エフライム工房さんのサイトより
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/saka1.htm
達人さんの掲示板に面白いサイトを見つけました。
連載で長いですが、1日1章を目標に!!
<転載開始>
   第一章 先生の登場


   プロローグ~出会い


 私の名は石井尋美(ひろみ)。某国立芸大で日本画を専攻している。一浪して入ったのでクラスでは若いほうである。四浪や五浪は当たり前。他の大学を卒業してから入ってくる人もいる世界だから、一クラス二十五人の間には雑多な年齢が構成される。アトリエは狭いので、自分だけの世界を作ることは難しい。そこで、息抜きに様々なアイデアが考案される。ある人は点呼と共に大浦食堂へ直行し、知り合いを捕まえては雑談にふけっている。ある人は、勝手にアトリエ内に仕切りを設け、孤独な作業場を住処としている。私の場合はいたって健全で、近くの国立博物館へ散歩と洒落込むのだ。

 うちの大学の特権?で、上野公園内の施設にはフリーパスが通用する。とは言っても、最初に一年間の会費を少々払うわけだが。さて今日は午後から色彩心理学があるので、散歩は午前中に済ましておこう。梅雨時の今ごろは企画展が少なく、常設展に足を運ぶ人は少ない。お気に入りのエナメルのパンプスが濡れるのは嫌だけど、アトリエで煙草の煙を吸わされる方がもっと苦痛に思う。ピカソの鳩の絵柄のTシャツに黒のパンツルック、上着はパンツとお揃いのノーブランド。絵の具が高いからファッションにまでお金をかけられないし、お顔も当然ノーメイク。どうせいい男なんていないし、学部の芸術家気取りの男って結構嫌味なだけなのよね。それに、美術をやっていると思えないほどファッションセンスがなさ過ぎ。と、今日の私は変。どうも雨が神経を苛立たせているのだ。博物館の門をくぐる時には神経を芸術家モードに切り替えておかねば。

 博物館の中央の建物には日本の絵画が常設されている。絵の保護のために薄暗いが、私はこの暗さが気に入っている。苛立っていた神経が徐々に治まって行くのが自分でもわかる。時計というものがなかった時代、強い照明がなかった時代の作品は、どうしてこんなに美しいのだろう。それは、生活のリズムと自然のリズムが調和をしていたからに違いない。付け加えれば、タバコを知らない人の集中力の凄さも。絵の具の色数も現代より圧倒的に少ない時代は、形に対してより厳しさを求められた。デッサン力をごまかしようがないからである。そう言えば、うちのアトリエでも、デッサン力のない人ほど高価な絵の具にこだわる傾向がある。「墨に五彩有り」は死語になってしまったのかも。そう思いながら大好きな雪舟の掛け軸の有る部屋へ向かった。その途端、私は異様な光景を目にした。四十台半ばに見える一人の男が、雪舟の絵の前で踊っていたのだ。いや、正確に言うと揺れていたのかもしれない。まるで指揮者のように、踊るような揺れるようなリズムで雪舟の絵に見入っていたのだ。だが、私の驚きはそれにとどまらなかった。その男の傍らに、懐かしい旧友が立っていたからである。

「瞳!」私は博物館にいることも忘れて旧友の名を叫んでいた。高校時代の唯一の親友である佐伯瞳は、一瞬怪訝な顔をした後に私のことを思い出した。そして、再会の喜びと困惑の混ざった複雑な表情を見せた。それもそうである。いったい瞳と揺れる男の関係は何なのか。瞳の見せた困惑は、私の好奇心を刺激した。

「ちょっと瞳、どうしてこんな所にいるのよ!」

 私は瞳の袖を引っ張りながら尋ねた。瞳はもじもじしながら答えに窮していた。何々、あんたたちそんな関係な訳?私の頭の中では、瞬間的に中年のおばさん口調になっていた。とそこへ、困っている瞳を見咎めて男が近寄ってきた。

「瞳ちゃん、この方は?」

 そう言いながら、私の頭のテッペンからつま先まで値踏みをするかのように瞬間的に見つめ、それから心の奥まで見透かすかのような眼差しで私の顔を覗き込んだ。まずい、ノーメイクだった。私は完全に取り乱して、うろたえているのが分かった。

