遠い記憶・前世からの約束さんのサイトより
http://farmemory.exblog.jp/17970354/
<転載開始>
私はイラストレーターと言う、絵を描く仕事をしています。
今回はそのイラストレーターの視点で、美しさと芸術の側面からこれから向かおうとしている次元での在り方に付いて考えてみたいと思います。

新しい次元では全ての真実が明らかになって行きます。
真実とはその名の通り、偽らざる真(まこと)です。

人は必ずしも美しい心だけが本来の姿ではありません。人を妬み羨み嫌い、時には傷付けてしまう事もまた真実の私たちの姿です。

今回迎える次元の上昇は肉体を纏ったまま、日常の延長にその完成を迎える事になります。
肉体を持って進むと言う事は、こうした人としての様々な感情さえも、ある程度纏って向かうのも許されると言う事です。

そして自分と毛色の違う人や、意識を持つものも許し、受け入れる世界なのだと言う事です。
言い方を換えれば、他者に対し強い干渉や興味を示さないとも取れます。

笑顔を見せる事が苦手な人は、新しい未来に適応出来ないと言う誤解は抱かないで下さい。
笑顔とは微笑みを常に絶やさず、穏やかで美しい「容姿」を言うのではなく、心の有り様を指します。
「心の笑顔」それは見方を換えると自分がどれ程自分を偽らず居られるかであり、微笑みを表面に表さずとも、優しい言葉や人への励ましの言葉も上手く出来なかろうと、それは問題ではありません。

端から見て「あなた本当に楽しいの?」と言われる程自分の感情を表情に出せなくても、その状態で居る事こそが自分のあるべき「楽」な姿なのであれば、それも受け入れられ認められる世界です。

道行く人が皆笑顔を絶やさず笑い合い、同じ美しいものを愛で、手をつなぎ同じ歌を歌い、明るい歌声を上げると言う幻想の様な夢の国ではなく、また閉鎖的なコミュニティの中で内向きになり、同じ意識や表現の出来るものだけを仲間とし安心する事は既に古い次元の有り様です。

時に醜悪なものさえも受け入れ許す事が本当の「美しさ」であり、それを理解すると言う事が高次元での有り様です。
私たちは幾世代にも渡って転生を繰り返し、多くの真実を見聞きし、経験して来ました。
その中で人に嫉妬し羨み憎み、時に殺意さえ抱く事も知りました。

その数々の想いの中で、切なさや、孤独、哀しみを経験して来た筈です。
だからこそ、それを乗り越え経験して来た人には恋の苦しみや孤独、人生の無情や切なさの中にも、心安らかな瞬間がある事を感じ取れるものなのでしょう。

次の次元に行く為に表層上の「美しい心」を持ち「ストイックな自分」で居なければならないと思い過ぎてはいませんでしょうか。

私は絵を描く事を生業にしていますので、ここで純粋絵画を描き続けた画家達を基に今後の未来での有り様を考えてみたいと思います。

絵画は目に映る美しいものをそのままキャンバスに写し描くだけではありません。
例えばイルカが泳ぐ綺麗な海や美しいトロピカルな景色を画面に構成し描いた作品も一つの芸術表現ではありますが、その対象物が持つ「印象」や「本質=真実」を描く事も芸術の可能性です。

以下は私が、知人に宛てた便り(太字の部分)の一部です。ストイックさとは、この様なものと私は理解しています。
(一部加筆、修筆しています、少し難しいかもしれませんが、分からないときは読み飛ばして下さい)

・・・・・・・・・・・・・

●例えば評価される画家として扱われなければ、怪しげな性犯罪者と糾弾されていたかもしれない
エゴン・シーレ

彼の圧倒的な性に対する倒錯に近い憧れと意識が、狂気となって内在する自我を表現する部分に共感します。

ただただ愛し合う男女だけを描き続けた作品群に、自分の中の「生物としての根源」に言い知れぬ揺さぶりを掛けて来る彼の作品に心奪われ、又男女の結合を描くだけの作品群にも、日本の春画の様な明るさの無い、人によっては目を背けたくなる様な暗くオゾマシささえ感じる作品に私の目は釘付けになります。

見方を変えれば、彼は恋愛や結婚と言う社会通念的な幸福を越え、愛し合う男女の純然たる行為の中に、至福と羨望、平和と愛を、絶対的な慈悲の目で見いだしていたのでしょう。

これはかつてイエスや釈迦が伝えようとして来た事と矛盾しません。
私はそこに強く惹かれます。



●彼エゴンシーレが師事した
グスタフ・クリムト

官能と退廃を、これ以上表現できないと思われる程に昇華した彼の作品に、その甘美なエロティシズムの奥にある「死」を感じます。
エゴンシーレの強い生命感に相反し、常にもつ「殻」としての人体へ強い興味と執着が彼の作品へのモチベーションとなり、人が本来持つ堕落の中にある「美」を追求しました。

