<続き>
アノニマス氏からのEメール#7
http://serpo.dip.jp/serpo2/serpo2.htm
これは、アノニマス氏によって2005年11月17日に投稿された7番目のメールの内容です。
ここに、チームメンバーがまとめ上げた惑星セルポに関しての地質学情報があります:
惑星の直径は、約7,218マイル(約11616km)と測定されました。(訳注:地球の直径は約12756km)
地表面の重力は、9.60m/秒/秒でした。(訳注:地球の重力は、約9.80m/秒/秒)
自転周期はおよそ、43時間でした。(訳注:地球の自転周期は、約24時間)
チームには、2人の地質学者が居ました。彼らは、同時に生物学者としての訓練も受けていました。
彼らが最初に行ったことは、惑星全体の地図作りでした。
第一歩は、惑星を半分に分けることで赤道を確定する事により、北半球と南半球に分け、更に各半球は4象限に分割されました。
そして最後に、北極と南極の極軸を確定しました。
これはこの惑星を研究する最も簡単な方法でした。
殆どのイーブ人は赤道周辺に住んでいましたが、4分割した北半球を調べてみると、それぞれの地域にコミュニティーが確立されていました。
しかし、北極・南極付近にはコミュニティーはありません。
また、南半球は大半が砂漠で、ほぼ雨は降ることが無く、全く不毛の大地でした。火山岩で覆われた一帯もあり、最南端の一部には岩砂漠もありました。
南極付近の気温は、32℃から57℃ほどでした。南極から北へ少し進んだところで、チームは噴出岩を見つけました。これはそのエリアで火山活動があることを示しており、実際にチームは何カ所かの活火山を見つけることが出来ました。
チームは、この地区で地表の亀裂から水が噴出しているのを見つけました。この水には、高濃度の硫黄、亜鉛、銅および他の未知の化学薬品が含まれていました。
更に東へ移動すると、基本的には同じような火山岩地帯を見つけました。でも、そこから北へ行った付近では、アルカリの平地を見つけました。
地球では、このアルカリの平原は、砂漠か乾燥した土地に流れ込む水流によって形成されます。
チームは、アルカリ塩基によって覆われた固い泥の層を見つけました。ここでは、ある種の植物が育っていました。
別の象限へ移動すると、チームは不毛地帯の様な場所を見つけました。乾燥した土地で、まばらに植物が生える真っ直ぐな深い渓谷(溝)の様な場所です。その渓谷の深さは、3000フィート(約910m)ほどでした。
チームは、この地区で、初めてセルポ原生と思われる動物を見つけました。
一見するとアルマジロのように見えるその動物はとても凶暴で、チームを数回攻撃してきました。
ガイド役のイーブ人は、その動物を音波式の銃の様な物で脅して追い払いました。
赤道付近へ移動したチームは、砂漠のような土地で、まばらに植物が自生しているのを見ました。
チームは、何カ所かの掘り抜き井戸の様な穴から水が吹き上がっているのを見つけました。
この水には、若干の未知の化学物質を含んでいましたが、とても新鮮で、美味しい水でした。イーブ人達もその水を飲んだり、色々な用途に使っていました。
その水に培養試験を実施してみると、未知のバクテリアが検出されたので、チームはまた煮沸して飲用としました。
北半球へ移動すると、チームは気候も景観も南半球とは大きく違う事が判りました。
チームメンバーの一人は、北半球のその地区を「リトル・モンタナ」と命名しました。
ここには地球の常緑樹の様な樹木もありました。イーブ人達はこの樹木から抽出した白色の液体を飲んでいました。
他にもこの地区では、様々なタイプの植物が自生していました。
ここでは、地表の亀裂から水の吹き上がったり、井戸のように水がわき出している光景も見られました。湿地帯もありました。
巨大な植物は、この様な湿地帯で育っている様で、イーブ人達は、この植物を食用にしていました。この植物の球根はとても大きく、食べるとメロンのような味でした。
更に北半球の別の場所へ移動しました。この場所は9℃~26℃ほどの快適な気温で十分な日陰もありましたので、イーブ人達はチームのためにここに住居を建設してくれました。
残りの惑星調査は、この場所を起点にして行われました。
チームは地質学的な情報を得る為に、南半球を一度だけ調査しましたが、あまりに暑かった為、思い切って以降の南半球の調査は行わないことにしました。
チームは十分に気温の低い北半球を北極に向かって調査し続け、標高15000フィート(約4572m)もある山脈やチームが決めた海抜0m地点より更に深い渓谷を見つけました。
更に、球根を持つ草が一面に覆い茂った場所を見つけ、「クローバ・フィールド」と名付けました。もちろん、この草はクローバーではありませんでしたが。
放射能レベルは、赤道付近や南半球よりも北半球の方が低い様でした。北極付近は寒い季節もあり、チームはこの惑星で初めての雪を見ました。
雪の毛布は、北極の周囲に広がっており、最も深いところで、約20フィート(約6m)でした。ここの気温はほぼ0℃を保っており、殆ど変化しませんでした。
ガイド役のイーブ人は、ヒーターが内蔵された宇宙服のようなスーツを着ていましたが、それでもこの場所は寒すぎて極端な低体温症になってしまう為、この場所には長時間留まっていられないということでした。
チームは、かつて地震が発生していた証拠となる断層面が南半球の北端付近に沿って走っているのを見つけました。剥離作用は噴出岩と共に観測され、それは過去にマグマが流れた跡であることを示していました。
チームは、地球での更なる調査のために、セルポの土・植物・水を始めとして何百ものアイテムを地球に持ち帰りました。
惑星セルポには、様々な種類の動物も生息していました。最も奇妙な動物は大きな雄牛のような動物でした。その動物はとても臆病で攻撃的ではありませんでした。
また、首のまわりに長い毛皮があるアメリカライオンのような動物も居ました。この動物はとても奇妙でしたが、特に攻撃的ではありませんでした。
南半球を調査していた時、チームは、まるで人間の目のような目を持った、長くとても大きなヘビのような生き物を見つけました。