「あっ、先生、こちらは私の高校の同級生で石井尋美さんです」

 瞳はすっかり観念したか、涼しい顔になって私を紹介した。

「ああ、瞳ちゃんの御学友ね」と、先生と呼ばれた男はにこやかに首を傾げた。

「はじめまして、石井です」

 私は挨拶をしながら、横目で瞳に「紹介しなさいよ」と促した。すると「あっ、どうも、平ミユキです」と瞳をかばうように自己紹介した。さらに、「うーん、瞳ちゃんも美人だけど、あなたも美人ですね」と笑いながら話し掛けてきた。その途端、おとなしかった瞳が「先生、ここで私語は禁止ですよ」と強い口調で割って入ってきた。「じゃ、後でお茶でも飲みながらちゃんと紹介してよね」と先生。というわけで、私はこの奇妙な揺れる先生に30分後に再会したのである。



   1. 先生の正体?


 博物館に付属して小さな食堂らしきものがある。私たちはここで昼食を兼ねて談笑した。席に着くなり、瞳は「あのね、先生はオジサンなの」と言った。私は一瞬「エッ?」と聞き返してしまった。だって、見かけがオジサンと言われる年齢なのだから。すると、瞳はぷっと吹き出して笑いを必死にこらえている。

「瞳ちゃん、オジサンって言ってはいけない約束でしょ」先生がゲンコで瞳の頭をコツンと叩きながら注意している。

「だって、本当の叔父さんなんだもの!」

「ああっ、瞳のお父さんのご兄弟?」

「アッタリー、父のお兄さん。オジサンって呼ぶと怒るから、仕方なく先生と呼んでるの。でも昔、絵を教えていたことがあるからやっぱり先生かな」

「じゃ、瞳が前に言ってた、瞳の家系の幻の天才って先生のことですか?」私もつられて先生と呼んでいた。

「そう、父が養子なので姓が違うけど、れっきとしたうちの家系の天才なの」

「でも、瞳は余り話したがらなかったじゃない?」

「まあ、あの頃はオジサンじゃなくって先生の偉大さが分からなかったし、先生も隠遁者のように引き篭もっていたから、絵を志している尋美に悪影響があると思って話さなかったんだ」

「悪影響はないでしょ!」先生は笑いながら瞳を小突いた。

「でも、尋美も先生と同じ大学で同じ日本画とはね。やっぱり、尋美には知る資格があるのかもしれないわね」と謎のような言い方をする。

「知る資格って何?」

「それは話すと長いから、今度うちへ遊びに来て。それより大学生活はどう?先生のようにグータラ決め込んでないでしょうね」と瞳は話題を変えた。


 こうして話題はもっぱら、絵と私の学生生活についてのものになった。雪舟については、「雪舟の絵は円が幾つも重なっているように構成されている。そのリズムを全身で感じると自然に体が揺れる」と教えてくれた。なるほど、さすがに絵を教えていただけのことはある。だが、瞳が先生と呼ぶのはやはり解せない。なぜならば、瞳は現役で私立の女子大に入ったので、美術館に来ることすら疑問なのだから。それで、「今度遊びに行くね」と瞳と約束して別れた。いっけなーい。もう色彩心理学が始まる時間だ。


 瞳のアパートは小田急線の相模大野にある。大学が家から遠い関係で一人暮しをすることになったのだという。こじんまりしたワンルームマンションは整理されていて、机にはパソコンが乗っている。どうやら、大学のカリキュラムの関係で購入したものらしいが、瞳に言わせれば「よく止まる」機械なのだそうである。コージーコーナーのショートケーキでお茶を飲んでいると、壁にコスモスの水彩画が飾ってあるのに気がついた。「瞳、このコスモス素敵じゃない。もしかして、先生の作品?」と怪しむと、意外な答えが返ってきた。

