えんとつさんより
http://6715.teacup.com/genkimaru/bbs/1209
<転載開始>
いまから28年前に発行された謎解き本です。
コツコツと集めた客観情報をもとに地球の謎に挑み読者に謎解きを提供するスタイル。
エジプトのピラミッドよりでかいスペースシャトル型ピラミッドがある。
それはなんと日本の広島県にそびえたつという。
その現地はバブル時代の名残で廃墟になっているので、ますます本物ということだろう。
世界各地の観光地の石は天狗がいるので要注意。ラピュタは廃墟にある。
『超古代史の謎に挑む』柞木田龍善著1984年風濤社発行
<P-172より引用>
十一 太古巨石文明の謎を秘めるのうが高原ピラミッド
超古代巨石文明の謎 のうが高原
前の章で古代の宇宙飛行船スペースシャトル、ではなかったのか、と、「のうが高原」にある、
タイル状石が貼られている巨大な石について書き、また、何十トンという巨大な石を五、六個も、
上部を二重の積み重ねた「塔岩」などのある「のうが高原」は現代考古学の範囲を、はるかに超えた
古代文明のあったことを物語るのではないか、と書いた。
この「のうが高原」についていま少し詳しくまとめてみなさんに、その謎を解いてもらいたい、と考えるようになった。
この「のうが高原に行ったのは、五十六年十月十日~十一日で、その「のうが高原ホテル」(*現在廃業の模様)で、
のうが高原ピラミッドをめぐる「日本超古代史探求セミナー」があり、私は参加を約束していたからであった。
この高原の上に立って見ると、南は宮島を近くに、広島湾を見下ろし、その彼方には、瀬戸内の島々が遠望できる眺望の地で、
背後の北は、中国山脈の山なみが連なっている、壮大な景観を楽しめる。
この「のうが高原」は、古代のピラミッドだったという人もいるが、また、そうではなく、「神様をお祀りする磐境(イワサカ)」
だったとするグループもいるのである。
日本にピラミッドのあることを発見したのは、元クリスチャンで、エジプトのギゼーのピラミッドを見て来たユダヤ人研究家の
酒井勝軍で、氏は昭和九年三月、京都でピラミッドに関する講演中、出席者の一人から、広島県下にピラミッドと思われる山が
あることを聞いた。氏は同年四月二十三日、広島県比婆郡の現地に入り、種々苦心のすえ、発見したのが、「葦嶽山(アシダケサン)ピ
ラミッド」であったという。従って、同じ広島県下といっても、この「のうが高原ピラミッド」は、佐伯郡廿日市町上平良字大迫
にあるから、全く別個の存在である。しかし、ピラミッドというと、エジプトのギゼーの大ピラミッドしか知らない私をはじめ多
くの人は、あのように石を三角形に高く積み重ねたのがピラミッドで、それ以外は、ピラミッドとは考えられないのではないか、
と私自身考える。だから、この「のうがピラミッド」は、古代に岩盤の山の上に、二百メートル近くも
石を積み重ねたピラミッドだった、といわれても、実はあまりピンとこない。エジプトのギゼーの大ピラミッドなら、地面から石
を三角形に積み重ねたことが、見ただけで誰にもはっきりそれとわかるのであるが、この「のうが高原ピラミッド」は、見た目に
は現在、下の石が腐食してしまって、岩盤の上に石を積み重ねてつくったピラミッドだった、といわれても、どうしても私には考
えられなかったのである。
エジプトの大ピラミッドは高さ百四十八メートル、底辺が二百三十メートルの正方形の四角錘で、平均二トン半の石灰石を二百三
十万個使用して、造られている。
「のうがピラミッド」(だとして)の高さは、岩盤の山の上に築いたその高さは百七十メートルに近いのではないか、というから、
エジプトの右のギゼーのピラミッドよりさらに大量の石を積み重ねたことになるのだが、何も知らない私たちが見ると、積み重ね
られたという石が風化して、「真土(マサ)」といわれる自然の土に化しているので、到底積み重ねたものとは思われない。専門家た
ちがみて、固い岩盤の上に巨大な花崗岩で築いた人工造山であることがわかった、という。
