なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-konno.html
<転載開始>

月のUFOとファティマ第3の秘密

コンノケンイチ・著  徳間書店  1993年2月刊
  一連のコンノ氏の本は、「月には先住民が住んでいる」ということが前提となっています。それを証明するために、氏はNASAの宇宙センターまで行って、アポロ宇宙飛行士たちが撮影した月の写真を入手し、その中に写し込まれているUFOや月の構造物などを著書の中で紹介してきました。この本の巻頭グラビアにも多数の写真が掲載されています。どうやら地球人よりもはるかに進化した宇宙存在が月に住んでいるのは間違いがないようです。
  この本では、その宇宙存在とは、1917年にポルトガルの一寒村ファティマで大奇跡を見せた宇宙存在と同じものであると推論しています。しかも、それは聖書を書かせた存在でもあり、古くから月を前哨基地としてわれわれ地球人の監視を続けているのだというのです。その目的は、聖書が述べているとおり「人類は必ず終末を迎える。そのとき選ばれた人だけを復活させるため」だというのです。
  荒唐無稽に思われる氏の考え方も、この本を読んでいただければ納得がいくと思います。ここでは特に、多くの日本人が誤解している聖書の本来の意味について説明した部分を、丁寧に拾って載せました。膨大な聖書に目を通すのは骨が折れますので、そのエッセンス部分としてお目通しいただければと思います。     (なわ・ふみひと)
 なぜマリアはファティマの地を選んだのか?

  それにしても、1917年の大奇跡の舞台に、無名に等しいポルトガルの一寒村ファティマがなぜ選ばれたのだろう?
  はっきりしていることは、大奇跡によってファティマの名が瞬く間にポルトガル中に、ついでヨーロッパ中に知れわたり、まもなく世界中で崇められるカソリックの聖地になったという事実である。そこには何らかの意味が必ず隠されていたはずである。
  よく知られている定説としては、イスラムの預言者モハメッドの娘のファーティマのことで、ファーティマはイスラム圏では理想の女性とされ、とくにシーア派では彼女の手をかたどった護符を愛用し、これを「マリアの掌」と呼んでいるという。
  そして10世紀になって、北アフリカのシーア派のイスラム王朝の始祖アル・マブティーがファーティマの子孫と称し、そこにファーティマ王朝が設立された。その一つのアルカセル城の提督の娘にファーティマ姫がいた。
  ファーティマ姫はゴンザーロの率いるキリスト教側の襲撃にあって捕らえられ、キリスト教に改宗することを条件にゴンザーロと結婚させられた。しかし、姫は結婚後に若くして死ぬ。ゴンザーロは悲痛のあまり修道士となって妻の亡きがらを納める修道院を造った。その修道院の周りに小さな集落ができたのが現在のファティマだという。

  最近、山内雅夫氏著『聖書の呪い』(カッパブックス)を読んでハッとした。その本の最後には次のように述べられていたからである。

  聖母が降臨したファティマという地名は、ひじょうに象徴的だ。ファティマの名前の由来は、アラビアの月の女神なのだ。
  ファティマはもともと宇宙創造の女神であって、その意味は、太陽の根源、エデンの園の木、月と宿命を意味する太母神にほかならないのだ。


  なぜファティマが1917年の大奇跡の地に選ばれたのか。ファティマという名前の由来は宇宙創造の女神、つまり「月と宿命」を意味する「月の女神」だったかららしい。 ファティマで聖母がルシアに「第3の予言」を授けた際に、「10月の奇跡には、私が誰で、何の目的で、どこから来たかを教えます」と告げた。
  「誰?」とは人類のルーツとなる地球外超生命、「どこから来たのか?」は「天界」つまり彼らの前哨基地「月」からで、ファティマに出現した聖母マリアはまさに「月」と宿命を意味する「月よりの女神」を示唆、象徴していたわけである。
 人類を成人させるためのプログラム