「それね、あたしの作品」

「ウッソー、芸大生の私よりうまいじゃない。受験用としてはどうかと思うけど、花がとっても花らしく描けている」

 私は、力量のある人の絵には素直になれるのだ。

「だって瞳、絵なんか描いてなかったでしょ」

 そう、彼女は絵には縁のなかった人種なのである。それがどうして、こんなすばらしい作品を作れるのか?瞳は先生に教わったに違いない。でも、教わったからといって簡単に描けるものでもない。少なくとも、私の常識では理解できない。何か秘密があるに違いない。だが、瞳は笑いながら「先生の先生たる所以よ」と説明をはじめた。


 瞳が言うには、先生は、易しく簡単なものから複雑で難しいものまで、自然界のものは相似形でできていると教えてくれたという。難しく言うと、自己相似(フラクタル)というのだそうである。雪の結晶や木の枝分かれの形が自然界のフラクタルの典型である。人の手による自己相似の典型はミケランジェロのブルータス像↓(撮影、小林秀樹)で、そういえば何となく理解できそうな気がする。抽象的な表現としては、尾形光琳の白梅・紅梅図の水の流れ、葛飾北斎の富嶽三十六景から、神奈川沖浪裏の波の表現などがある。


  
  

  ブルータス像 クリックで拡大    参考、コージーのバス



 さて、コスモスの花は、簡単な幾何図形の繰り返しで描けるし、複雑そうな葉も、枝分かれに法則があるからそれを見つければいい。あとは、色彩だけは色を重ねる順番があるから、そこがちょっと難しいところ。ただし、形も色も、究極的には精神状態というか霊性というか、そういうものの発露だから、絵は神の領域に接しているという。
 花を描くという事は、宇宙を構成する分子としての「花と自分」の関係を確かめる行為にほかならず、極論すると「神と自分」の関係を確かめていることになる。人は神の似姿なのだとしたら、人は創造することによって神を知ることができる。だから、一輪の花にも宇宙があり、神があり、自分がある。フラクタルを理解するには、単純なものから複雑なものへと展開する自然の摂理を大事にすることだ。そうすれば、どんなに複雑そうに見えるものでも、実は単純な基本的なものの応用に過ぎないことが見えてくる。その基本的なものの一つが幾何図形であり、デッサン力のある人は、例外無く幾何図形には強いはずだ。基本をおろそかにする人は、その重要性が見えていないのだ。
 それから、もう一つ付け加えれば、自分が花になったように、体で花や葉の広がりを表現するイメージを持つこと。そういう訓練をすると、自分がミツバチになって花の中に潜り込んでいる姿を想像することができる。コンピューターグラフィックスは、そういうイメージトレーニングの役には立つね。


 そんな説明を聞いていて、私はいたずらに小手先の表現技術ばかりを追い求めていたのに気がついた。それも、何の問題意識も持たないで。そこで瞳に提案した。

「ねー、私も先生を先生って呼んでいい」

 瞳は苦笑しながら「タイプなんでしょ」と言った。どうやら、先生は人間観察まで教えているようである。


 ここで先生の外見について触れておこう。第一印象は中年のロックンローラーという感じ。といっても、それは若いときには痩せていてカッコ良かったに違いないというような意味で、背筋を伸ばして優雅に歩く様は猫背のロックンローラーとは正反対である。背丈はそれほど高くないが、頭が小さくて(前から見ると二十センチしかない)、それゆえに八頭身を超えている。頭は薄くなりつつあるが、人気性格俳優のNみたいにも見える。顔立ちは美形ではないが上品なところがあって、昔の昭和天皇をハンサムにしたみたい。大きな目はメガネをかけているので優しく見えるが、実際は鋭くて力強さを感じる。一重まぶたのせいで神秘的にも見えてしまう。手足は華奢ではないが細くて、全体としては猫科の動物みたい。これが揺れながら歩くもんだから、知らない人が見たらダンサーかと思ってしまう。いやむしろ指揮者かな。小澤征爾やカラヤンみたいな細目の指揮者。

 瞳に先生の年を聞くと、四十代後半としか教えてくれない。血液型はA、星座は魚座。私は蠍座だから相性がいいわ。などと考えていると、瞳が「先生は山羊座の人と相性がいいんですって」と見透かしたように言う。山羊座って、確か瞳がそうじゃない。ふーん、瞳ってそうだったんだ。でも、叔父と姪ではね。と、他愛もないことにライバル心を発揮して苺ショートをほおばっていた時、突然チャイムが鳴った。「あっ、先生だわ」と言って瞳は玄関に向かった。えっ、先生も来ることになっていたの!知っていたら、しっかりキメテ来てたのにー。



