エフライム工房さんのサイトより
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/cain6.htm
<転載開始>
F.一・二・三…(ヒ・フ・ミ…)はエジプト語
ヒエログリフで最大の謎は、数詞の読みが分からないということである。数詞(というよりも記号)という事は分かるから、一応文章として解読できるが、10や100などの大きな数の他は、基本的な1・2・3なども含めて、実は読み方が分からないまま放置されているのである。しかし、ヒエログリフを解析すると、数詞が日本語のヒ・フ・ミ…であると理解される。
古代エジプトの数で、10を表わす
mdはムジャとかメジャとか読まれている。しかしこれは、モドが正しいのである。なぜならば、日本語の「戻る」の語源だからであり、ヒエログリフも「行って、戻って」を表意した形に作られている。ちなみに、投げると戻って来るブーメランもエジプトにルーツがある。
0(ゼロ)の概念がなかった頃の数詞は、0から始まるのではなく1から始まる。だから、1・2・3…と進んで行くと、10が最後で再び1に戻る。11は10足す1なのである。ちなみに、戻るなどの「る」は行為を表わす。10というのは、十全などの表現で分かるように、何かが完成した状態を表わす。ところが、人はなかなか完成しない状態に置かれると、一様に首を傾(かし)げてしまう。これがモドカシゲ、現代表現ではモドカシイという言葉になる。と書いている本人も、表現の拙さにモド・カシゲであるが。ところが、メジャという読み方からは、英語のmajor(メジャー=ギリシャ語のmegas、ラテン語のmagnus)の語源となる。こちらは、ネイティヴなエジプト人、あるいは白人系の神官ポテペラ一族の読み方ではなかろうか。さらに、ギリシャ語で10はdeca(デカ)であり、これがデカイの語源。このように、古代では10は概ね大きいを意味するのである。
さて、古代エジプトで数詞はヒ・フ・ミ…であるとする理由だが、これは意味を調べると理解できる。例えば、ヒは太陽で一個しかないから1。エジプト語のラーではなく、イスラエルの言葉である。フは天(
f)を意味するから太陽の次で2。ミは自分の体(身)を指すから、太陽と天の次で3となる。また、ミは英語のme(ミー)の語源でもあり、元々が数詞で3なので三人称となるのが正しい。しかし現在では、自分を中心とした概念の人称で一人称とされている。meとは逆に、he(ヒー)は本来は太陽であるから、元々は一人称だったものが現在では三人称となっている。このように、一人称と三人称は元来の意味とは逆になっているのである。
人称の逆転というのは、白人系の自己中心的な思想の産物である。元々は、神が中心の一人称であり、自分は3番目の三人称で謙っていた。しかし、おそらく白人系のヒクソス(ラムセスの系統)が台頭したことにより、自分の事を唯一で偉大を意味するア(我=日本古語でアと読む=
a)と言うようになったのではなかろうか。なお、2番目が天を意味するフなので、元々は一人称のイエスから見て御父が二人称となり、それで父をフと読むのである。御父は人類には直接関わらない遠い存在なのである。アナタとは、元々は自分から遠い存在なので、山の彼方も二人称のアナタと読まれるのである。カール・ブッセの詩に、「山の彼方の空遠く、幸い住むと人のいう…」という美しい表現があるが、実は上田敏の訳の妙と言える。
ところで、四はヨであるが、これは葦が二本で双数を意味する
Yの二倍(合わせる)を意味する。双数の二倍なので2×2=4となる。五はイツであるが、これは葦が一本で単数を意味するイと、手の合成語で「片手」を指す。ヒエログリフで書くと
it。要するに、片手は指が五本なので、5の代名詞となるのである。今でも御主人が片手を上げてお小遣いをねだると、奥さんは優しく五百円硬貨を渡すとか…。次の六はムだが、正しくはム・ウであり、三本波