  神の名は宗教によって違う。しかし、その名前がどうあれ、それが指し示している、ある同一の至高の存在がある。それは人間の祈りを聞く人格神だと思う。これは宇宙体験が与えた確信だ!    ―― アポロ10号、17号のジーン・サーナン

  月から帰還した宇宙飛行士たちの高邁な表現に接すると、彼らはみな敬虔なクリスチャンで、哲学書などを読みふけっていると思うだろうが、彼らの大部分は陸軍や海軍の士官学校出身で、人文系文化に関する知識はハイスクール卒業生の平均レベルだといわれいている。
  思索するよりも体の訓練を重視する技術系、あるいはスポーツ系の人たちと思えばよい。
  その人たちがみな「有神論者になった」というように、月に行って人生を根底から変えるようなインパクトを体験した。
  月でいったい何があったのだろう?
  短期間でアポロ飛行士のようにみなが一様に極端なインパクトを受けた例はかつてなかった。
  言うまでもない。月で「地球外文明」の活動を現実に目撃したからで、巨大極まりない異星の飛行体が、人類テクノロジーではとても及ばないような超航法で飛び回るのを見れば、そのショックは想像を超えるものがあるだろう。
  まさに彼らは神(サンタクロース)を見たのだ。私もジョンソン宇宙センターから大量に入手したアポロの月面スライドを大画面で見ていると、実際に背筋が寒くなってくる。そこには想像以上に多くのUFO(光体)が飛び交っているのが確認される。しかし、小さな光体写真では一般の人は興味を示さないと思うので紹介しないだけである。
  月の裏側を初めて肉眼で見てきたアポロ8号のフランク・ボーマン船長は、第一声で「サンタクロースを見た」とヒューストンに送信してきた。
  その状況は1989年11月20日、テレビ朝日「水曜スペシャル・満月と宇宙の謎」でも放映された。
  番組中、インタビューを受けたジム・アーウィンは「サンタクロースは地球外文明を意味する暗号」であるとハッキリ肯定していたのに、何のニュースにもならなかった。彼らは固く口止めされているためアメリカ国内では話せないことも、日本は遠いのでわりと気楽に秘密を明かしているのだ。それでも日本人は誰も問題にしない。

  アポロ飛行士たちは、月の異星文明の活動を確認しただけではない。大事なことは、月における宇宙生命(神)の強烈な思念エネルギーを、各人の脳がキャッチしたらしいことだ。それは「人間の祈りを聞く人格神」という彼らの言葉に共通して表現されている。
  彼らが撮ってきたUFOの写真と彼らの言葉とを総合して解釈すると、どうやら月は聖書の「ゴッド」と総称される「宇宙生命」の人類監視センターだったようである。

  月の引力に象徴されるある種のエネルギーが、人類の精神構造に深く関与してきた事実は、最近の研究でも証明されつつある。そのようなデータがA・L・リーバー著『月の魔力』には豊富に提出されている。
  こう考えると、テクノロジー的に増幅された思念エネルギーが地球に向けて常時放射され、人類史を意識的に誘導してきた――というような驚倒すべき結論に至らざるを得ない。
  そのような観点から聖書をよく読めば、なるほどとうなずける記述が非常に多く存在する。

  テレパシーによる言葉の伝達はもちろん、たとえば聖母マリアのホログラフを見せるくらいのことは、現代科学の延長線上においても可能ではないだろうか。ましてや、聖書のゴッドのすることだから‥‥。
  そしてこのゴッド(神)は、時には強力な介入も行なったようで、その一端がツングース大爆発やファティマの大奇跡なのだろう。したがって、聖書とは「人類へ手渡された教育書」と解釈できる。そのエンディングが未完の人類の「終末」となろう。

 予言的中率は100パーセント

  日本人でも聖書を知らない人はいないと思うが、宗教観の違いで誤解も多く、世界の人が常識とする最低限の知識さえ欠落しているようである。まず聖書に対する日本人の誤解から正しておく。

