第一部  法と真理

10 人間以外の魂


 [問] 人間の生命(魂)は本体一、分身五の六体から成立っているといいますが、では
    人間以外の動物、植物、鉱物の場合はどうなっているのですか。また、転生輪廻はど
    ういう順序で行われるのですか。

 本体、分身の関係は、なにも人間だけに限らず、動、植、鉱物全部についていえます。人間
を含めた動、植、鉱物の物理的な見分け方をまず説明しますと、動物の場合は、細胞の要素
が大きく分けて六つに分類されます。

 核、原形質膜、ミトコンドリア、ゴジル体、中心体、脂肪粒の六つ。この六つの要素が、たがい
に補い合って細胞という組織をつくっています。この細胞の六つの要素が、いうなれば、本体一
(核)、分身五(原形質膜、ミトコンドリア、ゴルジ体、中心体、脂肪粒)の構成の反映といえるでし
ょう。ですから人間以外の動物についても、細胞がこのようにわかれる場合は、一本体、五分身
ということになります。

 植物もこの例にそって、核(本体一)があり、そうしてその周囲に原形質膜、液胞、色素体、細胞
膜(分身四)の五つから構成されます。ですから植物は、動物よりも一つだけ構成要素が少ない
ことになります。

 鉱物の場合は、原子番号に核を加えた数が本体、分身の数になります。たとえば炭素の原子
番号は6です。6とは、核外電子の数。これに核の一つを加えると七になります。つまり本体一
、分身六の関係になります。このようにして、水素は二、金は八十、銀四十八、塩素十八、亜鉛
三十一、鉄二七、銅三十が本体、分身数を合わせた数となります。

 このように、物質の構成は、そのモトである生命の構成にしたがって形作られているといえる
でしょう。

 形の世界は心の反映であり、このため、本体、分身の関係も、生命の組織をそのまま形の上
に反映し、細胞も、素粒子の世界も同じような構造となってあらわれるものなのです。

 不思議といえば不思議ですが、生命と物質というものは、そのようにできています。

 色心は不二  、物質と生命について追究すると科学的にも理解されてくるといえましょう。太陽
系のそれも、太陽(核)と惑星(分身)が相互に作用し合っています。そうして太陽系全体を形成し
ています。一つでも欠けたら太陽系は分解してしまいます。

 魂の転生輪廻は、それではどういう順序で行われるかといえば、原則的に順ぐりです。Aが出れ
ば次がB、Bの次はCというように、A(核)BCDEF(分身)が順次、現象界に出て修行する。という
のが原則です。ただし転生輪廻の過程で修行を積む者と、横道にそれてしまう者もあって、全体の
バランスを崩すことがあるので、そうした場合は、あの世で話し合い、前記の原則にこだわらず、A
ならAが短期間に二度、三度現象界に出て修行することもあります。しかしこういうケースは比較的
少ないようです。大半は順ぐりに現象界に出て修行することになるわけです。
10 自由とは

 [問] 自由とは本来どういうことをいいますか。また社会生活と自由の考え方につい
    て説明してください。
    

 一念三千の言葉のように、人の心は三千世界、つまり自由自在、そうして無限の大きさと広が
りを持っているものです。

 あの世の光の天使たちは、そうした自由な心を持っていますから、どこへ行くにも自由に飛び回
ることができます。心にとらわれが多いと、こうした自由さは行使できず、地獄という世界で苦しむ
ことになります。

 自由とは本来、心の自由、あの世の天使たちの自由さ、そしてそれは人間本来の機能をいった
ものです。

 ところがそうした心の自由を持つ人間が、一度肉体という衣を着ると、不自由になってきます。心
の中で、ああしたい、こうしたいと思っても、体の方がいうことをきかない。

 海の上を歩いてみたい、早く走りたい、空を飛んでみたい、遠くの人と話をしてみたい、と思っても、
それはできません。そこで、心の要求を満たすために、人間はいろいろ考え、船を発明し、自動車を
つくり、飛行機をとばし、電話を考案してきました。つまり、肉体という不自由さを、こうしたさまざまな
乗り物や機器を発明することによって、少しでも緩和し、自由さを取り戻したいと考え続けてきたわけ
です。いうなれば、あの世の体験を、この世で現しつつあるといってもいいでしょう。

