第一部 法と真理
13 六根
[問] 五官と六根と煩悩の関係について説明してください。『心行』に「煩悩は眼・耳・鼻・舌・
身・意の六根が根元なり」としてありますが、六根は肉体なのですか、それとも意をいう
のでしょうか。
まず、五官について説明しますと、五官とは眼・耳・鼻・舌・身の五つをいいます。その意味で
五官とは純然たる肉体を指します。
意は肉体ではありません。意とは、意識、自我、魂、心の総体をいいます。
私たち人間の構造は、肉体と光子体から成っており、光子体の意識が肉体を通して生活し
ますので、肉体と自分(意識)は同一のものと考え、両者をいっしょくたんに考えてしまいます。
次に、六根というものは、肉体である五官に、意識である魂、自我がとらわれ、目に見えた
現象の世界を実在と見たり、考えの基本においてしまうので、意の中に煩悩を生ぜしめるこ
とになってしまうのです。
たとえば、花を見て美しい、欲しい、自分のものにしたいとする眼を通しての煩悩が起こり、
人の噂に怒りを覚える耳を通しての煩悩もあります。このほか、嗅覚(鼻)による煩悩、食べ
もの、言葉による煩悩(舌・口)、肉体保存(身)にまつわる煩悩があるわけです。こうした煩悩
は、五官ではなく、すべて、意である自分の意識の中につくられて行きます。煩悩とはものに
執着した迷いのことです。迷いに陥った自分のことを偽我といいます。私たちは偽我に自分
を託しすぎるから、争いがつきないのです。
そこで六根とは、五官を通じて生ずる心の迷いの五根と、偽我の自分を加えた総計をいうの
であり、これをきれいにしないといつになっても平和な心を得ることができません。
偽我の自分とは、表面意識の小さな自分です。各人の意識は表面意識と潜在意識があり、
表面意識の量はわずか一〇%しか働いていないのですから、小さな自分になってしまうのも
当然でしょう。大きな自分になるには、五官にふりまわされない自分━━━━大きく心をつくる
ことを心がけなえればならないわけです。
13 六根
[問] 五官と六根と煩悩の関係について説明してください。『心行』に「煩悩は眼・耳・鼻・舌・
身・意の六根が根元なり」としてありますが、六根は肉体なのですか、それとも意をいう
のでしょうか。
まず、五官について説明しますと、五官とは眼・耳・鼻・舌・身の五つをいいます。その意味で
五官とは純然たる肉体を指します。
意は肉体ではありません。意とは、意識、自我、魂、心の総体をいいます。
私たち人間の構造は、肉体と光子体から成っており、光子体の意識が肉体を通して生活し
ますので、肉体と自分(意識)は同一のものと考え、両者をいっしょくたんに考えてしまいます。
次に、六根というものは、肉体である五官に、意識である魂、自我がとらわれ、目に見えた
現象の世界を実在と見たり、考えの基本においてしまうので、意の中に煩悩を生ぜしめるこ
とになってしまうのです。
たとえば、花を見て美しい、欲しい、自分のものにしたいとする眼を通しての煩悩が起こり、
人の噂に怒りを覚える耳を通しての煩悩もあります。このほか、嗅覚(鼻)による煩悩、食べ
もの、言葉による煩悩(舌・口)、肉体保存(身)にまつわる煩悩があるわけです。こうした煩悩
は、五官ではなく、すべて、意である自分の意識の中につくられて行きます。煩悩とはものに
執着した迷いのことです。迷いに陥った自分のことを偽我といいます。私たちは偽我に自分
を託しすぎるから、争いがつきないのです。
そこで六根とは、五官を通じて生ずる心の迷いの五根と、偽我の自分を加えた総計をいうの
であり、これをきれいにしないといつになっても平和な心を得ることができません。
偽我の自分とは、表面意識の小さな自分です。各人の意識は表面意識と潜在意識があり、
表面意識の量はわずか一〇%しか働いていないのですから、小さな自分になってしまうのも
当然でしょう。大きな自分になるには、五官にふりまわされない自分━━━━大きく心をつくる
ことを心がけなえればならないわけです。
14 実在界
[問] 実在界という世界はどの辺にあるのでしょうか。三次元的思考でこの辺が実在界
といわれると、理解しやすいと思います。
実在界とは次元の異なる世界をいい、本来、物理的にここにあるといったものではないのです。
実在界とは各人の心の奥底にあり、また、大宇宙の中にもあるわけです。
しかし、そうはいっても実感として、これではとらえにくいので、三次元的には次のように考えて
いただいていいと思います。
すなわち実在界とはあの世のことです。各人の意識の大小によって住む場所がちがってきます。
意識の大小とは光子量のことで、それは大きく分けて、生前、自己本位に生きたか、人びとのため
に奉仕したかにかかっています。
死後、自己本位に生きた人はこの地球上の地表に、あるいはその近くで生活します。なぜかと
いうと、自己本位の心は現象界に執着を強く持っているので、現象界からなかなか離れることが
