徹底検索、堀進さんのサイトより
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/36966977.html
<転載開始>

地球に生きるものたちだけが神から離れ自由意思を許されたかというと、地球という惑星は生きていくには非常に複雑で困難なところであるため、地球に生まれ変わった人類は、魂の成長を早めたいために、わざわざ困難な環境へ生まれ変わることを選んだのである。そして宇宙でもっとも困難な惑星、地球に生きているからこそ、自由意思が許されている。神は私たち人類に自由意思を与えて、私たちがそれをどのように活用するかを見ているのである。http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/

キリスト教や仏教の教えを歪曲して、教祖が自分自身を「救世主」として信者に崇拝するように要求するような「宗教」は明らかに誤りである。古谷

ほとんど多くの新興宗教の教祖の背後にいる黒幕は、悪い龍や大蛇でありますので、これらを拝む者たちの末路も、悲惨なものがあるかもしれませんので、心当たりのある方は、強制はしませんが、早急な脱会・退会を強くお薦めいたします。 大摩邇

じぶんがどうすればいいかは、自分が知っている、自分しか知らない。だから、他人を信用せず、信じるのは自分だけ、これが答えだそうです。神様は、宇宙の総元の神様だけで、その創造主でさえ、自分と繋がっている。神様の分け御魂=神の子=神様=自分 自分も神様だと気付きなさい。神様を崇めてはいけない、崇めるのは、自分を崇めるのに等しい。大摩邇

神社に落ちているごみは拾って持ち帰ること。

神社にお願いしてよいことは、願い事をするのではなく、自分の穢れ、取り憑いている悪魔や悪霊、を取り払ってもらう、ことはしてもよい。

宗教が”黄金時代には完全に捨てられ、宇宙の法則に取って代わられる”ということではありません。科学と霊性はひとつで同じものであり、宗教的教義は初期の教会指導者たちによって大衆を支配するために本来つくられたという真理が明らかになると、第三密度の束縛から自由になった意識をもつ人々は、彼らの宗教のスピリチュアルな側面を忠実に守るようになるでしょう。そしてつくられた支配する部分はその途中で消えて行くでしょう。マシュー55

鳥居や注連縄は神様を人間の世界から追い出して、こちらの世界へ入れなくするための結界でした。ひふみ神示、日月神示

私に時間というものは無い。私は決して眠らない。私はここにい、かつ私はそこにいた、そしてそこにいるだろう。ここは何億とある惑星のうちの一つにすぎない。意識ある存在は、多くの次元にあまねくある宇宙のすみからすみまでたくさん生存する。私は全てのところで助け、尽くしている。これが私の目的だ。ババジ

神社にいったら、願望や欲望の実現を願うのでなく、「自身の穢れ(けがれ)、取り付いている悪魔」を祓って(はらって)もらうお願いをすることは無料でいくらでもお願いしていいのです。

『伊雑宮』の封印が解かれる時、すなわち、現在の『伊雑宮』の格式が正式に内・外宮と並び、そこに納まるべぎ『三種の神器がそろう時』、伊勢三宮として『伊勢神宮が復活する』というのです。『伊勢神宮が甦った後、地上に天照大神が降臨する。その時、誰もが天照大神の御姿をその目でみることになる。そして伊勢神宮の使命もまた、それをもって終焉となる。』 」大摩邇

素戔嗚(すさのお)尊さんは、“自分自身の心の闇の奥に 通り抜けたところに居ます”つまり、“心の闇を突き抜けると 光に到達します”氷川神社とは、そのような意味で、設置されています。

日本全国に、多く設置されてある神社はすべて、ヒューマノイド型ではない、異種型生命体たちを多く祀っており、一般市民は、そんなことさえ知らずに、闇雲に、お願い事をしている…

宗教団体としてのキリスト教は、もはや、形骸化したものであり、その教えそのものには、何ら真実性がなく、本来、イエス・キリストが伝えようとしていたことと、いかに矛盾しているかということが明らかとなって来るでしょう。カガリ

祈りとは、何かを乞うことではない。私が真の祈りと呼んでいるものは、神の意志が自分を通じて現実化するのを求めることなのだ。私にとって祈りは個人的な嘆願ではなく、崇高な使命や喜びのため、人類全体の幸福のために存在する。このようなレペルの祈りは、大いなるエネルギーとの一体感から生まれるものである。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0911-2.html#30

二元性の世界に現れる前に皆さんのすべては神だったのです。宇宙の偉大な創造主の中の光の存在だったのです。皆さんが低いバイブレーションを体験することを選んだ時に、皆さんは多くのものを置き忘れてきました。ふるやの森

