インターネット正法 さんのサイトより
http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/ccop68cop/view/201108
<転載開始>
高橋信次先生の講演はどのようなものか、一部ご紹介させていただきたいと思います。

演題『人生の目的と使命』-高橋信次-

本日は、「私たちがこの地球上に何の目的を持ち、どのような使命をもって生まれて来たのであろうか」という事について説明してみたいと思います。
多くの人々の中には、両親が、自分たちの都合によって、好き勝手に私たちを生んだのだと思っている人たちがいます。
もう一つは、この地上界に肉体をもち、親、師、先輩より受ける教育、あるいは先祖や国が培って来た歴史的な環境の中において、自分なりに、悲しみや苦しみ、喜びなど、苦楽の人生を体験して一寸先が闇の人生を計りかねている人たちです。
いづれにしても、私たちがこの地球上に出て来た以上は、安閑として無為無作の人生をすごしてよいのだろうか、という人生に対する矛盾、その解決を求めたはずの信仰、その信仰に対する矛盾などを皆さまは痛感しているはずです。
それは私たちが、肉体的な五官を通してとらえ得たものを、目を通して見たもの、耳から聞いたもの、あるいは肌で感じたものによって、その人の学んで来た、教育や、思想や、あるいは習慣によって判断をしているからです。
あまりにも物質文明だけが発達してしまって、私たちは本当の人間としての価値と、そしてその使命というものを忘れてしまっているのが多くの現代の人々です。
あくまでも私たちの肉体を通して、感じ得たもの、あるいは皆さま自身が想像して、心の中で思うことによって、自分なりに判断して生活しているはずであります。その結果、女性の方は、より美しく、そして結婚をして平和な生活をしようとする者から、結婚した人たち
は、良い子を生んで、立派に育てようとか、経済的な安住を得て、もっと自分自身がより以上に優雅な生活をしたいとか・・・。
 
男性の方は、学校を出て、社会に出たならば、すくなくとも社会的な地位を築いて生活環境を安定しようとか、会社に勤めている人たちは、少しでも役職を得て地位を築いてゆこうとか、それぞれ人によって違いはありますが、私たちが生まれてきた目的は果たしてそのようなものなのでしょうか。
皆さま自身が、この地球上に出てくる前、皆さまの中に、そんな馬鹿なことはない、肉体が絶対なんだ。親から頂いたこの己自身の肉体が絶対であるんだ、それ以外に何物もないと唯物的に考えるとしたならば、これをどう説明するのでしょう。
人間の脳細胞は約二百億あります。二百億の細胞からなる頭脳が、すべてを記憶し、想像する能力を持っているとしたならば、皆さまが、なぜ眠っている時に、私たちの耳の穴も、鼻の穴も、チャンと立派にあいているが、視覚も、聴覚も働かないという事実を何と説明しましょうか、現代医学においてはまだそこまで行っておりません。
さらにまた、皆さまが学校やあるいは男女関係、恋愛問題、親子の対話などの不調和により心を悩まします。恋人にふられて悩んで身体が痩せ衰える人もあるでしょう。なぜ悩んで私たちの肉体は疲労を感ずるのでしょうか。これについて現代の医学も物理学も証明するこ
とはできないのです。
高橋信次先生講演 人生の使命と目的2
悩みの原因というものは、どこから発するのか、苦しみの原因は、どこから出て来るのか、しかもなぜ肉体は年をとるに従って、老化現象を起こしてゆくのか、なぜ人間は死んでしまうのか、この大きな問題を追求していったならば、私たちは全く肉体以外に、何物かの存在があることを否定することができる人があるならば、説明して下さい。ということは私たちの現在持っているところの肉体は、この地
球上という場に対して適応したもので、神が保存し、我々が神の子として、先祖代々継承されてきて、現在の肉体を持っているからなの
です。
 
