そこちょっとつんつくさんのコメントの中より
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1694370.html
菅野正義さんのサイトより
http://homepage3.nifty.com/kzyk/mukasikonoatarini.htm
<転載開始>
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1694370.html
菅野正義さんのサイトより
http://homepage3.nifty.com/kzyk/mukasikonoatarini.htm
<転載開始>
そのとき私は小学校の一年生だった。私は祖母と町にある学校から村の入口まで帰って来ていた。そこに杉木立に囲まれた神社があった。私はその頃感じていた疑問を口にした。「神社ってどうしてできたの?」山の神神社とか水神様とかは大抵それらしい所にあったから自分なりに理解できたのだが、里と言うか平地と言うか、人家の位置にある神社はその意味がわからなかった。家のようにありながら人は暮らしていない。人は暮らしていないが家のようにある。「昔このあたりには賊がいて荒し回っていた。それを坂上田村麻呂が征伐した。その田村麻呂を祀って昔の人が建てたのさ」祖母はそう言った。しかしその神社は田村麻呂神社とは言わなかった。私はそのことを知っていたし、祖母もそれを知らないはずはなかった。だが私はこの時そのことを口にしなかった。祖母の口から田村麻呂の名が出てきた事がそれをさせなかった。
昔このあたりには賊がいて荒し回っていた。それを田村麻呂と言う武将が征伐した。私は既にその話を知っていた。それは噂をあたりを憚りながら小声で囁くように言われている事だったが、親戚のオジサンは酒飲み話に一座の人とその話をしていた。これを私に直接話してくれたのは、私にしょっちゅう昔コを語って聞かせてくれていた近所のオバサンだった。小学校に入る大分前である。そのオバサンが或る日「昔このあたりには賊がいて」と語りだした。それは独特な調子である。声高には言えないが、声をひそめてでも伝えて置かなければならない事は伝えておく、といった調子である。そして昔の話ではあるが、田村麻呂の話は何故か昔々とはいわないのである。「昔このあたりには賊がいて荒し回っていた。それを坂上田村麻呂という武将が征伐して平和がもたらされた。そのお蔭でいまも平和に暮らせる」話はこれで終わりである。私はよかったと思う。もしそのとき賊が征伐されていなかったらいまも混乱が続いていたかも知れない。けれどもこの話は声高には語れないし、気持ちの中ではこれで終わりではないのである。この先はそれぞれの心の中で続けられねばならないし続けられるのである。何故か。オバサンはその理由を説明したりはせず、ただ、お前はこの話から何を感じ取るかといった目でじいっとこっちの目を見るのである。他の昔々の話ではこんなことはない。
この、昔このあたりを荒し回っていた賊を征伐した田村麻呂の話が祖母の口からも出たのである。無論、祖父も知っているに違いなかった。つまり大人達は口にはしなくても、みな、昔このあたりに賊がいた話を知っているということである。それはカチカチ山とか桃太郎の話を知っていることとは意味が違うのである。田村麻呂に征伐されてしまったが、昔このあたりに賊は《実在》していたのである。
この日、祖母は学校に学芸会を見にきて、私のやる番が終わると、ほかのものは見ずに私と一緒に家に帰ったのである。全部見て行けばいいのにというと、お前のやるところを見たから、もういいと言った。祖母にはそうしたところがあった。私が祖母と一緒に学芸会を見られればいいのだが、生徒は会場に入ることを禁止されていた。
東京に出て働くようになると、私は新谷行の『古代天皇制国家と原住民』を買った。この列島には後来の天皇族とは別に、原住民、つまり先住民がいたのである。天皇族は先住民を賊呼ばわりしていた。熊襲。隼人。国樔。土蜘蛛。蝦夷(エミシ)。アイヌ。これがこの列島の原住民、先住民である。弥生期以前につながる人々である。彼らは天皇族に賊呼ばわりされ『征伐』され続けたのである。『インディアン』たちのように。無論『インディアン』たちよりはるか以前から。
私はこの国の歴史を、先住民の側から、来られた側から、侵略された側から、見ようと思うのである。何故なら私は東北の蝦夷(エミシ)の後裔なのだから。それは、歴史を、敗北した人々の側から検証することでもある。
ここでさき回りして、一つのエピソードを紹介して置きたい。丸山静著「熊野考」に、熊野の浜の宮王子権現のお社にニシキトベの命の碑が建てられているとあるのに出会い、見に行ったことがあった。補陀落山寺のそばである。ニシキトベの命と言えば、長髄彦征伐に向かう神武が熊野に上陸したとき最初に殺した祝(ハフリ)である。そのときの「賊」の碑がいまなお建てられてあるとしたら見に行かずにはいられない。だがある筈のそれを見つけることが出来なかった。着いたのが夕方である。近くの公園のベンチで話をしている二人の男の人に尋ねた。若い方の人はそんな事は聞いたことがないと言ったが、年配者の方は、待てよ、どっかで聞いた事があるような気がすると言った。しばらく考えたあと、くわしい人に聞いて来てやるから待っていて、と言った。答えは大神社という神社の右側にあるということだった。すぐわかった。左側には三狐神の碑があった。私はこの社の手前の大樟のあたりばかりを探していたのである。私が聞いて来てくれた人にお礼を言っているとき、壮年の男の人が急いでやって来て、申し訳ないことをしたと言った。もしかしたら右と左を間違って言ってしまったかも知れないというのだ。そんなことはありません。すぐわかりました。ありがとうございます。とお礼を言うと、その人は、こうしたものを訪ねて来てくれてとてもうれしいです、といって、中村忠壽著『大神社の祭神について』という小冊子をくれた。明治政権による廃仏毀釈と神道化政策による祭神名や神社名の混乱などをただすために書かれたものという。明治政権は神武神話を歴史化するために強権をふるったのである。暗くなりかけた中で歴史について思うところを話しあった。壮年者は自分の祖先は柳田国男の言う海の道をやって来たのではないかと思うと言った。私はそう言う人に出会ったのは初めてだったが、その風貌からその説は説得力があった。骨格といい皮膚の色といい存在性といい、遠い昔から海を舞台にしてきた海洋人の子孫という気が濃密にするのである。人による歴史である。
歴史にかかわる土地を訪ねると、こうして天皇族による侵略以前の先住民意識を持つ人に出会うことがある。その心はおおらかで、どっしりとした存在感を持ち、深く大きなエネルギーをもらうことができる。稀に先住民の側に立つことができない白皙のインテリと先住民論を交わすとき、彼らは大抵触れられたくないタブーに触れられたようにヒステリックになる。彼らの知識は無意識の底にある本当の事には蓋をした存在の根が浅い知識だからである。
さて蝦夷(エミシ)である。そこは胆沢の地。現在の岩手県水沢市である。―延暦廿一年(八○二)四月十五日、夷大墓公(イタモノキミ)阿弖流為(アテルイ)、磐具公母禮(イワグノキミモレ)等五百余人の種類を率いて降る―。この後アテルイとモレは田村麻呂とともに河内国杜山(もりやま)に行き、八月十三日(新暦では九月二十九日にあたる『確執』)首を斬られた。以後、侵略軍は秋田の方にやってくる。
昔このあたりに賊がいて荒し回っていたのではなく、昔このあたりに侵略軍という賊が来て、荒し回っていたのである。五万余人といわれる侵略軍をアテルイとモレたちは、一度は大破し撃退したのだが、天皇桓武は執拗に侵略軍を送り続けた。最大のときには十万という大軍を送り込んだ。それでもエミシたちは敗れることはなかったが、郷土の荒廃はどんなだったろうか。焦土にされてしまったのではないか。
そして、田村麻呂が将軍になってからは戦況が変ってくる。それまでは、戦争などしたくもないのに、強欲な天皇にせっつかれて仕方なしに戦闘を開始するといった側面が紀古佐美などにはあったのに、渡来系と言われる田村麻呂ははっきり戦果を上げるために戦うのである。将来の地位はそれによってつかみ取るしかない事が彼にはわかっていたからである。
河内国、現在の枚方市杜山でアテルイとモレの首が斬られたとすれば、そこに首塚があるのではないか。私はその首塚を訪ねて見ようと思った。しかし杜山が枚方市のどこにあるか、地図を見ても地名辞典で探しても見当たらないのである。史書にも出ている杜山が何故地名辞典に載っていないのか私にはわからない。仕方なしに私は枚方市の観光課に電話してアテルイとモレの首塚の在り処を尋ねた。天皇皇極の面前で中大兄皇子、中臣鎌足らに首を斬られた蘇我入鹿の首塚も『観光』の対象になっていて、飛鳥に行ったとき、私は行って見たのである。用件を話すと相手がかわった。史跡保存課ですとか言った。はっきり聞き取れなかった。私には聞きなれない課名だった。私は用件を繰り返した。相手は―そういう問いにはお答えできません―と言った。―確かにそういう説のあることは知っていますが、その説は根拠のない説であり、根拠のない説にはお答えできません―。
根拠がないといっても日本紀略などには載っていることではないか。そういうかわりに私は―その根拠のない説が枚方市のどこに阿弖流為の首塚があると言っているのか知りたいのですが―と言っていた。―だからこちらとしては根拠のない説を教えることは出来ないと言っているのです。第一、河内国で首を斬られたと言っても、それが枚方市なのかどうかさえわからないのですから―。
