人類へのスーパーメッセージ
作 者 :コナン・ドイル 1994年11月22日 発行
編 者 :アイバン・クック
訳 者 :大内博
発行者 :野間佐知子
発行所 :株式会社講談社
序文
PART1 コナン・ドイルの出現
CHAPTER:1 生と死の謎をめぐって
CHAPTER:2 エネルギッシュな、その生涯
CHAPTER:3 不思議な力を持つ少女
CHAPTER:4 バグナイアの隠遁僧
CHAPTER:5 フランスからの使者
CHAPTER:6 九ー九ー九の日に
CHAPTER:7 想像を超えた美しき世界
CHAPTER:8 新しく生まれ変わったドイル
CHAPTER:9 史上最高の心霊写真
CHAPTER:10ご覧のように、私は幸せです
CHAPTER:11霊からのコミュニケーション
CHAPTER:12心霊主義の真実
PART2 コナン・ドイルは語る
FOREWORD
CHAPTER:1 自己についての覚醒
CHAPTER:2 天界における調和・完全・栄光
CHAPTER:3 再会の局面
CHAPTER:4 天使そして妖精
CHAPTER:5 自由意思と運命
CHAPTER:6 善と悪について
CHAPTER:7 生命のパロラマ
CHAPTER:8 魂の進化
CHAPTER:9 すべての病の癒し
CHAPTER:10宇宙的な同胞愛
PART3 明日へのメッセージ
CHAPTER:1 "現実化"そして"愛"について
CHAPTER:2 アルビ派とミネスタ
CHAPTER:3 偉大なるメッセージ
訳者あとがき
作 者 :コナン・ドイル 1994年11月22日 発行
編 者 :アイバン・クック
訳 者 :大内博
発行者 :野間佐知子
発行所 :株式会社講談社
序文
PART1 コナン・ドイルの出現
CHAPTER:1 生と死の謎をめぐって
CHAPTER:2 エネルギッシュな、その生涯
CHAPTER:3 不思議な力を持つ少女
CHAPTER:4 バグナイアの隠遁僧
CHAPTER:5 フランスからの使者
CHAPTER:6 九ー九ー九の日に
CHAPTER:7 想像を超えた美しき世界
CHAPTER:8 新しく生まれ変わったドイル
CHAPTER:9 史上最高の心霊写真
CHAPTER:10ご覧のように、私は幸せです
CHAPTER:11霊からのコミュニケーション
CHAPTER:12心霊主義の真実
PART2 コナン・ドイルは語る
FOREWORD
CHAPTER:1 自己についての覚醒
CHAPTER:2 天界における調和・完全・栄光
CHAPTER:3 再会の局面
CHAPTER:4 天使そして妖精
CHAPTER:5 自由意思と運命
CHAPTER:6 善と悪について
CHAPTER:7 生命のパロラマ
CHAPTER:8 魂の進化
CHAPTER:9 すべての病の癒し
CHAPTER:10宇宙的な同胞愛
PART3 明日へのメッセージ
CHAPTER:1 "現実化"そして"愛"について
CHAPTER:2 アルビ派とミネスタ
CHAPTER:3 偉大なるメッセージ
訳者あとがき
● 序文
序文を読む人はいないともいわれていうので、短く切り上げるのが賢明というものだろう。
アーサー・コナン・ドイルは世間も周知のごとく熱烈な心霊主義者であった。しかし、コナン・ドイルは
一九三〇年にこの世を去った後、彼自身の死の体験に照らしてみて、自らも信奉していた心霊主義者
の考えの多くが訂正を必要としていることを発見した。
歯に衣を着せない正直さと誠実さの持ち主である彼を、天国といえども思いとどまらせることは
できず、彼はわざわざ地上に戻って真実を伝えてきたという次第である。彼の家族は、チャネリング
が始まった当初から、それが彼にほかならないことを確信し、全面的に協力してくれた。この本
にはコナン・ドイルが発見した、新たな心霊主義の真実が述べられている。
しかし、彼のメッセージは心霊主義の領域をはるかに超えたものである。ここに伝えられている
のはむしろ、すべての人類に共通した宗教の性質をもったものと言えるかもしれない。このメッセージ
を受信するのに二年間が費やされた。その原稿は完成と同時にコナン・ドイル婦人に手渡され、
婦人は編者に、「私および家族は非常に注意を払ってこの原稿を読み、深く感銘した」旨を
伝えてくれた。
彼のメッセージは死後の人間の生活を、かつてないほど鋭くえぐり出しており、地上での生活と
死後の生活が切っても切れないようにつながっていて、それぞれがお互いに補足し合っていること