   2.コージーのお話


 挨拶もほどほどに、先生は「コージーのケーキはどうですか」とたずねた。私は「苺(イチゴ)が大きくておいしかった」と率直な感想を言った。「じゃ、僕ももらおうかな」と言いながら、先生はコージーのケーキについて解説を始めた。山間の清川村に工場があること。そこでは毎日大変な数のケーキが作られていること。社員よりも派遣の人が多く、その半数は外人に頼っていること。そして、今食べたケーキが、実は社内販売の半額セールのものだと教えてくれた。どうして半額になるのかというと、形が規格に合わなかったりしたものは製品としては出荷できないので、半額以下で社内販売に回すのだそうである。だから、今食べた苺ショートも、トッピングの苺は買ってきて付けたもので、だからいつもより苺が大きかったのである。先生はコージーの工場でアルバイトしていたことがあって、そのときに知り合った外人さんに頼んで、ショートの四個入りを手に入れたのである。ということは、あとの一個は瞳の朝食になるに違いない。

「先生、コージーの外人さんはどこの国の人が多いんですか」私は、紅茶をひとすすりして尋ねた。

「あのね、一番多いのは南米系の人で日系三世かな。日本語は片言でブラジル以外はスペイン語。その中でも一番多いのはペルー人かな。みんな陽気だから、本厚木から出る送迎バスの中はうるさいうるさい。でも、仲良くなると楽しいけどね。中には完全な白人の人もいるので、全部が日系というわけじゃない。日系の人も、様々な事情から日本の国籍を持っていない人が多いので、法務省が進んで国籍を与える必要があると思う。国策で移住を募った背景があるのだから、フォローは最後までするべきだしね。日系の人は沖縄出身が多く、変わった苗字の人は大概沖縄だね。それから、東南アジアの人も多いけど、フィリピンよりヴェトナムの人が目立つね。というのも、難民として日本に来た人たちの子供がちょうど18歳前後になっていて、高校中退で働いている人が多いからなんだ。中には大学へ進学させたい優秀な人もいるけど、そういう人に奨学金を与えるシステムが存在しない。本当は勉学を続けたいけど、働く道を選んだ人も多いと思う。これは、日本にとっても人材確保の面からも憂慮すべき問題だと思う。ただ、女の子はもう結婚適齢期という感じもする。実際、彼女たちの母親は若くて、日本よりも若くして結婚しているみたい。みんなスリムで美人が多いから、ある意味で日本女性よりも魅力的なところがあるね」

 先生は最後に、「グエンさんという女の子は、東野圭吾のミステリーを読んでいたくらいだから、絶対にキャリアを積ませてあげたい」と締めくくった。大学生活に安住する私と瞳は、少しばかり考えさせられてしまった。でもそれは、日本が抱える問題の一つなのだ。先生もきっと、自分ではどうしようもないので苦しんでいるのだ。



   3.永遠の先生、マリア・エステル~シャコンヌ


 ケーキを食べ終わると、瞳は「音楽かけるね」と言って立ち上った。瞳も私もクラシック党なので、バッハをリクエストした。瞳は紫色のジャケットのCDを手に取ると、何も言わないでプレーヤーに挿入した。するといきなり、エキセントリックな聴いたことのあるメロディが流れてきた。これはシャコンヌだ。バッハの最高傑作の一つ、ヴァイオリン・パルティータ第2番の最終楽章。だが、今流れているのはヴァイオリンではなくギターに違いない。でも、冒頭からの強烈な演奏に水を差すのはいやなので、黙って聴き入ることにした。それは力強く、繊細で、優雅で、深みがあって、超絶技巧で、なんと表現したら良いか分からない演奏だった。成熟した大人の愛の表現と言えばイメージが伝わるだろうか。でも、ギターってこんなに表現力があったっけ。オリジナルのヴァイオリンよりも刺々(とげとげ)しさがない分、深みと優雅さでは勝っている。一体誰なの、この演奏者は。

