なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0910-1.html#07
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ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ | ||
ウエイン・W・ダイアー・著 渡部昇一・訳 三笠書房 | ||
●無限の力を味方につける「スピリチュアル・ライフ」とは 「あなたは花を育てることができるか?」――こう尋ねられたら、たぶん、あなたは次のように答えるだろう。「簡単なことだ。土に種を蒔いて日光と水を与えれば、やがて花が咲く。その証拠に、今この瞬間にも、世界中で無数の花が咲いているじやないか!」 たしかにそのとおりだが、質問にもう一度目を通してから、花を育てる生命の源が誰(何)か考えてほしい。誰(何)が種から花を咲かせ、小さな胚から人をつくっているのか? 誰(何)が人間の指の爪を伸ばし、眠っているあいだも心臓の鼓動を打たせているのか? 誰(何)が、感じるけれども目には見えない風を吹かせているのか? そして惑星を定まった位置に配置し、地球を猛スピードで銀河系に投げ込むこの力はいったい何なのか? この地球に存在するあらゆる生命の源であり、形がなく目には見えない宇宙エネルギーを私は“無限の力”と呼んでいる。あなたが人生で出会うすべての問題は、あなたのなかに眠っている無限の力を目覚めさせれば解決できる。 そこでまず、無限の力を味方につけるための3つの基本ステップを説明しよう。 1[認識]――「無限の力」の存在を認める 多くの人がスピリチュアルな力の存在に無自覚であり、その存在を認めようとしない。たとえば、病気の治療一つをとっても、高度な医療技術や薬剤で何でも治ると思っている。あるいは、経済状態を改善するには一生懸命に働き、勉強し、レイオフされたら履歴書を送って面接を受けるしかないと信じている。 しかし、このように自分の知覚を超えた神秘の力を無視して生きることは、あなたの無限の可能性を無視することに等しい。生命、自然、そして宇宙の源である偉大な力があなたの手の届くところに存在している。それを認めることが、自分のなかに眠っている無限の力を働かせる最初のステップなのだ。 だが、夢占いについて書かれたものを読めば「いい夢」が見られるわけではないように、他人に教えられたり書物を読んだりしただけでは、こうした力を得ることはできない。「自分には宇宙に通じる無限の力がある」と深く信じることで、はじめて無限の力に目覚めることができるのだ。 たとえば、あなたが何か大きな問題にぶつかっているとして、どうすれば解決できるのか、今のところは正確にはわかっていないとしよう。しかし、「解決できることは十分承知している」と自分に言い聞かせていると、必ず、天から助けのロープが降りてくるように解決策が見つかるものだ。 2「体感」――頭で考えた知識より、心で体感した知識を優先させる この段階では、あなただけが自分の体験を事実と認めることができる。 手始めに、どういう人間になりたいか、どんなふうに人生が運ぶと満足できるか、心にイメージするとよいだろう。こんなことをしても無駄だとみじんも考えずに、自分が無限の力に導かれているところを思い浮かべよう。 心に浮かんだイメージを現実のものにしたいと静かに願い、自分の願いは近い将来、必ずかなうと確信しよう。心に思い描いたことが、身近な現実の世界に変わっているところを味わってみよう。これが「体感」で、頭の体操のたぐいを超える個人的な体験である。静かに瞑想している時に練習すれば、あなたも必ず経験できるだろう。 3「一体化」――「無限の力」と一つになる 自分は無限の力の一部だと考え、自分のすべてが偉大だと確信して、みじんも疑っていない――こうした状態にある時、私たちは無限の力、大いなる知性と完全に一体化している。 無限の力と心の中で対話していると、一時的に自我がなくなる。「自分で何とかできる」とうぬぼれる代わりに、自分の中にいるより崇高なもう一人の自分に喜んで委ねようとする。 一つの水滴が大海から離れた時の姿は、私たちが全能の力の源から離れてしまっている時の自我を象徴的に表している。大いなる知性、無限の力と私たちの自我が一体化している時、私たちには無限の力が与えられているのだ。 ★ こちらに私の解説をつけています → 艱難(かんなん)汝を玉にす | |
