遠い記憶・前世からの約束さんのサイトより
http://farmemory.exblog.jp/18164092/
無断で転載しました!
申し訳ありません!!
<転載開始>
●今回の話題の前に一昨日の3月12日、大変に面白く美しい、明確な飛行物体を夜間に撮影出来たので掲載します。
場所は渋谷区で、地上から北の空に向かってシャッターを押しました。


上段左は遠景です、右は急激に移動したためライティングライツ(航跡)を描いている画像です。
以前掲載した「赤い光」も写り込んでいます。

下段の左と真ん中は、上段左の2つの光の拡大です。下段右は移動時の航跡です。
これを見る限り、この飛行体は硬質の外殻を持たない、光で構成された機体である事が分かります。
綺麗でしょ?
----------------※本文内のイラスト、画像の無断利用、転載はご遠慮下さい。----------------

では今回の話題に入ります。



◆結婚と恋愛(1)◆

今回は結婚(結婚観)や恋愛(パートナー)に付いて取り上げたいと思います。

この話題は長くなりますので、数回に分けてお話ししたいと思います。
今回は古代文明や宇宙意識での男女の在り方から話しを進めてみたいと思います。

今まで数々の被験者の方のリーディングで確認する事の出来たレムリアや、アトランティス、ムーの時代の男女の在り方に付いてです。
しかし、滅亡し今はその存在の残骸を海底遺跡や伝承等にみるだけの世界であっても、そこに暮らした人々は今まで私たちが暮らしていたのと同じ3次元に生きていましたので、意識の高さは違えど今と隔絶した社会ではないとご理解頂き、参考にして頂きたく思います。

この時代には、今では考えられない程の高度な文明が存在していました。
人々は移動の為に乗物には乗りません、街中に設置された電話ボックスの様な場所に入り、操作パネルらしきモニターに透明の石をかざし目的地を入力するだけで遠く離れた場所に瞬時に移動出来たり、市民を乗せ宇宙空間を飛ぶ事の出来る星間シャトルがあったり、医学も発達し人の寿命も優に300歳を超えている等、想像を超える文明を誇っていました。

それだけでなく人々の精神性も非常に高く、犯罪も皆無と言っていい程に安定した社会でした。
この様な時代の男女の在り方なのですが、今の様な「結婚」と言う概念が極めて希薄か、存在すらしていなかった様です。
愛し合う二人が一つ屋根の下で供に仲睦まじく生活すると言う形態は今と変わりませんが、社会的な「結婚」としての夫婦もまた無かった様です。
何故なら本来私たち人間は何人にも束縛、拘束されない自由なものだと言う事が良く理解されていたからなのでしょう。

では子供はどうなのかと言いますと、もちろん血を分けた二人の子としてあらん限りの愛情を注ぎ育てますが、それはある年齢までの事で、自立心が芽生え始める(今で言う)7~8歳頃になると子供達はその家庭の子供ではなく、社会の子供として、幼いながら社会参画を始め、大人達皆で責任を持って育てて行きます。
この時代には「うちの子」と言う意識が薄く、全ての人がワンネスの概念を理解した社会でした。

この育て方は、社会主義的な感覚を抱いてしまいますが決してそうでは無く、それぞれの子供達が持つ「意識の違いと能力の違い」を最大限に尊重していました。
ですから、学力や体力の差や子供達がどの様な興味を持とうとも大人達は決してその部分に介入をしません。

また今の様な経済社会が存在していませんでしたから「生きる為にする仕事」と言う考えがありませんでした。
子供達には「食う為の生き方」を教える必要が無く、精神性の高さが人の真価である事を伝えていました。

この様な世界では「個別」と言う意識が希薄になって行き、結果として「エゴ」の生まれる素地が極めて薄いものとなっていました。
それが「うちの子」と言う意識の希薄さに繋がって行きます。

