すめらみちさんのサイトより
http://sumeramichi.net/meiki/jisetsu-gairon_2i.html#link_3-03_5
<転載開始>

 前項で引用した(マツリ)の記述に見受けられるように、(たと)えられているのは日本と外国だけではありません。詳細は次項で解説しますが、旧九月八日の仕組とは基本的にする仕組」のことであり、そこから派生する多くの出来事を包括する意味を有しているのです。そして、そういった旧九月八日に関わる出来事の総称的な位置付けにある言葉が【とどめの(いくさ)】です。

 これは別に難しいことではなく、要するに、

 (とどめ)(いくさ)とは外国との戦争()()を指しているわけではないのです。

 (いくさ)と言うと戦争の印象(イメージ)が強く、日月神示でも日本と外国の戦争に関する記述が多いので、戦争が三千世界の大立替えの最重要の出来事(メ イ ン イ ベ ン ト)に感じられる場合があるかもしれません。しかし、そのように受け止められるのは天之日津久神様の本意ではないことが多くの記述から判ります。

 まずは、こういった「戦争や天災は立替え立直しや岩戸開きの本質ではない」という点について考察することによって、とどめの戦を論じる上での前提にしたいと思います。

「今度の戦で何もかも(らち)ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動くことも引くことも、進むことも()うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ」 『下つ巻』 第二十五帖 [67]

「臣民はすぐにも戦すみてよき世が来る様に思うてゐるが、なかなかさうはならんぞ、臣民に神うつりてせねばならんのざから、まことの世の元からの臣民 幾人もないぞ、みな曇りてゐるから、これでは悪の神ばかりかかりて、だんだん悪の世になるばかりぞ、それで戦すむと思うてゐるのか」 『下つ巻』 第三十四帖 [76]

「戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも分りては居らんのざぞ」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や(わざわい)は見当とれまいがな、()()()第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。神かかりと申しても()()らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ」 『磐戸の巻』 第七帖 [243]

「人の殺し合ひばかりではケリつかんのざぞ、今度の負け勝ちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの(ところ)まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから()()迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ」 『磐戸の巻』 第十二帖 [248]

「今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界(すみ)(ずみ)まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、(つら)い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ」 『松の巻』 第八帖 [299]

「人の殺し合ひで此の世の建替出来ると思ふてゐるのも悪の守護神ざ。肉体いくら滅ぼしても、よき世にならんぞ。魂は鉄砲では殺せんのざぞ。魂はほかの肉体にうつりて、目的たてるのざぞ、いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが」 『風の巻』 第十三帖 [364]

「今迄になかったこと今度はするのぢゃから合点出来んも道理ぢゃ道理ぢゃ、始めは(たたかい)で、(いくさ)で世の建替する(つも)りであったが、あまりに曇りひどいから、イクサばかりでは、すみずみまでは掃除出来んから、世界の家々の隅まで掃除するのぢゃから、その掃除中々ぢゃから、(イクサ)ばかりでないぞ」 『梅の巻』 第十八帖 [445]

「この神示よく読んでくれたら何を申さんでも、何を聞かんでも、よいことになるのであるぞ、戦や天災では人の心は直らんと申してあろが、今迄のどんなやり方でも人の心は直らんぞ、心得なされよ」 『海の巻』 第六帖 [498]

「戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ」 『黄金の巻』 第七十五帖 [586]

 

 このように、日月神示では戦争や天災ばかりに注目しないように警告が発せられています。では、立替えとは何かと言えば、それは“ミタマの立替え”であるとのことです。

「今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ」 『雨の巻』 第七帖 [341]

「悪い者 殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂迄は、人民の力では()うにもならんであろがな。元の(たま)まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の(たま)に改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居りながら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、(アメ)(ツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが」 『光の巻』 第六帖 [402]

「世の建替と申すのは、身魂の建替へざから取違ひせん様致されよ、ミタマとは身と(たま)であるぞ、今の学ある人民 ミばかりで建替へするつもりでゐるから、タマが判らんから、いくらあせっても汗流しても建替へ出来んのざぞ。(あめ)(つち)(とき)来てゐることは大方の人民には分って居りて、さあ建替へぢゃと申しても、肝腎のタマが分らんから成就せんのざぞ、神示読んでタマ早う掃除せよ」 『青葉の巻』 第十五帖 [484]

