しばやんの日々さんのサイトより
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/212/
<転載開始>
前回の記事で、千島列島最北の占守島(しゅむしゅとう)で日本軍とソ連軍との激戦があり、日本軍が良く戦ったことを書いた。
占守島守備隊には停戦命令は出ていたが、ソ連軍の一方的な奇襲の報告を受けて、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が自衛のための戦いを決断し、ソ連軍を撃破した。日本側の死傷者600名に対してソ連軍は3000名以上の死傷者が出たとされ、日本軍が優勢であったのだが、その後日本政府の弱腰な対応で占守島守備隊は8月21日に停戦に追い込まれ、8月23日にソ連軍に武装解除されることとなった。

それでもこの千島列島最北の占守島で、7日間ソ連の第2極東方面軍を足止めにさせた意義は大きかった。ソ連軍が北北海道占領をあきらめたのは、トルーマンアメリカ大統領がソ連による北北海道占領に反対したこともあるが、日本軍がこの占守島と南樺太で抗戦しソ連の第1極東方面軍の侵攻を遅らせたことが大きかったのだと思う。もし、日本軍がソ連軍の侵略に無抵抗で、アメリカの先遣隊が来る前に北海道の占領が進んでいたとしたら、わが国も朝鮮半島と同様に国土を分割され、共産国家が誕生した可能性が高かったと思うのだ。

ソ連にとって、占守島の戦いによる日本軍の抵抗の強さは想定外のものであったことは間違いがないだろう。当時のソ連政府機関紙イズベスチヤは「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べ、この自衛の戦いを決意した第五方面軍司令部の樋口季一郎中将について、スターリンは「戦犯であるのでソ連に引き渡してもらいたい」と連合軍司令部に申し入れている。よほど、スターリンは樋口中将が憎かったに違いない。

しかし、マッカーサーはソ連の要求を拒否し、樋口の身柄を保護した。マッカーサーの背後には米国国防総省があり、それを動かしたのはニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ教会であったらしいのだ。では、なぜユダヤ人組織が樋口中将の救出に動いたのだろうか。

第2次世界大戦中に、ナチスドイツによる迫害から逃れて難民となった多くのユダヤ人を救出した話は、リトアニア駐在官であった杉原千畝(すぎはらちうね)が有名だ。杉原はポーランドなどからリトアニアに逃れてきたユダヤ人に対し、外務省の訓令に反して大量のビザを発給して、6000人にものぼる避難民の命を救ったとされている。
この杉原の「命のビザ」の話はテレビでも何度か紹介され、新聞にも良く出てくるのだが、同様な事は杉浦千畝よりも2年以上前に樋口季一郎が実行していたのだ。しかも、樋口の時は、ユダヤ人の迫害問題に対するわが国の方針が定まる前に自己の責任において決断したものであり、もっと注目されても良い話だと思う。
私が樋口季一郎の話を知ったのはソ連の対日参戦のことを調べた時の副産物なのだが、今回は樋口季一郎のことを書くことにしたい。

1933年にドイツでナチス政権が誕生して以来、大量のユダヤ難民が発生した。当時はユダヤ難民を受け入れる国は少なく、英米でさえ入国を制限していた時代であった。

樋口季一郎は陸軍士官学校から陸軍大学校を経て高級軍人となってからは主に満州、ロシア、ポーランドの駐在武官などを歴任し、昭和10年(1935)8月に満州国ハルビンに赴任している。
そして昭和12年(1937)の12月に、ハルビンのユダヤ教会の会長であったカウフマン博士が樋口に面会を求めてきた。
カウフマン博士が樋口を訪ねた目的は、ナチスドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催を許可してほしいというものであった。
樋口はハルピンの前にドイツに駐在した経験があり、ユダヤ人の境遇に深く同情していたことから、これを即決し許可する。
そして12月26日に第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、樋口は来賓として招かれて、このような素晴らしいスピーチを行ったという。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito2.htm

「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。

ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロム(迫害)が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきである。

当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。」

「ある国」というのは、ドイツであることは言うまでもない。
ユダヤ人を好ましからざる分子として、行先も明示せず、その準備もせずして追放することは、虐殺にも等しいことであると、樋口は同盟国ドイツを強く批判したのである。

この演説が終わると集まったユダヤ人たちから歓声が起こり、万雷の拍手を浴びたと言われている。

しかし、この樋口の演説は国内外に大きな波紋を引き起こし、同盟国であるドイツを批難したことについて、関東軍司令部からも強く批判され、その懲罰問題が決着しない内に「オトポール事件」という事件が起こった。

「オトポール事件」とはどんな事件であったのか、次のURLやWikipediaなどの記事を参考に、簡単に纏めておく。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_1/jog086.html

昭和13年(1938)3月8日、ナチスの迫害を逃れるためにドイツを脱出したユダヤ人難民が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅まで辿りついたものの、満州国の外交部が入国の許可を渋ったために足止めにされていた。

カウフマン博士から極寒の地オトポールの惨状を知らされた樋口は、手記でこのように回想しているという。

「満州国はピタッと門戸を閉鎖した。
ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。
もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。
しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか 」

当時わが国はドイツと同盟関係にあり、下手に動けばドイツを刺戟し外交問題に発展する可能性があった。また、満州国外務部を差し置いてユダヤ人を受け入れることを樋口が決断することは、明らかな越権行為に当たる。
とはいいながら、ユダヤ人の亡命を阻止すれば、これから多くのユダヤ難民が寒さと飢えで命を落とすことになる。そもそも満州国は「五族協和」を旗印にして建国した国ではないか。