彼は、恐らく人の感情をキャンバスに描こうとはしたのではなく、ただただ表層である「形」を見る事もまた、肉体を着て生きる私たちの「業」である事を思い知らせてくれます。



●何人もの女性と関係を持ち、その為に女性達を精神破綻にまで追い込んで行った
パブロ・ピカソ

あまりに自由奔放な故に、性の対象としての女性と、母親への恋慕に似た女性への憧憬が相まって
彼の持つ人間的稚拙さが、結果彼の作品に強烈な躍動感を与えている。



●自由奔放な母親に翻弄されアルコール依存症となり精神科を入退院していた
モーリス・ユトリロ

彼の表現する人物の全くいない、ひたすら街だけを描く作品群に、人への希望や期待を一切拒絶した絶望的な孤独感、空気感に共感します。



●圧倒的な死の恐怖に苛まれ続けた中で描き続けた
エドヴァルド・ムンク

誰であろうと逃れられない「死」。
それを自身の創作の中核として描かれた作品「叫び」は、その恐怖を超越し時に滑稽さも感じさえてしまう絵画表現の可能性に驚きを持ちます。



以上一般に理解されているであろうストイックさや作品の美しさとは相反すると思われる、私の敬愛する作家達を取り上げてみました。

彼等に共通する事は「自身」と言うエゴイスティックな世界にどれほど入り込んでいるか、と言う事になると思います。
私の目指すストイックさとは上記以外のなにものでもないのです。
恐らく真の芸術家は「芸術」と言う言葉を口にする事を嫌うのではないかと思います。

芸術は高尚なものではなく、突き詰めれば下賤なるものの象徴と言う事かもしれません。
芸術論は絵筆を持たないものの暇つぶしでしょう。画家は論議の代わりに絵筆を持つのですから。
そこに私は強い憧れと倒錯を見ます。


私自身、実に常識的で、彼等の様に創作活動以外には何の興味も示さず生きられた事に強い憧れと嫉妬を抱きます。

今まで自分には「良い人」でいよう、「人に好かれよう」と言う意識があり、結果として自分をも見失う程の創作活動に走れない事に恥じ、自分の小ささを常に感じています。


古い時代では
女衒 遊女 博徒も、情に棹さし流される人もいたでしょう。
それさえも人の道であると私は思っています。


私は画家では有りませんが、創作者の一人として社会性からどれほど離脱出来るかが結局は自分の課題だった訳です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・


芸術と言う、一見「美」を扱う世界の様に感じられる世界も、実は本来の人間が持つ本当の「真実」を描く事が芸術の大きな側面なのです。

美しく潔癖で禁欲的なストイックさを持つ自分で居る事が高次元に向かう条件だとは思わないで下さい。時に嫉妬や怒り、嫌悪と言った感情を抱く事も人間の本質でもあります。

むしろここに高次元の大きなヒントがあります。
更なる高次元に向かえば、いずれ怒りの感情も恐怖する想いも、他者を疎む感情も「理解出来ない」程の意識を私たちは獲得して行きましょう。
しかし、今は肉体を持ち向かうと言う事は、その真実の姿も連れて行く事になります。

離れて行こうとしている今までの古い次元は、人々が目を背ける様な意識や表現を持つものを排除し、非常に狭い画一的な世界を構築し、その柵に人々を誘い込もうととして来ました。

例えば、誰もが知るアメリカの有名なアニメーション制作会社配給の欺瞞に満ちた友情や愛のストーリーには惑わされません。
オモチャや動物達を擬人化し友情や仲間との連帯を押し売りし、自分達と違う意識を持つものを排除しようと言う勧善懲悪の物語に真実はありません。

しかし次の次元では隣に居る、自分とは異質な世界観を持つ人を認め許す世界です。
仮に、その人が反社会的な意識を持っていようと糾弾されるものではなく、周りもそれに干渉しない世界です。

分かり易く言えば、
「お節介は程々に、自分の定規だけで人を測らず、人の人生に口出ししない」
「でも、苦手な事や場所、苦手な人が居たら、無理しないで逃げちゃおうね」
と言う事でしょう。

心安らかな世界と言う意味は、自分が自分で居られ、他者の干渉を受けず居られる世界でもある筈です。
決して笑わず、社交辞令も上手にできず、口を開けば小言を言う、そんな頑固親父でもきっと心の中には大きな優しさがある。それだけで十分です。

どのような生き方を望もうとも、道に倒れ救いを求める人を黙って置き去りに出来ない自分でありさえすれば、次の次元へのチケットを既に手にしていると言う事になります。

いずれ私たちは光の世界に進む事は間違いないでしょう。

しかしその為に自身の中から沸き上がる想いや、嗜好、興味に決して蓋をせず、本来の自分と正面から向き合い生きる事も実に大切な事であり、大きく許されていると記憶しておいて下さい。

次回は、今回の続きとなるかもしれませんが恋愛と結婚に付いて私なりの考察をしてみようと思っています。

ではでは。




<転載終了>