● 艱難(かんなん)汝を玉にす 2006年3月22日(水) |
昨日読んだ『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』(ウエイン・W・ダイアー著/三笠書房)の中に、この間の「つぶや記」の内容を裏づけするような文章を見つけましたので、抜粋してご紹介します。 まずは、ゲーリー・ズーカフが「宇宙」と呼び、私が「絶対神」「創造神」「宇宙の法則」「スーパーパワー」などと呼んでいる「神」の概念について、次の説明はたいへんわかりやすいと思います。 「あたなは花を育てることができるか?」――こう尋ねられたら、たぶん、あなたは次のように答えるだろう。 「簡単なことだ。土に種を蒔いて日光と水を与えれば、やがて花が咲く。その証拠に、今この瞬間にも、世界中で無数の花が咲いているじゃないか!」 たしかにそのとおりだ。だが、質問にもう一度目を通してから、花を育てる生命の源が誰(何)か考えてほしい。 誰(何)が種から花を咲かせ、小さな胚から人をつくっているのか? 誰(何)が人間の指の爪を伸ばし、眠っているあいだも心臓の鼓動を打たせているのか? 誰(何)が、感じるけれども目には見えない風を吹かせているのか? そして惑星を定まった位置に配置し、地球を猛スピードで銀河系に投げ込むこの力はいったい何なのか? ――『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』(ウエイン・W・ダイアー著) ダイアー博士はこの「花を咲かせる力」の源を「無限の力」と呼び、その「無限の力」を味方につけることがスピリチュアル・ライフだと述べています。以下にそのさわりの部分をご紹介します。 ■ 「認識」――「無限の力」の存在を認める 多くの人がスピリチュアルな力の存在に無自覚であり、その存在を認めようとしない。 たとえば、病気の治療一つをとっても、高度な医療技術や薬剤で何でも治ると思っている。あるいは、経済状態を改善するには一生懸命に働き、勉強し、レイオフされたら履歴書を送って面接を受けるしかないと信じている。 しかし、このように自分の知覚を超えた神秘の力を無視して生きることは、あなたの無限の可能性を無視することに等しい。 生命、自然、そして宇宙の源である偉大な力があなたの手の届くところに存在している。それを認めることが、自分の中に眠っている無限の力を働かせる最初のステップなのだ。 だが、夢占いについて書かれたものを読めば「いい夢」が見られるわけではないように、他人に教えられたり書物を読んだりしただけでは、こうした力を得ることはできない。 「自分には宇宙に通じる無限の力がある」と深く信じることで、はじめて無限の力に目覚めることができるのだ。 たとえば、あなたが何か大きな問題にぶつかっているとして、どうすれば解決できるのか、今のところは正確にはわかっていないとしよう。しかし、「解決できることは十分承知している」と自分に言い聞かせていると、必ず、天から助けのロープが降りてくるように解決策が見つかるものだ。 本章の冒頭の問いに答えると、物質的な存在として、私たちは花を育てることができる。だが、あらゆる生き物に命を吹き込んでいる“目には見えない力”の謎を解き明かすのがいかに難しいかに気づくだろう。 それでも、至るところに存在するこの全知全能の力こそ、あらゆる問題、悩みを解決してくれる、あなたの最大の味方なのだ。 ――『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』(ウエイン・W・ダイアー著) この文章は、「神様の無限の力の存在を信じてさえいれば、人間的努力をしなくてもあらゆる問題は解決する」というふうに解釈される恐れがあります。ここが難しいところです。 「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、人生で行き詰まったときに「神(無限の力)」に救いを求めるのは昔からなされていることです。しかしながら、神様はいつでも、誰でも、無条件に困難から救済してくださる訳ではありません。それは、人が直面する人生の苦難の多くは、その人の成長を促す“試練”として準備されたものだからです。 