 瞳は、シャコンヌが終わると次の曲が始まる前にCDを止めた。明らかに、余韻を楽しんでいるのが分かった。そして「いいでしょ」と大きな目で訴えてから、『エモシオン』と書かれたジャケットを見せてくれた。意外なことに、そこにはあどけなさが残る十代に見えるスペイン女性が写っていた。彼女の名は、マリア・エステル・グスマン。アンドレアス・セゴビアの後継者とされる若き第一人者であった。このCDについて、先生の説明を再現して見よう。

        

「この演奏はFM放送でオムニバスの一つとしてプログラムされていた。エア・チェックしたテープの中に偶然入っていたもので、最初はその凄さが分からなかった。ただ、何回も聞いているうちに、自分の中にひたひたと興奮が押し寄せているのに気がついた。そこで初めて彼女のアルバムを取り寄せて、彼女の存在とプロフィールを知ったわけだ。マリア・エステルの演奏が余りに素晴らしいものだから、比較されているセゴビアならもっと凄いだろうと思ってCDを探してみた。ギター版のシャコンヌは、セゴビアが初めて演奏したもので、手に入る楽譜もセゴビアの編曲となっている。ところが、セゴビアの演奏は重厚さと深みではマリア・エステルに全然かなわない。セゴビアの技法が古典的で、クラシック楽器の一つとしての風格をギターに与えてはいなかった。それは他のギタリストにも言えることで、ジョン・ウイリアムスにしても、ペペ・ロメロにしても、福田進一にしても、マリア・エステルの前ではあざとく聞こえる。マリア・エステルのシャコンヌは何百回も聞いたけど、本当に飽きることを知らない。他の演奏者のものは、残念ながら途中で止めたくなってしまう。僕には、それほどの差が感じられる。

 福田進一の弟子で、日本で人気の村治香織は、マリア・エステルの録音した曲はアルバムに入れていない。意識的に比較されるのを避けているようだ。それだけマリア・エステルが傑出している証拠だ。だが、彼女のアルバムはマイナーなレーベル(ファンハウス)なので、日本で録音したにもかかわらず、人気が出ずに廃盤の憂き目に遭っている。彼女の才能を知る者にとっては、本当に嘆かわしい」

 瞳も先生から教えてもらうまでは存在すら知らなかったそうで、彼女の弾く『禁じられた遊び』を手に入れたいと願っているという。確かに、後で聴いた『アルハンブラ宮殿の思い出』も、他のギタリストとは一線を隔(かく)すもので、親指で弾く分散和音の力強く曖昧(あいまい)さのない演奏は、これぞスタンダード、これぞ教則本という出来映えである。しかし、彼女が傑出しているのは、それが絵画で言うところのレオナルド・ダ・ヴィンチのレベルにあるということである。レオナルドが先生と呼ばれるように、マリア・エステル・グスマンも永遠に先生と呼ばれるであろう。本当に、私もギター習おうかな。

 私がまだ感動からめていないにもかかわらず、瞳は「何かに気がつかない?」と悪戯っぽく言った。「何って、何よ?」私は部屋を見回した。そして、オーディオを見てようやく気がついた。そこには、手作りのスピーカーとアンプが置かれていたからである。スピーカーはキャビネットの下のほうが洞窟になっている。「これ、バックロードホーンというの」瞳は自慢げに解説を始めた。それによると、10㎝径フルレンジのユニットを1個使ったシンプルなもので、ユニットの裏側はラッパのようになっていて、それでバックロードホーンと言うのだそうである。製作費はステレオで1万5千円くらい。アンプは日立製のMOS(モス)FETというトランジスタの一種を使ったもので、こちらもシンプル構成で製作費は1万円とか。もっとも、捨ててあったアンプの電源とキャビネットを利用したと言ってたから、ちゃんと作るともう少し費用がかかるみたい。でも、音は本当に素敵。人の声がリアルで、空間がパーと広がって、柔らかく包んでくれて、それでいて繊細で切れが良くて。これなら何時間でも聴いていられる。ここんところ音楽を聴いていなかったのは、うちのシステムに問題があったからに違いない。うーん、先生、私にも作ってくれないかな。