いかにも迷惑そうだった。阿弖流為などというものが実在したかどうかさえ分からないという口振りになっていた。たとえそれが実在し、首を斬られたことが史書に書かれているとしても、そんなことは現在の枚方市とは関係ないし、関係を持ちたくない、とその口調は言っていた。
私は一つのことを理解した。畿内人としては野蛮な蝦夷の首などにかかわりたくないのだ。杜山とはどこかを尋ねるどころの話ではないのだ。『観光資源』としてもそんなものは拒否されるのである。自分たちの市がそんなものとの関わりで論じられる事がいかにも迷惑そうだった。と言うことは、こうした方面からの不快な接触が間々あるということかも知れなかった。しかし、杜山とは現在のどこを指すかが不明である以上、枚方市にも一理あるのだ。河内国は広い。
私は暗澹とせずにはいられなかった。阿弖流為の首塚がただ話だけでもこんなふうに忌避されるとは思いもよらなかった。入鹿や将門の首塚が話だけでこんなふうに忌避されることがあろうか。もしかしたら、賊の中の賊の阿弖流為と母礼には、首塚も残されなかったのだろうか。
気の重い日々が続いた。問題打開の糸口が見いだせないのだ。それでもその頃、縄文ブームとか歴史ブームとかで、新聞や雑誌でそうした関係の記事を目にする事が多かった。そうした中で、蝦夷の首長アテルイの首像の複製が水沢市役所に展示されているという雑誌記事を私は見た。原物は鹿島神宮にある。私はこれを機に、念願だった白河の関を通って水沢市まで行って見ようと思った。蝦夷の後裔にとって、白河の関を通って東北に行くことは、観光気分で出来ることではない。田村麻呂以前から明治の一山百文までの、敗北と屈辱の歴史を歩くことなのである。耐えきれないような気の重さを抱えて行くのである。
関跡は幾つも歌碑などが建てられていたが、それ以上の観光地化はされていなかった。私はほっとした。関跡が発掘調査された際に発見されたという縄文時代の石棒が展示されていた。それと同形のより大型のものを私は引っ越した信州で見た事があった。しかし何よりも私の心を和ませたのは、丘の上の陽だまりに咲いていた数輪のカタクリの花だった。それは私の故郷の秋田ではカタゴとも呼ばれ、山里に群生し食用にもされた。縄文人たちもそれを食用にし、女の子たちは葉っぱを頬づきのようにふくらませて遊んだかも知れない。
私はそこから侵略軍の前進基地多賀城城址に行った。アザマロの叛乱の地でもある。礎石のほかに築地塀が少し残っている。強い風の中で数人の人達が花見の宴をやっていた。城址の近くに東北歴史資料館があった。そこで蝦夷の歴史はどのように展示されていたか。来られた側、敗れた側は、来たものたちの歴史をどう展示するかである。来られた側、敗れた側の歴史は残らない。ここでまた先回りして言えば、私は神武族に敗れた墨坂族の神社を訪ねたことがあった。春日大社風の朱塗りの社殿。そこの祭神は侵略側の天御中主とかなのである。墨坂族の霊はどんな眠り方をしているのか。私は唖然としてしまい、彼らの痕跡を僅かなりとも確かめるために立ち止まっていることも出来なかった。墨坂族は本当に根絶やしにされてしまったのだろうか。
東北歴史資料館で目を引いたのは、何といっても三十万年前と四十万年前の石器である。が、石の種類の見分けもつかない私には、その十万年間の違いを見分けることは出来なかった。五十万年前の石器の発掘も夢ではないと掲示されていた。そうなったら嬉しい事である。ただ私は、外国のある考
古学者が、発掘で多くの成果を上げた後で、自分のイニシャルの入った土器片を発掘する成果まで上げてしまったという話を読んだことがあって、一抹の不安を覚えないこともなかった。発掘しているのが民間の団体なのである。掘って出なかったとは言いづらい。その外国の考古学者の場合、友人たちが彼を喜ばせようとしてしたことだったが。ひと頃、東日流(つがる)外三郡誌という「新発見の古文書」も話題になり、その信憑性が問題になった。ただこの偽作批判は、同じだけ常に「正史」と言われるものに対しても向けられねばならないと私は考えるのである。
つぎに私は、悪路王が住処にしていたという平泉町の達谷窟(たっこくのいわや)に行った。桜が満開で観光客が多かった。風は止んでいた。坂上田村麻呂公創建の毘沙門堂。西光寺。その建物は小規模だが清水寺式の舞台造りになっている。私はその『拝観券』の由来書きに唖然とする。『8世紀のはじめごろから朝廷の政策として進められてきた東北開拓が、えぞ(先住民族)の抵抗のために捗らない状態だったので、何度か東征が行われてきました。8世紀末には、この達谷窟によった悪路王らの勢力が強大となり、国府などの力ではおさえることが出来ないので、桓武天皇は、坂上田村麻呂公を征夷大将軍にして延暦二〇年(八〇一)遂にこれを征伐することができました―』西光寺とは恐ろしい寺と言う他はない。西光寺にも東北に先住民族がいたという認識はあるのだが、その先住民は征伐して当然なのだ。これが後には海外にまで拡大されて行く。そして原爆の憂き目を見る。
定村忠志著『悪路王伝説』に悪路王と達谷窟のことが詳しく書かれている。私が舞台造りの毘沙門堂の二階に上がって行ったとき、この著書にあるように女の説明人が説明にきた。私は彼女たちは清水寺が派遣した、蝦夷は賊で田村麻呂はその賊を征伐した善なる武将説を流布する工作員だと思った。
中尊寺を通り過ぎいよいよ水沢市役所である。日曜日だったが電話で了解を得ていた。通用口に行くと係員がホールまで案内してくれた。平日には多くの市民が所用のために訪れる市役所のホールの、中央の柱を背に阿弖流為の彩色された実物大の首像はガラスケース内にあった。地方の新聞社の寄贈である。吊り上がった目と眉、への字に結ばれた唇、高い鼻は木地が出るほどこすられている。額と唇の下に打ちこまれたカスガイが塗料がはがれてあらわになっている。髪は短い髷に束ねられている。鋭い目つきのいかにも賊らしいふてぶてしく剽悍な面構え。そうには違いないが、見る角度によってはそれに劣らず沈鬱な感じもした。鋭い眼差しで、外にあるものだけではなく、自他の内にあるものもひるむことなく見据え、何事かに思いをこらしているのである。
これはどうしても鹿島神宮にあるというオリジナルを見に行かねばならない。それに田村麻呂の清水寺にも行き直さなければならない。これまではどうしても田村麻呂は伝説上の人物のような気がしていたし、清水寺も侵略者の手先田村麻呂の創建したものとは知らず、十代の頃に観光気分で行っていた。しかし彼はそこに加護を祈願して侵略に来たのである。
この後、京都の旅案内を見ていた私は、田村麻呂の墓の項目のあるのに気づいた。また歴史雑誌に、枚方市の片埜神社にアテルイの墓と言われるものがある、とあるのを見つけた。雑誌の表紙はあの阿弖流為の首像である。私は京都へ行った。
駅は建て替え中である。平安遷都1200年記念事業の看板が出ていた。遷都1100年には平安神宮が作られた。もしかしたら田村麻呂の墓もそのときに新築されたのかも知れない。天皇桓武の墓もその時に。奇妙にも、飛鳥で一番古いはずの天皇神武の墓が、飛鳥の・遺蹟・の中では一番新しいのである。付近の住民は明治になって神武の墓作りのために立ち退きを強要された。でもそれらしく時間を経た大樹の森があるではないか。あれは墓を作るときに全国から移植されたのだと住井すゑは書いている。明治権力は権力誇示のためには強権によって何でもした。今回は駅の改築である。
中国共産党は支配権を掌握した一九四九年十月一日を「建国の日」にした。まるでそれ以前には、あの古い歴史を誇る中国に国がなかったようである。無論、共産党支配による国はなかったのであるが。ところで支配権を掌握した明治権力は、文明開化を喧伝する一方で、「建国の日」を権力を掌握した日ではなく神話時代に設定した。握った支配権を過去時間に逆行させ、明治権力は神話時代からあるように見せかけたのである。歴史とは支配権力によって作られるもの、を地で行ったわけである。結果、この国には昭和になっても神話時代が存在する事になったのである。それどころかそれが敗戦によってその非科学性を思い知らされた後の今日になっても、最もリベラルと目されている教養豊かな識者達もマスコミ人も、精神に深く割礼を施されたように、この専制支配観念を脱却できずにいるのである。この人達はユングの言う「プロクルステスの寝台」に合わせて、足りないものは叩き伸ばされ、はみだしているものは切り取られ、精神を蛸壺化されてしまっているのである。そこに「優越感麻酔」をかけられて。
人は何故こうした支配観念の囚人になってしまうのかといったら、それがその人の行う自己存在の表象の拠り所になっているからである。人は表象(意識)する存在である。表象作りには根拠と材料がいるのである。それが有史以来の専制支配によって、その根拠と材料は神聖で絶対で固定的でなければならないと思い込まされているのである。だが現代人の自由な意識感覚は、そんなものは権力によって捏造された虚構に過ぎないことを見抜いているだけではなく、そのことにウンザリしているのである。行き詰まりを通り越して窒息を感じているのである。どうしなければならないかは明らかである。意識表象はそれぞれの個々のものである。人はその意識表象の根拠と材料を、外側からだけではなく自分の内側からも得ているのである。私がこうして自分の意識の底を探らずにいられないのも、「来た側」とは違う自分の隠れた意識(無意識)が、おのれの表象のオリジナルな根源を求めずにはいられないからである。権力による建国以前の、神話以前の先住人の。それを知らずに何が自分かという思いがあるのだ。ユングによれば、人間の無意識の底には、父母未生以前の記憶どころか、宇宙誕生以前の記憶も存在するらしいのだ。無の記憶どころかそれ以前の記憶も。けれどもこの無やそれ以前を覗き込む事は、教養豊かな知識人や常識人ほどしないものらしい。だからといってそれを神や合理や絶対的な壁で塞いで無関心化することも出来ないのである。人間の意識は常にその塞いでいる壁や埒を超えることを本領とするのだから。