一万年、二万年と時代を経るに従って、花崗岩の表面は、次第に土に変化し、その土が厚みを増し、ついにその土が現在五十センチ
ほどの厚さまでになり、小鳥が運んだ木の実から木々が育ち、人工石積みの山が、木々に覆われる自然の山のように変化した、とい
うのである。
さて、「日本超古代探求セミナー」に参加した五十名近い人たちが、四句十一日、この「のうがピラミッド」の山を見学に出向いた。
http://6715.teacup.com/genkimaru/bbs/1209
<転載開始>
いまから28年前に発行された謎解き本です。
コツコツと集めた客観情報をもとに地球の謎に挑み読者に謎解きを提供するスタイル。
エジプトのピラミッドよりでかいスペースシャトル型ピラミッドがある。
それはなんと日本の広島県にそびえたつという。
その現地はバブル時代の名残で廃墟になっているので、ますます本物ということだろう。
世界各地の観光地の石は天狗がいるので要注意。ラピュタは廃墟にある。
『超古代史の謎に挑む』柞木田龍善著1984年風濤社発行
<P-172より引用>
十一 太古巨石文明の謎を秘めるのうが高原ピラミッド
超古代巨石文明の謎 のうが高原
前の章で古代の宇宙飛行船スペースシャトル、ではなかったのか、と、「のうが高原」にある、
タイル状石が貼られている巨大な石について書き、また、何十トンという巨大な石を五、六個も、
上部を二重の積み重ねた「塔岩」などのある「のうが高原」は現代考古学の範囲を、はるかに超えた
古代文明のあったことを物語るのではないか、と書いた。
この「のうが高原」についていま少し詳しくまとめてみなさんに、その謎を解いてもらいたい、と考えるようになった。
この「のうが高原に行ったのは、五十六年十月十日~十一日で、その「のうが高原ホテル」(*現在廃業の模様)で、
のうが高原ピラミッドをめぐる「日本超古代史探求セミナー」があり、私は参加を約束していたからであった。
この高原の上に立って見ると、南は宮島を近くに、広島湾を見下ろし、その彼方には、瀬戸内の島々が遠望できる眺望の地で、
背後の北は、中国山脈の山なみが連なっている、壮大な景観を楽しめる。
この「のうが高原」は、古代のピラミッドだったという人もいるが、また、そうではなく、「神様をお祀りする磐境(イワサカ)」
だったとするグループもいるのである。
日本にピラミッドのあることを発見したのは、元クリスチャンで、エジプトのギゼーのピラミッドを見て来たユダヤ人研究家の
酒井勝軍で、氏は昭和九年三月、京都でピラミッドに関する講演中、出席者の一人から、広島県下にピラミッドと思われる山が
あることを聞いた。氏は同年四月二十三日、広島県比婆郡の現地に入り、種々苦心のすえ、発見したのが、「葦嶽山(アシダケサン)ピ
ラミッド」であったという。従って、同じ広島県下といっても、この「のうが高原ピラミッド」は、佐伯郡廿日市町上平良字大迫
にあるから、全く別個の存在である。しかし、ピラミッドというと、エジプトのギゼーの大ピラミッドしか知らない私をはじめ多
くの人は、あのように石を三角形に高く積み重ねたのがピラミッドで、それ以外は、ピラミッドとは考えられないのではないか、
と私自身考える。だから、この「のうがピラミッド」は、古代に岩盤の山の上に、二百メートル近くも
石を積み重ねたピラミッドだった、といわれても、実はあまりピンとこない。エジプトのギゼーの大ピラミッドなら、地面から石
を三角形に積み重ねたことが、見ただけで誰にもはっきりそれとわかるのであるが、この「のうが高原ピラミッド」は、見た目に
は現在、下の石が腐食してしまって、岩盤の上に石を積み重ねてつくったピラミッドだった、といわれても、どうしても私には考
えられなかったのである。
エジプトの大ピラミッドは高さ百四十八メートル、底辺が二百三十メートルの正方形の四角錘で、平均二トン半の石灰石を二百三
十万個使用して、造られている。
「のうがピラミッド」(だとして)の高さは、岩盤の山の上に築いたその高さは百七十メートルに近いのではないか、というから、