 1.聖書はキリスト教の正典ではない。

  日本人は聖書をすぐにキリスト教と結びつけるが、旧約聖書はキリスト教の発生以前に書かれたもので、直接的な関係はない。おおまかにいえば「旧約」プラス「タルムード」がユダヤ教、「旧約」プラス「コーラン」がイスラム教、「旧約」プラス「新約」がキリスト教と考えてよい。

 2.聖書は宗教書ではない。

  カソリックでは、聖書を歴史書、教訓書、預言書、律法書、諸書の5つに分類している。また、聖書は1冊の本ではなく、それぞれが独立した書物(旧約39、新約27)をまとめたもので、書かれた年代や著者も別々である。

 3.聖書がユダヤ人だけを選民として、他はゴイム(豚)と同等の劣等人種としている
   が、それはイスラエル人のことを言っているのではない。


  ユダヤ人というとアインシュタインやキッシンジャーなどの白系人種を考えがちだが、アーサー・ケストラーによると、本来のユダヤ人とはスファラディといわれる系統で、世界各地に分散され、日本人のルーツにも色濃く入っていると言う。

 4.聖書は単なる伝承ではない。

  聖書に書かれていることについて考古学者が発掘などの実証的方法で取り組みだしたのは19世紀からで、今日まで着々とその成果が積み重ねられている。真実性が疑われていたバベルの塔やイエリコの町、アブラハムの出生地ウルの実在、ノアの大洪水の記述などが次々と証明され、今では聖書の記述は歴史的真実というのが常識となっている。 もちろん、聖書の記述すべてが科学的に解明されたわけではない。エゼキエル書に述べられているUFOとしか思えない記述や、モーゼに代表される奇跡現象などは、神学的にも解明不可能とされている。

 5.聖書の中で「預言書」が重要な位置を占めている。

  特に旧約の時代には、エリア、イザヤ、ダニエルといった不思議な預言者たちが次々に登場して、未来に起こる出来事を予言し、その的中率の高さはノストラダムスなどの比ではない。
  新約、旧約を問わず聖書預言で面白いのは、それぞれの書かれた年代も人物も異なるのに、巨視的には同じことを述べていること、しかもそれぞれの欠落部分をジグソーパズルの断片のように補い合っていることである。つまり、聖書預言の全体は、66書ですべてが構成されているともいえるのである。

 6.聖書の「神」は、日本人の概念でいう「神」とは根本的に異なる。

  聖書のゴッドとは、本来は「ヤーウェ」すなわち「存在するもの」という意味で、「生きてある」と明確に告げている。したがって日本の神様のような「霊的」な存在ではなく「世に実在するもの」である。

 7.聖書は「人間は神によって創られた」としている。

  重要なことは「人間は動物とは異なり、神に似せて造られたもの」という概念である。

 8.聖書では「キリストの復活」が重要な意味を持っている。

  キリストは十字架にかけられて殺され、生身の体で復活した。これが何を意味しているのかといえば、「人類の終わりと復活」が現実に起こることを象徴している。
  聖書で最も大事なことは、全体を貫く終末思想で、「人類には必ず終わりが来る」と伝えている。つまり、聖書の最大の目的とは「人類の終わりと再生」を伝えることなのである。

 9.聖書の予言は100パーセントに近い確率で的中してきた。

  これは恐るべきことを意味している。つまり未完である人類終末も現実に成就されることを意味しているからである。
  聖書全体を貫く思想と目的が「人類終末」にかかわる予言だが、それを最もわかりやすく伝える記述が「イザヤ書」46章10~11である。

  わたしは終わりの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う。「私のはかりごとは必ず成り、わが目的をことごとく成し遂げる」と。――わたしはこの事を語ったゆえ、必ず起こさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行なう。

  ゴッドの計画する「人類終末」は必ず成就すると、聖書は明確に述べているのである。

 人類は創られて、品種改良された!