阿弖流為、母禮の『処刑斬首』は、八〇二年(延略二一)八月十三日であり、斬首一二〇〇年忌は二〇〇二年である。桓武の平安遷都は七九四年(延暦十三年十月)である。この年、桓武は怨霊に祟られ通しだった長岡京の造営を諦め、平安京に遷都したのである。この年は十万の大軍を蝦夷の地に送り込んだ年でもあった。私は阿弖流為、母禮斬首一二〇〇年忌までに彼らの首塚にたどりつけるだろうか。
京の街中は、建都一二〇〇年祝祭に関わりを表すところもあれば表わさない所もあった。バスも祝祭の看板をつけているものもあればつけていないものもあった。私はうつむかずに歩いた。私はまず田村麻呂の墓に行った。郊外のバス停の近くである。やはり一一〇〇年記念事業で整備されたことを示す看板が出ていた。小さな土饅頭型の墓があり、位と名を記した小碑があり、その前は小公園になっていた。
それから清水寺の田村堂に行った。扉は閉ざされたままで何が入っているのかは知る由もない。位牌でも納められているのだろうか。お前が阿弖流為ら蝦夷たちを殺したのだ。私はその閉ざされている扉越しに言った。おれたち蝦夷は、来られた側、敗れた側から、お前とお前を送り出したものたちのつくった歴史を検証し続けてやる。来られた側から。
それだけ言うと、私は清水寺は見ず、枚方市牧野の片埜神社に向かった。片埜神社は河内一宮で創建は野見宿禰の時代にさかのぼると説明書きにある。河内は古い歴史を持っているのである。境内を歩いて見ても首塚らしいものは見当たらなかった。あいにく社務所には誰もいなかった。誰かに尋ねなければ来たことが無駄骨になることがわかっていても、枚方市役所の経験以来、立場の違う人に声をかけることが気重になっていた。呼び鈴を押すことができない。地元の年配者が通りかかってくれれば一番いいのだが、そうしたこともなかった。いつまでもうろうろしていることも出来ず、私は境内を離れた。あまり人も車も通らない道路を隔ててすぐ公園があった。中央に大きな樹が枝を広げている、円く一段高くなっている植え込みがあり、その回りでは遠足にでも来たのか、大勢の幼稚園児たちがにぎやかに遊んでいた。その引率者のなかに、阿弖流為の首塚のことを知っている人はいそうになかった。研究者でも取材をこととする職業人でもない私は、偶然を当てにするしか、自分の求めているものに出会えないのである。することははかどらなかった。
翌一九九五年八月、盆休みに私はやっと茨城県の鹿島神宮に行った。そこの宝物館で悪路王(阿弖流為)のオリジナルの首像と対面した。水沢市の複製と比べてオリジナルの顔は赤味がかっているような気がした。複製は薄く黄緑色がかっているように見えたのである。ガラスのケース越しに見たためだろうか。あとはかわらなかった。
丁度昼食時で、受付係がミコから白い着物に青い袴の男性の年配者に代わった。痩身厳格な剣術師範といった風貌をしていた。私はしばらく躊躇したあと、近づいて行き尋ねた。
―悪路王についてお話を伺いたいんですが―。―話をうかがいたいといわれても何も―。相手は机の上の手元に目を落としたままで言った。当然だった。得体の知れないものには何を話していいかわからないのである。―水沢市にある悪路王の首像はここのものの複製だということを聞いて来たのですが―。ほう、というように相手は私の顔を見た。―そう言えば、そういうこともありました。市役所からという人たちが来て、写真を撮ったり寸法を測ったりして行きました―。―水沢市では悪路王の首像というよりも阿弖流為の首像といっているようですが―私がそういうと剣術師範風の人は、―今年もあちらから、複製ではない本物を見るために、貸し切りバスで見学に来ました―といった。―悪路王の本物の首像を見るためにわざわざ貸し切りバスで来たんですか―。―そうです。随分関心を持たれているようです―。
それは何を意味しているのだろう。私は言葉をのんだ。それだけ蝦夷は自分のアイデンティティを探し求めているということだろうか。自己が自己であるところの本源を。
―私はただの好奇心からですが、この阿弖流為の首像とも呼ばれている悪路王の首像について知りたくて、阿弖流為が首を斬られたという河内の国の杜山、現在の枚方市に行って来たんです―。剣術師範風の人はじろりと私の顔を見た。
―行く前に、枚方市役所に電話して、枚方市にあると言われている阿弖流為の首塚の所在地を尋ねたら、それは根拠の無いことで、根拠の無いことには答えられないって断られたんでが―。すると、相手は驚いて言った。
―私も初耳だ。そんな話は聞いた事がない。わたしはその枚方市の出身なのだが、そんな話は聞いたことがない―。
私も驚いた。こうした出会いを奇遇というのだろうか。それともただの偶然なのだろうか。河内国に阿弖流為の首塚を探しに行って来た後、鹿島神宮に阿弖流為の首像の原物を見にきて、そこで河内国の出身者に出会うとは。
そこで私は、枚方市に電話して以来心にかかっていることを尋ねて見る気になった。―畿内の人は、蝦夷とか東北の人に蔑視の感情を持っているんではないですか―。―その通りだ―。剣術師範風の人は何のためらいもごまかしも無しにきっぱりと言った。それは痛快だった。あるものをその通りはっきり認めたのである。歴史的にそういうふうに権力によって扱われてきたのだから、地域の人にそういうふうな感情があっても少しも不思議ではないのだ。だが剣術師範風の人はそれからこう言ったのだ。―しかし、根拠が無いと言って答えないのは良くない。根拠がない事も一つの仮説として調査をして答えを出さなければならない。真実はそうした積み重ねで明らかになるのだから―。
存在に対して、カサ上げするのでもなくカサ下げするのでもなく、当たり前な態度を取ることが出来る人がいると私は思った。数は多くなく一般的なあり方としては現れてはこないが。それと、事が成るのは、《われ》の意志よりは《それ》の意志によってだということである。《それ》が許容しない限り、《われ》は《それ》に試練を課され続ける。
鹿島神宮で、私は大きなものに出会った気がした。しかし首塚に関しては依然として何の進展もないことには変わりなかった。厚かましくも私はそこで首像の写真を撮らせてもらったりしたのだが。
帰って来た後、私は街に行ったついでに馴染みの書店に寄り、なかばヤケクソ気味にエミシに関する著書を探してもらった。その中に『大和政権と蝦夷の確執』という著書があった。副題は『阿弖流為母禮之碑建立記念出版』である。しかしそれはその書店の取り扱い外の地方出版社の書籍だった。
その足で私は図書館に行き、またしても地名辞典を開いた。無い事はわかっているのだが、その無い理由がわからないのである。二種類の辞典を開いても無いのだ。何度見てもないものはなかった。むなしい気持ちで帰りかけた時、同じ辞典類の棚に見馴れない事典のあるのが目に入った。『平安時代史事典』、上下に分かれた大きな事典である。前からあったのに迂闊に気づかずにいたのだろうか。それもあり得た。それはともかく、平安史というからには阿弖流為が載っているだろうか。私はいままで辞書類で阿弖流為の名を見たことがないのだ。広辞苑も六版になってやっと阿弖流為は記載されたのだ。平安時代史事典はどうか。無かったら平安時代史の偽物である。あった! それだけではなく参考資料として神英雄著『蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察』(歴史と伝統所収)と、高橋富雄著『大墓公阿弖流為と磐具公母禮』(古代学叢書所収)と、さらにもう一点が上げられていた。無いことがわかっているのに、二度ならず三度までも同じ探し物をしに来た自分に、私は苦い感謝をした。
二点の参考資料とも都立図書館にあった。神英雄の『斬殺地の考察』は二十種以上の写本検証による厳密なものである。それによれば、繰り返された書写で(当然当時は手書きだった)杜山は植山のくずし字の誤写という。本来は植山であり、地名も植山が上山になり、宇山になった経緯があるという。
これで杜山が存在しない理由が明らかになった。学者に感謝である。さらに高橋敏男編著『確執』も手に入れることが出来た。それには、京都清水寺境内に『北天の雄、阿弖流為・母禮の碑建立』のパンフレットが挟んであった。『平安建都千二百年(一九九四・十一)、清水寺の御厚意により、同寺の境内にえみしの両雄の顕彰碑を建立した』。この年、私は清水寺に行っていたのだが、田村堂の前で帰ったのだ。
一九九七年一一月、私はやっと清水寺の、北天の雄、阿弖流為・母禮の碑の前に立った。随分日が経っていた。ずっと体調がよくなかったのだ。パンフレットを見ただけで『確執』の本文もまだ読まないままだった。それでもこの日はとても天気がよく、蝦夷の碑には若葉の頃のような薄緑の葉の影が落ちていた。そして碑には、誰が供えてくれたのか、小さな壺にささやかだが気高く凛とした花が生けられていた。そうした心を持った人がいるのだ。千二百年たって、蝦夷はここまで来たと私は思った。無論、これで終わりではない。
