しばやんの日々さんのサイトより
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/256/
<転載開始>
前回の記事で清水寺が明治期の廃仏毀釈や上知令などでひどく荒廃したことを書いた。そのなかで、幕末以来住職不在であったことも触れたのだが、実は清水寺は幕末の頃からかなり荒廃していたらしいのだ。
その頃の事情について、前回紹介した加藤眞吾氏の『清水寺の謎』には次のように記されている。(文章の中の「山内」は清水寺全体のことを指している。)
「…十九世紀初め頃の清水寺は、江戸時代に発達した商品・貨幣経済の波に翻弄されていた。幕府や諸藩が赤字財政に悩む中、檀家もなく門跡大寺院でもなく、大名などの檀那(だんな)を持たず、わずか寺領百三十三石という零細封建領主でしかない清水寺は、当然のことながら財政難。諸院は軒並み借金だらけだった。おまけに山内の不統一からの塔頭間の足の引っ張り合いで、塔頭の中には無住職状態のところが続出する有様だった。
目代職塔頭(ナンバー2塔頭)の慈心院や延命院だけでなく、一時期は寺の財務や庶務的な役目を預かる本願職である成就院すらも、五年間ほど無住職状態が続いたほどだった。」(『清水寺の謎』p.251-252)
1石は1千合であり、1合は一人が1回で食べる米の量のことをいうので、1石とは概ね1人が1年間で食べる米の量ということになる。(1合×3回×365日=1095合)
江戸時代の主要な寺の石高を以前調べた事があるが、東大寺2,211石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石という数字を知ると、清水寺の133石は相当少ないと言わざるを得ない。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/26/
この清水寺を建て直しするために、蔵海上人が、他寺から懇請されて成就院の住職となっている。
しかし蔵海上人による改革は簡単には進まなかった。当時の清水寺は荒廃の極みにあり、加藤氏によると当時の清水寺の塔頭寺院の住職の中には「境内の灯篭を売り払って、その金を懐に入れる塔頭まであったほど」で、蔵海上人は病気とも闘いそして「寺内の反対派の塔頭住職の執拗な妨害」に苦しみがら、法流興隆や財政再建、史料の収集保全に奮闘したという。
また蔵海上人は後継者育成も心掛け、次兄で大阪の町医者であった玉井宗江の息子の宗久と綱五郎の兄弟を迎え入れ、それぞれ得度させている。
この兄弟二人は後に月照、信海と号し、それぞれ清水寺塔頭成就院の第二十四世、第二十五世の住職となったのだが、二人とも非業の死を遂げている。今回はこの兄弟のことを書き記したい。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/256/
<転載開始>
前回の記事で清水寺が明治期の廃仏毀釈や上知令などでひどく荒廃したことを書いた。そのなかで、幕末以来住職不在であったことも触れたのだが、実は清水寺は幕末の頃からかなり荒廃していたらしいのだ。
その頃の事情について、前回紹介した加藤眞吾氏の『清水寺の謎』には次のように記されている。(文章の中の「山内」は清水寺全体のことを指している。)
「…十九世紀初め頃の清水寺は、江戸時代に発達した商品・貨幣経済の波に翻弄されていた。幕府や諸藩が赤字財政に悩む中、檀家もなく門跡大寺院でもなく、大名などの檀那(だんな)を持たず、わずか寺領百三十三石という零細封建領主でしかない清水寺は、当然のことながら財政難。諸院は軒並み借金だらけだった。おまけに山内の不統一からの塔頭間の足の引っ張り合いで、塔頭の中には無住職状態のところが続出する有様だった。
目代職塔頭(ナンバー2塔頭)の慈心院や延命院だけでなく、一時期は寺の財務や庶務的な役目を預かる本願職である成就院すらも、五年間ほど無住職状態が続いたほどだった。」(『清水寺の謎』p.251-252)
1石は1千合であり、1合は一人が1回で食べる米の量のことをいうので、1石とは概ね1人が1年間で食べる米の量ということになる。(1合×3回×365日=1095合)
江戸時代の主要な寺の石高を以前調べた事があるが、東大寺2,211石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石という数字を知ると、清水寺の133石は相当少ないと言わざるを得ない。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/26/
この清水寺を建て直しするために、蔵海上人が、他寺から懇請されて成就院の住職となっている。
しかし蔵海上人による改革は簡単には進まなかった。当時の清水寺は荒廃の極みにあり、加藤氏によると当時の清水寺の塔頭寺院の住職の中には「境内の灯篭を売り払って、その金を懐に入れる塔頭まであったほど」で、蔵海上人は病気とも闘いそして「寺内の反対派の塔頭住職の執拗な妨害」に苦しみがら、法流興隆や財政再建、史料の収集保全に奮闘したという。
