エフライム工房さんのサイトより
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/kain16.htm
<転載開始>
今までは、主に旧約聖書のエピソードを解説してきた。だが、イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた言葉は旧約の世界に留まらない。その良い例としてイエスの有名な言葉を取り上げたい。
イエスが十字架に掛けられ、最後に発した言葉が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」である。この意味は、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」マタイによる福音書27章-46、「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章-46、と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?
この疑問に対する回答は、やはり古代エジプト語と古代イスラエルの言葉である日本語によって成される。先ず、最初のエリであるが、これは日本で昔から行われてきた魞(エリ)漁にヒントがある。魞漁は定置網の一つだが、網の張り方が衣服の襟(エリ)の形をしている。ここには神の名前の本質が隠されている。要するに、神様が両腕を輪にして人を救う形がエリなのである。だから、エリと付く物は全て同じ形となる。
神がエリと呼ばれたのは、旧約時代のヤハウェは人々を魞漁のように囲う形で救済したからである。だが、新約のイエスは異質である。それは、投網による漁のように、積極的に人々を救済する姿勢に表れている。イエスの弟子が漁師というのは、実はこの積極的な救済の象徴なのである。旧約のヤハウェは網に入るのを待ちの姿勢。対して新約のイエスは網を投げて捕まえに行く姿勢。この姿勢の違いが、旧約と新約の神が異なって見える理由なのである。
ところで、網というのはネット・ワークという言葉のように、組織の象徴ともなる。この場合の組織とは教会である。従って、教会に属さない人は漁師としてふさわしくない事になり、イエスの教えに連なる事は出来ないのである。だから、既存の教会に属すか、あるいは自分で教会を構築するか、いずれかが求められる事になる。さらに、投網を投げるように、積極的な活動が求められるのである。この活動が出来ない者はクリスチャンとして失格である。
さて、肝心のイエスの言葉だが、レマというのはエジプト語
rmaで「腕に」という意味である。
rは前置詞で「~に」、
maは「腕尺のマ(=間)」。最後のサダクタニは「裁く手(タ)に」だから、全体では「神よ、裁きの御手に委ねます」が正しい事になる。ルカの方が圧倒的に近いが、それでも「私の霊を」は余計。本当は、十字架に掛けたユダヤ人達を自らは裁くことなく、御父の裁きの御手に委ねるという意味なのである。イエスは裁かない人なのだから、至極当然である。それにしても、どうしてマタイのような解釈になったのか?イエスの時代にはアラム語が公用語で、ギリシャ語やラテン語も使われていた。さらに、復元されたヘブライ語が聖職者の間で用いられていたために、多分に混乱が生じたのだと思う。イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた日本語にこそ、聖書の奥義を理解する鍵が隠されていたのである。日本語は本当に尊いのですよ。
検索で訪れた方へ。このページは、平御幸(Taira.Miyuki)のエフライム工房より、日本語のルーツを明らかにする『カインをぶら下げている日本人』です。項別に15以上ありますから、トップページから入り直して下さい。
<転載終了>
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今までは、主に旧約聖書のエピソードを解説してきた。だが、イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた言葉は旧約の世界に留まらない。その良い例としてイエスの有名な言葉を取り上げたい。
イエスが十字架に掛けられ、最後に発した言葉が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」である。この意味は、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」マタイによる福音書27章-46、「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章-46、と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?
この疑問に対する回答は、やはり古代エジプト語と古代イスラエルの言葉である日本語によって成される。先ず、最初のエリであるが、これは日本で昔から行われてきた魞(エリ)漁にヒントがある。魞漁は定置網の一つだが、網の張り方が衣服の襟(エリ)の形をしている。ここには神の名前の本質が隠されている。要するに、神様が両腕を輪にして人を救う形がエリなのである。だから、エリと付く物は全て同じ形となる。
神がエリと呼ばれたのは、旧約時代のヤハウェは人々を魞漁のように囲う形で救済したからである。だが、新約のイエスは異質である。それは、投網による漁のように、積極的に人々を救済する姿勢に表れている。イエスの弟子が漁師というのは、実はこの積極的な救済の象徴なのである。旧約のヤハウェは網に入るのを待ちの姿勢。対して新約のイエスは網を投げて捕まえに行く姿勢。この姿勢の違いが、旧約と新約の神が異なって見える理由なのである。
ところで、網というのはネット・ワークという言葉のように、組織の象徴ともなる。この場合の組織とは教会である。従って、教会に属さない人は漁師としてふさわしくない事になり、イエスの教えに連なる事は出来ないのである。だから、既存の教会に属すか、あるいは自分で教会を構築するか、いずれかが求められる事になる。さらに、投網を投げるように、積極的な活動が求められるのである。この活動が出来ない者はクリスチャンとして失格である。
さて、肝心のイエスの言葉だが、レマというのはエジプト語
検索で訪れた方へ。このページは、平御幸(Taira.Miyuki)のエフライム工房より、日本語のルーツを明らかにする『カインをぶら下げている日本人』です。項別に15以上ありますから、トップページから入り直して下さい。
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