できないからです。反対に、執着が少なく、人びとに調和をもたらした人たちは、現象界から遠く
離れた高い世界で生活し、愛と調和の自由な毎日をすごすようになります。
つまり、実在界とは三次元的にいうと、地表から宇宙大にひろがった大宇宙の空間のなかに
あって、地表に近ければ近いほど苦しみが多いということになります。
ものを見る場合に、近視眼的に目先のことに心が常に動かされていますと、正しい客観的な判断
ができなくなってきます。
しかし広く高い視野からながめますと、ものの価値判断が変わってきて、いままで正しいと考えた
ことが、正しくないことがしばしばあるものです。実在界での住む場所もこれと同じように、それぞれ
のものの見方が、人類的立場に立つか、個人の利益に執心しているかで大きく変わってくるのです。
話は変わりますが、チベットのあるところに聖霊たちの住む空洞世界があって、ここから人類の
天使たちにさまざまな指令を出しているという話が伝わっていますが、そういうことはありません。
実在界というのは次元の異なる意識界を指し、心の世界をいうのですから三次元の物質界とは
ちがうのです。
物理的な位置づけとしては、こういうことがいえるでしょう。たとえば、ブッタはおもにインドで生活
しましたから、ブッタの天上界住まいはインドの上空に、またイエスさまの住まいは、いまのイスラエル
の上空にあります。
しかし上空にあるからといって、その真下は調和されているかというと、インドもイスラエルも調和
されているとはいえず、心がかなえばどこへでも通ずることを考えれば、そうしたことにとらわれる
ことは、おろかしいことだといえるでしょう。
ともかく、こういうことで実在界とは、微妙に、そして波動の細かい環境をつくっており、物理的に
はそれは地表から上空にわたっていると考えてもらえばよいでしょう。
15 正しい規準
[問』 八正道の「正しさ」について教えてください。といいますのは、自分は正しい
と考えても第三者が正しくないということが、しばしばあると思うからです。つまり、
人はそれぞれ過去世の修行の度合、経験、知識によって、その尺度がどうしても
ちがってくると思います。そこで、八正道の正しい規準がどこにあるのか教えてく
ださい。
あなたのご指摘の通り、知識や経験、過去世の修行、今世の生き方によって「正しさ」
の規準が変わってきましょう。
そこでまず正しさのあり方についていうと、八正道の目的が左右に片寄らない中道にある
わけですから、自分の立場を離れて、常に第三者の立場で、ものを見る、聞く、語るというこ
とが大事になってきます。すなわち、正しさの規準は全体との調和ということになります。そ
うしてその調和は、より高い次元の調和を尺度とすることはいうまでもありません。
そこでその規準の例を挙げてみましょう。
その規準というのは、人によって正しさの尺度がどうちがうのか、八正道の尺度は、どの
辺の尺度を指しているかということです。
まず、あの世を大きく分けると幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界の五つに区分されます。
つまり、五つの区分にはそれぞれの正しさが支配しています。
幽界━━この世界は、自分という立場が正しさの尺度になっています。自分さえよければ
人はどうでもというエゴの世界であり、自己保存の立場が強調され、自己保存を損なうもの
は正しくない、つまり、悪につながるという考え方です。現実の社会は、まさに幽界の正しさ
が支配しているようです。
霊界━━この世界は、いわば持ちつ持たれつで、人に与えたものは与えられる、与えたも
のが返ってこないと気持ちがスッキリしない「正しさ」が支配しています。生前における常識
の観念が、ここでは価値の尺度になっています。
神界━━人から損害を与えられても人を非難しない。人を非難する前に、まずその原因を
ふりかえり、二度と再びその原因をつくらないよう努力する世界。つまり、「正しさ」の尺度を
他に求める前に、自分に求め、第三者の立場で常に前向きにつとめてゆく人びとの集団社
会、これが神界の人びとです。
こうしてみてきますと、八正道の尺度がどの界に当たっているか、大体、おわかりと思います。
幽界、霊界ではなくて、神界にあります。もしあなたが、これまでその「正しさ」を霊界に求めて
いたとすれば、真に自分の心を正しく掌握することはできません。なぜかといいますと、己の心
にないものは、自分の周囲に現れることがないからです。この神理をまず、かみしめていただ
きたい。喜びも、悲しみも、あなたの想念がつくり出しているということです。つまり、思うこと、
念ずることが、あなた自身をつくり出しているということです。
もう一つ大事なことは、人の心は二つとないということです。小説や芝居を見て、悲しい場面
が出たときに、あなたは笑いますか。反対に、笑う場面に変わったとき、あなたは怒ったり、泣