エジプトの右のギゼーのピラミッドよりさらに大量の石を積み重ねたことになるのだが、何も知らない私たちが見ると、積み重ね
られたという石が風化して、「真土(マサ)」といわれる自然の土に化しているので、到底積み重ねたものとは思われない。専門家た
ちがみて、固い岩盤の上に巨大な花崗岩で築いた人工造山であることがわかった、という。
一万年、二万年と時代を経るに従って、花崗岩の表面は、次第に土に変化し、その土が厚みを増し、ついにその土が現在五十センチ
ほどの厚さまでになり、小鳥が運んだ木の実から木々が育ち、人工石積みの山が、木々に覆われる自然の山のように変化した、とい
うのである。
さて、「日本超古代探求セミナー」に参加した五十名近い人たちが、四句十一日、この「のうがピラミッド」の山を見学に出向いた。
まずホテルを出て、最初に見たのは、ホテルの前の小高い丘の頂上に設けてある「主神(スシン)」と称されている、超古代からの「霊石」
といわれる、古さびた黒みの強い、高さ九十センチほどの石であった。
この超古代からといわれる「霊石」の上に、小さい丸石が新たにおかれて、その小石に、奇妙にもイスラエルの国旗ダビデ章が金粉
で描かれていることである。
たずねてみると、ユダヤのダビデ章として描いたのではなく、カゴメは加護目で、万象を万華させる主神の御働きを表わし、超古代
の日本国(ヒノモトツクニ)の紋章だったことを表現しているというのであった。────こうした考え方も私にははじめての経験であった。
次いで、いよいよピラミッドの山に入って、最初に目にふれたのが前の章で書いた、「タイル石だったのである。高さ三.五メートル
、幅三メートル余の花崗岩の巨石で、タイルらしい石は、その右側面に二十枚ほど貼りついてあった。一枚はたて十四センチ、横九
センチ、厚さ三センチほどの大きさで、この古代のタイル石が、何万年経っているか知れないが、どうしてはがれずにあるのか、し
てみると、古代の接着剤は、今日の接着剤よりもっと進歩していたのではないか、と、誰しも考えたのである。
現在その巨大な花崗岩にタイル石が残っているのは、右側面だけであるが、作られた当時は、両側面に貼ってあったものか、それと
も石の表面全体に貼ってあったものなのか、土地の老人は、昔から、「峰の東に光るものがある」と言って、近よってはならない山
だと教えられてきた、という。このことから考えると、石の表面全体に貼ってあったタイル石が、現在は木が大きくなっていて見え
ないが、木が生えなかった昔は、太陽の光を受けて、まばゆいばかりに輝いていたのではあるまいか、と、この「のうが高原」の研
究家、慶応義塾大学経済学部卒の坂本弘氏が話していた。
この巨大なタイル石の左五メートルほど先には「高貴人墳墓」と表示されている二個の巨石を立てた上に、平たい巨石を載せた場所があった。
左右の巨石は高さ一.三メートル、幅一.五メートル、平たい巨石は幅三メートル、厚さが九十センチほど、といわれている。
この巨石の穴を何の目的なのか、大石でふさいでいるのである。「高貴人墳墓」とあるが、ピラミッドの供物台、拝所──ドルメン
ではなかったのか、といわれているようだ。
これらの石はどの石もみな、人の手で切り出してきて積み上げたものであるだけでなく、石の角の立った切り方といい、人の手が加
えてあることは考えなくてはならないことのようだ。
次いで、山を次第に登って、ピラミッド山上に近い所まで行くと、そこで「方位石」と表示されている巨石が目にふれた。石は四個
一組になっていたものといわれるが、一つは手前に倒れており、一つは倒れた石からさらに十メートルほど下の斜面に落ちていた。
何回かの大地震によってであろうが、立っている石も、元の位置からかなりずれた位置にあるようだ、とのこと。
この「方位石」は、東西南北の方位を示すもので、百五十万坪といわれる広大なのうが高原のどこにいても、すぐ方位がわかるよう
に各所に配置してあったのではないか、ということであった。
次は頂上を下って、林のい中に入ると「飾り石」と表示された巨石となり、さらに、磐船、扇形鏡石、円形鏡石のとなりにある、雨