mが二つ合わさったので6となる。六のもう一つの読みであるムツの方は、三本波で表わされるムと両手の合成語で、要するに指を三本立てた両手の数なのである。ちなみに、英語のハンドは「半手」と書くのが分かりやすく、本来は両手の半分、すなわち片手という意味である。それで、二本の片手を合わせると複数形のハンズになるのである。英語って理屈をこね回していて変だよねー!
次に七のナナであるが、神は天地創造を七日間で為したので、「為す」という意味のナと呼ばれる。これが意匠になると七支樹となり、植物の「菜」の語源となる。七支樹の葉の数は、デザイン的に七枚が美しい。ナナと二度続けるのは、強調かあるいは、魚(ナ)の形になる菜の葉の数と考えられる。八のヤは、神そのものを指す。八(ハチ)には同音の蜂があり、天の三神を模った下ナイルの象徴が蜂である。要するに、蜂のシンボルには天の三神を説いたイエスが隠されていたのである。
神(ヤ)は天地創造の七日目に休まれたので、七で一応の完結となる。それで、また神から数え始めるのだが、今度は新約の神である。最初の七のサイクルでは旧約のヤハウェが最初の日(ヒ)。八からは新約の神なので、下ナイルの象徴である蜂と同音の八が新たな始まりとなる。また、「休む」や「屋・家(や)」の語源もここにある。すなわち、ヤ・スマワレタ(神・住まわれた)場所が太陽であり、これが休むの語源となる。太陽神は象徴的な言葉ではないのである。また、神の休む所が家(や)となる。このように、神の居られる太陽が御座そのものである。以上のように、太陽は二度目の登場となる。九のココは、八で表わされる太陽に対しての「此処(ここ)」という意味で、地球を指す。十のトウは手を合わせるという意味で、五本指の両手で十本指となる→
tw。
ここまで書くと必然的に分かるのだが、一・二・三…(ヒ・フ・ミ…)は天地創造の記述に一致している。最初は「光あれ」のヒ。二番目は天と地を分けたので、分の別の読みであるフ。三番目は、天の下の水を一ヶ所に集めたのでミ。また、三日目には木が実を生じている。四日目は昼と夜を分けたので夜のヨ。五日目は生き物を創り片手で祝福したので、片手の指の数でイツ。六日目は、男と女を創って結ばれたのでム。また、古語の産(ムス)につながる。七日目は作業が為されたのでナとなる。八日目以降は、神(ヤ)を此処(ココ=地球)で拝す(手を合わせる=トウ)となる。要するに、数詞が夜などの名前になっているのである。
また、万葉集ではヤスミシシという表現がよく使われる。「八隅知之 吾大王高照 日乃皇子…」などのように、王(おおきみ)にかかる言葉であるが、一般には統治する国の隅々という意味に解釈されている。しかし、先のようにヤスミは太陽神の住む御座なのであるから、これは太陽神に対する賛辞となる。だからこそ、続いて「高照らす日の皇子」として、太陽神の代理の皇子が登場するのである。
以上のように、一・二・三…(ヒ・フ・ミ…)は、ヒエログリフの解釈により、意味が明らかになる。なお、ここで古代エジプト語と言っているのは、エジプト時代のイスラエルの言葉という意味である。だから、原エジプト語も含んでいるかもしれないし、イスラエル独自の言葉だったものも当然含んでいるのである。
検索で訪れた方へ。このページは、平御幸(Taira.Miyuki)のエフライム工房より、日本語のルーツを明らかにする『続・カインをぶら下げている日本人』です。トップページから入り直して下さい。
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F.一・二・三…(ヒ・フ・ミ…)はエジプト語
ヒエログリフで最大の謎は、数詞の読みが分からないということである。数詞(というよりも記号)という事は分かるから、一応文章として解読できるが、10や100などの大きな数の他は、基本的な1・2・3なども含めて、実は読み方が分からないまま放置されているのである。しかし、ヒエログリフを解析すると、数詞が日本語のヒ・フ・ミ…であると理解される。
古代エジプトの数で、10を表わす