   4.愛の三原則~モーツァルト、クラリネット五重奏曲


 CDを取っ替え引っ返しているうちに、午後の4時頃になった。瞳は「晩御飯食べてくでしょ」と言ってから、「先生は?」と振り向いた。先生は「どうしようかな」と考える風をしたが、瞳の目には「食べて行くわよね」という有無を言わさない輝きがあった。こういう強引さが瞳の魅力なのだ。先生は仕方ないなあという顔をしながら、「何を買ってくればいいの」と食材の買出しに行く決心をしたようだ。瞳はメモとお金を渡すと、背中を押すようにして先生を外に出した。こういうときの先生は威厳ゼロ。すっかり敷かれている。でも、それが可愛いのかも。

 瞳は戻ってくると「へへへ」と笑った。そして、「先生って変でしょ」と言った。確かに変といえば変だけど、それが魅力といえば魅力。私は「何か不思議な人よね」というほかなかった。そう、不思議な人。私は、この不思議な人の底を見ていないのだ。世の中の大半の男性は、すぐに底が割れる浅薄さがある。だが、先生にはそれがない。一見優男風だが、信念を持っている人特有の厳しさも持ち合わせている。けれど、優しい笑顔で見つめられると、自分が愛されているのではと錯覚するほどである。実際、先生はもてるのだそうである。それも、17歳くらいの子にやたらと。
 瞳が聞いたところによると、コージーでも、7~8人の美人の若い子にもてたそうで、中にはお見合いのようにセッティングされた事もあったという。ただ、その中で日本人は一人だけで、あとは南米の人とヴェトナムの人。

 どうしてそんなにもてるのか追求すると、先生は「ヤコブとラケルの因縁、ヨセフとマリアの因縁かな?」と言ってとぼけるらしい。要するに、旧約聖書時代のイスラエルの民は、やたらと年の離れたカップルが多いのだそうで、イエスの母マリアが16歳のときヨセフは52歳という説があるという。

 先生は「ソロモンは金と地位と権力があったから世界中から女性が集まったけど、僕は何も持ってないのに愛される。これはソロモン以上に幸福ではないか」と冗談を言うそうだが、もてる本当の理由は彼女たちを愛しているからなのだそうだ。彼女たちに関心を持ち、持ち前の観察力を発揮していると、彼女たちは敏感に反応し、女として意識し出す。先生は優しいので、彼女たちの期待に答えようとするが、どうやら神様がそれを許さない。だからいつまで経っても一人だし、特定の女性に愛を集中することもできない。

 瞳の話を要約すると以上のようになる。「ただね」と瞳は付け加えた。先生から愛の三原則を教わったことがあって、それは「1.関心を持つこと、2.相手を自由にすること、3.自己犠牲」だという。これは先生のオリジナルではなく、ユダヤ系心理学者のエーリッヒ・フロムが提唱したものを自らの信条にしているのだという。先生は、いつでもこの三原則に照らして自分の行動を規定している。だから、自分の愛する力が足りなかったと思うときが多いのだそうである。「叔父は強くなりたいのよ」、そう言って瞳は目を涙でにじませた。瞳は、先生の十字架を担っているつもりなのだ。私は、そういう純粋な瞳が好きで親友になった。ならば、私だって少しばかりお手伝いができるかもしれない。私は瞳の手を握り、「素敵な先生じゃない」と言って慰めた。瞳が担う先生の十字架、それは一体何なのだろう。それが分かれば先生の底が見えるのだろうか。それとも、更に深い奥底が待ち受けているのだろうか。私は瞳から手を離し、モーツァルトの曲を探して聴くことにした。その理由は、先生自身はバッハタイプではなくモーツァルトタイプに思えたからである。

 大好きなクラリネット五重奏曲があったのでそれをかけた。この曲は、孤独なクラリネットを他の楽器で慰めるという構図に聞こえることがある。先生という孤独な人を、瞳と私で慰めようというわけである。先生が私たちにとってどんな高みにあっても、私たちにも先生を愛することができる。それは、女性特有の母性本能という形で。だから、瞳も、もう泣くのはやめて、晩御飯の仕度に取り掛からなくっちゃ、ね。それにしても、この曲の第二楽章は何て美しいのだろう。官能的でさえある美しさ、優しさの極み、崇高な愛、そんなものが奇跡のように凝縮されている。愛の三原則か、モーツァルトもそういう人だったんだ。私は今日、瞳を訪ねて本当に良かったと感じた。もしかして、私は今、人生の重大な岐路に立っているのかもしれないが。