「世の元から出来てゐるミタマの建直しであるから、一人の改心でも中々であると申してゐるのに、ぐづぐづしてゐると間に合はん。気の毒出来るぞ」 『黄金の巻』 第七十七帖 [588]

 恐らく、立替え立直しや岩戸開きの本質とは「人間の意識を神と同じ境地へ高めること」なのであって、戦争や天災は二義的な出来事に過ぎないのでしょう。そのため、日月神示では“人間の内面的な葛藤”(いくさ)と呼んで重視しています。

「戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」 『上つ巻』 第一帖 [1]

「戦 恐れてゐるが臣民の戦くらい、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ」 『富士の巻』 第七帖 [87]

「掃除 早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「己の心 見よ、いくさまだまだであろが、違ふ心があるから違ふものが生れて違ふことになる道理 分らんのかなあ」 『青葉の巻』 第二十帖 [489]

「今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んで(さと)りて下されよ」 『海の巻』 第七帖 [499]

「口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ」 『月光の巻』 第五十二帖 [839]

「口先ばかりで、その場限りでうまい事申して御座るが、それは悪の花、心と行が伴わんからぢゃ。(おのれ)自身のいくさが終ってゐないからであるぞ。そなたのもつ悪いくせを直して下されよ、それが御神業ぢゃ」 『極めの巻』 第十二帖 [939]

 こういった“心の戦”が重視されている理由の一つは、世界の現状は人間の意識が反映した結果であり、その点から根本的に改めなければ、一時的に世界を革正しても再び以前の状態に戻ってしまうからだと考えられます。この辺りの「世界は人間の心のままになる」という記述は次の通りです。

「天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。この道理わかるであろがな」 『磐戸の巻』 第二帖 [238]

「此の(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心 悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「世界の戦争、天災、皆 人民の心からなり」 『マツリの巻』 第十四帖 [418]

「天災地変は人間の心のままと申してあらう。豊作、凶作 心のままぞ」 『黄金の巻』 第九十二帖 [603]

「宇宙は人間の心のままと申してあらうが」 『黒鉄の巻』 第三十七帖 [655]

 また、日月神示には“根本的ではない立替え”を断行しても以前の状態に戻ってしまったことが、昔話の一つとして明かされています。

「これまでの改造は(こう)(やく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分らんのぞ、九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな」 『天つ巻』 第二帖 [109]

「前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ」 『松の巻』 第十二帖 [303]

 そのため、今回は人間の意識を根本的に変えるために、神様は大局的、長期的、本質的な“永遠”の視座から人間に働き掛けるとのことです。

「よく考へて見い。長い目で見てよくしようとするのが神の心ぞ。目の前のおかげでなく、永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ」 『黄金の巻』 第七十六帖 [587]

「神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ」 『春の巻』 第三十四帖 [691]

「天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。永遠弥栄の生命、早う体得結構」 『春の巻』 第四十九帖 [706]

「今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。一方的の見方ぞ。長い目で見よと申してあろうが。永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

「長い目で永遠の立場からの幸が、歓喜がおかげであるぞ。局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ」 『月光の巻』 第四十六帖 [833]

「天界での出来事は必ず地上に移りて来るのであるが、それを受け入れる、その時の地上の状態によって早くもなればおそくもなり、時によっては順序も違ふのであるぞ、人民は近目であるから色々と申すなれど、広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ。寸分の間違ひもないのであるぞ、これが間違ったら宇宙はコナミジン、神はないのであるぞ」 『極めの巻』 第十八帖 [945]

「現実の事のみで処してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな」 『紫金の巻』 第十四帖 [993]

 このような視座は、今回の立替えが地上世界だけではなく、心や魂や神の領域である“霊界”を含めて行われることを背景としています。その辺りの“霊の永遠性”について述べられた部分も引用してみます。

「物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである」 『地震の巻』 第八帖 [385]

「霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである」 『地震の巻』 第十四帖 [391]

「肉体の事は何とか分るであろが、タマは判るまい、()()にタマは生き通しであるから、タマの因縁の判る所は()()()でより他にはいくらさがしてもないのざぞ」 『海の巻』 第十二帖 [504]

「そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ」 『黄金の巻』 第九十三帖 [604]

