心の対話
      高橋信次著
  三宝出版株式会社   
この書は、あなたが人生を歩むにあたって
さまざまな疑問にぶつかるとき、あなたに
解答を与え、行動の指針を示す燈台の役割
を果たすだろう。


はしがき

 歴史は繰り返すといいますが、大きな流れはそうであっても、人の一生は常に新たな経験に
彩られ、さまざまな人生を描いていくのが定めのようです。だが、新しい経験が満ちているほど
私たちの心は豊饒となり、以前にも増して、より広い寛容な心がひらいていくものでしょう。
試行錯誤の人生は、人によっては迷妾と蹉跌をあたえ、かえって心を小さくさせ、人生の意義と
目的とを見失わせます。否、そうした人生が意外と多いと思います。

 多くの人から、卑近な日常の問題を含めて、それらの問題に回答を与えた「心の対話集」
といった書を出版して欲しいと要望があり、かねて一冊の本にまとめたいと考えていました。
さいわい、いくつかの例題がここ数年の間に読者から寄せられていましたので、これらにつ
いて回答する形式でまとめたのが本書です。

 この対話集では、拙著『心の指針』『心眼を開く』などの掲載した分も含めて収録しましたが、
これらについては加筆したり、字句を変えたりしてまとめましたので、新たな立場からきっと
ご参考になろうと考えます。もちろん新しい例題も数多く書き加えて一冊にしたのが本書です。

 たとえば、私が主唱する正法について、世間一般では、さまざまなとらえ方をしていると思い
ますが、そのとらえ方が固定化したり、文字にとらわれて観念化されてきますと正法は死んで
しまいますので、こうした問題も含めて、正法を要約して述べておきました。

 また、ある教団なり団体で、正法という文字を前面に出して使っているようですが、本書を
通してそれらと比較し、どの点がどう違うのか考えていただきたいと思います。すでに私の
本は数年前から書店に出ていますので、同じようなとらえ方をしている向きも出てきたかと
思いますが、本書全体を通して正法を理解していただければ、その辺の事情なり、区別が
いっそうはっきりすると思います。

 正法には「文証」がつきもので、文証とは時代や主義思想に関係なく、この地球が存在し、
大宇宙が存在するところに存在しており、そうしてそれは、不変の論理によって貫かれてい
るのです。正法に論理の矛盾があれば、それは正法でもなんでもありません。もっとも論理
といっても、三次元的に理解できるものと、できないものがあります。その点の理解は各人の
体験によって補足されるものです。この点が人間の知的な論理と、正法の論理の相違点で
あろうと思います。

 真理(本当は神理と書きます)は、平凡にして単純です。真理は、ものの真実、事実の上に
あって、人間の恣意によって変えられたり、選択されるものではありません。それこそ諸法は
無我であり、正法は、無我の上に成り立っています。

 たとえば、自殺行為は人間の特権という考えがあります。また、これを支持し、美化する人
もいます。では、そうした支持する人が、ただちにその特権を行使できるかといいますと、お
そらく二の足を踏むでしょう。考え方としてそう理解できても、自殺は原生命に対する反逆
だからです。

 特権という意味は、動物には自殺の選択権がないことからきているようです。つまり、動物
は、自己を客体としてとらえることができない。生理的、本能的、主観的にしか生きられない。
人間は、自己を客体としてながめ、自らの生命を絶つことによって、自分の意思を実現する
ことが可能というわけです。人間の自由意思が、さまざまな価値観を生み出し、原生命さえ
否定するに至っては、もはや論ずるなにものもありません。こうした考えの基礎は、人生を
この世だけと見、生命の不変、人生の目的を単に頭脳的にしか解決できないためと考えます。

 われわれの肉体は、人間の自由意思の産物ではありません。人間の意識が神にふれれば、
この点の理由は釈然としますが、すべては神のはからいによって、精神も肉体も創造された
のです。その生かされている事実を忘れ、自由意思が行使できるからといって、自己否定の
自殺ほど無知な行為はありません。われわれの人生は、生かされている事実のもとで、どう
よりよく生きるか、そして、生かされている感動を、どう報いるかに、動物と異なる人間のあり
方があるのです。