 しかし肉体という衣を着ると、心の自由さは、ふつうでは不可能に近くなってきます。肉体と心が分離
できる人は、心の自由さを知ることができます。俗にいう幽体離脱というもので、心と魂が肉体から離
れ、海の上でもどんな山でも、乗り越えて、天に遊泳することも可能です。しかし、ふつうはそれはでき
ません。心と肉体がひとつのときは、肉体世界(三次元)のルールにしたがっているため、不可能にな
ります。

 それにもかかわらず、人は肉体の自由を求めようとします。思想の自由、言論の自由からはじまって、
なにもかも自由に結びつけてきます。そうすると、この世の中は混乱してきます。現象界は、万事が三
次元的にできていますから、三次元のルールをはずすと、苦しみが生まれてくるのです。

 三次元のルールとは中道という片寄りのない生活が基本です。このルールが崩れてくると、作用、反
作用の法則が大きく振幅し、さまざまな障害が現れてきます。人びとの悲しみ苦しみは、こうしたその心
と肉体の関係を理解していないためと、ルールを踏みはずした生活行為にあるわけです。

 心の自由さは四次元以上の世界なのです。したがって、肉体を持つかぎりは、調和という秩序にした
がい、お互いの心の自由、心の尊厳さを認め合いながら生きていかなければならないのです。


12 業(カルマ)

 
[問』 人間の業はどうしてつくられ、どういうものを業というのか、業想念について
    説明してください。
     
 業を称してカルマともいっています。カルマとは強い力でグルグルと回り続ける性質をいい、
これに足をすくわれると、人間はなかなかここから離脱できなくなります。業のとりこになると、
その人生は灰色になってくるでしょう。

 人間の業はどうして生じたかといえば、それは転生輪廻の過程において生じたものです。
最初の人類は、神の意を体していましたから、こうした業は身につけていません。ところが
現世に生まれては死に、生まれては死んでゆくにしたがって、人びとは心に黒い想念をつけ
ていったため、人間は、まずその黒い想念を払うことが人生の目的となり、その目的を果たす
ことが仏国土をつくる大きな前提になってきたのであります。

 では黒い想念とはどういうものかといえば、それは執着です。五官六根に左右された自己
保存の執着が、それぞれの業をつくっていったのです。したがって、業とは、人びとの想念と
行為における執着が、つくり出したものといえるでしょう。

 この意味で業は悪です。非常にせまい意味では、善と思えるものも業となります。教育者
の家庭に想像もつかないような悪が芽生えるのも、善という名の執着の意識が強く働きすぎ、
家庭の人びとをしばりつけてしまうからです。「ああしてはいけない」「こうしなければならない」
というように、善の執着も業をつくります。善にとらわれると、四角四面な心になっていきます。

 要するに業とは、五官六根にもとづく執着の想念がつくり出した黒い循環の想念ー観念、
換言すれば、とらわれた心、これを業というのです。

 このために、善にしろ、悪にしろ、業をつくってゆきますと、それに心がひきまわされます。
悪いと知りつつ悪を犯してしまう。人の意見が正しいと思っても、その意見にあえてさからい
、逆な方向に自分を持っていってしまいます。奇癖、頑固、優柔不断など、すべて業の作用
であります。

 業想念というのは、地上の相対観念に自分の意識、魂がふりまわされている状態をいいま
す。金銭は絶対であり生命の次に大事なもの、地位が高ければ人びとから尊敬される、働く
のはバカバカしい、人生は面白くおかしく過ごすほうが得だ・・・・・といったようにです。

 したがって業想念は、やがて業をつくってゆき、来世に生まれても、その業にひきづられる
要因を生み出してゆきます。

 業にしろ、業想念にしろ、私たちは、大なり小なりその影響をうけながら生活しており、転生
輪廻を続けているというのが現実です。

 そこで、こうした業からぬけ出すにはどうすればよいかといえば、中道にそった想念行為を
することが大事なわけです。なぜ大事かといえば、とらわれが多ければ悩みも多いはずだか
らです。悩みが多ければ人生は灰色になってくるでしょう。心に安らぎは出てきません。真の
安らぎは物事に対する執着から離れることにあるからです。

 一切の執着が去った姿を涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)ともいい、これは絶対安心の釈迦の
境涯をいったものです。また、解脱という言葉がありますが、これは、人間の宿命的な業から
離れたことをいうのであります。

 相対的な業想念にふりまわされず、中道にそう生活に意をそそぎ、安らぎのある自分をつく
っていきたいものです。