なわ・ふみひとさんのサイトより
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0910-2.html#29
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http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse0910-2.html#29
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願望実現の技術 | ||
大島清・著 ゴマブックス | ||
●ホンモノの自然、生身の人間とつきあってこそ“いい願望”は育つ 都内の小・中・高校の47校で、8,400人を対象にアンケートをとったところ、高校生では男子の71%、女子の21%がアダルトビデオを見たことがあるという。アダルトビデオを見る人は、そのビデオを鑑賞しようとは思わない。ビデオの中の世界に自分を置き、疑似体験することによって満足を得ようとするわけだ。アダルトビデオにかぎらず、周囲を見渡せば、ウォークマン、テレビゲーム、パソコンといった疑似体験機器がいくらでも発見できるのである。 二次元の世界には人間の暖かみもなければ匂いもない。厚みもなければ重さもない。すべてが平板なコピーである。そして、ひたすら閉鎖的だ。「たかが機械」と思う人もいるかもしれないが、そのような世界に長くいるうちに、二次元の虚像を実像と勘違いしてしまうことがあるのだ。 たとえば、匂いのない世界に慣れているから、いまの若者は異常に匂いを嫌う。本来は、男性の性欲を喚起させる女性特有の匂いがイヤだといって、生身の女性に近づけない男性が増えているのも厳然たる事実である。この時点で、すでに虚像と現実を取り違えているわけで、それが高じると生命の尊厳すら認識できなくなるのだ。ゲームのように人を殺す若者が増えているのもそのためだし、平気で自殺してしまう裏には「ビデオは何度でも再生できる」といった感覚が強く存在しているのではないかと思うのだ。 近ごろ「何がしたいかわからない」という若者が増えているのも、疑似体験の弊害だろう。いまの若者がみんな同じように見えるのも、テレビや雑誌という二次元情報に浸って、画一的なイメージしかもてないことの証である。つまり、イメージ脳が作動していないのである。 しかし、けっして絶望的というわけではない。意識してホンモノの自然や生身の人間とふれあうことがたいせつなのだ。そうすることによって脳は刺激され、前頭葉ソフトウェアは活性化する。そうすれば、しぜんとよいイメージも浮かび、願望実現もしやすくなるはずである。 ●小説や映画などに感動したら、自分の体でもう一度感動を体験してみる 何も私はテレビを見るな、ビデオを見るな、ファミコンをするなと言っているわけではない。テレビ・ビデオ・ファミコンも気分転換にはいいだろう。ただ、危険なのはテレビ・ビデオ・ファミコンの世界にどっぷりと漬かり、自分のまわりの世界が擬似体験に囲まれてしまうことだ。そうなると、脳の働きが鈍くなってくる。純くなるだけならまだいいが、願望自体がねじまがり、危ない願望が頭をもたげてくることすらある。 テレビ・ビデオ・フアミコンなどの擬似体験をホンモノ体験につなげていくことはできる。映画を観たり、音楽を聴いたり、本を読んだりして、「おもしろいな」と思ったものはそのままにしないで、自分の目で見、耳で聞き、肌で触れ、舌で味わう機会をつくってみるのである。 たとえば、太宰治の小説には荻窪や三鷹の小料理屋やカフェがよく出てくる。そんなときは、ただ漫然と読書をつづけるのではなく荻窪や三鷹近辺を散歩し、現在の町並みから太宰が通った小料理屋やカフェはこの辺りにあったかもしれない、などと想像するのもおもしろい。 また、テレビドラマで使われたブティックに行ってみたり、小説の中に出てきた料理を食べてみるなどホンモノ体験をする材料は日常生活の中にいくらでも転がっている。スポーツ観戦もテレビですますのではなく、たまには野球場に行ったり、国技館に足を運んでみることをおすすめしたい。 擬似体験に囲まれて育った最近の若い人たちは、小説を読んでも、音楽を聴いても、映画を観ても「ああいいな」で終わってしまう。それでは脳を鍛えることはできない。舞台となった地を訪れてみたり、使われた物を探してみることで、情報は多方向から脳に流れ込んでくる。それが、前頭葉ソフトウェアの活性化につながり、願望実現のためのイメージづくりにも役立つのである。 ★関連してこちらもどうぞ → 疑似体験がカルマを大量生産している | |
● 疑似体験がカルマを大量生産している 2006年5月1日(月) |