樋口はカウフマンにこう告げたという。

「博士! 難民の件は承知した。誰が何と言おうと、私が引き受けました。博士は難民の受け入れ準備にかかってほしい。」

カウフマンは樋口の前で声を上げて泣いた。
それから樋口の行動は早かった。彼は大連の満鉄本社の松岡総裁に連絡をつけて交渉し、列車を動かしたのだ。

その2日後の3月12日、ユダヤ人難民を乗せた列車がハルピン駅に到着する。担架を持った救護班が真先に車内に飛び込み、病人が次々に担架で運び出され、ホームは痩せこけた難民たちで一杯になったという。誰彼となく抱擁し、泣き崩れる難民たち。カウフマン博士は、涙でぬれた顔をぬぐおうともせず、難民たちに声をかけていたという。
凍死者十数名、病人二十数名ですんだのは不幸中の幸いであった。もし樋口の判断がもう一日遅れれば、もっと悲惨な結果になったと言われている。 

樋口の行為は、当然のことながらドイツとの外交問題に発展した。
ドイツのリッベントロップ外相はオットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送ってきたという。
「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。
然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。
請う。速やかに善処ありたし。」
と、暗に樋口の処分を求めてきた。

樋口は関東軍司令部に呼ばれて、当時参謀長であった東条英機をこう説得したという。
「私はドイツの国策が自国内部に留まる限り、何ら批判せぬであろう。またすることは失当である。しかし自国の間題を自国のみで解決し得ず、他国に迷感を及ぼす場合は、当然迷惑を受けた国家または国民の批判の対象となるべきである。
もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、それは恐るべき人道上のであるとすれば、これまた驚くべき間題である。
私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである。」

そして、東條に対してこう言い放ったと言われている。
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」

要するに樋口は、日本国も満州国もドイツの属国ではないのであるから、独立国として主体的に判断すべきであり、非人道的なドイツの国策に協力する理由はないと東條に述べて了承を得たのである。

その後樋口はこの事件の責任を問われるどころか、樋口は参謀本部第2部長に栄転となる。
樋口がハルピンを去る日、ハルピン駅頭は2千人近い見送りの群衆が詰めかけて、樋口が駅頭に立つといっせいに万歳の声が湧きあがったという。

どれだけのユダヤ人が樋口の決断によって助かったかについては諸説あるが、この時の列車に乗っていた難民は100人から200人程度だったと言われている。その後、ソ連から満州経由で亡命したユダヤ人をすべて含めると、2万人程度ではないかというのが多数説になっているが、正確な統計があるわけではないのでよくわからない。

長い話になったが、樋口がソ連から戦犯にされようとした時に、樋口を救おうとユダヤ人組織が動いてマッカーサーが樋口の助命に動いたのは、オトポール事件で多くのユダヤ人の命を救った樋口を援けようと、世界ユダヤ教会アメリカに働きかけたからなのである。

余談だが、多くの書物やブログでは、樋口季一郎はイスラエル建国功労者として、樋口の部下の安江とともに「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになったと書かれているが、これはどうやら誤りであるようだ。
『指揮官の決断』(文春新書)の著者である早坂隆氏は、実際にイスラエルに行って「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」を確認に行っておられる。
早坂氏によると「ゴールデン・ブック」というのはJNF(ユダヤ民族基金)という組織に対する献金記録簿で、樋口の名前は第6巻4026番目に記載されているのだそうだ。そこには「偉大なる人道主義者」という文字はない。
ここに記載されることがユダヤ社会において特別に功績が顕彰されたことを意味するものではないのだそうで、極東ユダヤ人協会がJNFに寄付をして、樋口とカウフマンと安江の名前を刻んだというのが真相のようだ。(『指揮官の決断』早坂隆p.155-161を参考)

オトポール事件の9か月後に、わが国は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を策定している。
この原文及び口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito2.htm

この要綱を素直に読めばわかると思うが、必ずしも人道主義で貫かれたものではなく、早い話が、技術や資金力など、ユダヤ人で利用できるものは利用しようという魂胆が垣間見えている。
この要綱を読めば読むほど、人道主義を貫いた樋口の行為が一段と輝いて見える。杉浦千畝の「命のビザ」の物語も良く似た話だが、樋口の2年以上も後の出来事である。

こういう史実を知ると、なぜわが国において、杉原の話は知られても樋口の話は広められなかっただろうかと、誰しも疑問に思うだろう。

よくよく考えると、第二次大戦時の日本軍人のいい話が、マスコミなどでほとんど伝えられていないことに気が付く。
樋口季一郎の話は彼が軍人であったので封印された一方、外交官である杉浦千畝が外務省の訓令に反してビザを発行した話ばかりが讃えられてきたことに、どこか世論誘導の臭いを感じるのは私ばかりではないだろう。

原爆投下やシベリア抑留という過去に例のない戦争犯罪に手を染めたアメリカおよびソ連にとっては、日本軍がよほど邪悪な存在でなければ、彼らの犯罪行為を正当化するストーリーを描くことができないのだ。もし、日本軍人に世界から尊敬される人物が何人も存在しては、アメリカやソ連の戦争犯罪をいつまでも封印することは難しくなってしまうということは、少し考えれば誰でもわかることだろう。
なぜ戦勝国が、戦後我が国に対して厳しい検閲をし、言論弾圧や焚書を行ない、その後も内外の圧力を使って言論をコントロールしようとする理由はそのあたりにあるのではないだろうか。

第二次世界大戦が終戦して67年にもなるが、未だにわが国は、戦勝国にとって都合の良い歴史を押し付けられたままである。
戦勝国が、戦後日本人を洗脳するために、どれだけわが国の歴史を封印してきたかをもっと知るべきであろう。その歴史を日本人が取り戻さない限り、この洗脳を解くことは難しいと思うのだ。

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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

<転載終了>