また蔵海上人は後継者育成も心掛け、次兄で大阪の町医者であった玉井宗江の息子の宗久と綱五郎の兄弟を迎え入れ、それぞれ得度させている。
この兄弟二人は後に月照、信海と号し、それぞれ清水寺塔頭成就院の第二十四世、第二十五世の住職となったのだが、二人とも非業の死を遂げている。今回はこの兄弟のことを書き記したい。
文政十年(1827)に兄の宗久(授戒名:忍介。後に月照上人と号す)が15歳の時に、弟の綱五郎(後の信海上人)は文政十二年(1829)に12歳で清水寺塔頭成就院に迎え入れられ、二人とも蔵海上人の後継者として研鑽を積んだ記録が残されているそうだ。
蔵海上人は天保六年(1835)にこの世を去り、次いで若き月照が成就院住職に就任している。
月照は清水寺の建て直しのために懸命に努力したのだが、当時の清水寺は塔頭の隠居たちが隠然たる力を持ち、月照の改革に従わなかった。
加藤氏はこう書いておられる。
「月照は蔵海の遺命を忠実に果たそうと、懸命に努力した。ところが山内の月照反対勢力は、月照の努力をあざ笑うかのように勝手気ままな行動を繰り広げた。ある塔頭の院主は奥の院本尊の出開帳を企てたり、中には堂塔の賽銭箱を私(わたくし)したり、やりたい放題といっていいような不義を重ねていた。さらに、執行職(清水寺住職)宝性院の院主義観が『若年病弱』を理由に隠居すると、弘化四年(1847)十二月、本寺興福寺の一乗院宮から月照に対し、執行職と本願職成就院を兼務するようにとの仰せが下った。つまり月照は一時期、清水寺全体の住職でもあった。
しかし、山内は依然として治まらなかった。反成就院、反月照の塔頭連中は執拗に月照の改革を邪魔し続けた。月照も堪忍袋の緒が切れたのであろうか。嘉永六年(1853)秋、アメリカの東インド艦隊ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航した直後、弟子の無着とともに、突如として隠密の旅に出てしまうのである。『秋文月に、いとはづらはしき(煩わしき)業(わざ)どもの有(あり)て憂世のいとはしく成(なる)ままに人にも知らせで寺をいでて、こし(越)路へゆき、しなの(信濃)より木曽路をのぼり、つゐにき(紀)の国高野やまにことしのむつき(正月)までこもりゐける』(月照歌集『落葉塵芬集』)と、自らの無断の出奔を記している。このため、月照は翌嘉永七年(1854)二月、境外隠居となってしまう。月照四十二歳であった。」(p.255-256)
文章に出てくる「一乗院」というのは奈良の興福寺の門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める寺院)で、江戸時代以降は皇族が住職となったので門主を「一乗院宮」と呼んだ。しかしこの「一乗院」は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、その跡地は奈良県庁となった後、今では奈良地裁となっているようだ。当時の清水寺は興福寺の末寺で、興福寺一乗院の支配下に置かれていたのだ。
月照が急に居なくなったために、嘉永七年に弟月照の弟の信海が、成就院住職となったのだが、反対派勢力は月照が隠居したことでむしろ激しさを増す始末であったという。
月照も信海も後に勤王倒幕運動に挺身するのだが、なぜ兄弟が勤王倒幕派の公家や武士たちと接点を持つようになったのだろうか。
加藤氏の著書によると、兄弟とも当時第一の歌人と言われていた右大臣(後に左大臣)の近衛忠熙(このえただひろ)に師事して、歌と書を学んだそうだが、そのことが兄弟を宮廷の討幕派の公家達と結びつけることになったという。
月照は近衛家に出入りし、倒幕運動家と朝廷公家との連絡役を務めていたとされている。
薩摩の西郷隆盛ともこの時期に知り合ったようだ。
京都で倒幕の謀議がなされていることを江戸幕府が警戒していたことは言うまでもない。
幕府では月照を危険人物と見做していた記録が残されているようだ。
加藤氏の著書をしばらく引用する。
「井伊直弼の謀臣長野主膳が安政六年(1859)一月八日付けで残したメモにこんなふうに記されている。『月照事(安政五年)三月より日々、小林民部権大輔(鷹司家の家臣)、鵜飼吉左衛門(水戸家家臣)、近衛殿、粟田宮(青蓮院宮門跡)、右の通、順々に廻り、闕(かけ)たるは唯一日のみ。毎日毎日昼前より出かけ、夜分八ッ時(午前二時頃)迄も近衛殿にては、いつも遅くなり候由』。長野主膳は月照こそが、近衛家と薩摩、水戸の両藩、そして青蓮院宮を結びつけた者であると見ていたことを示している。