神社の本殿こそ宇宙から降りてくるエネルギーのアンテナです。皆さんもどんどんお近くの神社に行ってください。実感できるはずです。http://tukioyobu.air-nifty.com/

今の日本人は、他人からの自称パワーと称するモノに依存して、自分の自信(自神)を見捨てています。これではダメなのです。自分の中に、最適最善のパワーの源泉がすでに在るのです。他人の違う「規格」を、自分の中に無理にねじ込んでは生けません。規格外のサイズも色(霊的)も違う服を、高い金銭を出して買ってもムダなのです。伊勢白山道

創造主は皆さんです。皆さんはこの世界を、現実性を作り出しました。きらきら星

波動を高めておれば、終末の大患難のときには神さまがそれぞれの肉体に憑かり、一緒になって助かる。
身魂磨きをして、神の憑く体となれば、神の用を成し、神も自分も助かる。http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki20110425.html

皆さんが“神は何処にいるのか?”と誰かが尋ねているのを聞いたとすれば、その答えは、“何処にでも存在している”、というものになります。きらきら星

光を受け取る者は、自分の中に何もないことが求められる。そうでなければ本物の光は、そこから離れていく。光の道

自分をなくし、光の入れ物となり、光の手伝いをすることを魂のよろこびとする者しか、本物はやってこない。
群れを作ったり、その中で自分が一番になったり、戒律を作ったり、資格を与えたりすることは、一切光ではない。光の道

光に生きていると思い込み、実際は闇に翻弄され、闇の手下となっている者たちがいる。彼らは自分が闇の手下となり、闇のエネルギーをふりまいているなどとは、夢にも思っていない。闇もそこはよくわきまえていて、本当の姿は見せず、自分はいかにも光の者だと演出する。それに騙され、ニセモノの光を受け取っている者たちの、なんと多いことか。光の道 http://ameblo.jp/ryujin-angel/

皆さんの身体は皆さんの神殿です。皆さんはその神殿に対して敬意を持って接する必要があります。

神は存在しているすべてのものであり、従ってすべての生命は、神の内部で、永遠に神と一体になって存在しています。

外の神社参拝は、神社の鏡に自分の内在神を写して、そこの土地の精霊神に見せる行為です。
内在神を意識する人間が参拝(鏡に写す)しますと、土地の精霊も元気を人間から頂きます。真相は逆なのです。

神社に神様が居るか居ないか判る方法があります。伊勢神宮と出雲大社と紙に手書きで書いて下さい。それぞれ1枚の紙に、伊勢神宮 もう一枚に出雲大社です。炒った塩を一つまみ、紙に書いた伊勢神宮の上に、出雲大社の上において下さい。一つまみです。 それぞれ舐めてください。神が居る神社は、塩が美味しいですが、神が居ない神社は、塩が苦くて不味いです。

有料先生などが悪霊を祓うのだと自称して、お経や祝詞(ヒ・フ・~など)を血相を変えて懸命に唱えるのを見ますと、本当の魔物は口をポカーンとさせて笑っているのが霊的な実態です。自称先生の集金のためのパフォーマンスに過ぎず、霊的な効力は一切無いです。

あなたは、あなた自身のために祈ってください。あなたが、神社の拝殿前や、聖地で手を合わせて祈るとき、それは、自分自身の中心に向かって祈っています。そのとき、外界の存在に対して祈っていてはいけないのです。「偶像崇拝ではダメ」だということですよね。最善なるスピリチュアル・ガイドたちは、あなたの中心に向かって話し掛けて来るからです。

縁ある困る先祖霊が集まるのが怖いと、懸命にナントカ祝詞を唱えるような人間には、正神のほうから離れて行きます。残るのは、自分だけが良くなりたい、助かりたい、我良しの動物根性の邪霊です。似たモノが寄るのです。

死ぬことはただの移動なんだ。それは美しい多彩色の夢さ。死ぬ前には畏怖を感じていたが・・それはマジック・・純粋なマジックだ。

皆さんは創造主ですが、現在の体験がそれとはかけ離れているために、自分にはそれはふさわしい称号と感じられないかもしれません。しかし、いったん皆さんがフルコンシャスネスに回復すれば、疑う余地もなく自分が創造主だと理解するはずです。

わたしはあなたにこの事実を伝えます:身体が貧しくても霊が貧しいよりも良く、何も持たなくても永遠なるものを無駄にするよりも良く、皆さんのこころに宮殿を建てれば地球上のすべての摩天楼を築くよりも良いでしょう。キリスト

わたしはあなたにこの事実を伝えます。飢えた者に施しを与えてください。それで、あなたは施しを受けることになるでしょう。必要となる衣服をまとってください。
それで、あなたは報われることになるでしょう。あなたのすべての資産を売り払い、それを貧しい人々に与えてください。キリスト
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