「気長にやれと申してあろう。長い苦心なければ よいもの出来ん。この世で出来終らねば、あの世までもちつづけても やりつづけてもよいのぢゃ。そなた達はあまりにも気が短いぞ。それではならんのう。マコトの生活は永遠性もってゐるぞ。これないものは宗道でないぞ」 『春の巻』 第二十九帖 [686]

「人間は絶えずけがれてくる。けがれは清めることによって、あらたまる。厄祓ひせよ。福祓ひせよ。想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ」 『春の巻』 第三十二帖 [689]

「見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。(ミチ)にいそしめ。(ミチ)にとけ入れよ。モノは無くなるぞ。霊は永遠に弥栄えるぞ」 『春の巻』 第五十四帖 [711]

「中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ」 『碧玉の巻』 第六帖 [870]

 つまり、()()()()()()根本的な立替えであるが故に、地上世界で起きる局所的、短期的、表層的な現象である戦争や天災は、立替え立直しや岩戸開きの本質には成り得ないのでしょう。

 以上が本項の前提となる考察です。以降は上記の内容に基づいて“とどめの戦”を論じたいと思います。

 前項でも触れましたが、“終わりの始まりの日”である2016年の旧九月八日は“とどめ”と深く関わっています。それは次の記述からも明らかです。

「旧九月八日とどめぞ」 『水の巻』 第九帖 [283]

 同じ内容のことは大本神諭の頃から明かされています。

「二度目の世の立替の(とゞ)めを刺すのが近う成りて来たぞよ。何も経綸(しぐみ)通りに致すぞよ。〔中略〕 世の(しまい)(とゞ)めと世の始りとの境の筆先であるぞよ」 『大本神諭』 大正六年 旧十月十六日

 他にも、日月神示の時節に関連しているかもしれない記述が伊都能売神諭にあります。

「十方世界の(とゞ)めを刺して(ちり)(あくた)をサルの年」 『伊都能売神諭』 大正八年四月二十三日 2016年は申年です)

 こういった内容からも判るように、終わりの始まりや旧九月八日とは「とどめを刺すこと」と殆ど同義であることが見て取れます。そこで、日月神示の“とどめ”に関する部分を引用してみます。

「あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最後は分らんから、この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

「神国、神の子は元の神の生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後のトドメざぞ、今度こそ(ゆう)()ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「神示判る臣民二三分できたなら、神 愈々のとどめのさすなり」 『マツリの巻』 第六帖 [410]

「このままにしてほっておくと戦済んだでもなく、とどめもさせん、世界中の大難となるから早う改心結構ぞ。悪の上の守護神、中の守護神、下の守護神の改心出来ん者はいくら可愛い子ぢゃとて、ようしゃは出来んぞ、愈々天の大神様の御命令通りに神々様 総掛かりぞ」 『梅の巻』 第五帖 [432]

「建直しの仕組 立派に出来てゐるから心配いたすでないぞ、建替延ばしに延ばしてゐる神の心 判らんから、余り延ばしては丸つぶれに、悪の罠に落ちるから(とど)めの 〔中略〕 (ふた)あけるから、目開けておれん事になるぞ」 『梅の巻』 第九帖 [436]

「とどめ(かみ)なり」 『梅の巻』 第二十四帖 [451]

「今迄は白馬と赤馬と黒馬とであったなれど、岩戸がひらけたら、岩戸の中から黄の馬が飛び出してくるぞ、キが元ぞと申してあろうが、トドメの馬であるぞ、黄金の馬であるぞ、救ひの馬であるぞ、このこと神界の秘密でありたなれど時来たりて人民に伝へるのであるぞ、今迄は白馬に股がって救世主が現れたのであるが、いよいよの救世主は黄金の馬、キの馬にのって現われますのであるぞ」 『紫金の巻』 第六帖 [985]

 次に、とどめと関連の深い“終わり”の記述を引用します。

「何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん()()()()()()()修理固成(かため)の終りの四あけであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ」 『上つ巻』 第三十四帖 [34] 「四あけ」は「夜明け」と「仕上げ」の双方の訓み方ができます)

「いよいよ世の終りが来たから役員 気つけて呉れよ。神代 近づいてうれしいぞよ」 『下つ巻』 第十三帖 [55]

「もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ」 『地つ巻』 第十一帖 [148]