もっとも月照は、初めから尊王倒幕運動に身を投じていたわけではない。最初は清水寺建て直しのために、近衛家との接触を深めていったことがきっかけだった。近衛家は藤原氏である。藤原氏の氏寺、興福寺は清水寺の本寺であり、特に興福寺一乗院門跡は近衛家から出ていた。…清水寺の運営に一乗院門跡が関与…したことから月照は、近衛家の影響を強く受けるようになっていった。結果、尊王倒幕活動へと傾斜していくことになった。」(同上書p.257-258)
このブログで先日「安政の大獄」と「桜田門外の変」のことを書いたが、上の文章にある長野主膳のメモは、まさに「安政の大獄」で江戸幕府が一橋慶喜擁立派を大弾圧した直前の月照のことを書いているのだ。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/253/
メモにある「安政五年(1858)三月」という時期は、西郷隆盛が篤姫から近衛忠熙への書簡を携えて京都に赴き、一橋慶喜を十三代将軍家定の後継とするための内勅降下をはかろうと工作した時期なのだが、その工作活動に協力したのが月照である。
ところが同年五月に井伊直弼が幕府の大老となり、六月に日米修好通商条約に調印し、紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣とする事に決定し、七月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた。九月に梅田尊王攘夷派にも危機が迫り、月照は西郷を頼って鹿児島に向かう。
それから月照はどうなったか。しばらく加藤氏の著書を引用したい。
「しかし運が悪かった。時に利なく、西郷を小身時代から引き上げ、自身の懐刀としてつかうほど、バックアップしていた藩主島津斉彬が亡くなり、異母弟の久光の息子が後を継いだ。薩摩の実権は久光が握っていた。斉彬が薩摩藩主となる際に起きかけたお家騒動があるが、この時反斉彬派が擁立しようとしたのが久光である。そうしたことから斉彬の急死も久光派の陰謀説が出たほどだった。このため西郷は久光を嫌い、久光も西郷を嫌っていた。
このため月照は受け入れられず、西郷とともに『日向送り』となる。国外追放である。この頃の薩摩の藩法は、国外追放者は国境で処刑するのが定めだったという。悲観した二人は、日向送りの船から相抱いて海に飛び込んだ。西郷は助かったものの月照は儚くなった。十一月十六日のことだった。
月照の懐には二首の辞世が収められていた。
『曇りなき心の月の薩摩潟 沖の波間にやがて入りぬる』
『大君のためにはなにかをしからぬ 薩摩のせとの身はしづむとも』」(同上書p.259-260)
この時西郷は運よく蘇生したが、回復に1ヶ月近くかかったという。生き返った西郷は、藩によって死んだこととされ、菊池源吾と変名して奄美大島に島流しとなっている。
一方、月照のあとで成就院住職となった弟の信海も、翌安政六年(1859)に攘夷の祈禱を行なったとの嫌疑で捕えられ、江戸伝馬町の牢屋敷に送られて獄中で没している。
そして桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されたのはその翌年の安政七年(1860)。徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのはそのわずか七年後の慶応三年(1867)のことである。
広い清水寺の境内の中に「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」という不思議な名前のお茶屋がある。清水寺のホームページ記事を読んではじめてこの由来を知った。
http://www.kiyomizudera.or.jp/yodan/vol2/index.html
月照の友人で成就院の執事であった近藤正慎(こんどうしょうしん)は、幕府方に捕えられて、月照がどこに逃げたかを問われて拷問を受けたが、決して白状せず自ら舌を噛み切って壮絶な最後を遂げた。「舌切茶屋」は清水寺が近藤正慎の功績に報いるために、遺族や家族の生計の足しになるようにと境内茶屋の開設権利を与えたものだそうだ。近藤正慎は俳優の近藤正臣の曽祖父にあたるのだそうだ。
http://95692444.at.webry.info/201201/article_1.html
また月照の九州下向に付き添いその遺品を持ち帰った大槻重助は、幕府に捕えられ牢獄に繋がれたが、同じく獄中にあった信海から後事を託され、境内茶屋の開設を認められたという。それが「忠僕茶屋」である。重助は茶屋を営みながら生涯月照・信海の墓を守り、月照の17回忌が鹿児島で行われた際に西郷隆盛から上人を悼む漢詩を託されている。
清水寺北総門の北に「月照上人・信海上人慰霊碑」があり、とりあえずカメラに収めたのだが、この右側の石碑にこの時に西郷が大槻重助に託した漢詩が刻まれている。読み下し文が次のURLに紹介されている。
http://www.niji.or.jp/home/akagaki/10-03gesyou.html
相約して淵に投ず後先無し
豈(あに)図らんや波上再生の縁