   5.古代史への扉


 二人で晩御飯の仕度に取り掛かっていると、先生がスーパーのレジ袋をぶら下げて帰ってきた。「瞳ちゃんこれでいい」と言いながら、おつりを渡す様は子供のよう。瞳からご褒美のヨーグルトをもらうと、子猫のようにニャーンと言ってウキウキと食べ出す。この人は自分を偉そうに見せるという世俗の掟(おきて)を知らないのだ。それは真に偉大だから自分を偉そうに見せる必要がないのか、子供のように純粋なのか、それともよほどの馬鹿なのかのいずれかでしかない。芸大の教授陣も、みんな自分を偉そうに見せようと苦慮している。それは、本当の才能がないことを彼ら自身が知っているからだ。だから派閥を作り、徒党を組んで相互扶助的な公募団体を構成するのだ。そんな中から、本当に自由な芸術作品が生まれるわけがない。

 晩御飯は炊き込み御飯と鳥の水炊きということで、手伝うこともないのでパソコンをいじることにした。「瞳、パソコン立ち上げていい」って聞くと、大きな目がOKと言っていた。デスクトップからマイドキュメントを開くと、やたらにエクセルのアイコンが目に付く。瞳の家政学の資料かなと思ってみると、「太陽角度」とか「ピラミッドの寸法」とか「藤ノ木古墳の箱舟定数」というものが見える。中には「ヘブライ語とエジプト語」というものまであり、大学の講座で必要とは思われない。「瞳、この資料何なのよ?」と尋ねると、「ねー、先生」と言って笑って誤魔化そうとする。どうやら、先生に関係したもののようだ。そこで先生のほうを向いて見ると、先生が「それは僕の古代史の資料」と言って、アイコンの一つをクリックした。それは画像のフォルダで、石造物と書かれていた。画像編集ソフトが開き、奇妙な石造物が現れた。それは、幾何学的な溝と皿が彫られた石造物で、明日香村にある酒船石(さかふねいし)だった。芸大の古美術研究旅行(古美研)の資料で見たことがある。古美研は三年の秋なので、来年の秋には本物を見る事になる。図-1参照


   図-1 酒船石


「酒船石の、この奇妙なデザインの意味が分かりますか」と先生は尋ねた。私は素直に分かりませんと答えた。すると先生は「この石造物の謎解きが僕の使命かも」と言って瞳を手伝いに行った。私はしばらく石造物を見つめていたが、先生の言った使命という言葉が気になって仕方がなくなってきた。

「先生、使命感を感じるほど、この石造物の謎は大きいのですか」

 私は少しばかり改まって尋ねた。

「大きいですよ、もしかしたらクフのピラミッドより大きな謎かもしれませんね」

 先生はそう言うと、遠くを見る目になって窓の外を見た。その目は、窓の外ではなく、もっと遠い何かを見ていたのだろう。私は、もうそれ以上は聞く事をあきらめた。

 晩御飯は鮎の炊き込み御飯と鳥の水炊き。これは狭いキッチンを考慮したメニューなのである。瞳と私はビールで、お酒を飲まない先生は麦茶で乾杯した。もうじき梅雨が明ける。暑い夏が来る。夏休みが来たら、私は先生の古代史の受講生になるのだ。ただし、先生のモデルをする条件で。帰りの小田急線の電車の中で、瞳と先生がピラミッドに登っている夢を見た。待ってよー、私も登りたいよー。そこで目が醒めたら、まさしく登戸に着いていた。

                              第1章 終わり


 解説、古代史とは関係のないバックロードホーンも、実は聖書に登場する角笛として必要不可欠のものだったのです。それは完成したあとで分かったのですが。また、国立博物館は改装されて記述とは異なっているはずです。なお、登場人物の先生はよく食べたりしますが、それは作者の願望の反映です。一緒にティータイムにしてください。作者拝

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