カルマの法則の第15話は、「疑似体験とカルマの関係」について考えてみたいと思います。ここで言う「疑似体験」とは、テレビや映画、あるいはゲームなどを楽しんでいる人が、その登場人物に感情を移入することによって、あたかも自分が実際にその登場人物になったかのように錯覚し、物語の中に没入してしまう状態のことを指しています。 私たちの潜在意識は、疑似体験と実際の体験の違いを判別できないと言われていますので、「どんなテレビ番組や映画を見ているか」「どんな読み物を読んでいるか」「どんなゲームをしているか」によって、私たちの心(奥の心=潜在意識)が影響を受け、よくないカルマを作り出している可能性が高いのです。 テレビのようなメディアが生まれることは、イエス・キリストや空海などが生きた時代には予測できなかったことでしょうから、残念ながらそのようなメディアの持つ危険性についてふれた予言や霊界通信はありません。しかしながら、私はこれこそ終末現象のなかで最も注目しないといけないテーマだと思っています。(最近、宇宙人や宇宙神霊を名乗る存在からのメッセージとしてネットなどで公開されている通信の中に、テレビの弊害を述べているものも見受けられますが、普通の人を霊媒とした通信は低級霊からのメッセージである場合がほとんどですので、参考にできません) まず、私がこのテーマに関してどのような問題意識を持っているのかをご理解いただくため、拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の内容を引用します。 ■見ざる、言わざる、聞かざる カルマを作り出す悪い種とは、悪い振る舞い(身)、悪い言葉(口)、悪い想い(意)であることを述べてきました。悪いことを見ても、聞いても、言っても、その波動はすべて私たちに影響を与えるのです。「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がありますが、人から悪口を聞かされたり、人を不幸に陥れるような行為を目撃したりすることによっても、私たちの波動は影響を受けてしまうおそれがあります。まして、同じ内容を何回も見たり聞いたりすれば、そこに共鳴の法則が働いて、いつしか私たちの波動が同調してしまうのです。 最近のテレビ番組やテレビゲームなどで、人を簡単に殺してしまう内容を頻繁に見せられている子供たちは、誰もが本来持っている“命を大切にする気持ち”がだんだん薄らいでいくのではないかと気になります。大人でも、同じような内容のテレビ番組を受動的に見ている人は波動に影響を受け、いつしか潜在意識に蓄積されていくおそれがあります。 特に、感動する、ショックを受ける、夢中になる、といった一種の放心状態のときは、私たちのその時の気持ちがそのまま潜在意識の中に取り込まれていきます。そして、おまけにその気持ちを言葉で表現するならば、さらにその波動は強化されるのです。 そういう意味では、どういう時に悪い波動になるかを知っていることはとても大切なことなのです。その上で、心(感情)と言葉をコントロールしなければなりません。コントロールする方法としては、「砂に書いた文字」の手法が最も効果があるでしょう。つまり、「大丈夫」「ありがとう」といった言葉を連発することです。 しかし、最初からそのようなマイナスの波動につながるものを「見ざる、聞かざる、言わざる」がもっとも賢明でしょう。潜在意識は「これはフィクションだ」とか「自分とは関係ないドラマの世界のできごとだ」という判断はできないのです。映像も言葉も波動として、すべて受け入れ、蓄積されることになります。そして、いつの日か、その波動に近い出来事をあなたの周りに引き寄せてくるかもしれません。最近のテレビ番組はマイナス波動を生み出す残酷なドラマが多いので、要注意です。 ――『2012年の黙示録』(たま出版)140ページ~ やはり、疑似体験の中で最も気になるのはテレビです。それがドラマであれ、ニュースであれ、ドキュメンタリーであれ、いずれもリアルな映像によって、私たちの五感のうち最も潜在意識への伝達効果が大きい「視覚」に訴えるものだからです。 たとえばテレビのドラマでは、大半の視聴者は自ら主人公になりきって、その主人公の人生を疑似体験することになります。いつもハッピーエンドの番組であればまだよいのですが、それとて、途中の段階では悲惨で残酷な人生体験が盛り込まれている場合があります。 テレビ番組はスポンサーを獲得するために高い視聴率が求められますので、視聴者の興味をひくために現実の人生の出来事の中から喜怒哀楽の部分が強調されます。つまり、事件がなければ絵にならないと見られているのです。中でもサスペンス的なドラマの場合、殺人事件や悲惨な事故などの残酷な場面が登場し、見る人の心に恐怖心を植えつけたり、怒りや悲しみの気持ちを起こさせたりと、巧妙にストーリーが作られています。 また、ドラマ以外でも、最近は異常な犯罪が多発し、見る人の心を曇らせる報道が毎日のようにニュースとして流されています。恐怖心や怒り、憤り、不満、不安などのよくない心の状態にさせる出来事が定番となっているのです。さらに、犯罪とは確定していなくても、ある日突然行方不明になった人を捜索するようなドキュメンタリー番組も登場し、失踪した人の消息を追求するという形で視聴者に不安な気持ちや恐怖心、怒りや憤り、同情などのマイナスの感情を植えつけています。