イーブ人ガイドは、この生物はどう猛で危険なので注意するように言っていました。
これは、チームが武器を使って殺した唯一の生物でした。イーブ人達は、チームメンバーがその生物を殺したことには驚いていませんでしたが、それよりチームメンバーが武器を使用したことに非常に驚いていました。
チームが携行した武器は、米軍制式の物で、4丁の45口径コルト拳銃と、4丁のM2カービン銃でした。
その生物を射殺した後、チームはその生物を解剖してみましたが、内蔵は実に奇妙で、地球のヘビとは全く異なっていました。
全長15フィート(約4.5m)、胴の直径は1.5フィート(約45cm)でした。チームは何よりその生物の目に興味を持ちました。
眼球は人間の眼球に似ており、虹彩があり、その後ろには脳へと繋がる視神経の束があり、脳は地球のどんなヘビよりも大きかった。
チームは、その生物の肉が食べられるかとイーブ人ガイドに尋ねると、ガイドは丁寧に「ダメです」と答えました。
[特定の質問に応じて]
惑星セルポの水中には我々が知っている様な魚のような生物はいませんでした。
赤道付近では、一見するとウナギのような奇妙な魚(長さは、約2.5m)が生息しており、おそらくは地表にいたヘビの様な生物の"いとこ"ぐらいに相当するでしょう。
湿地帯の近くにはジャングルの様なものがありましたが、地球のジャングルとは少し違っていました。
武器に関して。
武器に関しては、いろいろと議論がなされました。イーブ人達はそれほど心配していない様子でした。その為、チームは本当の非常時にのみ使用する事にしました。
チームメンバー12人は全員が軍人だったことを忘れないでください。武装することで彼らは何事にも代え難い安心を得られたのです。
ちなみに、彼らが携行した弾薬は、わずかに拳銃1丁につき50発、ライフル1丁につき100発の弾丸だけした。
プロジェクト・セルポに関する60ページにも及ぶぎっしりと計算式が書かれた報告書を読んだ後のカール・セーガン博士のコメント。
私は、惑星セルポが2つの太陽によって受ける引力を説明する為にケプラーの法則を使用するパラグラフを見つけました。
惑星セルポの太陽系には、我々の太陽系の木星・土星などのように地球に引力の影響を与えるような大型の惑星がありません。
惑星セルポの引力に関する事象は、カール・セーガン博士が知っている他の惑星の引力に関する事と大きく異なっていました。
これを補足説明する多数の図表や計算式がありますので、後日それをお見せしましょう。それまで待っていてください。
< width=574> このサイトのコメントセクションに記録された激しく行われた議論の反応について、私はここのメンバーの高名な物理学者からこの解釈を支持をしたいと思います。
上級の理論(本質的に証明されている)はニュートンの重力用逆二乗則です。
ケプラーの法則は、1つの惑星が1つの太陽を周回するシンプルなモデルケースから発案されました。
複数の惑星が2つの太陽を周回する複雑なモデルケースでは、ニュートン力学に立ち戻り、コンピュータを使って多くの問題を解決せねば成りません。
この様な場合、ケプラーの法則が適用出来るのは最も単純な場合のみで、近似計算だけです。
アノニマス氏からのEメール#7
http://serpo.dip.jp/serpo2/serpo2.htm
惑星の直径は、約7,218マイル(約11616km)と測定されました。(訳注:地球の直径は約12756km)
地表面の重力は、9.60m/秒/秒でした。(訳注:地球の重力は、約9.80m/秒/秒)
自転周期はおよそ、43時間でした。(訳注:地球の自転周期は、約24時間)
チームには、2人の地質学者が居ました。彼らは、同時に生物学者としての訓練も受けていました。
彼らが最初に行ったことは、惑星全体の地図作りでした。
第一歩は、惑星を半分に分けることで赤道を確定する事により、北半球と南半球に分け、更に各半球は4象限に分割されました。
そして最後に、北極と南極の極軸を確定しました。
これはこの惑星を研究する最も簡単な方法でした。
殆どのイーブ人は赤道周辺に住んでいましたが、4分割した北半球を調べてみると、それぞれの地域にコミュニティーが確立されていました。
しかし、北極・南極付近にはコミュニティーはありません。
また、南半球は大半が砂漠で、ほぼ雨は降ることが無く、全く不毛の大地でした。火山岩で覆われた一帯もあり、最南端の一部には岩砂漠もありました。
南極付近の気温は、32℃から57℃ほどでした。南極から北へ少し進んだところで、チームは噴出岩を見つけました。これはそのエリアで火山活動があることを示しており、実際にチームは何カ所かの活火山を見つけることが出来ました。
チームは、この地区で地表の亀裂から水が噴出しているのを見つけました。この水には、高濃度の硫黄、亜鉛、銅および他の未知の化学薬品が含まれていました。
更に東へ移動すると、基本的には同じような火山岩地帯を見つけました。でも、そこから北へ行った付近では、アルカリの平地を見つけました。
地球では、このアルカリの平原は、砂漠か乾燥した土地に流れ込む水流によって形成されます。
チームは、アルカリ塩基によって覆われた固い泥の層を見つけました。ここでは、ある種の植物が育っていました。
別の象限へ移動すると、チームは不毛地帯の様な場所を見つけました。乾燥した土地で、まばらに植物が生える真っ直ぐな深い渓谷(溝)の様な場所です。その渓谷の深さは、3000フィート(約910m)ほどでした。
チームは、この地区で、初めてセルポ原生と思われる動物を見つけました。
一見するとアルマジロのように見えるその動物はとても凶暴で、チームを数回攻撃してきました。
ガイド役のイーブ人は、その動物を音波式の銃の様な物で脅して追い払いました。
赤道付近へ移動したチームは、砂漠のような土地で、まばらに植物が自生しているのを見ました。
チームは、何カ所かの掘り抜き井戸の様な穴から水が吹き上がっているのを見つけました。
この水には、若干の未知の化学物質を含んでいましたが、とても新鮮で、美味しい水でした。イーブ人達もその水を飲んだり、色々な用途に使っていました。