を明らかにしている。さらに、人間は死後、永久に進歩を遂げていくことも述べられている。彼の
メッセージは「自由意思と運命」という問題に答えており、悪という問題に対しても一つの解決を
与えてくれる。すべての病気を癒す方法の概要も説明されている。彼のメッセージは、すべての
生命体、その意味および目的について全体的な展望を伝えている。
コナン・ドイルの著書は、「神の王国の到来」(THY KINGDOM COME)の書名で第二次大戦
前に出版されたが、これは長編であり、諸般の事情もあって、その後出版されないまま今日に
至っている。しかし、読者の要望は依然として強く、満たされずにいる。このため、ここに改訂版
として出版するになった次第である。
内容は読みやすいように再編集した。パート1はコナン・ドイルからのメッセージがやってくるまでの
さまざまな経緯を扱っている。パート2はメッセージそのもので、「神の王国の到来」が発行されたとき
には必要であった注や解説を省略したため、簡明なものになっている。パート3は新しく加えられた
ものである。
コナン・ドイルのメッセージは人間がどこからやってきたか、なぜ地球に存在しているのか、死後
どこに行くのかといったことを明らかにしているのであるから、普遍的な宗教の共通基盤が形成され
ていると言っても過言ではなく、それだけに、注意深く読むに値するものと言えよう。じっくりお読み
いただきたい、このメッセージの中で述べられていることがどれほどの正当性を持つものか、その
判断は読者にお任せしたいと思う次第である。
CHAPTER:1
生と死の謎をめぐって
「空の彼方のあの場所については、地上の吟遊詩人でいまだかつてそれにふさわしい言葉で歌い上げた
ものはなく、これからもないであろう」
プラトン
「真の信仰を持つものは知らなければならない。なんとなれば、信仰は霊的な知識によって育まれる
からだ。その知識から生まれる信仰は心に根づいている」
パラセスサス
人間はこれまでに、この世界をほぼ完璧に探検しつくしたかのようである。陸も海も空も、もはや
なんの秘密も蔵してはいないかのようである。そして今や人間は月や他の惑星に行く計画を立て
ている。人間の野心には限りがなく、自然のいかなる秘密といえども、人間の飽くなき探究心の前には
抗しがたいかのようである。ただし、一つだけ例外がある。自分自身についての知識だ。なぜなら、
人間の自らの性質についての知識、人間の運命、人間がどこからやってきたのか、存在理由
そしてここからどこに行くのかについての知識は、ごく限られた存在にしか明かされていないから
である。
人間は自分が生まれた背景については多少は知っていたとしても、ほとんど無知の状態である。
自分自身の存在に関して妥当な説明は何もできず、肉体の寿命が尽きたときに自分がどうなるかに
ついての明確な理解もない。まさにこの問題と何世紀もの間、宗教を学ぶ者、哲学の学徒たちは取
り組み、また医学、癒しに携わる者たちもまた、程度の差こそあれ取り組んできたわけであるが、
大体の場合、徒労に終わっている。
そういうわけで、聖職者たちは我々に、人間は信仰によって生きなければならないと教える。と
いうことは、だれかが何世紀も前に言ったことで、今では聖典とされている本に記録されているこ
とを、揺るぐことなく信じて生きなさいということだ。あるいは、その本についての、さまざまな教会の
高僧による、あれこれの解釈を信じて生きなさいということだ。そのような信仰を人間は課されている
わけだが、その理由は、それ以外に自分自身について、また神について発見する方法はないから
である、と聞かされてきた。
しかしながら、信仰の領域のみではあるにしても、多少の進歩が達成されてきている。道徳の体系
、哲学体型、行動基準、宗教体系といったものは、全体的に見れば地域社会に十分に役立つところ
まで進化してきた。だが、一つの問題が以前として残されている。それはふつうの人は何も知らない
ばかりか、これから知ることもないと思っている問題だ。すなわち、自分が死んだあとの問題である。
(そして、それよりもさらに重要なのは)愛している人が死んだ後どうなるのかという問題だ。
すべての神秘のなかで、死こそもっとも深遠な神秘であり、もっとも探求不可能な神秘であると
にんげんは信じている。おそらくはこれが理由で、神は人間が死についての知識をもつことを禁じて
おられる、と教会は長い間にわたって宣言してきたのかもしれない。「ここまではよし、これ以上は