  すでに欧米ではダーウィンの進化論はニセ科学として崩壊しつつあり、新人類の誕生は何らかの外的な干渉によるという学説が定着しつつある。
  とくに重要と思われるのが「出エジプト記」~「申命記」である。
  モーゼは目的地カナンに着くまで300万人ともいわれるイスラエルの民を引き連れて、砂漠を40年間も放浪するわけだが、昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」と形容されるものに導かれながら、紅海を真っ二つに分けてエジプト軍の追っ手を壊滅させるなど、多くの超常現象が述べられている。
  この「雲の柱」「火の柱」という記述についてはいまだに不可解のままで、火山のことだという人もいる。しかし、40年間も噴火が続いたとは考えにくいし、「常に民衆の上にあった」と述べられている。
  ここで、旧西ドイツ政府がUFO現象調査を委託したH・オーベルト博士(フォン・ブラウンの師)が1953年に記者会見で発表したUFO目撃パターンの一部を紹介しておく。

  目撃されるUFOのほとんどは円盤型だが、巨大な円筒の物体に随伴して飛ぶ現象も目撃され、それ自体、時には巨大な雲のように見える。そして陽光下では金属製の表面を見せるが、夜間の場合は自ら発光し、色彩はスピードと密接に関連する変化を示し、加速の際は著しい。

  これらを単純に解釈すれば、ゴッドと呼ばれる宇宙生命が何らかの目的のもとにイスラエルの民に40年間も砂漠を放浪させ、他との接触を完全に絶った上で、現代風にいえば「無菌室」に入れて品種改良のごときものを行なったとしか思えない。
  しかも上空から常に葉巻型のUFOが監視し、食料は天から補給されるマナに限定されて、違反すると即座に殺されるという非情さである。
  たとえは悪いが、品種改良を目的とした羊の群れ(イスラエルの民)の番犬がモーゼで、飼い主が上空にいるゴッドという図式だ。次の記述はその状況をよく表現していよう。

  主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた。(出エジプト記・13章21)

  昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。(出エジプト記・40章38)

  主の使いは、しばの中の炎のうちに現れた。しばは燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーゼは言った。「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。(出エジプト記・3章2~3)

  シナイ山を下ったとき、モーゼは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。人々がモーゼを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れて近づかなかった。(出エジプト記・34章29~30)


  この記述は着陸したUFOと放射能らしき存在を彷彿とさせる。

  イスラエルの人々は、人の住む地に着くまで40年の間マナを食べた。(出エジプト記・16章35)

  イスラエルの人々もまた再び泣いて言った。「ああ、肉が食べたい。(中略)われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
 マナは、コエンドロの実のようで、色はプドラクの色のようであった。民は歩き回って、これを集め、ひきうすでひき、またうすでひき、釜で煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれとともに降った。(民数記・11章4~9)

  うずらの肉がなお彼らの歯の間にあって食べつくさないうちに、主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。(民数記・11章33~34)


  聖書学者によると、マナの正体はシナイ半島からワディ・アラバにかけて山野に自生するマナ・ギリョリウの枝に付着するマナ虫の分泌物が固まったものとされる。
  「夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれとともに降った」とあるように、たとえは悪いが、我々が水槽の魚に上から餌を撒くのと同じ印象を受けるのである。
  主(ゴッド)が日本で言う神のごとき抽象的な存在ではなく、「生きて世に在る者」と表現される「宇宙超生命」であることは次の記述でもわかる。

  火の中から語られる神の声をあなたが聞いたように、聞いてなお生きていた民がかつてあったであろうか。(申命記・4章33)

  われわれは火の中から出るその声を聞きました。きょう、われわれは神が人と語られ、しかもなおその人が生きているのを見ました。(申命記・5章24)

  彼は北斗、オリオン、プレアデスおよび南の密室を造られた。彼が大いなる事をされることは測りがたく、不思議な事をされることは数知れない。(ヨブ記・9章9~10)

  多くの人が彼に驚いたように、彼の顔だちはそこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである。彼は多くの国民(くにたみ)を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。(イザヤ書・54章14~15)

  雲のように飛び、はとがその小屋に飛び帰るようにして来る者はだれか。(イザヤ書・60章8)


 脳機能の大部分がなぜ閉じられたままなのか?