その水に培養試験を実施してみると、未知のバクテリアが検出されたので、チームはまた煮沸して飲用としました。
北半球へ移動すると、チームは気候も景観も南半球とは大きく違う事が判りました。
チームメンバーの一人は、北半球のその地区を「リトル・モンタナ」と命名しました。
ここには地球の常緑樹の様な樹木もありました。イーブ人達はこの樹木から抽出した白色の液体を飲んでいました。
他にもこの地区では、様々なタイプの植物が自生していました。
ここでは、地表の亀裂から水の吹き上がったり、井戸のように水がわき出している光景も見られました。湿地帯もありました。
巨大な植物は、この様な湿地帯で育っている様で、イーブ人達は、この植物を食用にしていました。この植物の球根はとても大きく、食べるとメロンのような味でした。
更に北半球の別の場所へ移動しました。この場所は9℃~26℃ほどの快適な気温で十分な日陰もありましたので、イーブ人達はチームのためにここに住居を建設してくれました。
残りの惑星調査は、この場所を起点にして行われました。
チームは地質学的な情報を得る為に、南半球を一度だけ調査しましたが、あまりに暑かった為、思い切って以降の南半球の調査は行わないことにしました。
チームは十分に気温の低い北半球を北極に向かって調査し続け、標高15000フィート(約4572m)もある山脈やチームが決めた海抜0m地点より更に深い渓谷を見つけました。
更に、球根を持つ草が一面に覆い茂った場所を見つけ、「クローバ・フィールド」と名付けました。もちろん、この草はクローバーではありませんでしたが。
放射能レベルは、赤道付近や南半球よりも北半球の方が低い様でした。北極付近は寒い季節もあり、チームはこの惑星で初めての雪を見ました。
雪の毛布は、北極の周囲に広がっており、最も深いところで、約20フィート(約6m)でした。ここの気温はほぼ0℃を保っており、殆ど変化しませんでした。
ガイド役のイーブ人は、ヒーターが内蔵された宇宙服のようなスーツを着ていましたが、それでもこの場所は寒すぎて極端な低体温症になってしまう為、この場所には長時間留まっていられないということでした。
チームは、かつて地震が発生していた証拠となる断層面が南半球の北端付近に沿って走っているのを見つけました。剥離作用は噴出岩と共に観測され、それは過去にマグマが流れた跡であることを示していました。
チームは、地球での更なる調査のために、セルポの土・植物・水を始めとして何百ものアイテムを地球に持ち帰りました。
惑星セルポには、様々な種類の動物も生息していました。最も奇妙な動物は大きな雄牛のような動物でした。その動物はとても臆病で攻撃的ではありませんでした。
また、首のまわりに長い毛皮があるアメリカライオンのような動物も居ました。この動物はとても奇妙でしたが、特に攻撃的ではありませんでした。
南半球を調査していた時、チームは、まるで人間の目のような目を持った、長くとても大きなヘビのような生き物を見つけました。
イーブ人ガイドは、この生物はどう猛で危険なので注意するように言っていました。
これは、チームが武器を使って殺した唯一の生物でした。イーブ人達は、チームメンバーがその生物を殺したことには驚いていませんでしたが、それよりチームメンバーが武器を使用したことに非常に驚いていました。
チームが携行した武器は、米軍制式の物で、4丁の45口径コルト拳銃と、4丁のM2カービン銃でした。
その生物を射殺した後、チームはその生物を解剖してみましたが、内蔵は実に奇妙で、地球のヘビとは全く異なっていました。
全長15フィート(約4.5m)、胴の直径は1.5フィート(約45cm)でした。チームは何よりその生物の目に興味を持ちました。
眼球は人間の眼球に似ており、虹彩があり、その後ろには脳へと繋がる視神経の束があり、脳は地球のどんなヘビよりも大きかった。
チームは、その生物の肉が食べられるかとイーブ人ガイドに尋ねると、ガイドは丁寧に「ダメです」と答えました。
アノニマス氏からのEメール#7の補足A
これは、アノニマス氏によって2005年11月18日に投稿された7番目のメールの補足Aです。惑星セルポの水中には我々が知っている様な魚のような生物はいませんでした。
赤道付近では、一見するとウナギのような奇妙な魚(長さは、約2.5m)が生息しており、おそらくは地表にいたヘビの様な生物の"いとこ"ぐらいに相当するでしょう。
湿地帯の近くにはジャングルの様なものがありましたが、地球のジャングルとは少し違っていました。
武器に関して。
武器に関しては、いろいろと議論がなされました。イーブ人達はそれほど心配していない様子でした。その為、チームは本当の非常時にのみ使用する事にしました。
チームメンバー12人は全員が軍人だったことを忘れないでください。武装することで彼らは何事にも代え難い安心を得られたのです。
ちなみに、彼らが携行した弾薬は、わずかに拳銃1丁につき50発、ライフル1丁につき100発の弾丸だけした。
アノニマス氏からのEメール#7の補足B
これは、アノニマス氏によって2005年11月20日に投稿された7番目のメールの補足Bです。私は、惑星セルポが2つの太陽によって受ける引力を説明する為にケプラーの法則を使用するパラグラフを見つけました。
惑星セルポの太陽系には、我々の太陽系の木星・土星などのように地球に引力の影響を与えるような大型の惑星がありません。
惑星セルポの引力に関する事象は、カール・セーガン博士が知っている他の惑星の引力に関する事と大きく異なっていました。
これを補足説明する多数の図表や計算式がありますので、後日それをお見せしましょう。それまで待っていてください。
アノニマス氏からのEメール#7の補足C
これは、アノニマス氏によって2005年11月25日に投稿された7番目のメールの補足Cです。< width=574>
上級の理論(本質的に証明されている)はニュートンの重力用逆二乗則です。
ケプラーの法則は、1つの惑星が1つの太陽を周回するシンプルなモデルケースから発案されました。
複数の惑星が2つの太陽を周回する複雑なモデルケースでは、ニュートン力学に立ち戻り、コンピュータを使って多くの問題を解決せねば成りません。