そこから私はまた枚方市の片埜神社に行った。受験生らしい女の子がお参りしていた。他に人影はなかった。道路をへだててある牧野公園に行った。数組の親子が遊んでいるだけだった。静かだった。私は思いきって、その、小さな子供を遊ばせている若い母親に尋ねてみた。―あのまるく一段高くなっているところの、樹の根元に立てられている卵型の石が何のしるしか知りませんか―。答えは予想通りのものだった。―わたしはここの出身ではないもので―。
一九九八年九月、私は鹿島曻著―明治維新の謎『裏切られた三人の天皇』と、鹿島曻、宮崎鉄雄、松重正著―誰が孝明天皇を殺したか『明治維新の生贄』を手にしていた。朝日新聞以外は広告掲載を拒否されたものという。孝明天皇の死の真因をここまで追求する人たちがいるということは私には大きな励ましだった。後日、出版関係者と話す機会があったとき、ああした著書を出版して関係者とかから抗議とかはなかったんですか、と尋ねてみた。無かったという。逆に、ああしたことは神社関係者とかの間では常識だった、という。まさに知らないのはツンボさじきに置かれた一般国民だけだったのである。
もう二〇〇一年五月になっていた。私は五万分の一の地図を用意するとまた水沢市に行った。高橋富雄は『大墓公阿弖流為と磐具公母禮』で、大墓公では意味が通じない。大萬公の誤りではないかといっているのである。現地には大萬館山という山があり、そこには古代チャシ跡と思われるものも残っている。それは魅力的な説だった。私はそこへ行って見ることにしたのである。ただ私は、大墓公に・たものきみ・と仮名をふり、磐具公に・いわぐのきみ・と仮名をふるのはお人好しの読み方のような気もするのである。大墓公は大馬鹿公の、磐具公は蛮愚公の書き換えではないか。朝の連中はその程度の事はしかねない。中華思想にかぶれている当時の権力者は、中央と辺境を峻別し、中央以外に住むものを蔑視し蔑称して憚らないことは歴史が示すところではないか。
それでも私は大萬館山に行った。標高は259m。そこで国見である。造林のため雑木は伐採されていた。素晴らしい眺めである。眼下の代掻きの済んだ水田からはまったく見事な蛙の大合唱が聞こえた。水田のあちらこちらに小山があり、有史以前ここらは松島のように小島の多い海だったのではないかと思えるほどである。古代のチャシ跡は私にはわからなかった。山の肩にあたる部分が広く平らになっているのがそれだろうか。ここに阿弖流為の館があったかどうかはわからない。物見台ぐらいはあったかも知れない。この眼下の広がりの中に天皇桓武の送り込んだ十万の軍勢が充満したのである。その時の蝦夷の老若男女達の気持はどんなだったろうか。
まだ安心は出来ないが、この国はともかく侵略期は通り過ぎた。中国、ロシア、アメリカ、イスラエル、北朝鮮等はまだである。それらの国の民と政府は今尚戦争神ヴォータンに跪き続けているのである。国のためだと言っては政府は民を侵略に送り込むし、国のためだと言われれば民も侵略に行くのである。しかし歴史が教えるように、ヴォータンによって得たものはヴォータンによって奪われる。国と暮らしの安寧を求めるなら、民も政府も侵略期を通り過ぎるしかないのである。
今日私はこれから、新幹線駅のすぐ近くにある羽黒山の出羽神社に行った後、駅の観光案内所に行こうと思う。そこでアテルイが住んでいたと言われる跡呂井や合戦場跡など、蝦夷に関連することを尋ねるのである。いままで私は水沢市に来てもこうした気持ちになることができずにいた。来年は阿弖流為・母禮斬首一二〇〇年忌である。それまでに私は阿弖流為たちの首塚にたどりつけるだろうか。
新幹線の水沢江刺駅前の広い駐車場は車がいっぱいだった。その観光案内所で、私は明るい感じの『アテルイの里』のパンフレットをもらった。私の中でいままでの緊張がとけた。
私は阿弖流為たちの首塚をさがして歩き出す前、同じように天皇族の襲来を受けて戦った、西の朝敵、筑紫の君磐井の故地九州八女市の岩戸山歴史資料館に行っていた。磐井の墓といわれている岩戸山古墳に隣接している。私が入館券を買うと、受付の人は折角来たんですから来館者名簿に記入して下さいと言った。私は住所と氏名を書いた。すると受付の人は、ほう、随分遠くから来ましたねぇと感心するように言った。それは言外に、ここの何を見ようとしてそんなに遠くから来たのか、そんなに遠くからわざわざ見に来るほどの何がここにあるのだろうか、という問いになっていた。私は苦笑した。信州から来たのである。全国区の磐井にとって遠いはずはない。あんまり来る人がいないところから来たために珍しかったのかも知れない。私はただ、ここには石人とか石馬とかがあると聞いたもので、と答えた。受付の人はそれを奥へ告げた。私が展示室へ向かおうとすると、ちょっと待って下さい、いま館長が説明しますからと言った。
遠くから来たということよりも、あまり訪問者がいない所から、わざわざ石人石馬を見にきたということが、受付の人を動かし、館長さんをも動かすことになったのかも知れない。石人石馬は八女市の人達にとってはそれほどの誇りと愛情の対象なのだ。そのことを私は話を聞くほどに思い知らされた。
館長さんは背の高い若く活動的な人だった。地形模型の前に立って古墳や遺跡の分布状況から説明してくれた。八女丘陵一帯は埋蔵文化財の宝庫なのだ。それから筑後風土記に触れながら岩戸山古墳と石人石馬について説明してくれた。既に江戸時代、久留米藩士矢野一貞の研究によって岩戸山古墳が磐井の墓であることが明らかにされていたにもかかわらず、戦後になっても中央の学者からはそれが認められなかったこと。田舎の人間にそんなことがわかるわけがないと思われていたのである。しかし発掘したら、風土記に書かれている通りのものが出土することは間違いないことを館長氏は力説した。現に整地のため一部発掘したところからは、―筑紫君磐井、豪強く暴虐(あら)くして、皇風に堰(したが)はず。―官軍、追ひ尋(ま)ぎて蹤(あと)を失ひき、士、怒泄(や)まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)しき―。と書かれている、官軍によって破壊された石人石馬が出土し、展示されているのである。石の強みである。来られた側の歴史が当時のままの姿で残っているのである。それは圧巻だった。
権力をカサに着る畿内大和とは異なる独自の歴史と文化を持っている郷土への愛。郷土への誇り。磐井への愛。磐井への誇り。自分たちは自分たち独自の歴史と文化を持っているという自信と誇り。熱情。それはたとえ戦いに敗れたとしても、高まることはあっても失われることはないのだ。八女市では自分たちの磐井を主人公にしたアニメ映画までつくっているのである。磐井は自分たちの郷土を守るために戦った英雄なのだ。帰りがけに私はそのチラシももらった。磐井はそこまで復権しているのである。東北の蝦夷はどうであろうか。心もとなかった。明治になってもまだ賊呼ばわりされて戦わねばならなかったのである。
しかし蝦夷の地でもちゃんと『アテルイの里』と銘打ったバンフレットが作られていたのである。ここまで復権しているのだ。私はうれしかった。磐井の里もアテルイの里もその他の先住民系の里も、大地に根ざすものたちは、国つものたちは、その大地性の、国つもの性の、復権のために交流すべきである。大地はいかなる神や権力によっても侵略してはならないのであり、占領することは出来ないのである。
それにしても『アテルイの里』を開いて驚いたのは、そこに『枚方市宇山のアテルイゆかりの地』の文字と、そこに立てられている標示板の写真が出ていたのである。
根拠がないと言っていた枚方市が、蝦夷たちとの関係を認めたのだ。何が枚方市の態度を変えさせたのか、私にはわからない。最初、枚方市に建立することを請願して、根拠がないという理由で却下された阿弖流為・母禮の顕彰碑が、清水寺に建立されたことが影響していることは当然考えられることだったが、私には、あの鹿島神宮の痩身厳格な剣術師範風の神官の方の進言かも知れないと思えてならなかった。あの真実を求める気概―。
これが枚方市宇山のどこにあるのかを尋ねると、係の人は詳しいことはこのパンフレットを作成した『延暦八年の会』に聞いて下さいと言って、電話番号を教えてくれた。延暦八年は、阿弖流為たちが天皇桓武が送り込んだ紀古佐美軍を撃退した年ではなかったか。戦いについて、とても詳しいオジイサンがいたのだが、二年程前に亡くなった、と気の毒そうに言った。地図をもらい、跡呂井の場所と、合戦跡巣伏公園を教えてもらった。小さな櫓があるだけですが、ということだった。上流の四丑橋のたもとにもう一つの巣伏合戦跡があり、そこに巣伏古戦場碑が建てられていることは知っていた。
阿弖流為の出身地とされる跡呂井は、新幹線の駅とは反対側の、川から一キロばかり離れているだろうか、いまは神明神社の境内になっていた。そこには、小さいながら『古代東北の英雄。アテルイ王千二百年祭記念碑。平成元年九月十五日。跡呂井町内会事業。実行委員会建立』の碑があった。