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば十有余年の夢
空しく幽明を隔てて墓前に哭(こく)す
****************************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
<転載終了>
蔵海上人は天保六年(1835)にこの世を去り、次いで若き月照が成就院住職に就任している。
月照は清水寺の建て直しのために懸命に努力したのだが、当時の清水寺は塔頭の隠居たちが隠然たる力を持ち、月照の改革に従わなかった。
加藤氏はこう書いておられる。
「月照は蔵海の遺命を忠実に果たそうと、懸命に努力した。ところが山内の月照反対勢力は、月照の努力をあざ笑うかのように勝手気ままな行動を繰り広げた。ある塔頭の院主は奥の院本尊の出開帳を企てたり、中には堂塔の賽銭箱を私(わたくし)したり、やりたい放題といっていいような不義を重ねていた。さらに、執行職(清水寺住職)宝性院の院主義観が『若年病弱』を理由に隠居すると、弘化四年(1847)十二月、本寺興福寺の一乗院宮から月照に対し、執行職と本願職成就院を兼務するようにとの仰せが下った。つまり月照は一時期、清水寺全体の住職でもあった。
しかし、山内は依然として治まらなかった。反成就院、反月照の塔頭連中は執拗に月照の改革を邪魔し続けた。月照も堪忍袋の緒が切れたのであろうか。嘉永六年(1853)秋、アメリカの東インド艦隊ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航した直後、弟子の無着とともに、突如として隠密の旅に出てしまうのである。『秋文月に、いとはづらはしき(煩わしき)業(わざ)どもの有(あり)て憂世のいとはしく成(なる)ままに人にも知らせで寺をいでて、こし(越)路へゆき、しなの(信濃)より木曽路をのぼり、つゐにき(紀)の国高野やまにことしのむつき(正月)までこもりゐける』(月照歌集『落葉塵芬集』)と、自らの無断の出奔を記している。このため、月照は翌嘉永七年(1854)二月、境外隠居となってしまう。月照四十二歳であった。」(p.255-256)
文章に出てくる「一乗院」というのは奈良の興福寺の門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める寺院)で、江戸時代以降は皇族が住職となったので門主を「一乗院宮」と呼んだ。しかしこの「一乗院」は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、その跡地は奈良県庁となった後、今では奈良地裁となっているようだ。当時の清水寺は興福寺の末寺で、興福寺一乗院の支配下に置かれていたのだ。
月照が急に居なくなったために、嘉永七年に弟月照の弟の信海が、成就院住職となったのだが、反対派勢力は月照が隠居したことでむしろ激しさを増す始末であったという。
月照も信海も後に勤王倒幕運動に挺身するのだが、なぜ兄弟が勤王倒幕派の公家や武士たちと接点を持つようになったのだろうか。
加藤氏の著書によると、兄弟とも当時第一の歌人と言われていた右大臣(後に左大臣)の近衛忠熙(このえただひろ)に師事して、歌と書を学んだそうだが、そのことが兄弟を宮廷の討幕派の公家達と結びつけることになったという。
月照は近衛家に出入りし、倒幕運動家と朝廷公家との連絡役を務めていたとされている。
薩摩の西郷隆盛ともこの時期に知り合ったようだ。
京都で倒幕の謀議がなされていることを江戸幕府が警戒していたことは言うまでもない。
幕府では月照を危険人物と見做していた記録が残されているようだ。
加藤氏の著書をしばらく引用する。
「井伊直弼の謀臣長野主膳が安政六年(1859)一月八日付けで残したメモにこんなふうに記されている。『月照事(安政五年)三月より日々、小林民部権大輔(鷹司家の家臣)、鵜飼吉左衛門(水戸家家臣)、近衛殿、粟田宮(青蓮院宮門跡)、右の通、順々に廻り、闕(かけ)たるは唯一日のみ。毎日毎日昼前より出かけ、夜分八ッ時(午前二時頃)迄も近衛殿にては、いつも遅くなり候由』。長野主膳は月照こそが、近衛家と薩摩、水戸の両藩、そして青蓮院宮を結びつけた者であると見ていたことを示している。
もっとも月照は、初めから尊王倒幕運動に身を投じていたわけではない。最初は清水寺建て直しのために、近衛家との接触を深めていったことがきっかけだった。近衛家は藤原氏である。藤原氏の氏寺、興福寺は清水寺の本寺であり、特に興福寺一乗院門跡は近衛家から出ていた。…清水寺の運営に一乗院門跡が関与…したことから月照は、近衛家の影響を強く受けるようになっていった。結果、尊王倒幕活動へと傾斜していくことになった。」(同上書p.257-258)