この様な場合、ケプラーの法則が適用出来るのは最も単純な場合のみで、近似計算だけです。
アノニマス氏からのEメール#8
http://serpo.dip.jp/serpo2/serpo2.htm
これは、アノニマス氏によって2005年11月29日に投稿された8番目のメールの内容です。
私は、チームと彼らの選択した調査、交信に関する問題、そして最後の交換留学についてのリリースに注力する事にしました。
皆さんからの多くの質問がこれらの問題に関係しています。
背景:イーブ1号(訳注:ロズウェル事件で保護された唯一のイーブ人生存者)は、我々が惑星セルポと連絡をとる事を可能にした通信機を提供してくれました。
この通信機は、ニューメキシコ州コロナの近くで1947年7月に墜落したイーブ人の宇宙船に搭載されていました。
イーブ1号は、彼が死ぬ前にその使用法を我々に教えてくれましたが、通信機はうまく動作せず、セルポ星と通信できませんでした。
イーブ1号が死に瀕しているとき、ロスアラモスのアメリカのある科学者が通信機を墜落した宇宙船のエネルギー発生装置と通信機を接続する良い方法を思いついた為、通信機が動くようになりました。
イーブ1号の手助けで通信文の入力を行い、いくつかの通信文が1952年の夏に惑星セルポに向けて送信されました。
更に、1952年の初秋には、いくつかの通信文を受信する事ができました。
イーブ1号は、メッセージを翻訳し、我々にその情報を提供してくれました。イーブ1号は、全部で6つの通信文を送りました。
第1のメッセージは、彼が生きている事を知らせました。
第2のメッセージは、1947年の衝突事故および彼以外の乗務員のの死について知らせていました。
第3のメッセージは、救援チームの派遣を求めていました。
第4のメッセージは、地球のリーダーとの正式会見を提案していました。
第5のメッセージは、交換留学事業を提案していました。
(注:正式記録文書には残っていませんが、イーブ1号の世話をしていた米軍の担当者が、アメリカ軍人からなるチームメンバーが彼らの惑星を訪れ、文化・科学情報の交換や、宇宙旅行中の天文学情報の収集を行うこの交換留学計画をイーブ1号に提案しました。)
第6のメッセージは、救助チームが地球へ着陸する場合の着陸地点などの情報を提供しました。
受信したメッセージには、セルポ時間を基準にした日時と場所の確認が含まれていました。
しかし、イーブ1号が翻訳したメッセージは、日付が10年以上も先になっていました。
イーブ1号はこのとき病の床にあったので、メッセージの翻訳を間違えてしまったのではないかということで、我々の科学者がイーブ1号から教わったイーブ後の知識を使って再翻訳を始めました。
(注:イーブ1号は、機械技術者であり、科学者ではありませんでした。 彼はこの時点でまだ我々に多少のイーブ語を教える事が出来ていたということです。 私が読んだ資料に因れば、イーブ語の3割ほどを翻訳できました。複雑な文章と数字の翻訳は正しくないかもしれません)
イーブ1号は生前、我々をサポートし続けてくれましたが、彼の死後は我々は独学で進まねばなりませんでした。
我々は、1953年の6ヶ月間に、何度か通信文を送信しましたが、全く返信はありませんでしたので、その後18ヶ月間懸命に努力をして1955年末に2つのメッセージを送ったところ、遂に応答がありました。
我々は、メッセージの約30%を翻訳することができました。その後、米国および外国の大学から何名かの言語専門家に協力を仰ぎ、ついにほぼ全てのメッセージを翻訳することに成功しました。
イーブ人達が、我々がイーブ語を翻訳した時よりも簡単に英語をイーブ語に翻訳できるか確かめるために、英語で返信を返すことにしてみました。
およそ4ヶ月後に、名詞と形容詞だけで全く動詞が使われていない怪しげな英語の返答を受け取りました。メッセージを翻訳するのに私たちは数か月かかりました。
その後、タイプされた英語の教則書を送ってみましたところ、約半年後に再び英語で返事を受け取りました。
このメッセージは、前回より明らかに明瞭でしたが、イーブ人達はいくつかの異なる英語の言葉を混同しており、まだ正しい英文ではありませんでした。
それでも、我々は彼らに交信を行うのに必要な基本的な英文法を教えることが出来ました。
また、あるメッセージの中で、彼らはイーブ語のアルファベット一覧表と、イーブ語-英語のアルファベット対応表を送ってくれました。我々の言語学者は、苦労しながらこれを理解していました。
それに書かれていたイーブ語は、単純なキャラクタとシンボルだけでしたが、我々の言語学者達は、2つの言語を比較するのに非常に苦労していました。
それからの5年間で、我々はイーブ語をなんとか理解できるようになりましたし、イーブ人達も更に英語を理解できるようになりました。
しかし、最大の問題は、イーブ人達が地球へ着陸する為の日時と場所の調整についてでした。
基本的には、我々はイーブ語を理解できるようになったし、イーブ人達も英語を理解できるようになったかもしれないけど、我々は彼らの使用している日付と時間の概念をまだ理解できていませんでしたし、彼らも我々の日付と時間の概念を理解していないようでした。
我々は、地球の公転・自転周期と日付の考え方などを彼らに送りましたが、イーブ人達は全く理解できなかった様子でした。
その代わりに、イーブ人達の日付の考え方を送ってきましたが、惑星セルポやセルポの太陽系についての解説を一切送ってきませんでしたので、今度は我々の科学者が彼らの時間システムをなかなか理解できませんでした。
その後、我々は地球の目標物やシンプルな時間を示す数値情報表す絵を送ることにしました。
イーブ人達は、我々が選んだ指定した日付と着陸地点を了承したというメッセージを送り返してきました。着陸予定日は1964年4月24日でした。また、着陸予定地は、ニューメキシコ州にあるホワイトサンズ・ミサイル試射場の南部セクターと決まりました。
さて、これを受け政府高官はこのイベントの計画のための秘密会合を開きました。そして決定は何度か修正を行われた後、最終的に決定されました。