 正法は、ものの真実と大地の上に立つものです。素朴で平凡な事実の上に、無我の法があ
らゆる生命を生かしています。正法の論理は、こうした事実をもとにして、われわれを教えてい
ます。

 本書は、例題による問答形式で書いたものですから、説明が足りないものもあるかと思いま
すが、質問に対する要点には意をつくしたつもりです。

 本書を通して、正法真理を理解され、体験の中に生かしていただければさいわいです。

   一九七六年六月                   
                                     高 橋 信 次
第一部  法と真理

1 正法とは

[問] 正法とは、どういうことをいうのですか。一口に正法といわれても、これをどう
  理解してよいかわかりません。簡単に、誰にもわかりやすく要約して説明してい
  ただければさいわいです。

 法とは正しい秩序をいいます。法という文字は氵(さんずい)に去る、と書きます。氵(さんずい)
は水ですから、法とは水が去ることになります。

 水は低きに流れ、高きに流れることはありません。低きに流れることによって、自然の理にかな
い、自然の秩序にしたがっています。

 水が去るとは、水自体が自然の条理にかなって生きていますので、水の姿は自然の秩序をあら
わしている、ということになります。漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物
の事象を実によくあらわしているといえるでしょう。

 さて、水は低きに流れることによって、常に清らかさを保っています。山水の流れは冷く、清らか
です。自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く、澄んでいます。もし、この水が流れを止め、
一ヶ所にとどまるとすれば、水質はにごり、飲み水の用にさえたたなくなってきます。

 人の心もこれと同じです。物に執着し、とらわれが多くなりますと、心はけがれ、ものの用に役立
たなくなってきます。

 ねたみ、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望に心がとらわれてきますと、自分自身の心が不安定
になり、人との調和もうまくいかなくなってきます。

 法とは、この意味で、心にさまざまな執着を持たぬこと、とらわれをつくらぬことです。

 ここで注意したいことは、とらわれということを曲解し、好き勝手なことをしても、とらわれなければ
よい、というふうに考えてはならないということです。これは大変な誤解です。とらわれとは物に執着
しないことですが、同時にそれは法にしたがうということを意味しています。ところが、人によっては、
文字の観念に酔い、とらわれなければ、したい放題、やりたい放題してもよい、というふうに考えて
しまいます。これはとんでもないことです。

 法とは、文字通り秩序をいいます。水の流れをいいます。水が正しく流れるから、水としての価値
を生み、万物が生かされているのです。

 また法というものは、循環しています。水は個体、液体、気体となって天地の間を循環し、地上を
うるおしています。

 こうした正しい循環が万物を生かし、そしてまた水の生命を永遠に保ちつづけているのです。

 正法とは、水の流れのようにとらわれがなく、万物を生かしながら、正しい循環をくりかえし、水自体
の生命をも永遠に生かしているものをいうわけです。また水自体の生命が永遠であることは、水の質
量に変化のないことを意味します。つまり、ふえもしなければ減りもしないということです。それは、まさ
に物に片寄らない中道に水が生きているからといえるでしょう。

 私たちの現実の生活に当てはめますと、物に執着し、心が片寄ると苦しみとなって現れます。心が
片寄ると、自分も苦しく、周囲もまた暗い雰囲気に包まれてきます。これでは自分も生きないし、周囲
も明るく生きられません。自分を生かし、他を生かすには、正法にそった中道の生き方、つまり物に
とらわれない水の流れのように生きてこそ、自分を生かし、他をも生かすことになります。他を活かす
とは愛のあらわれです。ですから、正法に生きるとは、愛に生きることと同義語になるわけです。物
にとらわれず、清洌な水のように他を生かす愛の行為こそ、正法のかなめであり、正法の神髄といえ
るわけです。

2 原罪について

 [問] 原罪とはなにをいうのでしょうか。人間はどうして原罪を負って生活するように
    なったのでしょうか。これらの点について説明してください。

 人類の祖先は旧約聖書に象徴的に描かれています。エデンの園でアダム(男)とエバ(女)が神の
保護の下で楽しい安心した日々を送っています。そのうち、神の楽園に蛇が現れ、エバに禁断の木
の実を食べよといいます。エバは好奇心にさそわれ、蛇のささやきをきいてしまう。禁断の実を口に
したエバは、その実をアダムにもすすめます。

