“神具”のことです。これは「神の意思を受け止める」という意味において人間を含める場合もあるそうです。

 つまり、十方的世界への移行という“新しき()()生み”が外国に先駆けて始まる日本国と、その中心的役割を担う日本人が甘露台に見立てられているのです。少し意味を拡大すれば、十方的世界を外国に波及させる“神の道具”として日本を活用するとも言えます。それが判るのが次の記述です。

「神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。国々もその通りざぞ、神には()()無いのざぞ」 『日の出の巻』 第七帖 [220]

「この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、()()の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ」 『日の出の巻』 第二十帖 [233]

「日本の人民よくならねば、世界の人民よくならんぞ、日本の上の人よくならねば日本人よくならんぞ」 『マツリの巻』 第十六帖 [420]

「いやな事は我が()(すじ)に致さすなり、()(にん)傷つけてはならんなり」 『青葉の巻』 第七帖 [476]

「世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさせねばならんのぢゃ。それが順序と申すもの。神示で知らしてあらうがな」 『黄金の巻』 第二十九帖 [540] 第一仮訳)

「日本は日本、(から)は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢゃ。分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理よく心得なされよ」 『黄金の巻』 第八十八帖 [599]

「どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるのであるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむのぢゃ。行き詰るのぢゃ。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用あるのぢゃ。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ」 『春の巻』 第十四帖 [671] 第一仮訳)

「新しき霊界は(カミ)(ヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神の()(むね)であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん」 『春の巻』 第四十二帖 [699]

「三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、くどう申してゐるのぞ」 『碧玉の巻』 第十三帖 [877]

「自他の境界つくるでないぞ、おのづから自他の別と和が生れて お互に折り重なって栄へるのぢゃ、世界一家への歩み方、やり方、間違へるでないぞ。〔中略〕 今が九分九厘であるぞ、日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタ国、おのづから相違あるぞ」 『極めの巻』 第一帖 [928]

 これらのことからも判るように、旧九月八日に起きる出来事は表層的に どのように見えようとも、日本国の“天命”であり日本人の“使命”です。そして、それが果たされることは神と神を信じる人間にとって(まぎ)れもない“喜びごと”なのです。

 たとえ何が起ころうとも、“約束された幸福な結末(ハッピーエンド)を信じて、どうか気を強く お持ち下さい。

「使命がいのちぢゃ。上から、神から命ぜられたことがいのちぢゃぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生まれんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命 果たすがよろこびぞ」 『春の巻』 第十八帖 [675] 第一仮訳)

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