我々はこの計画の立案のために約25ヶ月を要しました。主要メンバーが軍人で構成された特別チームが編成されました。
立案プロセスの数か月前に入り、ケネディ大統領は、特別の軍事のチームを交換留学計画を承認することを決定しました。
主として米空軍が主導権を持って進められ、計画と乗組員選出を助けるために特別の民間人科学者を選びました。
前出にもあった通り、チームメンバーの選出作業は困難な作業でした。
チームメンバー選出のための計画が何通りも提案されました。結局、チームメンバー選出のための基準作りのためだけに数ヶ月を要しました。
また、チームメンバーは全員が軍人で、以下の条件を満たしている人物から選出する事になりました。
・独身で、子供が居ない事
・軍歴4年以上である事
・特殊技能を持っている事
・更に、複数の特殊技能訓練を受けている事
・前科が無く、交換留学中に起こりうる身元確認に関する問題を排除できる事
提案の一つは、チームメンバーが死んだこととして扱うという事でした。
選出されたチームメンバーは、公式の記録からは完全に「存在しない」という事の為に、公式記録からの削除が徹底して行われました。
この様にして、チームメンバーは周囲との関係を完全に断ち切られました。
選出された各チームメンバーに関するあらゆる記録が抹消されました。それは、社会保障番号、国税収入税務申告書、カルテ、従軍歴、その他識別記録が徹底的に集められ、完全に削除された後、特別な保管場所に移されました。
一次選考で残った軍人は、全部で5万6千人ほどでした。最終選考では、これを12人まで絞りました。彼らは、「ベストの中のベスト」といえる素晴らしい人々でした。
彼らの訓練期間は、約6ヶ月で、16種類の特別訓練を受けました。
また、もし正規メンバーに病気や負傷で欠員が発生したときのために、4人の補欠も選出されました。
■訓練について
選出されたチームメンバーは、ヴァージニア州キャンプ・ペリーにある特殊施設に派遣されました。ここでは主に知能・諜報に関する訓練を行いました。
我々は、キャンプ・ペリー内の複数施設を完全に接収して、ほとんどの訓練をそこで行いました。
しかし、何種類かの特殊訓練は、テキサス州ウィチトーフォールズのシェパード空軍基地・サウスダコタ州エルズワース空軍基地・メイン州ダウ空軍基地・その他メキシコとチリにある施設で遂行されました。
訓練は、167日間行われました。この期間中15日間の休暇が与えられましたが、休暇中も保安要員によって厳重監視されていました。
出発が近づくと、各チームメンバーは、カンザス州フォート・レヴェンワースの訓練用兵舎の独房へ移送され、外界との接触を完全に断たれました。
これは、彼らが外部と連絡を取らないようにする為で、各人は厳重な監視下に置かれました。
■計画の変更
我々は、イーブ人から、最初の訪問時には交換留学を行いたくないという意味のメッセージを受け取りました。
彼らは、最初の訪問時には会合だけを行って、次回の訪問時に交換留学を実行したいという事でした。
しかし、我々は既に最終準備段階に入っており、計画の延期は様々な問題を引き起こす可能性があるとの旨のメッセージを彼らの送りましたが、応答はありませんでした。
■地球着陸
1963年12月に、彼らは着陸場所と日時を確認するメッセージを送ってきました。そのメッセージには、2機の宇宙船が打ち合わせた場所に着陸するであろうと述べられていました。
(この時期、アメリカではケネディー大統領が暗殺され、政府はその対応に苦慮していました。プロジェクト関係者の中には、交換留学計画を中止すべきだという者も現れました。 しかし、ジョンソン大統領に事前に説明がなされ、計画を続行することが決定されましたが、その時大統領はプロジェクトについてあまり本気にはしていなかった様子でした。)
我々は、2つの着陸候補地を検討しました。
1つは、ニューメキシコ州アラモゴードのホロマン空軍基地、もうひとつは実際の着陸地点となった、ホロマンの西、ホワイトサンズ基地の南口近くでした。
最初の宇宙船は、1964年4月24日午後に大気圏に突入しましたが、ニューメキシコ州ソコロ付近に間違って着陸してしまいました。
我々はホワイトサンズの所定の場所にいましたが、最初の宇宙船が間違った場所に着陸したと彼らにメッセージを送ることが出来ました。
それを受けた2機目は正しい場所に着陸することが出来ました。
■会合
イーブ船は、我々が知らせた正しい場所に着陸することが出来ました。
地上には、16人の政府高官が待機していました。そのうち何人かは政治家で、何人かは陸軍士官を含む高官でした。
イーブ人達は、宇宙船から出てキャノピーの下を歩いてきました。
彼らは、興味深いテクノロジーをプレゼントしてくれました。それはマイクとモニタ画面を備えた自動翻訳装置でした。
政府高官は、片方の装置を渡され、イーブ人はもう片方の装置を持っていました。
職員がマイクに向かってしゃべると、モニタ画面にはイーブ語と英語の両方が表示されました。
でも、装置自身がまだ未完成だったので、全てを翻訳できたわけではありませんでしたので、正確な会合の記録にはなりませんでした。
イーブ人達は、翌年に交換留学を行う事を決めたと伝えてきました。着陸場所と日付は、1965年7月にネバダ実験場となりました。
我々は、計画が外部に漏れないように、同じ場所を何度も使いたくありませんでした。
チームメンバーは、1964年5月までフォート・レヴェンワースで待機させられた後、キャンプ・ペリーに移送されました。
チームメンバーは、彼らの技能を磨き上げると共に、更に新しい技術を習得する為に、お互いが接触することなく更に6ヶ月間同じ訓練を受けました。
これは、チームメンバーがイーブ語を学ぶよい機会でもありました。
チームメンバーの多くは、イーブ語の習得に問題がありましたが、2人の言語学者は彼らの言語技術をいっそう磨くことができました。
チームメンバーは、1965年4月にフォート・レヴェンワースに移送されてから、1965年7月にネバダ州に移されるまで基地に閉じこめられました。
交換留学実施中は、留学チームの予備要員を除いて、選ばれた数名の職員だけが仕事を続けました。
そして、いよいよイーブ人の宇宙船が着陸し、我々のチームメンバーは乗り込んで行きました。