そこから川の近くまで出てしばらく上流に行ったところが巣伏合戦跡公園だった。言われた通り、櫓と合戦跡碑のためだけとも言える小さな公園だった。あたりは水田で、北上川は川原の大きな柳の木の林に遮られて見えない。車から降りると、帽子を飛ばされそうな強い風と共に、アオーンという多数の人の泣き声のような叫び声のような声が起こった。声が起こった方を見ると、近くの水路に小さな橋があり、橋の両側に欄干がわりに弧状に直径十㎝ばかりのパイプがたてられていて、風の吹き方によって、高低長短強くも弱くも大きくも小さくも、鬨の声のようにも悲嘆の声のようにも、戦いで夫を失った女たちの号泣のようにも聞こえた。―アオーン/アオーンど/遠ぐがら叫ぶのぁ/アグロの声/斬られた首た/北さ向けで叫ぶ/アグロの声―。私は相澤史郎の東北方言詩集を思い浮かべた。大地の息、大地の声、風は昔もいまも変らないのだ。私はここで、こういうふうにして、いまも訴えかけ語りかけ続ける蝦夷達の声を聞いたのである。
私は家に戻ってから『延暦八年の会』に電話した。『ゆかりの地』を尋ねると、片埜神社の関係者に案内してもらったという。片埜神社! 私は思わず声を上げた。すると八年の会の人は、片埜神社を知っているのなら、そこで教えてもらった方がわかりやすいですよと言った。それにしても水沢市の人たちと片埜神社とつながりがあるとは驚きだった。
水沢市に行って来てから十日ばかりあと、私はまたまた枚方市に行った。まず牧野公園に行った。おだやかな日和だった。丁度宅配便のトラックが止まっていたので、アテルイゆかりの地公園をたずねてみた。知らないという。やはり片埜神社に行くしかなかった。何故か気が重かった。境内に入って行くと、神社と社務所の通路の中程に、若い神主さんとその奥さんらしい人がいた。神主さんは冠はつけていなかったが、あの神主の服装のままで椅子に座り、奥さんは落ち着いた黒っぽいスーツ姿で寄り添うように立っていた。一つの 務めを終えた後、二人でくつろいで話をしているところといった感じだった。二人はいかにも神職者らしく清潔に爽やかに見え、私はいかにもうだつのあがらないむさくるしい存在に思えた。気が引けた。けれども私は仕方なしに近づき、アテルイの首塚と言われるものを探していることを言い、水沢市の延暦八年の会のことを話し、アテルイゆかりの地を教えてくれるように頼んだ。じっと聞いていた神主さんは鹿島神宮の人のようにスカッとした性格らしく、用件がわかるとすぐ、アテルイの首塚といわれるものはそこの牧野公園の無名の自然石の立てられている所であり、子供の頃には石は二つあったと言ったあと、そこで毎年、水沢市の人たちが来て片埜神社によってお祭りを行っているということも教えてくれた。奥さんは、これですね、と言ってあの『確執』を出して見せた。私はうーんと言うしかなかった。
神主さんはしかし、聞きに来て書くのならいいが、聞きに来もせずに勝手なことを書くものがいて困ると言った。もしかしたら、私もそうして書かれたものを当てにして歩き回っている一面もあるかも知れなかった。神主さんはしかし、そのことはそのこととして、メモ用紙を取ると、気さくに『アテルイゆかりの地』までの、『アテルイ・モレ斬首地』までの地図を書いてくれた。牧野公園を横切って、ここの石段を下りて、住宅地を過ぎて細い道を通って、全部で十五分位、ということだった。いまは一般の住宅の他にアパートとかマンションが出来たが、子供の頃は、竹林が広がっているだけで気味が悪いほどだったという。こうしたことはやはり地元の人に聞かなければわからないことである。
私はふかく感謝の頭を下げて、アテルイゆかりの地に向かった。住宅地の入り組んだ道をたどらなければならなかった。庭木のように、家々の周囲には太い丈の高い孟宗竹が繁っていた。そうした中の、鬱蒼とした竹林の脇の細い道を通り過ぎたところが『アテルイゆかりの地』だった。せっかくの竹林を潰して作られたのかも知れない小奇麗な洋風の『宇山東公園』。この国では、おぞましいいわれのある所はどこでもこんなふうにするのである。広島でも沖縄でも水俣でも。怨霊に棲みつかれないように。そこに標示板が建てられていた。
蝦夷の首長阿弖流為らのゆかりについて
日本の古代国家は平安時代初期においてもその支配は全国に広がってはおらず、東北地方にはえみしと呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。このため朝廷は彼らを辺境の人々として『蝦夷』の字を当て征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対して激しい抵抗を繰り返し容易には屈しませんでした。延暦二一年(八〇二)四月、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷の首長大墓公阿弖流為と磐具公母礼が同族五百余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、七月、二人の首長を伴って帰京しました。首長の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、八月、二人の首長は河内国杜山で討たれました。(『日本紀略』)
蝦夷の首長の討たれた場所については古くから研究され、この宇山の地がその候補地の一つとしてあげられてきました。その根拠は『日本後紀』に「斬於河内国植山」とあるためで、植山は上山に通じ、河内国上山村は元和元年(一六一五)に宇山村に変わったからです。
平安時代初期に属する遺跡の存在については明らかではありませんが、この宇山の地は蝦夷の首長阿弖流為らのゆかりの地の一つとなっています。
平成十一年(一九九九)三月
枚方市
これでどうなるのか。どうなるわけでもない。ただ、小学校一年のとき、祖母に神社の出来たわけをたずねたとき、昔このあたりに賊がいて荒らし回っていた。それを田村麻呂が征伐した。その田村麻呂をまつって建てられたのだと聞かされ、その神社が田村麻呂神社ではないことを知りながら『賊』のことを追いかけて来た。つまり、東北の歴史を、国の歴史を、追いかけて来た。すると賊がいたのではなく、賊が来たのだった。侵略者が―。このことをどうするかがこれからの問題である。阿弖流為たちの斬首で東北と蝦夷侵略が終わったわけではないのである。
私はぼんやりと植込みの石垣に腰を下していた。気がつくと、それまで公園で遊んでいた数組の親子連れや祖母連れが一組もいなくなっていた。もうお昼になったのだ。私はもう一度牧野公園の無名碑の前に立ち、それから家に帰った。
そして私はやっと『確執』を開いて見た。阿弖流為・母禮の碑建立に合わせて、大和政権史を東北の蝦夷の側からまとめたものである。東北は縄文時代を除けば、ずっとこの後来民に戦争を仕掛けられ続けて来たのである。そして敗北し続けた。だからその歴史をたどることはとても気の重いことなのである。敗北し続けたことを悔やむのではなく、戦いにむかない同胞が、戦うに値しないものたちに戦いを強いられ続けたことが、胸を痛くさせるのである。遺伝子を戦争神ヴォータン菌に冒されているものにはこのことは理解できないだろう。こうした厭戦感覚が形成不全だからである。
アテルイ・モレの処刑地と首塚については、『確執』にも片埜神社に隣接して牧野公園があり、公園の中央の盛り土の上に無名の石碑が建っている。これは蝦夷の首領の首塚で、付近の住民が祟りを怖れ昔から碑を建てていたものであるという、とあり、アテルイの首像と無名碑の写真が掲載されていた。処刑地は『杉』という説もあるのだが、片埜神社の岡田神主は宇山説を信奉していて、筆者も同感である、とあった。
阿弖流為・母禮の碑建立についてははしがきに、当初はアテルイの首塚の伝承地、枚方市牧野公園に供養碑を建立しようと枚方市に陳情したが、確証がないということで却下された。しかしどうしても諦めきれず、思案の挙句、清水寺に懇願したところ、快諾されたとある。あとがきには、一九九四年、清水寺がユネスコの世界文化遺産に登録された、とある。
私は二〇〇二年の阿弖流為・母禮斬首一二〇〇年忌を目前にして、ようやく二人の斬首地と首塚にたどり着いた。その間に、彼らのために祀りを行っている人たちや顕彰碑を建立した人たちもいた事を知った。だが蝦夷の後裔として、私自身は、首塚を尋ね歩く以上のことは何もできなかった。そしてそれ以上の事は何もできないまま終わりなのだと思った。
だがそうではなかった。まだ蝦夷に関連してなすべきことがあったのである。二〇〇九年(平成二一)三月、今度は田村麻呂の一二〇〇年忌を迎えることになり、あの閉ざされたままだった清水寺の田村堂の特別開扉が行われることを新聞で知ったのである。阿弖流為・母禮の首塚に行って来てから七
年ということになる。
三月下旬私は行った。改修工事のために長い間シートにおおわれていた田村堂は、柱も軒下も朱色に塗られていた。無料公開だった。履物は脱いで入る。境内に観光客は溢れる程だったが、田村堂の見学者はぞろぞろというほどではなくぼつぼつというところだった。新聞で既にそこにある田村麻呂と夫人の座像の写真は見ていたのだが、堂内に入って実際にその座像を眼前にすると、様々な思いでたたずまずにはいられなかった。何人かの見学者が私の前を通り、座像の前に行き、賽銭を上げたり手を合わせたりただ過ぎて行った。私は座像に近づいて行って見た。宮人姿の田村麻呂像はメタボ気味の夫人像に比べて幾分丈が低く、厳めしくなく、冠をつけた白い顔も細めで、鬱でヒスでノイローゼ気味に見えた。
