そこちょっとつんつくさんのコメントの中より
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1694370.html
哀しいくらい、黄身が好きだから。さんのサイトより
http://oraemond.exblog.jp/14740193/
<転載開始>
 さて、神功皇后が倭(やまと)に凱旋なさろうとしたとき、人々の心がうたがわしかったので、喪船(もふね)〈柩(ひつぎ)をのせた船〉を1隻用意して、大鞆別命をその船にのせ、まず、
「大鞆別命は、すでに、お亡くなりになられた。」
と、いい漏(も)らさせました。
 このようにして、倭へのぼりすすんだところ、これを聞いた香坂[かごさか]と忍熊[おしくま]の兄弟の皇子は、待ちうけてこれを討とうとかんがえ、軍を斗賀野(とがの)〈大阪市北区〉にすすめて、うらないの狩りをおこないました。
 そこで香坂皇子がくぬぎの木に登ると、そこにおおきないかりくるった猪(いのしし)があらわれ、その木を掘りたおして香坂皇子を食い殺してしまいました。
 しかし、弟の忍熊皇子はそのようすをおそれず、なお軍勢をあつめて待ちむかえ、その喪船を攻めようとしたところ、船から軍勢がおりてきて戦闘となりました。
 このとき、忍熊皇子方は、難波吉師部[なにわのきしべ]の祖、伊佐比宿祢[いさひのすくね]を将軍とし、太子(ひつぎのみこ)の大鞆別命の方は丸邇臣[わにのおみ]の祖、難波根子建振熊[なにわねこたけふるくま]命を将軍としました。
 そして、追い退(しりぞ)けられて山城(やましろ)にいたると、忍熊皇子方はむきなおり、両軍退くことなく、ふたたび戦闘となりました。すると、太子方の将、建振熊命が策(さく)をだして、
「神功皇后はすでに崩ぜられたので、さらに戦うべきではない。」
と、いわせ、弓のツルを切り、いつわって降伏(こうふく)したようにみせました。それで、忍熊皇子方はすっかりそれを信じてしまい、また弓をはずして武器をおさめました。
 すると、それをみた太子の軍は、髪のなかから予備(よび)のツルを取りだし、ふたたび弓を張りなおして、忍熊皇子方に追い討ちをかけました。すっかりあざむかれた忍熊皇子方は、逢坂(おうさか〈山城と近江の国境の山〉)まで逃げしりぞき、そこでふたたびむき合って、また戦いました。
 その後も追い攻めて、沙沙那美(ささなみ〈琵琶湖西南岸〉)で忍熊皇子方をやぶり、ことごとくその軍勢を斬りました。
 忍熊皇子と伊佐比宿祢は、ともに追い攻められて船にのり、湖にうかびながら、

 いざわが君
 振熊が痛手負わずは
 鳰鳥の淡海の湖に
 潜きせなわ

〈さあ、主の君よ。
 振熊から痛手をおうまえに、
 水鳥のように琵琶湖に
 もぐりましょうぞ〉

と、歌を詠み、ついに湖に身を投じて、ともに死にました。
<転載終了>