■修正
最初のメールの中で、誤りがありました。それは惑星セルポに持って行った物資の量でした。宇宙船に積載された正確な荷物は、全部で90500ポンド(約41トン)でした。
アノニマス氏からのEメール#9
http://serpo.dip.jp/serpo2/serpo2.htm
これは、アノニマス氏によって2005年11月30日に投稿された9番目のメールの内容です。
各チームメンバーは極度の心理的・肉体的訓練に耐えなければなりませんでした。
ある訓練では、各チームメンバーは、5フィート×7フィート(1.5m×2.0m)の箱に閉じこめられ、地中7フィート(2.0m)の深さに埋められて、外界との接触無く、真っ暗闇の中で僅かな食料と水だけで5日間生活する過酷な訓練を受けました。
ここではいくつかの要因をテストしました。 各チームメンバーは、ある「錠剤」を渡されました。
この「錠剤」は、諜報部員が敵地に乗り込む際に必ず携帯するものです。
何らかの理由で、イーブ人達と対立する事になった場合、この錠剤によってチームメンバーは彼らの人生を「終了」させる事が出来ます。
数人の選ばれたチーム・メンバー(パイロット) は、1949年にニューメキシコ州西部で確保されたイーブ宇宙船の操縦訓練を受けました。
この計画は、非常事態が発生した場合に、独力で地球へ帰還する為の訓練を兼ねていました。チームには4人のパイロットが居ました。
ネバダの基地で、修理されたイーブ宇宙船を飛行させる為の複数の訓練に4週間を費やしました。
ある一つのことを理解すれば、宇宙船を操縦することは難しいことではありませんでした。
1964~1965年にネバダ州西部で多数目撃されたUFOは、我々のチームメンバーによる訓練飛行だったと思います。
チームメンバーは、液体窒素の入った小さなコンテナを持っていきました。イーブ人達は、極端に寒さに弱かったのです。
つまり、もしイーブ人達と対立が発生し、身の危険が生じた場合に、この液体窒素を使ってある程度は危険を回避できるかも知れませんでした。
チームメンバーは、イーブ人の顔面をめがけて、液体窒素を直接スプレーする様に命じられていました。
これはイーブ1号により発見された彼らの弱点でした。
この液体窒素は、我々が日々使用する様な形状をした"特殊コンテナ"に格納されていました。
公式記録には、このコンテナのタイプが記録されていませんが、各チームメンバーはこの小さなコンテナを持っていました。
(訳注:コンテナとは一般的な"容器"を示し、必ずしも"コンテナ"という言葉から連想する様な大仰なものではありません。察するにスプレーボトルの様な物なのか?)
帰還後に書かれた報告書によると、イーブ人達はだれもみな大変友好的である事が分かり、惑星セルポに到着した後、チームメンバーは液体窒素をすぐに捨てました。
イーブ人達は、チームがこの「物質」を持っていることを気付きましたが、特に理由を問われることは無かったといいます。
また、チームメンバーは、ピストルとライフルも持っていきました。
イーブ人達は、それらが武器である事を知っていましたが、やはり、なぜ武器を携行するのかを問いつめられることはありませんでした。
チームメンバーは、惑星セルポの各地へ調査旅行へ出かける場合を除いて、武器を携行することはありませんでした。
<続く>
http://serpo.dip.jp/serpo2/serpo2.htm
皆さんからの多くの質問がこれらの問題に関係しています。
背景:イーブ1号(訳注:ロズウェル事件で保護された唯一のイーブ人生存者)は、我々が惑星セルポと連絡をとる事を可能にした通信機を提供してくれました。
この通信機は、ニューメキシコ州コロナの近くで1947年7月に墜落したイーブ人の宇宙船に搭載されていました。
イーブ1号は、彼が死ぬ前にその使用法を我々に教えてくれましたが、通信機はうまく動作せず、セルポ星と通信できませんでした。
イーブ1号が死に瀕しているとき、ロスアラモスのアメリカのある科学者が通信機を墜落した宇宙船のエネルギー発生装置と通信機を接続する良い方法を思いついた為、通信機が動くようになりました。
イーブ1号の手助けで通信文の入力を行い、いくつかの通信文が1952年の夏に惑星セルポに向けて送信されました。
更に、1952年の初秋には、いくつかの通信文を受信する事ができました。
イーブ1号は、メッセージを翻訳し、我々にその情報を提供してくれました。イーブ1号は、全部で6つの通信文を送りました。
第1のメッセージは、彼が生きている事を知らせました。
第2のメッセージは、1947年の衝突事故および彼以外の乗務員のの死について知らせていました。
第3のメッセージは、救援チームの派遣を求めていました。
第4のメッセージは、地球のリーダーとの正式会見を提案していました。
第5のメッセージは、交換留学事業を提案していました。
(注:正式記録文書には残っていませんが、イーブ1号の世話をしていた米軍の担当者が、アメリカ軍人からなるチームメンバーが彼らの惑星を訪れ、文化・科学情報の交換や、宇宙旅行中の天文学情報の収集を行うこの交換留学計画をイーブ1号に提案しました。)
第6のメッセージは、救助チームが地球へ着陸する場合の着陸地点などの情報を提供しました。
受信したメッセージには、セルポ時間を基準にした日時と場所の確認が含まれていました。
しかし、イーブ1号が翻訳したメッセージは、日付が10年以上も先になっていました。
イーブ1号はこのとき病の床にあったので、メッセージの翻訳を間違えてしまったのではないかということで、我々の科学者がイーブ1号から教わったイーブ後の知識を使って再翻訳を始めました。
(注:イーブ1号は、機械技術者であり、科学者ではありませんでした。 彼はこの時点でまだ我々に多少のイーブ語を教える事が出来ていたということです。 私が読んだ資料に因れば、イーブ語の3割ほどを翻訳できました。複雑な文章と数字の翻訳は正しくないかもしれません)
イーブ1号は生前、我々をサポートし続けてくれましたが、彼の死後は我々は独学で進まねばなりませんでした。