まかりならない、と神は言われた」。これはたいへんな皮肉である。というのは、もしも死がすべて
のものを永久に終わらせてしまうとするならば、人間が存在したという事実は、不可解で不毛で、
多くの場合、悲劇的な神秘になってしまうからである。
これはいったい真実であるうるだろうか。まったくの話、お墓ですべてが終であるというのであれば
、どんなものでも我々にはそれほど価値のあるものではなくなってしまう。はたして我々はそんなこと
を信じているのだろうか。全体的にいえば答えはノーだ。この世の富に関しては、死ぬときに持ってい
くことができないことは言うまでもない。
しかし、どれほどの量であるか計測はできないにしても、人格や精神あるいは魂の相当な部分が
永続的に残るということを我々は信じている。なぜそう信じているかを説明せよと言われても、私の
本質的な部分になってしまったのかもしれない。ある種の本能、我々の奥深くに秘められた直感的
な知識によって、我々の中にある何かは生き残るに値するがゆえに、生き残ることができ、実際に
生き残るというこの信念を、我々は堅持しているのである。
死ぬときにすべてが消滅するという考えは真理、公正、正義にもとると強く感じられる。まっとうな
人間であれば、神もそれなりに扱ってくださると感じるのである。人間を死と共に消滅させてしまうと
いうのはまっとうな扱いではない。しかし、(教会が何世紀にもわたって宣言してきたのであるが)
この問題を人間が探求することをなぜ神が禁じられたのかは、まことにもって不可解である。
我々が本当に望んでいるのは、そして確信したいと必死に願っているのは、自分自身が生き残り
たいというよりも、我々に先立って死んでいった愛する人々との確実な再会である。これが実現し
なければ、自分が死後に生き残るという考えは魅力の大半を失ってしまう。死んだ後でどこか幽霊
が住むような場所によろめき出て、永遠に続く時間の中でたった一人でさすらいたいなどと願うもの
は一人もいないはずだ。そのような死後の生き残り計画に参加したいとは思わない。
しかし、このような問題について明確な知識と確信を得たるためには、どこに行けばよいのだろうか。
誰かが知っているに違いない。世界の聖典の源となる言葉を語り、そのような人生を生きた偉大な
聖人の誰かは、これについて何かの言葉を残してくれたのではないだろうか。
驚くべきことであるが、事実はそうではない。様々な聖典には、死後も生き続けるとか、先に死んで
いった人達との再会については、ほとんど何も書かれていないのである。一見して、これは真実であ
るにはあまりにも非情なことのように思われる。クリスチャンであれば、「キリストの復活はどうなのか」
と聞きだすかもしれない。キリストの復活こそは、我々も皆同じように死後生き残ることを約束するもの
であり、それを実際に見せてくれたものではないのかと。
たしかにその通りである。しかしながら、神の子と呼ばれたキリストにできたことが、キリスト教の信者
だけでなく、すべての人間にとって可能性であると論ずることはできるのだろうか。これは妥当な考えだ
ろうか。世界的な登山家はピッケルがあれば、危険を冒し努力することによってエヴェレストに登ること
ができる。ふつうの市井の人間にそれができるだろうか。否である。それと同じように、ふつうの人には
イエス・キリストと比較するにたるだけの精神の高みまで登ることはできはしない。
これと同じように、「四つの福音書」も、遺族がもっと幸せな彼岸の地で愛する人たちと一緒に再会
したいという望みに保証を与えてくれてはいない。キリスト教の埋葬の儀式は、そのような出来事を
約束するように思われる祈りの言葉で営まれていることはたしかだが、それらの言葉は聖書を構成
する膨大な量の言葉の中から、特別な目的のために選ばれたものである。
したがって、死後について何も約束しないような一連の祈りの言葉を選ぶことも可能である。
「死者は何も知ることはない」はそのような言葉の典型的な一例であり、これは他の言葉の妥当性
を否定していまう可能性がある。にもかかわらず、もしも愛に満ちた神が存在するならば、神は
我々が望むこの再会を必ずさせてくださるはずだという望み、信念は、すべての人々の間で抱かれ
ているのである。せいぜいここで行きどまりである。
東洋の宗教はこれに比べて、ずっとましな状態にあるとも言えない。東洋の宗教においても、
死後なお人間が生き続けるということが(一つの独立した事実として)言及されることはほとんどない。