  ゴッドは神であり、その人類飼育のプログラムが聖書で、総仕上げが「終末」である。ゴッドの意図するところは何だろうか?
  新約、旧約を問わず、聖書それぞれの各預言は、書かれた年代も人物も異なるのに同じことを述べ、しかも互いの欠落している部分を補い合っている。したがって、全体を通してみるとゴッドの真意の大要はつかめてくる。
  まず聖書の基本観となるのは「神は生きて世に在り、ヒトは神に似せて創られた不完全なもの」で、終末の目的は「人は神と同格になる(神の国に入る)」と明確に述べられていることである。

  筆者の拙い推理の1つだが、現在ヒトの脳構造の神秘がクローズアップされつつある。中でも不思議なことは、脳はその機能のホンの一部分しか使われていないことである。
 使われていないという意味は、脳機能の大部分が閉じられているということで、これは進化論的に見ても、生物学的にも、遺伝子工学的にも理屈に合わない。となると考えられることは、外的な干渉によってクローズされている――という考え方だろう。

  人類の進化をもたらす遺伝子が、すでに脳には組み込まれているのだが、何かの意志によってか、時期が到来するまではその機能が封じられている。そこからたまに漏れ出るのが超能力といわれるもので、そういえばエドガー・ケイシーのように脳に何かのショックを受けてから超能力が発揮できるようになったという人が多いのもうなずける。
  意図的にクローズされているなら、それはいつか必ず全開される運命にある。それが聖書のメインテーマである「人類の終わりと再生」の真の目的ではあるまいか?
 そうした前提で聖書全体を読めば、多くの不可解な記述も無理なく理解できるのである。

  神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞こえない耳を与えて、きょう、この日に及んでいる。(ローマ人への手紙・11章8)

  見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代にひとつのことをする。それは人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたがとうてい信じないような事なのである。(使途行伝・13章41)

  御旨(みむね)の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示してくださったのである。それは時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。(エペソ人への手紙・1章9~10)

  わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。(ヨハネの第一の手紙・3章2)

  この知恵は、この世の者の知恵ではなく、隠された奥義としての神の知恵である。世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者のために備えられた。(コリント人への第一の手紙・2章6~9)

  ここであなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きとともに、またたく間に、一瞬にして変えられる。このとき聖書に書いてある言葉が成就するのである。(コリント人への第一の手紙・15章51~54)

  女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(ルカによる福音書・7章28)


  ここで明確に述べられているように、閉じられた(眠っている)脳機能が全開すれば、人類は神に似た超能力者に一変すると聖書は語っているのである。これはまさに、サナギが蝶に変態する以上の生物学的な変化となるが、それも一瞬のうちに行なわれるというから凄い。
 今まで人類を保育してきた脳ボックスの秘められた鍵も、なんらかのテクノロジーのもとにまたたく間に解除されるのだろう。そうなれば、いまの人類には想像もつかない凄い超文明社会が現出されてくることになる。
 それはまさに『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラークの小説の題名)で、やっと人類も宇宙的な「成人式」の時代へと入ることになる。

 いつ、どのように解除されるのか?

  問題は時期だが、それのわかりやすい記述が「マタイによる福音書」第24章である。
  そこでは弟子の「世の終わりはいつ、どんな前兆があるのか?」という問いに、イエスは次のように具体的に答えている。