「可愛い子には旅させよ」という諺があるように、子どもの成長を願う昔の親は、あえて苦労の多い旅に送り出すことをしました。自分のそばに置いて生活万般の面倒をみてあげたい気持ちを抑え、自分の目の届かない旅先に送り出す親の気持ち――その親心こそが神の愛と言ってもよいでしょう。 人間の進化に“試練”すなわち苦難は必要なのです。それは、荷物を背負わせることによって肉体の力が増すのと同じことを意味しています。ただし、ありがたいことに神様はその人間が背負いきれないような重い荷物は決して負わせないのです。その時点における人の体力を見抜いた上で、簡単には背負えない重さの荷物を与えるのだと言われています。楽々とはいかなくても、人がその気になって力を発揮すれば、必ず背負うことができる荷物なのです。 ちょうど重量挙げの選手が少しずつバーベルの重さを上げていって、力をつけていくのと同じ原理です。 その“人生における試練”ということについて大変参考になる考えを述べた文章があります。以下は、私が通勤時に聴いている「速聴CD」の中にある「ノーマン・V・ピール博士の教え」(光輝・著)の一文です。 ■ 逆境は最大のチャンス わたしたちは、のんびりと気楽に毎日を過ごせればそれでよいと思うかもしれません。しかし、「人生学校」は、努力なしで卒業させてくれるほど甘い学校ではありません。授業に出て、教科書を読んで、与えられた宿題をちゃんとこなしていかないかぎり、新しい学科の習得はできません。 やはり、さまざまな困難にチャレンジしながらそれを乗り越えていく、という過程を経なければ人間は成長できないのです。 「艱難汝を珠(たま)にする」というのは本当です。これを、ピール博士は、「苦労、困難、貧乏は3人の優れた教師である」と表現しています。 また、逆境は、「人格的な成長」という単位を克ち取るためにも不可欠な課題です。逆境は、好ましくない性格を変えるきっかけにもなりうるのです。「人間は長い間つらい経験をしないでいると、自信過剰になり、配慮がなくなり、ひとりよがりになりやすい」とピール博士は言います。そして、つらい経験をこやしにして、より円満な人格に成長することができるのです。 ただ、別段「人生学校」は順位や偏差値に関係ある学校ではありません。積極的で前向きな心構えで、与えられた課題に立ち向かっていき、少しでも新たに成長した場合には、必ず、「喜び」と「充実感」という報酬が与えられるのです。 ―― 「ノーマン・V・ピール博士の教え」(光輝・著) 同じ意味のことを述べている文章を、次は『自分を磨く方法』(アレクサンダー・ロックハート著/ディスカバー)からご紹介します。 ■ 逆境に立ち向かう 「雨風は材木を強くする」という格言がある。人間も同様だ。逆境にさらされると、人間は強くなる。逆境は永遠には続かない。だが、逆境に屈してしまうと、逆境はいつまでも続く。 自己啓発の大家ナポレオン・ヒルは「すべての逆境には、それと同等かそれ以上に大きな恩恵の種子が含まれている」と言っている。恩恵の種子を見つけるのは難しいかもしれないが、すべての試練には必ず解決策が隠されており、多くの場合、その解決策を実行すれば大きな恩恵を受けることができる。 逆境は日常的なできごとであり、あなたの実力の試金石である。あなたの心の持ち方しだいで、それは障害物にもなれば跳躍台にもなる。こすらなければ宝石を磨くことができないのと同じように、逆境がなければ人格を磨くことはできない。 逆境とは、未解決のチャンスのことだ。すべての問題には解決策があり、いったん解決すれば、それはもはや問題ではない。小さな挫折は、あなたが遭遇する次の試練にうまく対処する能力を高めてくれる。逆境に遭遇したからといって、「これでもう終わりだ」と考えてはいけない。逆境とは、「いったん立ち止まって解決策を考えろ」という意味なのだ。 ■ 苦闘を大切にする ある日、少年が外で遊んでいると、木の葉にまゆが付いているのが見えた。少年はそのまゆを部屋に持ち帰った。数日後、チョウがまゆを破って外に出ようと苦闘し始めた。長くて厳しい戦いだった。少年にはチョウがまゆの中に閉じ込められているように見えた。チョウの動きが止まったことを心配した少年は、ハサミでまゆを切ってチョウを助け出した。 しかし、そのチョウは翼を広げて飛ぶことができず、ただ這い回るだけだった。