それぞれの魂にやがて必ずもたらされる公正な因果の法則であるカルマについては、たしかに
語られている。カルマと関連して輪廻転生があり、これはそのような考えには欠かせないものである。
しかしながら、輪廻転生をとげる間に魂がどうなるかについては何も知らされていない。
カルマが適切に解消されるまで、一度ならず数多くの人生を生きることが必要である。『バガヴァド・ギタ』
は、この哲学を説明している見事な文学的傑作であり、その壮大さにおいて、星座の宇宙そのものに
匹敵するかもしれないが、平均的な西洋の人間にとってはかけ離れたものであり、近づきがたい。
死を嘆き悲しんでいる人に対し、死んだ人との再会を約束して慰めてくれるものは、ここにはほとんど
何もないことは確実である。というのは、このような哲学においては個人的な愛、人間的な愛はやや
軽んじられており、それはある人間または物に対する欲望の(おそらくはいくぶん形を変えた)一形態
であるとして言及されているからである。そして、欲望は魂がいかなる犠牲を払ってでも切り捨てなけ
ればならないものであると教えられる。さもなければ、魂はカルマの欲望の、永久に回り続ける車輪
にのることとなり、したがって輪廻転生の永久の車輪にのることにもなる。
欲望を捨てよ、と東洋では教えられる。そうすれば、悲しみに満ちた人々の住む地上から永遠に
解放され、"悲嘆以外の言葉を知らない"人間の悲しみの声を聞くことはなくなるのだと。
序文を読む人はいないともいわれていうので、短く切り上げるのが賢明というものだろう。
アーサー・コナン・ドイルは世間も周知のごとく熱烈な心霊主義者であった。しかし、コナン・ドイルは
一九三〇年にこの世を去った後、彼自身の死の体験に照らしてみて、自らも信奉していた心霊主義者
の考えの多くが訂正を必要としていることを発見した。
歯に衣を着せない正直さと誠実さの持ち主である彼を、天国といえども思いとどまらせることは
できず、彼はわざわざ地上に戻って真実を伝えてきたという次第である。彼の家族は、チャネリング
が始まった当初から、それが彼にほかならないことを確信し、全面的に協力してくれた。この本
にはコナン・ドイルが発見した、新たな心霊主義の真実が述べられている。
しかし、彼のメッセージは心霊主義の領域をはるかに超えたものである。ここに伝えられている
のはむしろ、すべての人類に共通した宗教の性質をもったものと言えるかもしれない。このメッセージ
を受信するのに二年間が費やされた。その原稿は完成と同時にコナン・ドイル婦人に手渡され、
婦人は編者に、「私および家族は非常に注意を払ってこの原稿を読み、深く感銘した」旨を
伝えてくれた。
彼のメッセージは死後の人間の生活を、かつてないほど鋭くえぐり出しており、地上での生活と
死後の生活が切っても切れないようにつながっていて、それぞれがお互いに補足し合っていること
を明らかにしている。さらに、人間は死後、永久に進歩を遂げていくことも述べられている。彼の
メッセージは「自由意思と運命」という問題に答えており、悪という問題に対しても一つの解決を
与えてくれる。すべての病気を癒す方法の概要も説明されている。彼のメッセージは、すべての
生命体、その意味および目的について全体的な展望を伝えている。
コナン・ドイルの著書は、「神の王国の到来」(THY KINGDOM COME)の書名で第二次大戦
前に出版されたが、これは長編であり、諸般の事情もあって、その後出版されないまま今日に
至っている。しかし、読者の要望は依然として強く、満たされずにいる。このため、ここに改訂版
として出版するになった次第である。
内容は読みやすいように再編集した。パート1はコナン・ドイルからのメッセージがやってくるまでの
さまざまな経緯を扱っている。パート2はメッセージそのもので、「神の王国の到来」が発行されたとき
には必要であった注や解説を省略したため、簡明なものになっている。パート3は新しく加えられた
ものである。
コナン・ドイルのメッセージは人間がどこからやってきたか、なぜ地球に存在しているのか、死後
どこに行くのかといったことを明らかにしているのであるから、普遍的な宗教の共通基盤が形成され
ていると言っても過言ではなく、それだけに、注意深く読むに値するものと言えよう。じっくりお読み
いただきたい、このメッセージの中で述べられていることがどれほどの正当性を持つものか、その
判断は読者にお任せしたいと思う次第である。
CHAPTER:1