  多くの者が自分がキリストだといって人を惑わす。
  また、戦争と戦争のうわさを聞くが、あわてるな。戦争は起こるがまだ終わりではない。
  あちこちに飢饉が起こり、また地震があるだろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
  多くの偽預言者が起こって多く人を惑わす。また不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。そして、それから最後が来る。
  預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのを見たならば、人々は山に逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへ戻るな。その日には身重の女と、乳飲み子をもつ女は不幸である。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな艱難が起こるからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者は一人もないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
  その時に起こる艱難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また彼らは大いなるラッパの音とともに御使いたちをつかわして、天のはてから地のはて至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
  いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。これらの事がことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。
  その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子が現れるのも、そのようであろう。
  そのとき、二人の者が畑にいると、一人は取り去られ、一人は残されるであろう。
  だから目を覚ましていなさい。いつの日にあなたがたの主が来られるのか、あなたがたにはわからないからである。思いがけない時に人の子が来るからである。


  ちなみに「いちじくの木」とは、古くからイスラエルという国のシンボルで、これはイスラエルという国が熟してきたら‥‥ととれるのである。
  「終わり」の前に実現すべき条件があることも、多くの聖書預言は語っている。したがって、それが実現されていなければ、絶対に「終わり」は起きないことになる。その絶対条件とは、イスラエル国家の再建である。

  主はあなたを散らされた国々から再び呼び集められるであろう。――主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。(申命記・30章3~5)

  見よ、わたしは、わたしの怒りと憤りと大いなる怒りをもって、彼らを追いやったもろもろの国から彼らを集め、この所に導き帰って、安らかに住まわせる。(エレミヤ書・32章37)


  仮借のない迫害にさらされて2000年以上もの流浪を経た後に、とうとうユダヤ民族は1948年5月14日にイスラエル国家を再生した。ここに「いちじくの木」は最初の葉をつけたわけだが、その日付が20世紀後半の直前だったことも暗示的だった。
  それから日が経つにつれ「いちじくの木」の枝は柔らかになって、多くの葉も出てきたことは、現在の中東情勢を見ればわかるだろう。
  どうやら、盛夏も近いようである。

  「終わり日」はどのようになるのだろうか。それを聖書に見てみよう。

  主の日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼けつくされるであろう。(ペテロの第二の手紙・3章10)

  主は言われる。「わたしは地のおもてからすべてのもの――人も獣も一掃し、空の鳥、海の魚をも一掃する。わたしは悪人を倒す。わたしは地のおもてから人を断ち滅ぼす」(ゼパニア書1章3)

  主は言われる。全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。(ゼカリア書・13章8~9)


 終わりの時の日本人

  アポロ飛行士たちは月に行ってサンタクロースが現実に存在するのを見て、帰還後はみなが宗教的人生へと方向を変えた。敬虔なクリスチャンだったオルドリンのように、アルコール中毒で精神が不安定になった者もいたが‥‥。
  私もファティマ事件を知らなかったら、聖書も単なる宗教書と思っていたろうし、執拗にUFO問題を追及することもなかったろう。UFO=ファティマ奇跡=聖書というものが一体であるがゆえに恐ろしいのである。

  ゼカリア書によれば、「終わりの日」には全地から三分の二の人が断たれ、三分の一が生き残ると述べられている。
  聖書はハッキリと次のように述べている。

  芽が生え出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。――毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかもしれない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれと言いつけよう。
 収穫とは世の終わりのことで、刈る者は御使いたちである。だから毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのとおりになるであろう。(マタイによる福音書・13章26~40)


  日本の現状はどうだろう。新聞に連日のように報道される政治家たちに代表される動物にも劣る恥知らずな行動。それらが日本人の民意を代表する人間の顔かと思うと、情けなさに目を覆いたいばかりである。
  「武士は食わねど高楊枝」の日本人特有のサムライ美学はどこへ消えたのか。それどころか、仏教でいう「餓鬼道」に堕ちた人物ばかりがばっこしている。おそらくこのままでは「終末」が起こらずとも日本の没落は必至だろう。それほど日本人の品性は堕ちるところまで堕ちている。世界を救う人物が日本から出現するという人もいるが、とうてい今の私には信じられない。
  神界から日本の現状を見ると、上位と下位の霊位が完全にひっくり返っているという。

  日本の将来が悲観的という理由を大別すれば、3つある。

 1.日本民族としての真の宗教がない。(民族としての哲理が存在しない)