そうなりますと、肉体以外に何物かがあり、人は魂ともいう、あるいは意識ともいう、精神ともいう。その根本であるところの魂というものの存在を、皆さま自身は否定できないはずであります。なぜならば、今の皆さまの肉体は、親から頂いたものですが、魂は親から頂いたものではありません。
もし魂を親から頂いたものであるとしたならば、なぜ、親が子供の心が解らず、子供が親の慈悲も解らず、親不孝という現象がなぜ起こるのでしょうか。もし魂を両親から頂いたものであるとしたならば、私たちはどこにいっても、意思の断絶はないはずです。
ラジオもテレビも無線機も、人間の作ったものです。私たちが今スイッチを入れれば、どこの放送局も、キャッチできるだけの能力を持った受信機を発明しております。あるいは映像をも映し出せるだけのものを発明しています。
しかしこれらは人間の文明生活の知恵で、万物の霊長である人間自身が、なぜこのような能力を出せないのでしょうか。親と子の意思が、親と子の魂が、同一のものであるならば、どこにいても自由自在に、心の中で思っていることから、考えていること、行っていることが、通じ合わねばならないはずであります。ということは皆さまは、魂、意識の次元ということを考えねばならないのです。今の肉体
舟を絶対なる基盤として考えるところに、間違いが起きて来るのです。
そうなりますと肉体以外に、また別のものがあるということを私たちは否定できないはずであります。
眠っている時に、皆さんは自分の五官・六根がすべてだと思っていたが、脳細胞の二百億の集団がすべてを思い想像し、計算もする場所であると思っていたが、眠ってしまったら、ただの一個の物質にしか過ぎない。しかしこの物質である私たちの肉体も、五官を通して調和されずとも私達の五臓六腑は少しも機能は失っておりません。動いています。
といたしますと、私たちの脳細胞は五体をコントロールしている制御室にしか過ぎないということを、皆さまは知らなくてはならないのです。なぜならば制御室である理由は、肉体以外の、意識、魂が離れている時には、全く無能だということです。眠っている時に、数字の計算でも学んでいるものがわかるならば、それは脳細胞がすべて記憶しているということを私は肯定します。しかし、その事実は無い
はずであります。
これは私たちの感覚器官に感受された信号は脳細胞の神経繊維の中に電気的振動を起こすのです。これを脳波といっております。この電気的振動の波動が、人間の肉体の船頭である意識・魂に通信されて記憶されているのです。
このような次元の違った意識・魂の根本というものを考えた時に、肉体はただの人生航路を渡って行く、一つの乗り舟しかすぎないということになるはずであります。しかもまた、神理というものは永遠不滅であり、線香花火のように消え去るものではないのです。肉体というものは、この地上界において、己の魂を磨く乗り舟にすぎず、魂というものこそ永遠不滅の己自身なのです。
眠っている時に皆さまの魂は肉体から離れて次元の違った世界へ行っています。この地上界を皆さまが去る時に、帰らなければならない魂の世界へいっているのであります。
そうなりますと、私たちはまず次元の違った世界、あの世こそ実在界だということになるのです。すべてのものを作り出しているところの空(くう)の世界、仏教の根本は�空�ということが判ったならば、すべて解決するとまでいわれているようですが、この空の根本原理、根本理念ですら、現代仏教はすでに忘れ去っております。そこで私たちが実在界という次元の違った意識の世界は、この地上界より
以上に文明も進歩し、地上界における原子細胞ではなく、精妙な光子体ともいうべき、光の細胞を持った肉体であるという事実、これは皆さまが、仏像を見たり、あるいはイエス様の姿の映像を見る時には、必ず体から後光というものが出ているはずです。これは皆さんのあの世に帰る時の自分の肉体なのです。
高橋信次先生講演 人生の使命と目的3
あたかも太陽が熱・光のエネルギーを、この地球上の万生万物に平等に与えているように、神もまた、この地上界の万生万物に慈悲と愛の偉大なる光を、すべて平等に与えているということです。
太陽の熱・光のエネルギーが、貧乏人、金持、地位、名誉、こんなものに全く関係なく、平等に与えられるように、神の愛と慈悲もまた同じであります。しかるに私たちは、永い歴史の中に、先祖代々伝わって来たところの信仰体系の中から、一生懸命に祈ることが、本当の信仰の道だと大きな間違いを犯しているのであります。
私たちは自分の心の中に、神は慈悲と愛の力を、万生万物に平等に与えている事実を見た時に、神はすべてのものを人類に与えているということを知らなくてはなりません。だが、神の慈悲と愛の光を受けることの出来ない人が多いのです。
神の子たる己自身の本性を失ってしまっているために、うらみ、ねたみ、そしり、自己保存、自我我欲の暗い想念が、心の曇りを作り、あたかも太陽が、地球上の曇りによって、その光をさえぎられるように、神の光を己自身の不調和な想念と行為によっておおってしまうのです。
仏教の根本精神は、人間がこの地球上に生まれてくると同時に、修行のために、神の子としての自覚の九〇パーセントが潜在してしまい、肉体舟の五官六根がもたらす自己保存、自我我欲の黒い想念が神の光をさえぎり、己の魂を曇らせて生老病死、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といわれる四苦八苦の苦しみを作ってしま
います。
その苦しみの原因は、全て神の心を忘れた皆さんの魂・意識の中心である心というものが作るのです。
その苦しみの中から、己自身の反省がその魂を調和させ、平和な、執着から離れた安らぎのある人間としての本性、己自身を悟るにはどのようにすればよいかということを教えているのです。
それを当時の無知文盲の衆生にも解りやすく説明するために、方便をもって説いたのです。
それが、皆さんもよくご存知の法華経です。インドの当時、中国の時代においても、ほとんど泥沼の中に美しく咲く、あの一輪のハスの花の姿を通して教え導きました。

「皆さん、あの泥沼の中をご覧なさい。あの泥の中は、ウジ虫やハエがいっぱい群っている。あの汚ない泥の中に咲く美しい、一輪のハスの花をよく見るがよろしい。・・・・・・ あなたたちの肉体というものは、あの泥沼のようなものなのだ。なぜならば、目を見れば目糞しか出ないではないか、鼻を見れば鼻糞、口を開けば痰、あるいは体から出て来る汗、これも汚いものだ、このように大小便に至るまで、人間の肉体から出るものは、一つとしてきれいなものは無いのです。この汚ない泥沼のような、人生航路の乗り舟である肉体も、その船頭さんである意識、その中心である心というものが、神理を悟って執着から離れ、生老病死という根本を悟って、己自身が八正道の神理を実践したならば、あの美しいハスの花のように、あなたたちの心は、仏の心と調和されて、安らぎの境地に到達して、苦しみから己自身を開放することができるのだ」とこのような方便の説話なのであります。
<転載終了>