生と死の謎をめぐって
「空の彼方のあの場所については、地上の吟遊詩人でいまだかつてそれにふさわしい言葉で歌い上げた
ものはなく、これからもないであろう」
プラトン
「真の信仰を持つものは知らなければならない。なんとなれば、信仰は霊的な知識によって育まれる
からだ。その知識から生まれる信仰は心に根づいている」
パラセスサス
人間はこれまでに、この世界をほぼ完璧に探検しつくしたかのようである。陸も海も空も、もはや
なんの秘密も蔵してはいないかのようである。そして今や人間は月や他の惑星に行く計画を立て
ている。人間の野心には限りがなく、自然のいかなる秘密といえども、人間の飽くなき探究心の前には
抗しがたいかのようである。ただし、一つだけ例外がある。自分自身についての知識だ。なぜなら、
人間の自らの性質についての知識、人間の運命、人間がどこからやってきたのか、存在理由
そしてここからどこに行くのかについての知識は、ごく限られた存在にしか明かされていないから
である。
人間は自分が生まれた背景については多少は知っていたとしても、ほとんど無知の状態である。
自分自身の存在に関して妥当な説明は何もできず、肉体の寿命が尽きたときに自分がどうなるかに
ついての明確な理解もない。まさにこの問題と何世紀もの間、宗教を学ぶ者、哲学の学徒たちは取
り組み、また医学、癒しに携わる者たちもまた、程度の差こそあれ取り組んできたわけであるが、
大体の場合、徒労に終わっている。
そういうわけで、聖職者たちは我々に、人間は信仰によって生きなければならないと教える。と
いうことは、だれかが何世紀も前に言ったことで、今では聖典とされている本に記録されているこ
とを、揺るぐことなく信じて生きなさいということだ。あるいは、その本についての、さまざまな教会の
高僧による、あれこれの解釈を信じて生きなさいということだ。そのような信仰を人間は課されている
わけだが、その理由は、それ以外に自分自身について、また神について発見する方法はないから
である、と聞かされてきた。
しかしながら、信仰の領域のみではあるにしても、多少の進歩が達成されてきている。道徳の体系
、哲学体型、行動基準、宗教体系といったものは、全体的に見れば地域社会に十分に役立つところ
まで進化してきた。だが、一つの問題が以前として残されている。それはふつうの人は何も知らない
ばかりか、これから知ることもないと思っている問題だ。すなわち、自分が死んだあとの問題である。
(そして、それよりもさらに重要なのは)愛している人が死んだ後どうなるのかという問題だ。
すべての神秘のなかで、死こそもっとも深遠な神秘であり、もっとも探求不可能な神秘であると
にんげんは信じている。おそらくはこれが理由で、神は人間が死についての知識をもつことを禁じて
おられる、と教会は長い間にわたって宣言してきたのかもしれない。「ここまではよし、これ以上は
まかりならない、と神は言われた」。これはたいへんな皮肉である。というのは、もしも死がすべて
のものを永久に終わらせてしまうとするならば、人間が存在したという事実は、不可解で不毛で、
多くの場合、悲劇的な神秘になってしまうからである。
これはいったい真実であるうるだろうか。まったくの話、お墓ですべてが終であるというのであれば
、どんなものでも我々にはそれほど価値のあるものではなくなってしまう。はたして我々はそんなこと
を信じているのだろうか。全体的にいえば答えはノーだ。この世の富に関しては、死ぬときに持ってい
くことができないことは言うまでもない。
しかし、どれほどの量であるか計測はできないにしても、人格や精神あるいは魂の相当な部分が
永続的に残るということを我々は信じている。なぜそう信じているかを説明せよと言われても、私の
本質的な部分になってしまったのかもしれない。ある種の本能、我々の奥深くに秘められた直感的
な知識によって、我々の中にある何かは生き残るに値するがゆえに、生き残ることができ、実際に
生き残るというこの信念を、我々は堅持しているのである。
死ぬときにすべてが消滅するという考えは真理、公正、正義にもとると強く感じられる。まっとうな
人間であれば、神もそれなりに扱ってくださると感じるのである。人間を死と共に消滅させてしまうと
いうのはまっとうな扱いではない。しかし、(教会が何世紀にもわたって宣言してきたのであるが)
この問題を人間が探求することをなぜ神が禁じられたのかは、まことにもって不可解である。