「世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ」 『星座の巻』 第八帖 [891]

「神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ、今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前、神も今迄はテンデンバラバラでありたなれど、今に一つにならねばならぬことに、天が命じてゐるのであるぞ。人民の中と外も同様ぞ」 『極めの巻』 第二帖 [929]

 次に、終わりと殆ど同じ意味で使われている“最後”の記述を引用します。

「この世が元の神の世になると云ふことは、何んなかみにも分って居れど、何うしたら元の世になるかといふこと分らんぞ、かみにも分らんこと人にはなほ分らんのに、自分が何でもする様に思ふてゐるが、サッパリ取り違ひぞ。やって見よれ、あちへ外れ こちへ外れ、いよいよ何うもならんことになるぞ、最後のことは この神でないと分らんぞ」 『上つ巻』 第二十九帖 [29]

「神の最後の仕組と申すのは入れることぞ」 『下つ巻』 第二十一帖 [63]

「世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神々様には分って居れど、世界ところどころにその事 知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは()の神でないと分らんぞ」 『下つ巻』 第二十三帖 [65]

〔前略〕 されど日本は神の国。最後の仕組 神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。夜明けの御用つとめかし。晴れたる富士のすがすがし」 『松の巻』 第二十七帖 [318]

〔前略〕 岩戸開けたり御光の、()()()の花どっと咲く、御代近づきぬ御民等よ、最後の苦労 勇ましく、打ち越し呉れよ共々に、手引きあひて進めかし、光の道を進めかし」 『風の巻』 第四帖 [355]

「まだのみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、でなくてはならん、と申してだけでもならんぞ、が元ぢゃ、内ぢゃ、は末ぢゃ、外ぢゃ、から固めて下されよ、はおのづから出来てくる、ふさはしいが出来てくるのぢゃ。〔中略〕 今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ」 『碧玉の巻』 第十三帖 [877]

 この他にも、より直接的に“とどめの戦”の内容について述べられた記述があります。

「今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本の天子様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。」 『下つ巻』 第二十帖 [62]

「メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな」 『富士の巻』 第三帖 [83]

「世界は一つになったぞ、一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。覚悟はよいか、臣民一人一人の心も同じになりて居ろがな、学と神の力との大戦ぞ、(かみ)(ぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ」 『富士の巻』 第二十三帖 [103]

「人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。悪神よ。日本の国を()()までよくも(けが)したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ。学問と神力の とどめの戦ざぞ」 『松の巻』 第十八帖 [309]

「世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生神様 (おん)(ひと)(かた) 御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、神力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生神様の御息吹きどんなにお力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ」 『梅の巻』 第十二帖 [439]

 ここまでの内容から考えると、基本的には、

最後(とどめ)の戦とは神と学の戦いである」

と見て良いようです。故に、日月神示の説く“神の力”“学の力”が何を意味しているかを考察することよって、とどめの戦の意味するものが見えて来ると思われます。ただし、神の力については次項で詳細を述べますので、本項では学の力を主体として論じます。

 日月神示での“学”とは基本的に「神の心に()わぬ()()という主旨であり、非常に広範な意味を含んでいます。これを包括的な表現に置き換えれば、

からが抜けてになっている()()

という風にも言えるはずです。そして、こういった(カミ)に基づかない()()の筆頭として挙げられているのが“現在の人間の意識”であり、より具体的には「物質世界()()を前提とした考え方」のことになります。それが最も判り易いのは次の記述だと思われます。

「悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」 『地震の巻』 第九帖 [386]

 このような“悪”は日月神示の中で、学、智、知恵、理屈、(われ)()しなどと呼ばれて手厳しく批判されており、遠くない将来に行き詰まると断言されています。それらの記述は非常に多いので、“学”“知恵”に関する主要な記述に絞って抜粋してみます。

「人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る」 『上つ巻』 第二帖 [2]

「知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ」 『下つ巻』 第十六帖 [58]

「神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐるのでないか」 『富士の巻』 第十八帖 [98]

「今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ」 『富士の巻』 第二十一帖 [101]

「世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん(とこ)(とは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ。人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいが」 『天つ巻』 第十六帖 [123]

「神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ」 『地つ巻』 第十五帖 [152]

「学の世はもう済みたのぞ、日に日に神力あらはれるぞ」 『地つ巻』 第二十七帖 [164]