我々は、1953年の6ヶ月間に、何度か通信文を送信しましたが、全く返信はありませんでしたので、その後18ヶ月間懸命に努力をして1955年末に2つのメッセージを送ったところ、遂に応答がありました。
我々は、メッセージの約30%を翻訳することができました。その後、米国および外国の大学から何名かの言語専門家に協力を仰ぎ、ついにほぼ全てのメッセージを翻訳することに成功しました。
イーブ人達が、我々がイーブ語を翻訳した時よりも簡単に英語をイーブ語に翻訳できるか確かめるために、英語で返信を返すことにしてみました。
およそ4ヶ月後に、名詞と形容詞だけで全く動詞が使われていない怪しげな英語の返答を受け取りました。メッセージを翻訳するのに私たちは数か月かかりました。
その後、タイプされた英語の教則書を送ってみましたところ、約半年後に再び英語で返事を受け取りました。
このメッセージは、前回より明らかに明瞭でしたが、イーブ人達はいくつかの異なる英語の言葉を混同しており、まだ正しい英文ではありませんでした。
それでも、我々は彼らに交信を行うのに必要な基本的な英文法を教えることが出来ました。
また、あるメッセージの中で、彼らはイーブ語のアルファベット一覧表と、イーブ語-英語のアルファベット対応表を送ってくれました。我々の言語学者は、苦労しながらこれを理解していました。
それに書かれていたイーブ語は、単純なキャラクタとシンボルだけでしたが、我々の言語学者達は、2つの言語を比較するのに非常に苦労していました。
それからの5年間で、我々はイーブ語をなんとか理解できるようになりましたし、イーブ人達も更に英語を理解できるようになりました。
しかし、最大の問題は、イーブ人達が地球へ着陸する為の日時と場所の調整についてでした。
基本的には、我々はイーブ語を理解できるようになったし、イーブ人達も英語を理解できるようになったかもしれないけど、我々は彼らの使用している日付と時間の概念をまだ理解できていませんでしたし、彼らも我々の日付と時間の概念を理解していないようでした。
我々は、地球の公転・自転周期と日付の考え方などを彼らに送りましたが、イーブ人達は全く理解できなかった様子でした。
その代わりに、イーブ人達の日付の考え方を送ってきましたが、惑星セルポやセルポの太陽系についての解説を一切送ってきませんでしたので、今度は我々の科学者が彼らの時間システムをなかなか理解できませんでした。
その後、我々は地球の目標物やシンプルな時間を示す数値情報表す絵を送ることにしました。
イーブ人達は、我々が選んだ指定した日付と着陸地点を了承したというメッセージを送り返してきました。着陸予定日は1964年4月24日でした。また、着陸予定地は、ニューメキシコ州にあるホワイトサンズ・ミサイル試射場の南部セクターと決まりました。
さて、これを受け政府高官はこのイベントの計画のための秘密会合を開きました。そして決定は何度か修正を行われた後、最終的に決定されました。
我々はこの計画の立案のために約25ヶ月を要しました。主要メンバーが軍人で構成された特別チームが編成されました。
立案プロセスの数か月前に入り、ケネディ大統領は、特別の軍事のチームを交換留学計画を承認することを決定しました。
主として米空軍が主導権を持って進められ、計画と乗組員選出を助けるために特別の民間人科学者を選びました。
前出にもあった通り、チームメンバーの選出作業は困難な作業でした。
チームメンバー選出のための計画が何通りも提案されました。結局、チームメンバー選出のための基準作りのためだけに数ヶ月を要しました。
また、チームメンバーは全員が軍人で、以下の条件を満たしている人物から選出する事になりました。
・独身で、子供が居ない事
・軍歴4年以上である事
・特殊技能を持っている事
・更に、複数の特殊技能訓練を受けている事
・前科が無く、交換留学中に起こりうる身元確認に関する問題を排除できる事
提案の一つは、チームメンバーが死んだこととして扱うという事でした。
選出されたチームメンバーは、公式の記録からは完全に「存在しない」という事の為に、公式記録からの削除が徹底して行われました。
この様にして、チームメンバーは周囲との関係を完全に断ち切られました。
選出された各チームメンバーに関するあらゆる記録が抹消されました。それは、社会保障番号、国税収入税務申告書、カルテ、従軍歴、その他識別記録が徹底的に集められ、完全に削除された後、特別な保管場所に移されました。
一次選考で残った軍人は、全部で5万6千人ほどでした。最終選考では、これを12人まで絞りました。彼らは、「ベストの中のベスト」といえる素晴らしい人々でした。
彼らの訓練期間は、約6ヶ月で、16種類の特別訓練を受けました。
また、もし正規メンバーに病気や負傷で欠員が発生したときのために、4人の補欠も選出されました。
■訓練について
選出されたチームメンバーは、ヴァージニア州キャンプ・ペリーにある特殊施設に派遣されました。ここでは主に知能・諜報に関する訓練を行いました。
我々は、キャンプ・ペリー内の複数施設を完全に接収して、ほとんどの訓練をそこで行いました。
しかし、何種類かの特殊訓練は、テキサス州ウィチトーフォールズのシェパード空軍基地・サウスダコタ州エルズワース空軍基地・メイン州ダウ空軍基地・その他メキシコとチリにある施設で遂行されました。
訓練は、167日間行われました。この期間中15日間の休暇が与えられましたが、休暇中も保安要員によって厳重監視されていました。
出発が近づくと、各チームメンバーは、カンザス州フォート・レヴェンワースの訓練用兵舎の独房へ移送され、外界との接触を完全に断たれました。
これは、彼らが外部と連絡を取らないようにする為で、各人は厳重な監視下に置かれました。
■計画の変更
我々は、イーブ人から、最初の訪問時には交換留学を行いたくないという意味のメッセージを受け取りました。
彼らは、最初の訪問時には会合だけを行って、次回の訪問時に交換留学を実行したいという事でした。
しかし、我々は既に最終準備段階に入っており、計画の延期は様々な問題を引き起こす可能性があるとの旨のメッセージを彼らの送りましたが、応答はありませんでした。
■地球着陸