いたりしますか。まずしないでしょう、つまり、人の心というものは、みな同じだということです。
とすると、自分の心を知ることは、人の心も理解できるということです。神界の尺度で己の心の
動きをみつめてゆきますと、人の心がわかってきて、人の悲しみは自分の悲しみにつながり、
人の喜びは自分の喜びにつながってくるものです。
菩薩界━━菩薩界の人びとは、慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。それは幽界、霊界の
心では、自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変わらないことが、実感として感じられ
てくるからです。つまり、人の心は一つであり、現れの世界は別々でも、人の心に二つはなく、
心は神につながっているので、その神性を汚すことは、自分を苦しめ、人を悲しませるなにも
のでもないからです。
菩薩は、常に神の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。つまり、菩薩の
「正しさ」は、形ある人びとの間というより、人びとの毀誉褒貶に心を動かすことなく、ひたす
ら、神の愛と人びとを生かすことに人生の目的を求めます。価値の尺度は神なのです。
ウソのない人びとの心なのです。
如来界━━如来といわれる人の心はどうかといいますと、ここへきますと、神の意識と表裏
をなすものですから、衆生済度の心しかありません。価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙
と己の心は不離一体です。その宇宙に不純な波動があれば、その波動を正純なものに変え
なくてはなりません。このため、来たって法を説き、地上に光を与えていく光です。
正しさの規準が、おわかりになりましたか。
あなたはどのような規準で「正しさ」を求めておられましたか。
[問] 実在界という世界はどの辺にあるのでしょうか。三次元的思考でこの辺が実在界
といわれると、理解しやすいと思います。
実在界とは次元の異なる世界をいい、本来、物理的にここにあるといったものではないのです。
実在界とは各人の心の奥底にあり、また、大宇宙の中にもあるわけです。
しかし、そうはいっても実感として、これではとらえにくいので、三次元的には次のように考えて
いただいていいと思います。
すなわち実在界とはあの世のことです。各人の意識の大小によって住む場所がちがってきます。
意識の大小とは光子量のことで、それは大きく分けて、生前、自己本位に生きたか、人びとのため
に奉仕したかにかかっています。
死後、自己本位に生きた人はこの地球上の地表に、あるいはその近くで生活します。なぜかと
いうと、自己本位の心は現象界に執着を強く持っているので、現象界からなかなか離れることが
できないからです。反対に、執着が少なく、人びとに調和をもたらした人たちは、現象界から遠く
離れた高い世界で生活し、愛と調和の自由な毎日をすごすようになります。
つまり、実在界とは三次元的にいうと、地表から宇宙大にひろがった大宇宙の空間のなかに
あって、地表に近ければ近いほど苦しみが多いということになります。
ものを見る場合に、近視眼的に目先のことに心が常に動かされていますと、正しい客観的な判断
ができなくなってきます。
しかし広く高い視野からながめますと、ものの価値判断が変わってきて、いままで正しいと考えた
ことが、正しくないことがしばしばあるものです。実在界での住む場所もこれと同じように、それぞれ
のものの見方が、人類的立場に立つか、個人の利益に執心しているかで大きく変わってくるのです。
話は変わりますが、チベットのあるところに聖霊たちの住む空洞世界があって、ここから人類の
天使たちにさまざまな指令を出しているという話が伝わっていますが、そういうことはありません。
実在界というのは次元の異なる意識界を指し、心の世界をいうのですから三次元の物質界とは
ちがうのです。
物理的な位置づけとしては、こういうことがいえるでしょう。たとえば、ブッタはおもにインドで生活
しましたから、ブッタの天上界住まいはインドの上空に、またイエスさまの住まいは、いまのイスラエル
の上空にあります。
しかし上空にあるからといって、その真下は調和されているかというと、インドもイスラエルも調和
されているとはいえず、心がかなえばどこへでも通ずることを考えれば、そうしたことにとらわれる
ことは、おろかしいことだといえるでしょう。
ともかく、こういうことで実在界とは、微妙に、そして波動の細かい環境をつくっており、物理的に
はそれは地表から上空にわたっていると考えてもらえばよいでしょう。
15 正しい規準
[問』 八正道の「正しさ」について教えてください。といいますのは、自分は正しい