宿りにかっこうの、天井がついているようなぐあいの「雨宿り石」、舟石などとなって、道の両脇に巨石を積み並べた「古代参道」
、こうして山径を回り回って、一番最後に、序章で書いた、「塔岩」となった。
「のうが高原」は、現在では樹木で覆われているので、その数あるほとんどの巨石は、離れては見えないのであるが、この塔岩だけ
は高いだけに樹木の上にその英姿を見せる。
その高さは、下の土台の積み石からだけでも二十メートルはあるといわれ、積み上げた巨石の数が、男岩、女岩の両方合わせて十個
になるので、土地の人は「十岩」ともいっているという。
前の章でも少し書いたが一つ一つの石の大きさは、小さなものでも七十トン、八十トン、頂上の巨石は、目測で高さ四メートル、幅
三.五メートル、奥行き五メートルはあり、重量は百六十トンはあるだろう、といわれている。
この塔岩の立っている山の南斜面は、かなりの急角度があり、どうしてこれらの巨石を移動させ、運搬してきたのか、ましてその積
み上げはどのようにして行われたのか、この塔岩は、下から見上げると、今にもくずれ落ちそうに思われる。
そのことを間近に感じるのは、頂上においてある百六十トンの巨石の置きぐあいで、そばに寄ってみると、この巨石は、わずか三十
センチ平方くらいの面積しかない、たった二点で支えられているのである。その二点の間隔は、一.五メートルくらいで、二点の間は
弓形にへこんで向こう側がすけて見えるのである。
この「塔岩」は、建造以来、何度かの大地震に遭っているはずである。というのは、今まで書いてきた「のうが高原」の巨石群は、
ある石は倒れ、ある石は位置を移動していることでも明らかである。それが高い所だけに一番倒れそうなこの「塔岩」は、ビクとも
していない様子は、ただごとではなく、不思議に安定を保っていることは驚異のほかはないのである。
UFO研究家の高坂克魅氏は、「古代の人間は、非常な霊力を持っていたから、この付近を無重力地帯にして建てたのでは」と話し
ていたが、全くそのようにしか考えようがないようである。
<つづく>
<割り込み感想>
『である』連発で読みづらい。無重力で建造したにしても、建造後は重力に従った場合、建造物自体の構造計算や地盤沈下を考慮しなければならない。
また、大地震によっても崩れない構造の謎を解明しなければならないので、無重力で建造したとか違う次元から運んだとか関係ないと思う。
イメージとしては、映画ラピュタで登場する石の働きが近いような気もする。ギゼーのピラミッドもオリオン人が説明してたように、違う次元で
建造したものを地球三次元に持ち込んで、一夜にして出現させた建造物ということと同じ手法ではないかと思われる。
建造物自体が地球からの重力と振動に自動コントロール制御されていると考えることもできるのでは。
<つづき>
しかも、この「のうが高原」に用いた巨石は、黒雲母の斑点の多い青みがかった上質の花崗岩で、これら巨石群の下の岩盤は、白み
のかかったきめの粗い質の悪い花崗岩であるから、はっきり異質なのもで、宮島沖にある大黒神島や、倉橋島などの花崗岩と同質の
ものだという。
従って、これらの島から船で運んだか、あるいは古代には広島湾が陸地だったとの説もあって、何ともいえないが、いずれにしても、
古代人は、動物の皮をふんどしにした半裸体で、棍棒を手にしており低い知能しかなかったと、私たちは教えられて育ったのである
が・・・・。
知能の低い古代人が、これらの巨石を積み上げる能力や適当な大きさに切りさく技術も工具もあろうはずもなく、従ってそうした古
代人の以前に、非常に高度な「古代文明」が栄えていたことを想像しないことには、納得できないのである。
このほかに、のうが高原ホテル内の、岩戸風呂の壮大な巨石群の積み上げも見逃せないものだ。古代に巨石を六階建てのビルの高さ
に積み重ねた場所を、岩戸風呂と称しているが、この岩戸風呂の建物の中だけで、5百坪の広さというし、最下段から最上段までの
高さは、十八メートルあるというから、広い湯船が一つや二つだけでなくある。