0(ゼロ)の概念がなかった頃の数詞は、0から始まるのではなく1から始まる。だから、1・2・3…と進んで行くと、10が最後で再び1に戻る。11は10足す1なのである。ちなみに、戻るなどの「る」は行為を表わす。10というのは、十全などの表現で分かるように、何かが完成した状態を表わす。ところが、人はなかなか完成しない状態に置かれると、一様に首を傾(かし)げてしまう。これがモドカシゲ、現代表現ではモドカシイという言葉になる。と書いている本人も、表現の拙さにモド・カシゲであるが。ところが、メジャという読み方からは、英語のmajor(メジャー=ギリシャ語のmegas、ラテン語のmagnus)の語源となる。こちらは、ネイティヴなエジプト人、あるいは白人系の神官ポテペラ一族の読み方ではなかろうか。さらに、ギリシャ語で10はdeca(デカ)であり、これがデカイの語源。このように、古代では10は概ね大きいを意味するのである。
さて、古代エジプトで数詞はヒ・フ・ミ…であるとする理由だが、これは意味を調べると理解できる。例えば、ヒは太陽で一個しかないから1。エジプト語のラーではなく、イスラエルの言葉である。フは天(

人称の逆転というのは、白人系の自己中心的な思想の産物である。元々は、神が中心の一人称であり、自分は3番目の三人称で謙っていた。しかし、おそらく白人系のヒクソス(ラムセスの系統)が台頭したことにより、自分の事を唯一で偉大を意味するア(我=日本古語でアと読む=

ところで、四はヨであるが、これは葦が二本で双数を意味する




次に七のナナであるが、神は天地創造を七日間で為したので、「為す」という意味のナと呼ばれる。これが意匠になると七支樹となり、植物の「菜」の語源となる。七支樹の葉の数は、デザイン的に七枚が美しい。ナナと二度続けるのは、強調かあるいは、魚(ナ)の形になる菜の葉の数と考えられる。八のヤは、神そのものを指す。八(ハチ)には同音の蜂があり、天の三神を模った下ナイルの象徴が蜂である。要するに、蜂のシンボルには天の三神を説いたイエスが隠されていたのである。
神(ヤ)は天地創造の七日目に休まれたので、七で一応の完結となる。それで、また神から数え始めるのだが、今度は新約の神である。最初の七のサイクルでは旧約のヤハウェが最初の日(ヒ)。八からは新約の神なので、下ナイルの象徴である蜂と同音の八が新たな始まりとなる。また、「休む」や「屋・家(や)」の語源もここにある。すなわち、ヤ・スマワレタ(神・住まわれた)場所が太陽であり、これが休むの語源となる。太陽神は象徴的な言葉ではないのである。また、神の休む所が家(や)となる。このように、神の居られる太陽が御座そのものである。以上のように、太陽は二度目の登場となる。九のココは、八で表わされる太陽に対しての「此処(ここ)」という意味で、地球を指す。十のトウは手を合わせるという意味で、五本指の両手で十本指となる→


ここまで書くと必然的に分かるのだが、一・二・三…(ヒ・フ・ミ…)は天地創造の記述に一致している。最初は「光あれ」のヒ。二番目は天と地を分けたので、分の別の読みであるフ。三番目は、天の下の水を一ヶ所に集めたのでミ。また、三日目には木が実を生じている。四日目は昼と夜を分けたので夜のヨ。五日目は生き物を創り片手で祝福したので、片手の指の数でイツ。六日目は、男と女を創って結ばれたのでム。また、古語の産(ムス)につながる。七日目は作業が為されたのでナとなる。八日目以降は、神(ヤ)を此処(ココ=地球)で拝す(手を合わせる=トウ)となる。要するに、数詞が夜などの名前になっているのである。
また、万葉集ではヤスミシシという表現がよく使われる。「八隅知之 吾大王高照 日乃皇子…」などのように、王(おおきみ)にかかる言葉であるが、一般には統治する国の隅々という意味に解釈されている。しかし、先のようにヤスミは太陽神の住む御座なのであるから、これは太陽神に対する賛辞となる。だからこそ、続いて「高照らす日の皇子」として、太陽神の代理の皇子が登場するのである。
以上のように、一・二・三…(ヒ・フ・ミ…)は、ヒエログリフの解釈により、意味が明らかになる。なお、ここで古代エジプト語と言っているのは、エジプト時代のイスラエルの言葉という意味である。だから、原エジプト語も含んでいるかもしれないし、イスラエル独自の言葉だったものも当然含んでいるのである。
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