  日本人には真の宗教というものはない。仏教(お盆)や神道(正月)に由来する行事もあるが、すべて形式的なものである。
  以前は道徳観念などを親や学校が教えていたからまだよかったが、いまや日本人として有すべき最低限の民族哲理さえ存在しないし、それが日本人全体の節制のなさにもつながっている。
  クリスチャンでもないのにクリスマスやハロウィンを祝ったりする程度は罪はないが、これほど節操のない国は地球上のどこにも存在しない。人はどう在り、どう生きるべきかという民族の美学が存在しないから、政治家や官僚たちが国会喚問でも平気でウソをつく。
  この世に生まれてきたからには、人を押しのけ、人より良い暮らしをして、精一杯おいしいものを食べて快楽を追求しなければ損という「旅の恥はかき捨て」的な日本人がいかに多いことか。

 2.富んでいる。

  いまの日本人なら「富むことがなぜ悪いのか」と言うだろう。戦後の日本人すべてが国をあげて「富む」ことを最大の目標にしてきたからである。
  聖書は明確に次のように述べている。

  富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい。(ルカによる福音書・18章25)

  愚か者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物はだれのものになるのか。(ルカによる福音書12章20)

  人間には錯覚がつきものだが、中でも「今の状態は永遠に続かない。自分が必ず朽ちる(死ぬ)」ことを忘れている人があまりに多い。
  生まれてきた時は裸で、死ぬときも裸。土地や財産や権力などすべて神からの一時的な借り物で、自分の所有物などは何一つない。妻や子供、自己の肉体すらそうなのである。
  なのに貴重な生を無為にすり減らし、富と権力を得ようと狂奔している日本人のなんと多いことか。日本の1人あたりのGNPは世界一。世界から収奪した資源の浪費も世界一。おかげで東南アジアの森林がはげ山になった。アフリカでは飢えで人が毎日死んでいるというのに、これでは終わりの日でなくても、必ず日本は没落するであろう。

  富んでいる人たちはわざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちはわざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちはわざわいだ。悲しみに泣くようになるからである。(ルカによる福音書6章24~25)

  イエスは、貧しい人、飢え乾いている人、圧迫されている人は幸福だと、はっきり宣言し、同時に「富んでいる人は不幸」と警告している。
  のどの乾きで砂漠をさまよう人がオアシスを見つけたら、天国に来たと思う。だが毎日を宮殿で美味飽食している人には、砂漠からわき出た水なぞ汚水にしか見えない。そうした人間は必ず不幸になると言っているのである。

  わざわいなるかな。彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑を増し加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。(イザヤ書・5章8)

  どう見ても、今の日本の状態にぴったりだろう。

 3.人々(特に女性)がおごり高ぶっている。

  聖書とりわけイザヤ書では、「終わりの日」近くになると、人々がおごり高ぶるとくどいほど述べられている。(中略)

  私は時おり、頭を休める時は近くの公園を散歩することにしている。
  そこでは清浄な風が吹きわたり、木々に小鳥がさえずって、青い空を見上げれば雲が白く流れてゆく。このような時に神の恩寵を感じるのは私だけではあるまい。
  だが、ふと思う。この素晴らしい世界が、いつまで続くのかと。
  聖母マリアの悲痛な囁きが聞こえてくる。

 人には良心がある。その良心を無視することこそ罪である。
 人が現在の忌むべきことをやめないかぎり、天罰は必ずもたらされる。
 私の子供たちよ。悲しいことですが多くの人は私の警告を投げ捨てている。
 ファティマでの警告を無視している。
 私は終わりの時まで多くの所に出現し、いくたびも涙を流すでしょう。
 私の足許に戻って来なさい。私はこれをくりかえします。
           メジュゴルエでの聖母メッセージより


  はたして人類に未来はあるのだろうか。それはあなた方それぞれの生き方にかかっていると聖母は告げているのだ!

<転載終了>