こんな上下のはげしい山地をそのままにホテルを建てるなどは、とても常識では考えられないが、実際に建っているのである。五年
くらい前に建てたようであるが、きっと、「のうが高原の主神」の霊に憑かれたのだとしか私には考えられなかった。(この項は、
坂本弘氏の『のうが高原』を参考にして書いたことを明らかにしておく)
新発見といっていい「のうが高原」は、本当にピラミッドの山であったのか、または、神の霊をお迎えするための「磐境」であった
のか、考古学者たちの多くは、弥生時代から縄文時代の七、八千年まであたりは問題にするが、それ以前のことには目をつぶってしまう。
この「のうが高原」だけでなく、日本の山々にはまだ多くの巨石建造物があり、ピラミッドの山があり、風葬時代の遺跡が、日本中
の名山に遺っていることが、種々の『古文書』によって、わかってきたのである。
例をあげると、巨石建造物のあった山は、岩手県の姫神山、早千峰山その他。
ピラミッドの山は、広島県の葦嶽山をはじめ、『竹内古代史』には、天日霊陵山とあり、吉備津根本国その他全国に四ヵ所建立され
た、とある。
山上での風葬時代の山は、富士山をはじめ、北は北海道の神威山、増毛山、青森県の恐山、八甲田山、大阪府の箕面山、島根県の三瓶山、
九州の九重山、祖母山など、日本中の名山という名山の多くはほとんどそれである。
また、巨大な古墳についても、その多くは、皇室の陵墓に指定されているが、全長三百五十メートル、日本第四位の大きさの吉備
(岡山・広島)の造山古墳は、皇陵の指定を受けていない。
吉備にはまだ他に大きな古墳があり、飛鳥の石舞台にひけをとらない牟佐古墳もあり、その石室はそっくり原形をとどめている、
というふうで、日本にはまだまだ謎を秘めた巨大古墳などが、あちこちにある。
<現地を訪れたい人のために>
国鉄広島駅前からタクシーだと四十分、廿日市町明石で右に山の舗装路を入り、十分ほど蛇行する道を登りつめると、
標高七百メートル余の「のうが高原」入口である。
バス、広島バスセンター発の、広島電鉄バス利用が便利、約五十分。
電車、広島駅発広島電鉄約六十分。宮島行き宮島線電車、宮島駅下車、バス乗り換え、明石停下車。のうが高原行きバスが待っている。
宿 のうが高原ホテル 大変な古代調の基盤の上に近代的なホテルが建っている風情は他ではちょっと例がないようだ。
*注意28年前の情報なので、現地情報はネットで検索してください。
*上記ホテルは廃業しておりますので、利用できません。
<転載終了>
といわれる、古さびた黒みの強い、高さ九十センチほどの石であった。
この超古代からといわれる「霊石」の上に、小さい丸石が新たにおかれて、その小石に、奇妙にもイスラエルの国旗ダビデ章が金粉
で描かれていることである。
たずねてみると、ユダヤのダビデ章として描いたのではなく、カゴメは加護目で、万象を万華させる主神の御働きを表わし、超古代
の日本国(ヒノモトツクニ)の紋章だったことを表現しているというのであった。────こうした考え方も私にははじめての経験であった。
次いで、いよいよピラミッドの山に入って、最初に目にふれたのが前の章で書いた、「タイル石だったのである。高さ三.五メートル
、幅三メートル余の花崗岩の巨石で、タイルらしい石は、その右側面に二十枚ほど貼りついてあった。一枚はたて十四センチ、横九
センチ、厚さ三センチほどの大きさで、この古代のタイル石が、何万年経っているか知れないが、どうしてはがれずにあるのか、し
てみると、古代の接着剤は、今日の接着剤よりもっと進歩していたのではないか、と、誰しも考えたのである。
現在その巨大な花崗岩にタイル石が残っているのは、右側面だけであるが、作られた当時は、両側面に貼ってあったものか、それと
も石の表面全体に貼ってあったものなのか、土地の老人は、昔から、「峰の東に光るものがある」と言って、近よってはならない山
だと教えられてきた、という。このことから考えると、石の表面全体に貼ってあったタイル石が、現在は木が大きくなっていて見え