1963年12月に、彼らは着陸場所と日時を確認するメッセージを送ってきました。そのメッセージには、2機の宇宙船が打ち合わせた場所に着陸するであろうと述べられていました。
(この時期、アメリカではケネディー大統領が暗殺され、政府はその対応に苦慮していました。プロジェクト関係者の中には、交換留学計画を中止すべきだという者も現れました。 しかし、ジョンソン大統領に事前に説明がなされ、計画を続行することが決定されましたが、その時大統領はプロジェクトについてあまり本気にはしていなかった様子でした。)
我々は、2つの着陸候補地を検討しました。
1つは、ニューメキシコ州アラモゴードのホロマン空軍基地、もうひとつは実際の着陸地点となった、ホロマンの西、ホワイトサンズ基地の南口近くでした。
最初の宇宙船は、1964年4月24日午後に大気圏に突入しましたが、ニューメキシコ州ソコロ付近に間違って着陸してしまいました。
我々はホワイトサンズの所定の場所にいましたが、最初の宇宙船が間違った場所に着陸したと彼らにメッセージを送ることが出来ました。
それを受けた2機目は正しい場所に着陸することが出来ました。
■会合
イーブ船は、我々が知らせた正しい場所に着陸することが出来ました。
地上には、16人の政府高官が待機していました。そのうち何人かは政治家で、何人かは陸軍士官を含む高官でした。
イーブ人達は、宇宙船から出てキャノピーの下を歩いてきました。
彼らは、興味深いテクノロジーをプレゼントしてくれました。それはマイクとモニタ画面を備えた自動翻訳装置でした。
政府高官は、片方の装置を渡され、イーブ人はもう片方の装置を持っていました。
職員がマイクに向かってしゃべると、モニタ画面にはイーブ語と英語の両方が表示されました。
でも、装置自身がまだ未完成だったので、全てを翻訳できたわけではありませんでしたので、正確な会合の記録にはなりませんでした。
イーブ人達は、翌年に交換留学を行う事を決めたと伝えてきました。着陸場所と日付は、1965年7月にネバダ実験場となりました。
我々は、計画が外部に漏れないように、同じ場所を何度も使いたくありませんでした。
チームメンバーは、1964年5月までフォート・レヴェンワースで待機させられた後、キャンプ・ペリーに移送されました。
チームメンバーは、彼らの技能を磨き上げると共に、更に新しい技術を習得する為に、お互いが接触することなく更に6ヶ月間同じ訓練を受けました。
これは、チームメンバーがイーブ語を学ぶよい機会でもありました。
チームメンバーの多くは、イーブ語の習得に問題がありましたが、2人の言語学者は彼らの言語技術をいっそう磨くことができました。
チームメンバーは、1965年4月にフォート・レヴェンワースに移送されてから、1965年7月にネバダ州に移されるまで基地に閉じこめられました。
交換留学実施中は、留学チームの予備要員を除いて、選ばれた数名の職員だけが仕事を続けました。
そして、いよいよイーブ人の宇宙船が着陸し、我々のチームメンバーは乗り込んで行きました。
■修正
最初のメールの中で、誤りがありました。それは惑星セルポに持って行った物資の量でした。宇宙船に積載された正確な荷物は、全部で90500ポンド(約41トン)でした。
アノニマス氏からのEメール#9
http://serpo.dip.jp/serpo2/serpo2.htm
ある訓練では、各チームメンバーは、5フィート×7フィート(1.5m×2.0m)の箱に閉じこめられ、地中7フィート(2.0m)の深さに埋められて、外界との接触無く、真っ暗闇の中で僅かな食料と水だけで5日間生活する過酷な訓練を受けました。
ここではいくつかの要因をテストしました。 各チームメンバーは、ある「錠剤」を渡されました。
この「錠剤」は、諜報部員が敵地に乗り込む際に必ず携帯するものです。
何らかの理由で、イーブ人達と対立する事になった場合、この錠剤によってチームメンバーは彼らの人生を「終了」させる事が出来ます。
数人の選ばれたチーム・メンバー(パイロット) は、1949年にニューメキシコ州西部で確保されたイーブ宇宙船の操縦訓練を受けました。
この計画は、非常事態が発生した場合に、独力で地球へ帰還する為の訓練を兼ねていました。チームには4人のパイロットが居ました。
ネバダの基地で、修理されたイーブ宇宙船を飛行させる為の複数の訓練に4週間を費やしました。
ある一つのことを理解すれば、宇宙船を操縦することは難しいことではありませんでした。
1964~1965年にネバダ州西部で多数目撃されたUFOは、我々のチームメンバーによる訓練飛行だったと思います。
チームメンバーは、液体窒素の入った小さなコンテナを持っていきました。イーブ人達は、極端に寒さに弱かったのです。
つまり、もしイーブ人達と対立が発生し、身の危険が生じた場合に、この液体窒素を使ってある程度は危険を回避できるかも知れませんでした。
チームメンバーは、イーブ人の顔面をめがけて、液体窒素を直接スプレーする様に命じられていました。
これはイーブ1号により発見された彼らの弱点でした。
この液体窒素は、我々が日々使用する様な形状をした"特殊コンテナ"に格納されていました。
公式記録には、このコンテナのタイプが記録されていませんが、各チームメンバーはこの小さなコンテナを持っていました。
(訳注:コンテナとは一般的な"容器"を示し、必ずしも"コンテナ"という言葉から連想する様な大仰なものではありません。察するにスプレーボトルの様な物なのか?)
帰還後に書かれた報告書によると、イーブ人達はだれもみな大変友好的である事が分かり、惑星セルポに到着した後、チームメンバーは液体窒素をすぐに捨てました。
イーブ人達は、チームがこの「物質」を持っていることを気付きましたが、特に理由を問われることは無かったといいます。
また、チームメンバーは、ピストルとライフルも持っていきました。
イーブ人達は、それらが武器である事を知っていましたが、やはり、なぜ武器を携行するのかを問いつめられることはありませんでした。
チームメンバーは、惑星セルポの各地へ調査旅行へ出かける場合を除いて、武器を携行することはありませんでした。
<続く>