「神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ」 『地つ巻』 第三十帖 [167]

「神が道つけて楽にゆける様に嬉し嬉しでどんな戦も切抜ける様にしてあるのに、臣民 逃げて眼塞いで、懐手してゐるから苦しむのぞ。我れよしと云ふ悪魔と学が邪魔してゐる事にまだ気付かぬか。嬉し嬉しで暮らせるのざぞ」 『日月の巻』 第三十九帖 [212]

「神界の事は人間には見当取れんのであるぞ、学で幾ら極め様とて()()りはせんのざぞ、学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ」 『日の出の巻』 第六帖 [219]

「戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになるのが目の前に見へてゐるのざから、早う神の申す通り素直に云ふこときけと申してゐるのざぞ」 『磐戸の巻』 第九帖 [245]

「建替の事 学や智では判らんぞ」 『松の巻』 第十二帖 [303]

「金や学や智では大峠越せんぞ」 『雨の巻』 第一帖 [335]

「智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐるのか。判らんと申して余りでないか」 『雨の巻』 第十一帖 [345]

「悪と学は長うは続かん事、そろそろ判りて来るぞ」 『マツリの巻』 第十九帖 [423]

「時節到来してゐるに未だ気付かんか、人民の物と云ふ物は何一つないのざぞ、未だ金や学で行けると思ふてゐるのか、愈々の蓋あいてゐるに未だ判らんか」 『空の巻』 第九帖 [464]

「見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ」 『海の巻』 第十四帖 [506]

「学や智や金がチラチラ出る様では、マコトが磨けては居らんのぢゃ」 『海の巻』 第十五帖 [507]

「学問や金を頼ってゐる内は、まだまだ改心出来ないぞ」 『黄金の巻』 第八十二帖 [593]

「マボロシとは人間智慧のこと。理屈のことぢゃ。理屈とは悪の学のことぢゃ。理でなければならぬ」 『黒鉄の巻』 第十帖 [628]

「人間の智で判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、神界のことは神界で()()せねば判らんのぢゃ。判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、愈々になりたら道ないことぞ。学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。気の毒ぢゃなあ」 『黒鉄の巻』 第十九帖 [637]

「人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ」 『星座の巻』 第四帖 [887]

(にせ)の愛、(にせ)の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現れを見ても見へないのであるぞ、目をとぢ耳にふたしてゐるからぞ、今の人民よ学者よ金持よ、早う考へ方を変へねば間に合わん、心の窓 早うひらけよ」 『星座の巻』 第十六帖 [899]

「わが身をすてて、三千世界に生きて下されよ、わが身をすてると申すことは()をすてること、学をすてることぢゃ、すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ」 『極めの巻』 第三帖 [930]

「今の学者には今の学しか判らん、それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、三千世界の岩戸ひらきであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ」 『極めの巻』 第二十帖 [947]

 このように、日月神示には現在の人間の意識を批判する記述が非常に多いです。ただし、良い意味での学である“神の学”も存在するとのことです。

「知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。悪も御役であるぞ、この道理よく腹に入れて下されよ」 『天つ巻』 第四帖 [111]

「学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ」 『日月の巻』 第十一帖 [184]

「学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ」 『磐戸の巻』 第十六帖 [252]

「神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ」 『雨の巻』 第九帖 [343] 「ンプ」とは好運と非運を意味する「(うん)()」のことだと思われます)

「科学科学と人民申してゐるが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりぢゃ、神に尋ねて神の科学でないと何も成就せんぞ、分らなくなったら神に尋ねと申してあること忘れるなよ」 『梅の巻』 第十五帖 [442]

「神から伸びた智と愛でないと、人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。やりてみよれ。根なし草には実は結ばんぞ」 『黄金の巻』 第六十四帖 [575]

「そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ」 『月光の巻』 第三十四帖 [821]

「判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ」 『星座の巻』 第四帖 [887]

 そして、天之日津久神様は学を超えて神の学に到るために()()を読むことの重要性」を繰り返し説いています。

「この世のやり方、わからなくなったら、この()()()をよまして呉れと云うて、この知らせを取り合ふから、その時になりて慌てん様にして呉れよ」 『上つ巻』 第九帖 [9]

「神示よんで呉れよ、神示よまないで臣民勝手に智恵絞りても何にもならんと申してあらうがな」 『地つ巻』 第二十九帖 [166]