それから私は受付に戻って特別開扉の小冊子を買った。そのとき私は係の婦人に、田村堂には何が入っているかずっと気になっていたのだが、田村麻呂の座像が入っていたんですねと言った。すると受付の婦人は、貫主さんも初めて見たそうです、と言った。私は、勝った側の大将田村麻呂は座像として残り、敗れた側のリーダー阿弖流為は首像として残っているんですよ、と言った。受付の婦人は、あの、斬られた首の、ですか、と聞き返した。私はその写真を田村麻呂と対面させるために胸ポケットにいれているのだ。それを婦人に見せたかった。私は東北出身であることを言い、子供のとき大人たちから、昔このあたりに賊がいた、それを田村麻呂が征伐したという話を聞かされた事を話し、だが自分で書かれたものを読むようになると、このあたりに賊がいたのではなく賊が来たのである事がわかるようになったと言った。受付の婦人は、こんな話に怯みも不快感も表わさず、落ち着いていた。私は婦人に出身地を尋ねた。こうした事は立場によって感じ方が違うのである。婦人は地元と答えた。あなたにこんな事を言っても仕方がないけれども、私はブッシュに靴を投げつけたイラク人記者の心境なんですよと言った。婦人は驚いたらしかったが、うろたえも取り乱しもせず、やはり落ち着いていた。反論も肯定もしなかったがそらしもせず、相手が言おうとするところのものを受け止めていた。私はここでこんな事を誰かに話すなどとは想像もしていなかった。イラク人記者の真似をして田村麻呂像に靴を投げつける事も、ニュースになるかも知れないしやってみたい気もしたが、やらなかった。阿弖流為の首を、1207年ぶりに、田村麻呂と写真で怨念の対面をさせる穏便な方を選んだ。かたや座像かたや首像の。それが、田村麻呂の座像の前で、蝦夷の後裔の思いのたけを話す事になったのである。そこに親近感を感じさせ、その話を聞くことが出来る婦人が存在したことによって。時々しか新聞を見ない私が田村麻呂像公開の新聞を見たのも偶然だった(久しぶりに来た姉がそれとは知らずに持ってきた)と言うと、受付の婦人は、呼ばれたのですねと言った。もしかしたらその婦人もこの事のために呼ばれたのかも知れなかった。そこで受け付けは交代した。次の係は自己としての意識性などよりは体制への隷従を価値とする男だった。
私はもうしばらく座像と対面したあと出口に行った。するとそこでさっきの婦人が入場者の案内をしていた。三十分交代なんですと言った。私はそこで枚方市の片埜神社と斬首地と首塚の事を話した。婦人は小冊子を読んでいて、蝦夷が一度は征討軍を破ったことは知っていたし、清水寺に阿弖流為たちの碑が建てられたことも知っていたが、枚方市にそうした蝦夷ゆかりの地があることまでは知らないらしかった。無論婦人にはそんなことは無縁なことである。それでも婦人は一心に聞いてくれた。私はそのことにお礼を言った。
その足で私は枚方市に行ければよかったのだが、私が枚方市に行ったのは五月になってからだった。私が牧野公園に行くと、あの無名碑と樹木のある盛り土の壇に接して、平成十九年三月に、なんと『伝、阿弖流為、母禮之塚』の碑が建立されていたのである。何がここまでさせたのだろうか。塚建立の寄附者名を見ると、地元の企業の他に枚方市の関係者名もあった。塚建立実行委員会の会長はどこの出身者か私は知らない。私は、いままで無視されてきた賊としての処刑者たちに、遂に顕彰碑や塚の碑が建てられたことにほっとしながらも、なおこれから出会わねばならない暗い深い渦流のようなもののあるのを感じた。それはこれから人類が担わねばならない課題でもある。私は一個人としてそれをどれだけ意識化出来るか。
片埜神社の境内に行くと、ガラス張りの掲示板に、塚建立委員会発行『郷土歴史教材』の副題がつけられ、かながふられた冊子『阿弖流為と田村麻呂』が展示されていた。それが片埜神社で販売されているのだ。
私はそれを社務所で求めながら、あそこにとうとう塚の碑が建てられたんですねェ、と言った。相手の人は、七年前私が「アテルイゆかりの地」を教えてもらった人である。しかしそのことを私は口にしなかった。相手の人は静かに、こうなるのに千二百年かかったということですよ、と言った。それから、あの塚の保存会が片埜神社に置かれることになりましたと付け加えた。神社と朝敵の賊としての処刑者とのかかわり。片埜神社はこれまでもずっとその処刑者との関わりを続けて来たのである。私はそこでこうして冊子を買う以上のことが出来ない無力感を感じた。その冊子は教材として生徒に配布されているという。
これで「昔このあたりに賊がいた」話はめでたしめでたしで終わるのではなく、もう一つの「課題」に入らざるを得ないのである。阿弖流為・母禮之碑建立記念出版の大和政権と蝦夷の『確執』も、伝阿弖流為・母禮之塚建立実行委員会出版の、郷土歴史教材『阿弖流為と田村麻呂』も、最後は昨日の敵は今日の友の友情と地域間の友好交流に発展する。未来志向である。私もその事に異存はない。郷土歴史教材の出版日は平成十九年九月二十三日(旧暦八月十三日)となっている。つまり阿弖流為達の命日である。思いやりと言うべきか。
それでも私は、私達は日本人として本当に考えねばならないことを回避し、子供に本当に教えねばならないことを教えようとしていないと言わざるを得ないのである。
田村麻呂は自分の意志で蝦夷征伐に行ったのではないだろう。仕えている主君桓武に派遣されて行ったのである。派遣された田村麻呂は武将として功績を上げなければその後の人生は覚束ない。功績とは戦闘によって蝦夷を敗北させ桓武の支配体制に服従させることである。
サルトルはこの君臣の関係を『聖ジュネ』で、硬派と軟派の関係、所有と被所有の関係として説明している。硬派の君主は臣下にどんな不実を見せても構わないが、臣下である軟派は、君主の覚えのいい功績を上げる事が出来なかったら死ぬしかないのである。臣下である軟派は硬派である君主に所有されているのであり、硬派は所有している軟派を守る義務はなく、いらなければ棄てればいいのである。ならず者のボスと手下の関係、家畜と飼い主の関係と同様である。武士道とは死ぬ事と見つけたりもこの関係である。どんな無能不実な主君でも、家来の武士は取り替える事も異議をとなえる事も去る事もできず言うままに仕え死ぬ他はないのである。武士とは主君と専制支配のために死ぬ他はない存在なのである。それで食っているのである。では硬派は軟派に何を与えるのか。被所有、つまり所属である。田村麻呂は自分の意志で蝦夷を殺し物を奪えば強盗殺人者という無法者なのだが、硬派である桓武の意志によって殺し奪えば、桓武の意志に従わない賊の征伐者になるのである。桓武はこの自分の意志によって多くの手下に殺戮させ富を奪う支配域を広げるために、陰謀を廻らし怨霊に悩まされながらも硬派としての地位を確立していくのである。つまり専制支配体制を作っていくのだ。
田村麻呂と阿弖流為の友情を強調する歴史教材は、田村麻呂の背後にあるこの専制支配体制を見えなくする作用のある教材なのである。それは同時に民主主義とは何かも見えなくする。専制支配とは権力を持つものがその権力を恣に振るうことであり、国民はその不実者に服従し死ぬ他はなくされるのである。この国は神武の始めから大東亜戦争の敗戦まで『北』以上の専制支配国家だったのである。専制支配には独裁と集団の場合がある。しかしその支配体制が崩壊して半世紀以上過ぎたいまなお、国民にはその確たる自覚はなく、そのへばりついている残滓と垢の弊害を脱却出来ずにいるのである。
小学校に通い出してしばらくして、下校のとき、級友に誘われて私はその家に寄った。級友は戦争絵葉書をどっさりくれた。私はそんなものは欲しくはなかったが、家に持ち帰って見ていた。幾種類もの軍艦の写真などがあった。そうした中に、三人の兵隊が一本の爆弾を抱えて突撃して行く形の写真があった。それを私の背後から祖母が覗き込んでいた。祖母は、ああ、肉弾三勇士だ、といった。その写真はそういう言い方にぴったりの写真だった。それから祖母は、あの家でも兵隊にとられた、あの家でも兵隊にとられた、と名前をあげて言った。その中には兵隊にとられたきり帰ってこない人の家もあった。肉弾三勇士とは、どこかの、その、兵隊にとられたきり帰ってこない家の人なのである。肉弾三勇士の写真は一見勇ましいが、そういう愚かさの写真なのである。兵隊はその愚かさを勇ましさとしてやらされる。
祖母はそれっきり何も言わなかったが、兵隊にとられること、徴兵は、私を不安にし憂鬱にした。いまは徴兵制はないとしても大きくなった頃あるかも知れない。そしたら大きくなる意味がないではないか。私は兵隊に取られそうになったら、そのために捕まって殺されてもいいから逃げようと思った。戦争で殺したり殺されたりするよりもましだと思う。
その一年生の夏、学校で映画を見に行った。アメリカ側から撮られた日米の戦争の記録映画である。追い詰められた日本は特攻攻撃を始めた。爆弾を積んだ飛行機でアメリカの軍艦に体当たりするのである。その対策としてアメリカはたちまち軍艦を機関砲でハリネズミのようにした。その軍艦が映し出されたとき、館内にはおおっと言うどよめきが起こった。アメリカ軍の対応の素早さと的確さには感嘆するしかなかったのだ。そのハリネズミの砲弾の嵐の中に日本の特攻機は突っ込んで行くのである。無論、特攻機は敵艦に体当たりすることなく海に撃ち落とされる。それを繰り返すのである。アメリカと対照的な日本軍の状況に対する対応の愚鈍さと不的確さ。それは特攻などという戦法を考え出し実行する愚かさを見せつけられることである。