ないが、木が生えなかった昔は、太陽の光を受けて、まばゆいばかりに輝いていたのではあるまいか、と、この「のうが高原」の研
究家、慶応義塾大学経済学部卒の坂本弘氏が話していた。
この巨大なタイル石の左五メートルほど先には「高貴人墳墓」と表示されている二個の巨石を立てた上に、平たい巨石を載せた場所があった。
左右の巨石は高さ一.三メートル、幅一.五メートル、平たい巨石は幅三メートル、厚さが九十センチほど、といわれている。
この巨石の穴を何の目的なのか、大石でふさいでいるのである。「高貴人墳墓」とあるが、ピラミッドの供物台、拝所──ドルメン
ではなかったのか、といわれているようだ。
これらの石はどの石もみな、人の手で切り出してきて積み上げたものであるだけでなく、石の角の立った切り方といい、人の手が加
えてあることは考えなくてはならないことのようだ。
次いで、山を次第に登って、ピラミッド山上に近い所まで行くと、そこで「方位石」と表示されている巨石が目にふれた。石は四個
一組になっていたものといわれるが、一つは手前に倒れており、一つは倒れた石からさらに十メートルほど下の斜面に落ちていた。
何回かの大地震によってであろうが、立っている石も、元の位置からかなりずれた位置にあるようだ、とのこと。
この「方位石」は、東西南北の方位を示すもので、百五十万坪といわれる広大なのうが高原のどこにいても、すぐ方位がわかるよう
に各所に配置してあったのではないか、ということであった。
次は頂上を下って、林のい中に入ると「飾り石」と表示された巨石となり、さらに、磐船、扇形鏡石、円形鏡石のとなりにある、雨
宿りにかっこうの、天井がついているようなぐあいの「雨宿り石」、舟石などとなって、道の両脇に巨石を積み並べた「古代参道」
、こうして山径を回り回って、一番最後に、序章で書いた、「塔岩」となった。
「のうが高原」は、現在では樹木で覆われているので、その数あるほとんどの巨石は、離れては見えないのであるが、この塔岩だけ
は高いだけに樹木の上にその英姿を見せる。
その高さは、下の土台の積み石からだけでも二十メートルはあるといわれ、積み上げた巨石の数が、男岩、女岩の両方合わせて十個
になるので、土地の人は「十岩」ともいっているという。
前の章でも少し書いたが一つ一つの石の大きさは、小さなものでも七十トン、八十トン、頂上の巨石は、目測で高さ四メートル、幅
三.五メートル、奥行き五メートルはあり、重量は百六十トンはあるだろう、といわれている。
この塔岩の立っている山の南斜面は、かなりの急角度があり、どうしてこれらの巨石を移動させ、運搬してきたのか、ましてその積
み上げはどのようにして行われたのか、この塔岩は、下から見上げると、今にもくずれ落ちそうに思われる。
そのことを間近に感じるのは、頂上においてある百六十トンの巨石の置きぐあいで、そばに寄ってみると、この巨石は、わずか三十
センチ平方くらいの面積しかない、たった二点で支えられているのである。その二点の間隔は、一.五メートルくらいで、二点の間は
弓形にへこんで向こう側がすけて見えるのである。
この「塔岩」は、建造以来、何度かの大地震に遭っているはずである。というのは、今まで書いてきた「のうが高原」の巨石群は、
ある石は倒れ、ある石は位置を移動していることでも明らかである。それが高い所だけに一番倒れそうなこの「塔岩」は、ビクとも
していない様子は、ただごとではなく、不思議に安定を保っていることは驚異のほかはないのである。
UFO研究家の高坂克魅氏は、「古代の人間は、非常な霊力を持っていたから、この付近を無重力地帯にして建てたのでは」と話し
ていたが、全くそのようにしか考えようがないようである。
<つづく>
<割り込み感想>
『である』連発で読みづらい。無重力で建造したにしても、建造後は重力に従った場合、建造物自体の構造計算や地盤沈下を考慮しなければならない。
また、大地震によっても崩れない構造の謎を解明しなければならないので、無重力で建造したとか違う次元から運んだとか関係ないと思う。
イメージとしては、映画ラピュタで登場する石の働きが近いような気もする。ギゼーのピラミッドもオリオン人が説明してたように、違う次元で