子供達に関して言及しましたが、この意識は男女の有り様もに当てはまる事です。

本来私たち人間は、血の繋がりがある家族であろうと、愛し合う男女であろうと、絆以上に尊重されるべき「個」を持つ者です。
(絆が不要な訳ではありません、絆自体当然の事であるのでいちいち口にする事も無いと言う事です。「絆は大切」と口にした段階で絆の希薄さを露呈している事となります)

同じ屋根の下で暮らそうとも、パートナーや子供が必ずしも同じ意識や希望を持ち生きている訳ではありません。
そして、その理解が進めば、どれ程愛しい相手であろうと、その人の人生観や意識への介入は無用な事だと知る様になります。
むしろ他者の人生に強い介入をすると、自身のカルマを増大させかねない事も理解していたのでしょう。

これは古代の文明としてお話していますが、この意識は今でも何ら変わる事の無い真理でもありますので、時代を超え理解されるべき事なのだろうと思います。

また、これらの意識は超古代文明に限らず、私たちが知る縄文時代の初期にはスタンダードな意識として受け入れられている事をリーディングで見ています。
しかし縄文後期、大陸の弥生文化が稲作と同時に「伴侶」と言う概念と、初期の結婚形態を伴って入って来ました。
彼ら大陸の文化は土着の民である縄文人を駆逐して行き、彼等が持つ文化や意識さえも変換して今に至っています。
これはリーディングによるものなので時間軸に若干の矛盾があるかもしれませんが、肝要な所は結婚と言う概念が社会に与えた影響はとても大きなものだったと言う事です。
(社会に影響を与えた「結婚」という契約形態に関しては次回以降お話しして行きます)

弥生時代に入ると稲作により、穀物を蓄える安心安全の為の「備蓄」と言う文化が生まれ、結果として貧富の差が生まれます。ここに争いの火種が生まれる事となります。
同じ様に「私の伴侶、私の子」と言う意識が、排他的な意識と、内向的な社会性を築いて行き、エゴの意識を発達させて行く素地となってしまいます。

家族や伴侶に対し強い執着を持たない「程々の拘り」は、実は決してこの古代地球の文化だけではなく、広く宇宙的な意識でもある事をやはり何度もリーディングで見て来ています。

地球外の生命体、特に高い次元に生きる知的生命体に取って家族と言う単位や意識は希薄ながらもあります、しかし結婚と言う概念は皆無でした。
今愛するのは目の前に居る「この人」だから共に居る、しかしその人とも学びや「魂の」約束が終わればまた新しい伴侶と生活を始める事も珍しい事ではない様です。

それだけで判断しますと、不遜でいい加減な生き方に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
高い次元にきる人々には、寿命と言うものがほぼありません(あくまで地球上の時間概念での解釈です)

一方私たち地球人の生涯は、学習の場でもある事はご理解頂けると思います。
学習と言うカリキュラムは必ずしも同じ状態で続けるだけではなく、新しい出会いや体験(例え痛みを伴う事であろうと)も学習となります。

もし永遠の命が続いていたら、その人が経験する事象(人や環境全て)に変化が無く、経験や体験に限界が来てしまいます。だからこそ転生を繰り返し、多くの人との関係や生きる環境を変え学び続けて来た訳です。
これが今までの3次元と言う在り方でした。

つまり、3次元で学ぶ為には「有限」が必要であり、そこに生まれるエゴや執着もまた学びのカリキュラムの一つでしたので「結婚」を含む他者への強い執着、濃い人間関係も、学びの上では重要なファクターだったわけです。
まだまだ3次元に生きると希望する方に取っては、執着を持つ人生も決して排除されるべきものではないと言う事です。


しかし、もし高い次元に生きる事を望むのであれば、今直ぐとは申しませんが、ワンネスの意識を理解する為にも強い執着や拘りを薄くして行く必要は、やはりあるだろうと思います。


今回は一旦ここまでとし、次回に続きます。



<転載終了>