 アダムは、神の怒りを恐れ食べまいとしますが、エバのすすめで、彼までもそれを食べてしまいます。
二人は禁断の実を食べると、いままで経験もしない自分を意識する。それまでの二人は、神から生か
されたままの人間であって、童子のような安らかな心を持っていたのですが、禁断の実を食べることに
よって、自分以外の対象を発見し、そして自分を意識するようになります。つまり自他の発見であり、そ
れはまた、自己保存につながるエゴの自分であります。

 間もなく、神の怒りが始まります。明るくひらかれていた青空を、急に黒雲がおおい、雷鳴がとどろき、
稲妻がエデンの園を襲います。二人は、楽園に身をかくしますが、雷鳴と稲妻は彼らの姿をとらえて離
しません。ついに二人は楽園にとどまることができず、楽園を追われ、流浪の旅が始まるのです。

 人間の原罪は、こうしてつくられたわけです。

 エデンの園とは、あの世の天上界であり、また、かつての地上天国だったわけです。禁断の実とは、
肉体にまつわる自己保存の想念であり、自己本位の意識です。蛇は執念、執着の動物であり、それ
はまたカルマ(業)の象徴を意味します。つまり、蛇が前に進むには、うねって蛇行しなければなりま
せん。蛇行は波形を意味し、波形は運動のリズムでもあります。エネルギーの運動は、すべて波形・
波動の形をとるのですが、蛇の波形はもっとも荒く、それはカルマの波形をかたどっているのです。

 つまり、蛇にそそなかされたアダムとエバは、自己保存という神意をはずれた原罪を心に宿したため、
執着というカルマの運動をつづけねばならなくなったわけです。

 これを仏教の面からみると、五官にまつわる六根であり、煩悩であります。肉体を中心としたものの
考え方が、さまざまな執着をつくり、その執着の輪廻に人間が陥って、どうにも動きがとれなくなった
人間の悲しい運命をいうのであります。”わかっちゃいるけど、やめられない”というカルマの輪廻こそ
が、執着の運動であり、それは蛇の前進運動が象徴的に語っているのです。

 原罪を断ち切るには、正法にそった正道の生活行為しかありません。反省と調和の生活。自己保存
にもとづく悪を思わぬ生活。悪の種を心にまかぬ生活こそが、原罪から離れ、安心と調和の明日を約
束する生活です。

3 正法と実践
 [問] 正法は己の善なる心を信じよといいますが、これについて、もう少しわかり
    やすく説明してください。

 これまでの他力信仰では、そこに教祖が存在する場合、教祖の一挙手一投足が、信者にたいする
教えにつながっています。そうして良いにつけ、悪いにつけて、その影響は絶対的なようです。不信や
疑問を抱くいとますら与えられません。盲信、狂信は、こうした状況のなかから生まれます。

 ところが、正法については、こうしたことはあり得ないのです。なぜかといいますと、正法は、自分と
いう存在を抜きにしては、あり得ないからです。あの人がいる、この人もいるという感覚は、自分という
存在があるからこそ、認知できるのです。宇宙という存在も、地球という概念も、自分が呼吸し、生きて
いるからわかるのです。眠ってしまえば、宇宙の存在、家族のこと、職場のことも、すべてわかりません。
目がさめてはじめて、あらゆる諸現象を知ることができます。

 正法の出発点は、それゆえに、自分を発見することから始まり、それにつきるといっていいでしょう。
自分のいない法、自分を無視した法、自分から離れた法というものは、ないのです。

 そこで、己自身を知る、正法を知るには、どうすればよいか、己の正しい心を信じ、八正道を行い、
反省という光の触媒を通じて得られるものです。

 ところが、人間の心、宇宙、神というものは、くめどもつきぬ深遠さに包まれています。これでよしと
する極点に、そうやすやすと到達することはできません。

 このため、ややもすれば、人は困難さにうち克つことができず、環境に負けてしまいます。負けない
自分を支えてくれるものはなにか。それは、やはり自分自身なのです。環境に負けるのも、自分自身
に負けるからです。

 自分を救うものは自分しかありません。自分に負けそうになったら祈りなさい。祈る心で自分を立た
せなさい。己の心、そうして正法はこうしたなかから理解を深めてゆくものです。