けれども年を重ねても、私の関心は社会にも政治にも経済にもどんなゲームを楽しむことにも向かわず、ただ魂を震撼させられる物語を読むことだった。字を読めるようになった頃、私はそうした体験をしたのだ。この体験の凄さに比べたら、世間的社会的に意味や価値があるとされている事もたいして魅力が感じられなかった。秀才とか金持ちとか地位とかのある人で、魂の底からのエネルギーの解放を体験している人がいるだろうか。自分の原ネルギーの炸裂に出会っている人がいるだろうか。私はそれをしたい。それをしなかったら他の何を得たところで生きていることに何の意味があるか。
人はどうせ死ぬのである。迂愚で無益で無意味で誰にも相手にされないとしても、それまでに私は可能な限り自分にある感覚と論理と神経の最先端に赴きたい。
東京に働きに来てどれだけかした頃、私は会津に行ったことがあった。故郷恋しさに東北の一端に触れに行ったのである。猪苗代湖を過ぎ会津若松市が近づくとともに、私は次第に顔を上げられなくなり、飯盛山も白虎隊の墓も見ず、たださざえ堂に上っただけで逃げ帰ってきた。私は必要は感じながらも、その煩わしさに尻込みして少しも近代史を勉強しようとしなかったのである。そのむくいを受けたのである。しかし私にとって近代史をやるという事は、明治天皇になった、された、睦仁の父親で、維新の直前に不審死した孝明天皇の死因を知る事からはじめねばならないのである。この事を手つかずにして置いて近代史をやっても意味がない。無論公式には死因は明らかである。病死である。それにしてはその後の権力状勢政治状勢の急変は異様である。睦仁は自分の父親と京都を守護していた会津を朝敵にして全然恥じないのである。逆に、御所を襲撃し砲弾を撃ち込み(砲弾が目の前に落ち睦仁は気絶したという)禁門戦争を引き起こし、とばっちりで市民の家二万八千余戸を焼いたという(井上清著『西郷隆盛』)朝敵長州が、孝明天皇が死んだ途端に一転して朝廷側の主導者になったのである。長州がそうなるためには孝明天皇が存命していては不可能で、孝明天皇は排除されねばならなかったのだ。それが行われたのだ。薩摩と組んでだが。その同盟を取り持ったのが坂本竜馬である。
少数ながらこうした動向に疑問を持ち、真因を解明しようとする人たちはいた。病気になったのは事実だったが快方に向かっていることが伝えられていたのである。その矢先の急死である。疑われるのは毒殺だった。幾つかの出版物はそうした方向を示していた。が、その根拠は伝聞によるしかないのである。では誰がそれをやったか。それも推測の域を出ない。このもどかしさを解消する手掛りはない。そうしているうちに、私はもう一つのもどかしさに出会った。
安保闘争である。繰り返された警察の職務質問がきっかけで、私はその現場を見に行くようになった。現天皇の皇太子の結婚のときもそうだったが、この国にこんなに警察官がいるのかと思わされ、この警察力を動員してまで行われる政策とは何かを、考えざるを得なくなっていたのである。
岸信介首相は警察力を動員してでもアメリカのための政策を導入しようとしているのである。そこにはそうまでしてアメリカの意志を受け入れなければならない後ろ暗い事情があるために違いなかった。無論、国際情勢が反映していることも事実であろう。だがその割には導入背景が明確にされないのである。その胡散臭さが私を安保闘争を見に行かせた。安保反対のもとには、国際情勢のためだけとは言えない政策の動機への疑惑があるのである。それは何か。それを知ろうとせずにおくことは、孝明天皇の死因を知る事が出来ないもどかしさにもう一つのもどかしさを重ねることになる。しかしこっちは孝明天皇の死因の場合とは違って、現にいま起きていることで、自分が実際に現場に行って見る事ができるのである。何が岸首相をしてああさせるのか。反対闘争の中からそれを見いだしたいと思う。
だがこの試みは失敗に終わった。機動隊との衝突現場に入り込むだけではなく、笑顔に誘われて飛び入りでフランスデモに参加したとき、握った手からは確信ではなく不確信感が、解放感ではなく閉塞感が、伝わって来たのである。誰もこの安保反対闘争の本当の理由は認識していないという予感があたったのだ。大衆動員した政党は勿論、動員された政党支持の組織人も学生も自発的に参加した一般大衆も、自分の反対闘争の本当の立脚点は自覚していなかったのである。私自身がそうだったように、それを得たいと思っていた事は確かだが。だがそれは得られなかったのだ。逆にそれを得られなかった虚しさに出会っただけである。その事を証明するように大衆行動はその虚しいもどかしさを残して間もなく潰えた。
このむなしいもどかしさから抜け出すのに十年以上かかった。毛利敏彦の「明治六年政変」に出会ったとき、私はやっとそのきっかけをつかんだ。伊藤博文、大久保利通、岩倉具視らが政権の主導権を握るために、西郷隆盛、江藤新平らを政権内から追っ払い死に追い込んだ政変である。それをこの権力は征韓論政変と言いふらし、政治家もマスコミも教育者も学者もいまだにそれを踏襲し続けているのである。
毛利は西郷が公式の場で征韓論を主張した資料は見当たらないかわりに、西郷が最終の閣議に出席する代わりに太政大臣宛てに提出した「始末書」(意見書)のあることを明らかにし、朝鮮使節問題に関する西郷の公式的最終的な見解をあらわしているものとして全文を引用している。そこで西郷は……是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく…と言っているのである。西郷は征韓論など主張していないのである。にもかかわらず西郷は教科書でも征韓論者にされているのである。《それにしても、過去百年間にわたって西郷を征韓論者視してきた通説において、この「始末書」がまともに検討された形跡がないのは、不可解の極みであるといえよう》と毛利敏彦は述べている。不可解というよりは、これがこの国の「知識人」の実体なのだというべきである。
敗戦によって、この長州権力が作り上げた行きつくところが靖国神社の専制支配体制は崩壊させられたのだが、アメリカが占領政策に利用するために復活させつつあったのである。その事への反対と抵抗があの安保闘争だったのである。しかしこのことを、この国のマスコミも、有識者の誰も、指摘し得なかった。
私はこれに関連する面白い例に出会った。図書館の心理学の棚で「なぜ日本人はいつも不安なのか」(岸田秀と町沢静夫の対談)という著書を目にしたのだ。魂を震撼させられる物語に出会えない私の関心は、精神分析や宇宙論に移っていた。その方が小説よりもはるかに面白いのである。岸田秀の名前は既に雑誌「現代思想」の「ユング特集」で知っていた。「ユングの元型について」という題でほとんど罵倒に近い形でユングを批判していたのである。
……本能心理学によれば、人間が喧嘩をすればそれは闘争本能にかりたてられたためで、みんなと一緒にいれは群居本能、一人でいれば孤独本能、人に服従すれば服従本能、金をかせげば獲得本能、…その他すべてのことが本能によって説明されるわけで、……本能そのものについては、遺伝的、生得的な行動パターンというだけで、それ以上の説明はされないのであった。同様に、ユングも、個人の現在の環境や過去の経験だけでは説明しにくいような現象にぶつかると、すぐ元型をもち出してくる。……元型とは、ユングによれは、人類が人類になる以前の動物の時代から無限に反復された経験によって、人類の精神的素質の中に刻み込まれ、遺伝的に引き継がれてゆく潜在的なイメージの可能性であり、いわば、遺伝的イメージのパターン(イメージそのものではないにしても)であって、「遺伝的な行動のパターン」という本能の定義と本質的に変わらない……。……ユングは元型が遺伝的であり、人類に普遍的である証拠として、患者の見た夢に出てくるイメージが、その患者の知っているはずもない遠い国の昔の神話に出てくるイメージに類似しているとか、たがいに遠く離れていて交渉のあったはずもない二つの民族のそれぞれの神話に同じような話が見つかるとかいったことを挙げているけれども、そのようなことが何故その証拠になり得るのか、よくわからない……。
これだけユングの「元型論」を批判している岸田氏が「日本国の精神分裂の根は白村江の敗北にあった」と言っているのである。私は岸田説を知る前から白村江の戦いと敗北のあった事を知っていたが、天皇族は既にこの時代からあの原爆投下を招く事になる太平洋戦争と同じ思い上がった無謀な戦争をする素地があったのだとは思ったが(ユング的に言ったら八百万神の中のヴォータン神にとりつかれていたという事になる)、日本国の精神分裂の根とも不安の根とも感じなかった。天皇族は自分らの権力支配に都合の悪い歴史的事実をどれだけ国民に知らしめていたか。本居宣長や吉田松陰が少しでもこの敗北に心を痛め、この民族の増長思い上り癖が国の未来を危うくする事を危惧していたか。そんな事は「自虐史観」として省みられもしなかったのではないか。あの戦争中も、単一民族の神国日本は世界に冠たる優秀民族であり、戦争で負けたことがなく、対米英戦争も必ず勝つと叩きこまれていたのではないか。疑うものは非国民よばわりされる。
白村江の敗北で日本は本土決戦もしなかったし占領もされなかった。その危機に直面したが敵は本土まではこなかった。が、太平洋戦争では日本本土に原爆を投下されただけではなく占領までされてしまった。まさに未曽有の事態である。「精神分裂の根」は白村江の敗北まで遡らずともすぐそこにあるのではないか。にもかかわらず氏が遡らずにいられない理由は何か。岸田氏の著書では、…「アメリカに強姦されて日本が精神分裂病に陥った」という論拠……が、「白村江敗北分裂病説」よりも先に説かれているのであるが。