本来なら、まゆの小さい穴から苦闘しながら出ることによって体液が翼にまで行きわたり、チョウは飛べるようになるはずだった。 この教訓は私たち人間にもあてはまる。人生は苦闘の連続だが、もし苦闘しなければ、私たちは本来の強さを発揮することができなくなる。苦しい思いをするのは誰でも嫌だが、苦闘は成長の機会でもある。自分の人生を切り開く人は、逆境が人格を鍛えることを理解し、苦闘を歓迎する。 ほんの少しの努力で成し遂げられることばかりしてきたなら、あなたは今以上に成長することはないだろう。チョウの苦闘が翼に強さを与えるのと同じように、あなたの苦闘も強さを獲得するうえで必要なのだ。 ―― 『自分を磨く方法』(アレクサンダー・ロックハート著/ディスカバー) 今日では、楽をして世の中を渡っていくことが成功の姿だと勘違いをしている人が増えているような気がします。株などのマネーゲームで一攫千金を狙い、人間関係などで苦労するような仕事に就くのを避けて、終日パソコンとにらめっこをして株価の変動に一喜一憂している人もいるようです。 そういう生き方をしている人の心の底には「お金さえあれば、この世では幸せになれる」という考え方が横たわっています。これが資本主義社会が生み出した弊害の最大のものです。つまり弱肉強食の「お金至上主義」です。その考え方、そのような生き方が、これから終末の中で見事に崩壊し、清算されていくことでしょう。人生で遭遇するさまざまな“試練”を避けてきた人は、まとめて大きな“荷物”を受け取ることになります。その荷物は、別な表現をするならば「カルマの詰め合わせセット」とでもいうべきものです。 「楽をしよう」「苦しいこと、辛いことは避けよう」と、人生の試練から逃げ回ってきた人は、背負いきれない荷物を一度に背負わなくてはならなくなり、押し潰されてしまうことになるでしょう。なぜなら「身魂が磨けていない」からです。「人生で直面する苦難や困難にくじけず、自らの努力によってそれを乗り越える」ということも、大切な“身魂磨き”なのです。 それは、子どもを育てるときの親の気持ちになって考えていただけばわかることです。子どもを甘やかしてばかりいれば、将来どんな大人になるでしょうか。親の庇護がなければすぐに挫折してしまう弱い人間になるかもしれません。あるいは、非行に走って犯罪を犯す人間になることも考えられます。(現代社会はまさにその通りの状態になりつつあるのではないでしょうか) ですから、昔の人は小遣いなども子どもが欲しがるままに与えたりはせず、辛抱させて、お金や物を大切にするようにしつけをしてきたのです。 そういうしつけがされず、親を親とも思わなくなった最近の子どもたちが迎える未来社会は大変悲惨な姿になることが予測されます。そのままの心の状態で、終末の大きな苦難や混乱に立ち向かうことができるでしょうか(できないでしょう)。 もちろん、最近は大半の大人も似たような心のレベルにあるのかも知れません。つまり、我善し(自分さえよければよいという利己主義)の生き方をする人が増えつつあるからです。 そういう生き方をしている人が“大峠”の土壇場になって救済を求めてきても、「その時では神といえども助けることはできない」と『日月神示』の神様は述べておられました。それは、「身魂が磨けていない」から、つまり、よくない心の癖を身につけているからなのです。 ☆ ★ ☆ 本日の結論を私流の表現で簡単にまとめておきましょう。 ① 人生に“試練”はついてまわる。それは人を磨くために神様から与えられた宿題の ようなものである。 ② その宿題には必ず解決策(答え)が隠されている。真剣に取り組めば答えは見つ かるようになっている。行き詰まったときは、人事(自分ができる努力)を尽くしたう えで、あとは天(神様の無限の力)に任せれば、かならず解決策がみつかることに なっている。その無限の力が働くことを信じることが大切である。 ③ 宿題から逃げても、同じ問題が必ず人生のどこかの局面で突きつけられることに なる。つまり、解き終えるまでその宿題はなくならない。 ④ 一つの宿題を解き終えると、少しレベルを上げた次の宿題が出される。 ⑤ そのようにして、次々と試練を乗り越えながら、人は成長していく(させられていく) のである。 前回予告しました『チベットの生と死の書』の解説は次回に回させていただきます。本日もご精読ありがとうございました。 |