このブログで先日「安政の大獄」と「桜田門外の変」のことを書いたが、上の文章にある長野主膳のメモは、まさに「安政の大獄」で江戸幕府が一橋慶喜擁立派を大弾圧した直前の月照のことを書いているのだ。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/253/
メモにある「安政五年(1858)三月」という時期は、西郷隆盛が篤姫から近衛忠熙への書簡を携えて京都に赴き、一橋慶喜を十三代将軍家定の後継とするための内勅降下をはかろうと工作した時期なのだが、その工作活動に協力したのが月照である。
ところが同年五月に井伊直弼が幕府の大老となり、六月に日米修好通商条約に調印し、紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣とする事に決定し、七月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた。九月に梅田尊王攘夷派にも危機が迫り、月照は西郷を頼って鹿児島に向かう。
それから月照はどうなったか。しばらく加藤氏の著書を引用したい。
「しかし運が悪かった。時に利なく、西郷を小身時代から引き上げ、自身の懐刀としてつかうほど、バックアップしていた藩主島津斉彬が亡くなり、異母弟の久光の息子が後を継いだ。薩摩の実権は久光が握っていた。斉彬が薩摩藩主となる際に起きかけたお家騒動があるが、この時反斉彬派が擁立しようとしたのが久光である。そうしたことから斉彬の急死も久光派の陰謀説が出たほどだった。このため西郷は久光を嫌い、久光も西郷を嫌っていた。
このため月照は受け入れられず、西郷とともに『日向送り』となる。国外追放である。この頃の薩摩の藩法は、国外追放者は国境で処刑するのが定めだったという。悲観した二人は、日向送りの船から相抱いて海に飛び込んだ。西郷は助かったものの月照は儚くなった。十一月十六日のことだった。
月照の懐には二首の辞世が収められていた。
『曇りなき心の月の薩摩潟 沖の波間にやがて入りぬる』
『大君のためにはなにかをしからぬ 薩摩のせとの身はしづむとも』」(同上書p.259-260)
この時西郷は運よく蘇生したが、回復に1ヶ月近くかかったという。生き返った西郷は、藩によって死んだこととされ、菊池源吾と変名して奄美大島に島流しとなっている。
一方、月照のあとで成就院住職となった弟の信海も、翌安政六年(1859)に攘夷の祈禱を行なったとの嫌疑で捕えられ、江戸伝馬町の牢屋敷に送られて獄中で没している。
そして桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されたのはその翌年の安政七年(1860)。徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのはそのわずか七年後の慶応三年(1867)のことである。
広い清水寺の境内の中に「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」という不思議な名前のお茶屋がある。清水寺のホームページ記事を読んではじめてこの由来を知った。
http://www.kiyomizudera.or.jp/yodan/vol2/index.html
月照の友人で成就院の執事であった近藤正慎(こんどうしょうしん)は、幕府方に捕えられて、月照がどこに逃げたかを問われて拷問を受けたが、決して白状せず自ら舌を噛み切って壮絶な最後を遂げた。「舌切茶屋」は清水寺が近藤正慎の功績に報いるために、遺族や家族の生計の足しになるようにと境内茶屋の開設権利を与えたものだそうだ。近藤正慎は俳優の近藤正臣の曽祖父にあたるのだそうだ。
http://95692444.at.webry.info/201201/article_1.html
また月照の九州下向に付き添いその遺品を持ち帰った大槻重助は、幕府に捕えられ牢獄に繋がれたが、同じく獄中にあった信海から後事を託され、境内茶屋の開設を認められたという。それが「忠僕茶屋」である。重助は茶屋を営みながら生涯月照・信海の墓を守り、月照の17回忌が鹿児島で行われた際に西郷隆盛から上人を悼む漢詩を託されている。
清水寺北総門の北に「月照上人・信海上人慰霊碑」があり、とりあえずカメラに収めたのだが、この右側の石碑にこの時に西郷が大槻重助に託した漢詩が刻まれている。読み下し文が次のURLに紹介されている。
http://www.niji.or.jp/home/akagaki/10-03gesyou.html
相約して淵に投ず後先無し
豈(あに)図らんや波上再生の縁
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば十有余年の夢
空しく幽明を隔てて墓前に哭(こく)す
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
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