我々が本当に望んでいるのは、そして確信したいと必死に願っているのは、自分自身が生き残り
たいというよりも、我々に先立って死んでいった愛する人々との確実な再会である。これが実現し
なければ、自分が死後に生き残るという考えは魅力の大半を失ってしまう。死んだ後でどこか幽霊
が住むような場所によろめき出て、永遠に続く時間の中でたった一人でさすらいたいなどと願うもの
は一人もいないはずだ。そのような死後の生き残り計画に参加したいとは思わない。
しかし、このような問題について明確な知識と確信を得たるためには、どこに行けばよいのだろうか。
誰かが知っているに違いない。世界の聖典の源となる言葉を語り、そのような人生を生きた偉大な
聖人の誰かは、これについて何かの言葉を残してくれたのではないだろうか。
驚くべきことであるが、事実はそうではない。様々な聖典には、死後も生き続けるとか、先に死んで
いった人達との再会については、ほとんど何も書かれていないのである。一見して、これは真実であ
るにはあまりにも非情なことのように思われる。クリスチャンであれば、「キリストの復活はどうなのか」
と聞きだすかもしれない。キリストの復活こそは、我々も皆同じように死後生き残ることを約束するもの
であり、それを実際に見せてくれたものではないのかと。
たしかにその通りである。しかしながら、神の子と呼ばれたキリストにできたことが、キリスト教の信者
だけでなく、すべての人間にとって可能性であると論ずることはできるのだろうか。これは妥当な考えだ
ろうか。世界的な登山家はピッケルがあれば、危険を冒し努力することによってエヴェレストに登ること
ができる。ふつうの市井の人間にそれができるだろうか。否である。それと同じように、ふつうの人には
イエス・キリストと比較するにたるだけの精神の高みまで登ることはできはしない。
これと同じように、「四つの福音書」も、遺族がもっと幸せな彼岸の地で愛する人たちと一緒に再会
したいという望みに保証を与えてくれてはいない。キリスト教の埋葬の儀式は、そのような出来事を
約束するように思われる祈りの言葉で営まれていることはたしかだが、それらの言葉は聖書を構成
する膨大な量の言葉の中から、特別な目的のために選ばれたものである。
したがって、死後について何も約束しないような一連の祈りの言葉を選ぶことも可能である。
「死者は何も知ることはない」はそのような言葉の典型的な一例であり、これは他の言葉の妥当性
を否定していまう可能性がある。にもかかわらず、もしも愛に満ちた神が存在するならば、神は
我々が望むこの再会を必ずさせてくださるはずだという望み、信念は、すべての人々の間で抱かれ
ているのである。せいぜいここで行きどまりである。
東洋の宗教はこれに比べて、ずっとましな状態にあるとも言えない。東洋の宗教においても、
死後なお人間が生き続けるということが(一つの独立した事実として)言及されることはほとんどない。
それぞれの魂にやがて必ずもたらされる公正な因果の法則であるカルマについては、たしかに
語られている。カルマと関連して輪廻転生があり、これはそのような考えには欠かせないものである。
しかしながら、輪廻転生をとげる間に魂がどうなるかについては何も知らされていない。
カルマが適切に解消されるまで、一度ならず数多くの人生を生きることが必要である。『バガヴァド・ギタ』
は、この哲学を説明している見事な文学的傑作であり、その壮大さにおいて、星座の宇宙そのものに
匹敵するかもしれないが、平均的な西洋の人間にとってはかけ離れたものであり、近づきがたい。
死を嘆き悲しんでいる人に対し、死んだ人との再会を約束して慰めてくれるものは、ここにはほとんど
何もないことは確実である。というのは、このような哲学においては個人的な愛、人間的な愛はやや
軽んじられており、それはある人間または物に対する欲望の(おそらくはいくぶん形を変えた)一形態
であるとして言及されているからである。そして、欲望は魂がいかなる犠牲を払ってでも切り捨てなけ
ればならないものであると教えられる。さもなければ、魂はカルマの欲望の、永久に回り続ける車輪
にのることとなり、したがって輪廻転生の永久の車輪にのることにもなる。
欲望を捨てよ、と東洋では教えられる。そうすれば、悲しみに満ちた人々の住む地上から永遠に
解放され、"悲嘆以外の言葉を知らない"人間の悲しみの声を聞くことはなくなるのだと。
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