建造したものを地球三次元に持ち込んで、一夜にして出現させた建造物ということと同じ手法ではないかと思われる。
建造物自体が地球からの重力と振動に自動コントロール制御されていると考えることもできるのでは。
<つづき>
しかも、この「のうが高原」に用いた巨石は、黒雲母の斑点の多い青みがかった上質の花崗岩で、これら巨石群の下の岩盤は、白み
のかかったきめの粗い質の悪い花崗岩であるから、はっきり異質なのもで、宮島沖にある大黒神島や、倉橋島などの花崗岩と同質の
ものだという。
従って、これらの島から船で運んだか、あるいは古代には広島湾が陸地だったとの説もあって、何ともいえないが、いずれにしても、
古代人は、動物の皮をふんどしにした半裸体で、棍棒を手にしており低い知能しかなかったと、私たちは教えられて育ったのである
が・・・・。
知能の低い古代人が、これらの巨石を積み上げる能力や適当な大きさに切りさく技術も工具もあろうはずもなく、従ってそうした古
代人の以前に、非常に高度な「古代文明」が栄えていたことを想像しないことには、納得できないのである。
このほかに、のうが高原ホテル内の、岩戸風呂の壮大な巨石群の積み上げも見逃せないものだ。古代に巨石を六階建てのビルの高さ
に積み重ねた場所を、岩戸風呂と称しているが、この岩戸風呂の建物の中だけで、5百坪の広さというし、最下段から最上段までの
高さは、十八メートルあるというから、広い湯船が一つや二つだけでなくある。
こんな上下のはげしい山地をそのままにホテルを建てるなどは、とても常識では考えられないが、実際に建っているのである。五年
くらい前に建てたようであるが、きっと、「のうが高原の主神」の霊に憑かれたのだとしか私には考えられなかった。(この項は、
坂本弘氏の『のうが高原』を参考にして書いたことを明らかにしておく)
新発見といっていい「のうが高原」は、本当にピラミッドの山であったのか、または、神の霊をお迎えするための「磐境」であった
のか、考古学者たちの多くは、弥生時代から縄文時代の七、八千年まであたりは問題にするが、それ以前のことには目をつぶってしまう。
この「のうが高原」だけでなく、日本の山々にはまだ多くの巨石建造物があり、ピラミッドの山があり、風葬時代の遺跡が、日本中
の名山に遺っていることが、種々の『古文書』によって、わかってきたのである。
例をあげると、巨石建造物のあった山は、岩手県の姫神山、早千峰山その他。
ピラミッドの山は、広島県の葦嶽山をはじめ、『竹内古代史』には、天日霊陵山とあり、吉備津根本国その他全国に四ヵ所建立され
た、とある。
山上での風葬時代の山は、富士山をはじめ、北は北海道の神威山、増毛山、青森県の恐山、八甲田山、大阪府の箕面山、島根県の三瓶山、
九州の九重山、祖母山など、日本中の名山という名山の多くはほとんどそれである。
また、巨大な古墳についても、その多くは、皇室の陵墓に指定されているが、全長三百五十メートル、日本第四位の大きさの吉備
(岡山・広島)の造山古墳は、皇陵の指定を受けていない。
吉備にはまだ他に大きな古墳があり、飛鳥の石舞台にひけをとらない牟佐古墳もあり、その石室はそっくり原形をとどめている、
というふうで、日本にはまだまだ謎を秘めた巨大古墳などが、あちこちにある。
<現地を訪れたい人のために>
国鉄広島駅前からタクシーだと四十分、廿日市町明石で右に山の舗装路を入り、十分ほど蛇行する道を登りつめると、
標高七百メートル余の「のうが高原」入口である。
バス、広島バスセンター発の、広島電鉄バス利用が便利、約五十分。
電車、広島駅発広島電鉄約六十分。宮島行き宮島線電車、宮島駅下車、バス乗り換え、明石停下車。のうが高原行きバスが待っている。
宿 のうが高原ホテル 大変な古代調の基盤の上に近代的なホテルが建っている風情は他ではちょっと例がないようだ。
*注意28年前の情報なので、現地情報はネットで検索してください。
*上記ホテルは廃業しておりますので、利用できません。
<転載終了>