と考えても第三者が正しくないということが、しばしばあると思うからです。つまり、
人はそれぞれ過去世の修行の度合、経験、知識によって、その尺度がどうしても
ちがってくると思います。そこで、八正道の正しい規準がどこにあるのか教えてく
ださい。
あなたのご指摘の通り、知識や経験、過去世の修行、今世の生き方によって「正しさ」
の規準が変わってきましょう。
そこでまず正しさのあり方についていうと、八正道の目的が左右に片寄らない中道にある
わけですから、自分の立場を離れて、常に第三者の立場で、ものを見る、聞く、語るというこ
とが大事になってきます。すなわち、正しさの規準は全体との調和ということになります。そ
うしてその調和は、より高い次元の調和を尺度とすることはいうまでもありません。
そこでその規準の例を挙げてみましょう。
その規準というのは、人によって正しさの尺度がどうちがうのか、八正道の尺度は、どの
辺の尺度を指しているかということです。
まず、あの世を大きく分けると幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界の五つに区分されます。
つまり、五つの区分にはそれぞれの正しさが支配しています。
幽界━━この世界は、自分という立場が正しさの尺度になっています。自分さえよければ
人はどうでもというエゴの世界であり、自己保存の立場が強調され、自己保存を損なうもの
は正しくない、つまり、悪につながるという考え方です。現実の社会は、まさに幽界の正しさ
が支配しているようです。
霊界━━この世界は、いわば持ちつ持たれつで、人に与えたものは与えられる、与えたも
のが返ってこないと気持ちがスッキリしない「正しさ」が支配しています。生前における常識
の観念が、ここでは価値の尺度になっています。
神界━━人から損害を与えられても人を非難しない。人を非難する前に、まずその原因を
ふりかえり、二度と再びその原因をつくらないよう努力する世界。つまり、「正しさ」の尺度を
他に求める前に、自分に求め、第三者の立場で常に前向きにつとめてゆく人びとの集団社
会、これが神界の人びとです。
こうしてみてきますと、八正道の尺度がどの界に当たっているか、大体、おわかりと思います。
幽界、霊界ではなくて、神界にあります。もしあなたが、これまでその「正しさ」を霊界に求めて
いたとすれば、真に自分の心を正しく掌握することはできません。なぜかといいますと、己の心
にないものは、自分の周囲に現れることがないからです。この神理をまず、かみしめていただ
きたい。喜びも、悲しみも、あなたの想念がつくり出しているということです。つまり、思うこと、
念ずることが、あなた自身をつくり出しているということです。
もう一つ大事なことは、人の心は二つとないということです。小説や芝居を見て、悲しい場面
が出たときに、あなたは笑いますか。反対に、笑う場面に変わったとき、あなたは怒ったり、泣
いたりしますか。まずしないでしょう、つまり、人の心というものは、みな同じだということです。
とすると、自分の心を知ることは、人の心も理解できるということです。神界の尺度で己の心の
動きをみつめてゆきますと、人の心がわかってきて、人の悲しみは自分の悲しみにつながり、
人の喜びは自分の喜びにつながってくるものです。
菩薩界━━菩薩界の人びとは、慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。それは幽界、霊界の
心では、自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変わらないことが、実感として感じられ
てくるからです。つまり、人の心は一つであり、現れの世界は別々でも、人の心に二つはなく、
心は神につながっているので、その神性を汚すことは、自分を苦しめ、人を悲しませるなにも
のでもないからです。
菩薩は、常に神の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。つまり、菩薩の
「正しさ」は、形ある人びとの間というより、人びとの毀誉褒貶に心を動かすことなく、ひたす
ら、神の愛と人びとを生かすことに人生の目的を求めます。価値の尺度は神なのです。
ウソのない人びとの心なのです。
如来界━━如来といわれる人の心はどうかといいますと、ここへきますと、神の意識と表裏
をなすものですから、衆生済度の心しかありません。価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙
と己の心は不離一体です。その宇宙に不純な波動があれば、その波動を正純なものに変え
なくてはなりません。このため、来たって法を説き、地上に光を与えていく光です。
正しさの規準が、おわかりになりましたか。
あなたはどのような規準で「正しさ」を求めておられましたか。