「どうしたら お国の為になるのぞ、自分はどうしたら好いのぞと取次にきく人 沢山出て来るなれど、この神示読めば、どうしたらよいか判るのざぞ。その人相当にとれるのぞ」 『日月の巻』 第三十四帖 [207]

「神示読まないで智や学でやろうとて、何も九分九厘で終局(りんどまり)ぞ。(われ)(われ)ががとれたら判って来るぞ。慢心おそろしいぞ」 『夜明けの巻』 第十一帖 [331]

「此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。従ふ所には従はなならんぞ」 『雨の巻』 第三帖 [337]

「三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、()()探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示 肚にはいれば()() 見え透くのざぞ」 『雨の巻』 第十帖 [344]

「此の神示よく見て この先 ()うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事 計画しておいでますと云ふ事 判らいで政治ないぞ、すればする程 悪うなるぞ」 『雨の巻』 第十四帖 [348]

「此の神示 読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん此方(こちら)でくづれぢゃ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「此の方の神示 元と判りながら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ」 『雨の巻』 第十五帖 [349]

「世界の人民 皆 青くなって、どうしたらよいかと何処(たず)ねても判らん事近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、神の心が九分通り臣民に判りたら、神の政治 判るのぢゃ」 『マツリの巻』 第七帖 [411]

「早う神示読んで神の心 汲み取って、ミロクの世の礎 早う固めくれよ。(そろ)(ばん)のケタ違ふ算盤でいくらはじいても出来はせんぞ、素直にいたしてついて御座れ、見事 光の岸につれて参って喜ばしてやるぞ」 『梅の巻』 第二十七帖 [454]

「己の知では分らん、大神様とはアベコベのこと考へてゐては逆さばかりぢゃ、神示よく読んで誠の仕組 仕へ奉れよ」 『青葉の巻』 第二十二帖 [491]

「まことに求めるならば、神は何でも与へるぞ。与へてゐるでないか。御用は神示見んと判らん道理 判らんか。誰にも知れんこと知らして、型して見せてあるでないか」 『黄金の巻』 第三十六帖 [547]

「今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢゃ。神示よめよ。()(フミ)世界にうつせよ。早ううつせよ。早ううつせよ。人間の智のみでは世界はよくならん」 『春の巻』 第十五帖 [672]

 以上のように、日月神示には とにかく「()()を読め」や「()()(はら)に入れよ」といった記述が多いのですが、その理由の一つは()()を読むことによって学を超えられる」という点にあると推測されます。

 この推測の背景となる部分について少々補足しますと、これは日月神示で詳細な“霊界論”が展開されていることに(たん)を発しています。ただし霊界論には、天と地、霊と物質、神と人間、そして根元神と森羅万象の関係なども(ほう)(がん)されていますので、実質的に展開されているのは“三千世界論”です。言うなれば、

日月神示には“三千世界の全体像”が提示されているのです。

 これらは“全と個”“全体と部分”の関係としても言及されており、日月神示では物事の全体像を把握することの重要性が説かれています。

「全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ。よく心得よ」 『春の巻』 第五十九帖 [716]

 そして、()()を読んで“天地の概要”を知ることは、現在の人間の意識の大半を占める、部分的、限定的、(せつ)()的な「物質世界()()を前提とした考え方」を矯正することに繋がります。それは人間()()の知恵の限界を悟り、(かみ)(まつろ)うことに他なりません。

 恐らくは、こういった形で()()境地(こころ)に近付いて行くことが学を超えることであり、人間の意識を高めることなのでしょう。それが、戦争や天災よりも重視されている“ミタマの立替え”の基本路線であると思われます。つまり、

神と学の“とどめの戦”は人間の心の中で()行われているのです。

 その戦いに勝利する最も適切な手段として推奨されているのが神の心を知ること、即ち()()を読むこと」なのです。

 上記の内容は、一見すると単なる精神論に感じられるかもしれません。しかし日月神示によれば、このように神の心に近付こうとすることこそが、“神経綸の最重要の出来事(メ イ ン イ ベ ン ト)の準備になるそうです。そして、その出来事によって(カミ)の力”が現れ、これまでの物質世界や人間の意識は最後(とどめ)を迎えるとのことです。
<転載終了>