まさに、これこそが多くの視聴者の心を曇らせる「テレビの力」だと言えそうです。 問題なのは、その同じドラマやニュース、ドキュメンタリー番組を、全国で何百万人、場合によっては何千万人もの人が同時に見ているということです。たくさんの人が同じ番組を見ることによって、一斉に恐怖や憤りの感情を共有化するわけですから、その時に作られる心のエネルギー(波長)は大変巨大なものになっていると思われます。それがすべて異次元にプールされ、そしていつの日かこの三次元世界に返ってくるというわけです。 桑原啓善さんの『サタンが降りた』に出てくる表現を借りますと、何百万、何千万の人が同時に、同じカルマ・ボールを投げている状態です。それが異次元で大きなエネルギーの塊となり、やがてこの世界にまとめて返ってくるとき、いったいどういう姿をとるでしょうか。たぶん、番組の内容と同種の社会的事件をこの世界に現出させるとともに、場合によっては異常気象や地震、大雨、大雪、台風などの自然災害となって、そのようなマイナスの波長を発信している人たちの身に降りかかってくるはずです。 哀しみの波長は、多くの人を哀しみに陥れる悲惨な事件として現象化します。怒りのエネルギーは、次々と怒りを伴うような出来事を生み出すでしょう。とにかく、私たちが投げた思いのボールと同じ波長のボールが返ってくるのですから‥‥。 しかも、テレビが作り出すボールは、その数が桁違いに多いということです。これがもし「殺人事件」をテーマにし、見る人に恐怖心を起こさせることを狙ったドラマであれば、そのマイナスの影響力はさらに大きなものとなるでしょう。人の潜在意識の中には膨大な量の恐怖心が刷り込まれ、集合的無意識の中にも蓄積されていくことになります。 もちろん、これは現代になって初めて見られるようになった現象ではありません。テレビのなかった時代でも、小説や演劇などが多くの人の疑似体験を作りだし、潜在意識に一定の影響を与えていたと思われます。ただ、その影響力は現代のテレビなどとは比べるべくもないほどの小さなものであったと考えられます。なにしろ、視聴者(読者)の数の違いと、全く同じストーリーを同時に疑似体験するという点では、テレビに勝る媒体はないからです。 それでも、小説などが他の人の生活に及ぼす影響力は無視できないものがあるという霊界通信もあります。有名な「シャーロック・ホームズ」の作者として知られるコナン・ドイルが、自分が書いた小説が他の人に与えた影響について、霊界から次のようなメッセージを送ってきています。(『コナン・ドイル・人類へのスーパーメッセージ』より引用) 人間の生活をよく観察し、人間の魂が霊的な完成に近づくことができるには、どれほどの時間が必要かを子細に検討してみれば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の本当にささいな出来事ですら、きわめて重要な意味を持つことがわかるはずです。 霊の世界においては、すべてが法則、秩序、調和のなかにあります。自然の世界ではすべてのものが厳密な自然の法則にしたがって動いていることに異議を唱える人はいないはずです。その表面だけを見ると、こうした自然の法則は物質的なものにすぎないように見えるかもしれませんが、それはすべて霊的な宇宙に源を発しているのです。 行き当たりばったりのやり方では通用しません。自然は義務を遂行しない人に対してはきわめて厳しいものです。これは霊の世界でも同じで、ほんのささいな行動でもそれにふさわしい結果が生み出されます。これは何を意味するかというと、人間の思いそのものが自分の創造物になるということであり、思いがその人にとっての光の天使や暗黒の天使になるということです。 そういうわけですから、人間がより高い存在の局面から自分自身の人生を見れば、沈んだ気持ち、憂鬱、わがままといった、自分で作り出した精神状態が、いかに破壊的な性質をもったものであるか、よくわかります。 こちらの世界に来て以来、自分が地上の生活で創作したものから深い影響を与えられていることを私は体験しています。というのは、地上にいたとき、私は陰鬱な登場人物や場面などを言葉で創造し、表現したりすることがよくありました。非常に生き生きとした想像力をもっていたものです。喜びに満ちた情景、暖かい家庭のありさま、美しい風景なども数多く描きましたが、私のペンは残酷で、醜悪な犯罪の場面なども描写しました。 このような描写をすることにより、あるべき姿とは対照的な性質によって、一種の教訓を与えられるということを認めるとしても、醜いものや恐ろしいものは人の心に長く残りがちであり、暴力的で不健康な波動が人を満たすことになります。よかれあしかれ私の影響を受けた数多くの男女の人生を、いま、私はじっと見ているのです。 いつの日かすべての人が、自分自身が作り出したものがどんな効果を生み出したか、美しいものか、それともその正反対であるかを、自分の目で見るという喜びないしは恐怖を体験することでしょう。