……アメリカによる戦後の占領時代というと、ぼくには不快なものを見せつけられたという印象があります。それはアメリカに対する日本政府の卑屈な態度です。一応講和条約が発効してアメリカによる占領は形式的には終わったんですが、事実上は続いているわけで、日本政府の対米態度というのはどう見てもやっぱり卑屈でしたからね。……そういうところから疑問を持ち、占領が終わったのに日本政府はなぜ卑屈なのかということをいろいろ考えました。そして、そもそも日本がアメリカに戦争をしかけたのはどうしてなのかということを考えるようになって、いつごろだったか忘れましたが、ある時、ペリー・ショックというか、日本がアメリカに強姦されたということに事の始まりがあるのではないかという説にたどり着いたわけです…。
このしばらく後で次のように説かれる。
……アメリカに対する敗戦後の日本の態度にもストックホルム症候群が見られるのではないかと思います。……ぼくは、日本の軍国主義が敗北し、権力をかさに着ていた軍人が追放されたことは日本にとってよかったと思っていますし、敗戦後、自由と民主主義が導入され、万世一系、神聖不可侵の現人神なる天皇という誇大妄想が崩壊したことも日本国民にとってはいいことだと思っていますが、しかし、アメリカの自由主義や民主主義などに対する日本の全面的服従、全面的な帰依と言いますか、そこにはストックホルム症候群的な要素があるのではないかと考えているんです。…真に納得して自由主義や民主主義を採用したというのではなく、パトリシア・ハーストが自分を誘拐したテロ集団の一員になり切ったのと同じように、支配者と自分を同一視してアメリカに盲従する態度が戦後の、日本政府、それから日本人一般に見られます。そうだとすれば、軍国主義と同様に戦後日本の対米態度も病的症状ではないかと考えられるのです。……
これはマスコミや有識者によって戦後流布された、典型的な敗戦後史観とでも言うべきものであろう。「悪いのは軍国主義だ」。そこでは見事に、万世一系神聖不可侵の現人神神道をでっちあげて戦争に突き進んでいった、長州権力主導によって作り上げられた専制支配体制批判が封殺されているのである。その体制は敗戦によって崩壊させられた。しかしアメリカは占領政策を効率的に進めるために、その体制を解体しきってしまわずに利用したのだ。まず天皇の戦争責任を追及しなかった。岸信介をはじめ戦犯でも使えそうなものは戦犯を解除した。米英鬼畜を叫んでいた側の者たちがアメリカの占領政策の手先になったのである。卑屈なのは病的症状のためではなく打算のためなのだ。神聖不可侵の現人神制にしてからが、国民に否を言わせずに専制支配を恣にするためであることはわかりきっていることではないか。アメリカに追随している限り、戦争責任は軍国主義に押しつけて、この長州の専制支配体制の残滓は復活に向けて維持されるのである。天皇を先頭にして歩かされる羊の群れである。その天皇の向きを支配する力が、長州専制権力の直接支配からアメリカに隷従する間接支配にかわったのである。だが頭のいい有識者たちはこんな剣呑なことは言わず、保身のために権力の意をたいして上手く立ち回るのである。
「誰が孝明天皇を殺したか」の著者鹿島曻は、日本は明治維新によって列国の奴隷にはされなかったが、現人神体制の奴隷にされてしまったと言っているのである。専制支配の奴隷である。しかし敗戦後、その体制が崩壊して思想や言論の自由や民主主義が導入されるようになっても、識者の誰か、この国は敗戦までは専制支配体制国家だったと言ったことがあるか。これこそが岸田氏の言う「支配者と自分を同一視」してその意志に従うストックホルム症候群ではないか。しかし誘拐されたパトリシア・ハーストが「支配者と自分を同一視して」は、「自分を『捕えている』支配権力と自分を同一視して」にならなければならない。被支配者は何故そんな事をするのか。「解放」されるためである。自分を捕えている支配権力と自分を同一視してしまえば、心理的な捕われの状況はなくなる。これは検察が無実の被疑者を「自供」に追い込む手法でもある。執拗な取り調べによって、やらなかったことでもやったと言うまでは解放されないことを思い知らせるのである。被疑者にはやらなかったことを証明する手立てはない。その結果死刑になるとしても、被疑者は自分をさいなむ取り調べから解放されるために、やらなかった事でもやったと「自供」せざるを得なくなる。人はやったことをやらないという虚偽を言うし、やらないことをやったという虚偽を言う。
この国では国家権力が神でもないものを神だと虚偽を言い、これに従うものは賞賛し、従わないものは迫害した。どっちにしろその先に命はないが、片方は柱として靖国に祀り、片方は賊として貶めた。専制支配は死を必須とする。この権力支配の構造から私たちは自由になっているか。安保闘争のあと、アテルイの首塚に出会ってからも、私は私達日本人は本当に考えねばならないことを考える事を避けているし、避けさせられているという状況に出会い、その理由を考えてきた。それは、自分たちの思考や行動の自覚的な立脚点のなさの理由と、自覚的な立脚点とは何か、を明らかにするためである。
田中彰の「明治維新の敗者と勝者」によれば、あの木戸孝允も「建国之大法」は「デスポチック」につくらなければならないと言っている。彼らは自由な啓蒙思想や共和思想を知らないわけではなかったが、それよりは自分らが手中にした支配権力を恣にふるう体制を作り上げたのである。そこでは当然のことながら、支配者の絶対性や神聖不可侵は喧伝するが、それが専制支配である事を喧伝することはない。けれどもこのことを認識できない限り、日本人は「いつもつきまとう不安」からも「卑屈な感じ」からも「精神分裂」からも解放されることはない。不安や卑屈や分裂からの解放は、意識の底に隠蔽されている、意識化することを避けている、避けさせられている、抑圧されている「本当のこと」を意識化することであることは、つとにフロイトの発見したことであることは、フロイト信奉者の岸田氏のよく承知している事ではないだろうか。「なぜ日本人はいつも不安なのか」は、氏自身の「なぜ日本人であるわたしはいつも不安なのか」から始めねばならないのである。ついでにつけ加えておけば、これからの重要な精神的視点は、ユングの言う「劣等機能」と「プロクルステスの寝台」と考えられる。「劣等機能」は「人間のタイプ」の定義にあるもので、「他の能力にくらべて分化発達の遅れている能力である」。私はこの例をブッシュ大統領に見ることができると思う。就任当初、場をわきまえないその言うことは失笑を買い新聞ダネになった。けれども補佐人の中に、そうした事を認識し矯正することができる人材が配されていたとみえ、失笑を買う事態は間もなくなった。この大統領と小泉首相が短絡的思考の点で気が合ったのである。しかし日本の首相の場合には、大統領のようにはその欠如を補うための「劣等機能補正体制」がないばかりではなく、マスコミはその奇矯性をフィバーのタネにして煽ったのである。その結果が社会のあちこちに「モンスター」を跋扈させる元になったのである。「モンスター」とは、自覚出来る、しなければならない自分の「劣等機能」を、逆に「優越者気取りで自覚出来ないもの」の事である。「モンスター」命名者はこのことを知っていたであろうか。プロクルステスはギリシアの神話伝説に出てくる盗賊なのだが、旅籠を経営していて、ベッドよりも小さいものは叩き伸ばし、大きいものは切り詰めてベッドに合わせた。過合理化効率化社会と教育は、この「プロクルステスの寝台」に自ら合わせられる規格人間でないと生きていけないという状況を作り出すのである。その分、劣等機能モンターが増えるということになる。
この国の、どんなリベラル気取りの知識人も心理学者もマスコミ人もアメリカ従属を非難する政治家も一般国民も、専制体制批判もそれからの脱却も口にする事はない。グローバリズムという名のアメリカの専制資本主義と世界戦略の手先となってコントロールされる長州専制マフィアの力が、そうしたことをさせないためにいたるところに張り巡らされているのである。教科書検定にも、広辞苑編集にも、新聞編集にも、司法にも、政党にも、行政政策にも、外交政策にも、経済政策にも、無論、沖縄の基地政策にも。すべてはアメリカの専制資本主義とそれに隷従する長州専制マフィアの利益のために謀られるのであり、これの妨げになるものは潰される。鳩山もこれで潰された。それがこの国を脱却しようのない閉塞感に閉じ込め続けている原因である。誰であれ、創造力と活力を持った人間であろうとするなら、有史以来支配権力によって無意識の中に沈殿され続けてきた専制支配の垢を《自覚的》に脱却するよりほかはないのである。だがこの国では、高学歴のものほど、保身のために、自分の無意識を覗き込もうなどとしないのである。みんなと同じ蛸壺に入りたがるよう馴らされているのである。
〈了〉
<転載終了>
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子供と女性を人質にして 降伏すれば解放してやると騙され、全て惨殺された
にしきとべさん なくさとべさん そして あくるー王の魂は蘇った
ちなみに ゆ族は北海道に100年前から移り住んでいて 東京が終了したらそこを持ち上げる
その為に 夕張を破綻させた
それを知って 藤原一族等もお引越し中
そうそう 血のことを書かれている方がいらっしゃるが 血よりも骨の形が大切なようですよ