創造したものが架空の人物であれ、その人の行動によって生まれた実際の生活の状況であれ、他の人々の生活に相当な影響を与えるものなのです。 ――『コナン・ドイル・人類へのスーパーメッセージ』(講談社) コナン・ドイルの時代に比べると、私たちはテレビによって膨大な量の情報を同時に得ることができるようになりました。それはまぎれもなく時代が進化したことの恩恵と言えるでしょう。 コナン・ドイルは自らの小説の中で「残酷で、醜悪な犯罪の場面など」を描写することにより、「醜いものや恐ろしいものが人の心に長く残り、暴力的で不健康な波動が人を満たすことになった」と述べています。そのことによって人生にマイナスの影響を受けた人もいるということを言っているのです。 しかし、現代におけるテレビは、コナン・ドイルの小説に比べると、その影響は比べることのできないほど大きなものになっています。まさにカルマの大量生産であり、また“同時清算”の時代を迎えていると言うべきでしょう。テレビがそのカルマの生産と清算を増幅しつつあるということができます。 今日のテレビ番組の内容を吟味してみますと、まだ進化への準備が終わっていない私たちの脳の扉を強引に押し開け、そこに蓄積された膨大なカルマを一斉に放出させようとしているようにも見受けられます。そして、人類の集合的無意識の中に蓄積された恐怖心のエネルギーに点火しようとしているようにも思えるのです。 さきほどの引用文の中で、コナン・ドイルは言っていました。「人間の思いそのものが自分の創造物になるということであり、思いがその人にとっての光の天使や暗黒の天使になるということです」と。 私たちがテレビを見ているときに心に抱く思いが、私たちに幸運を運ぶ光の天使にもなれば、不幸や災厄へと導く暗黒の天使にもなるということです。しかも、テレビの場合、その同じ思いを非常にたくさんの人が同時に抱くわけですから、その影響は大変大きなものがあると思われます。それはまず異次元にプールされて、やがて大きなエネルギーとなってこの三次元の世界に影響を及ぼすことになるのです。 その影響は、たとえば最近のマスコミをにぎわしている残酷で異常な犯罪の数々や、場合によっては近隣諸国との軋轢などの形をとり、そのことによってまた多くの人が心を曇らせるという負のスパイラルに入っていく恐れがあります。いや、既にそうなりつつあると言うべきでしょう。 そして、その蓄積された集団的な負のカルマの影響を最も強く受けるのは、やはりそのカルマの生産に直接関わった人ということになります。つまり、テレビの低俗番組や殺人事件などの残酷な番組を愛好している人ということです。そういう人は、テレビから流れてくる粗い波動を潜在意識の中に取り入れ、カルマとして蓄積していることになるからです。 そこで、私が申しあげたい本日の結論は、冒頭の引用分にも記しているとおり、「見ざる、聞かざる、言わざる」ということなのです。「見ざる」とは、悲惨で残酷な情景は見ないにこしたことはないということです。少なくとも、人を平気で殺すシーンが強調されているようなドラマは、できるだけ見ないほうがよいでしょう。もう少し平たく言えば、「その番組を見て、怒りを覚えたり、恐怖心に駆られるような番組は見ないほうがよい」ということです。 しかしながら、これが恐いところなのですが、人には「恐いもの見たさ」という習癖があって、恐いと思って手で目を覆いながらも、その指の間から覗いてしまうということがあります。これは、既に潜在意識にかなりの恐怖のカルマが蓄積され、その波動が「類は友を呼ぶ」の波長の法則によって、ますます心の奥でそのような恐怖のシーンを期待するようになるのです。このような負のスパイラルに陥るとなかなか大変です。自分の心の波動がそのような粗い波長に変えられてしまうからです。 さきほどのコナン・ドイルの引用をもう一度読み返してみてください。 いつの日かすべての人が、自分自身が作り出したものがどんな効果を生み出したか、美しいものか、それともその正反対であるかを、自分の目で見るという喜びないしは恐怖を体験することでしょう。創造したものが架空の人物であれ、その人の行動によって生まれた実際の生活の状況であれ、他の人々の生活に相当な影響を与えるものなのです。 「創造したものが架空の人物であっても、他の人々の生活に相当な影響を与える」と述べています。ドラマの原作者やテレビ番組の制作者はもちろん、そのスポンサーとなった企業の関係者も、同じカルマを背負うことになるはずです。彼らはマイナス情報の発信者(加害者)として、いつの日かその番組の影響を自分の目で見るという喜び、あるいは恐怖を体験するということです。 投げたボールが返ってくるというカルマの法則からしますと、「大衆を恐怖に陥れたことの見返りは、そのまま恐怖として自分に返ってくる」ことになります。 一方、受信者の立場である私たち視聴者は、「そのような波動の粗い番組はできるだけ遠ざけるほうがよい」というのが私の結論です。‥‥と、いつもの“なわのお節介”を申しあげて、本日はこのあたりで終わっておきます。次回もこのテーマで綴っていく予定です。 |