インターネット正法さんのサイトより
http://sunheart.web.fc2.com/kokoronomiti.html
<転載開始>

 初めに

正法は大宇宙の心 

正法は、この大宇宙の法則が心の法則にも同じく当てはまり、それはそのすべての中に人間の正しい生き方を示してることを説いています。
この大宇宙、大自然界には間違いなく慈悲と愛の心が存在するのです。そして、その心は人間の善我なる心の中に、間違いなく存在しています。
この自然界はあらゆるものが調和されています。水一つ例にしてみても、この水H2Oは水素と酸素から成ります。この水素と酸素は極端に不安定な物質です。しかし、これが水となれば、まったく安定したものになってしまいます。
不安定なものはより安定した性質を目指す。言い換えれば、極端なことは不調和であるということを自然界は教えているのです。
それは、そのまま心にも当てはまります。自らの思うこと、行なうことが極端な中道から外れてしまったときに、苦悩が生じるのです。
そしてまた、水はお互いひきつけ合い大河となり、海となります。水は素直です。素直に上から下に、抗うことなく流れます。これがいかに大切な姿であるか、当たり前すぎて私たちは忘れてしまっています。
一人だけでは調和できないことを教えていすのです。
言い換えれば、一つの小さな水の分子は私たち自身です。水がお互いにひきつけ合うように、もし偽りの我が自らを支配していたならば、お互いに手を取り合いひきつけあうことは困難でしょう。そうではなく、慈悲と愛ある善我なる自分に立ち返れば、お互いに手を取り合い大河の流れとなり地を潤し、やがて海という大宇宙を調和させていくのです。
もし、小さな水の分子が上から下に流れることに逆らってあらぬ事をしようものなら、どうなってしまうでしょうか。同じように、人間が自らの自我我欲によって抗うならば、とても大宇宙の調和などできないということです。
そしてまた、水は姿を変え、個体、液体、気体に姿を変えながら永遠に循環し、循環するからこそ永遠の生命としていき続けていくのです。姿を変えても水は水なのです。
それゆえに、H20の個性は一つもなくなることはありません。同じように、すべて人間は個性を持っています。
と、同時に自他を越えた広い心を持つのも人間なのです。
同じように、人間の魂も転生輪廻を繰り返す永遠の生命なのです。
自然界もまた、大自然の四季に見られるように、復活と再生を繰り返していく永遠の生命なのです。
一日は人生の縮図に置き換えられます。目覚めと誕生、あの世に帰る眠りと死。なぜ、神は私たちにこの一日を与えたのでしょうか。
多くの人は、昨日より今日の自分、向上を目指して生きているはずです。
同じように、人は誰でも誕生の前に魂の向上を誓い生まれてくるのです。
ここに、問題があります。朝目覚めて、今日こそは昨日の誤りはしないと思っているのに、また同じ失敗を起こしてしまう人がいます。なぜでしょうか。
人間の心も慣性の法則と同じように、急に止まることは難しい。「わかっちゃいるけど止められない」ということは、「車は急に止まれない」のとまったく同じであったことがわかります。
けれども、修正することはともにできるのです。急ブレーキをかけることは大変ですが、わずかの力でもいい、絶え間なくブレーキをかけることにより自らの軌道を修正することができるということを教えています。
自らの軌道を修正するには、自らの思っていること行なっていることを善我なる心に問う聞くということです。
一日は地球が太陽の周りを調和された軌道で公転するからこそ、この地上界があるのです。同じように、自らの心の中心にも慈悲愛という神と繋がった太陽があるのです。
もし、その軌道が慈悲愛という心の太陽から大きく外れ外宇宙にまで行ってしまったならば、その軌道を修正しなければなりません。深く闇に閉ざされた、凍えつく外宇宙から自分をそのようにさせてしまった原因を取り除くことです。
原因があるからこそ結果があるのです。その原因を取り除くことです。
それには勇気がいります、そして実行力が必要です。しかし、自らの心の軌道を修正したときに慈悲愛の光が自らの魂を覆うのです。調和された軌道に修正することです。
だからこそ一日は人生の縮図なのです。
このように、水にしても、太陽にしてもすべてが人間に本当の生き方を教えていることがわかります。
太陽は、無償で人間に誰彼の差別無しに熱光のエネルギーを供給しています。これが愛でなくて一体何なのでしょうか。
そして、自然界はすべて自らが他の犠牲となり他を生かし命となることにより永遠の生命を営んでいます。
大宇宙には心があり、そこには間違いなく慈悲、愛があることがわかります。
それは自らの善我なる心のなかにあります。私たちが自らの軌道を修正し、自らの心に慈悲を取り戻したとき、その行為は愛となってこの大宇宙を調和させていくのです。



初めて正法を学ぶ方へ 1 
正法は日々の生活の中にあってこそ生きるものです。

あなたが今何かに苦しんでいるならば、その苦しみという矢を真っ先に取り除く道を教えるものです。

苦しみという矢に突き刺さったままであれば、人は己を知るどころでは無いからです。

正法はまず、己の心ありです。

正法は苦しみの矢を抜き払い、さらに真の己自身の生きる目的と使命を歩む道です。

それは自力であります。

そして、自分の人生は己自身が人生の最良の教師であることをよく知ってください。私達は人には嘘をつけても、自分には嘘をつけません。その、嘘のつけない自分の心を信じることです。
人では無いのです。自分の人生を誰になり変わって歩むことはできないからです。

正法は反省を説きます。反省とは八正道の中の正定のことであり、止観という、まず立ち止まって、善意の第三者の立場になって、嘘のつけない己の心で観るということを説いています。

反省は、人間の“心の自由性”を束縛しては正しい反省はできません。
初めての方はこのことをよく心得てください。

人間の日々の想念活動は無限大です。心の針は、天国も地獄も目まぐるしく動き続けています。この世は、天国と地獄の合わさった中間定点です。人の心も同じように、地獄という影の部分も投影されるように出来ています。

正しい心の物差しがなければ、私達は道を間違えてしまうというのもこの事からも分かりにます。

正しい心の物差しとは、嘘のつけない己の心に問う、聞くということです。
八正道の道は、日常生活を蔑にすることはできません。そして、その中にしか正しい反省、正しい禅定というものもありません。日常生活にあってこそ本物です。

先ほど、人間の心の自由性を束縛しては正しい反省はできないと申しましたのは、人間の心は神の子として、本来、宇宙大に広く、丸く、大きなものです。

空を見て、星空を見て、宇宙の広さを実感できるということは、私達の心が本来宇宙よりも広いからこそ実感することが出来るからです。
そして、そのように広い、大きな私達の心は自由に物を作り想像するという神から与えられた神の子として神性・仏性を持っています。

心の自由が、神性・仏性である以上、心の自由を束縛する事は、外部から戒律という形、あるいは方法論という形で束縛する事も、内部から、心の内側から勝手に自分の心に決めごとを作って束縛する事も、いずれも極端であり、悟りからは遠ざかるものになります。

まず、己の心を大切にすることです。

 


初めて正法を学ぶ方へ 2
嘘のつけない自分の心を信じ、広い自分の心を自覚し、心の自由性は実は神の子人間として神から与えられたものであると知ったならば、その自由にも実は重大な責任が伴っていたことを自覚するはずです。

そして、一人一人が自分の心の王国の絶対の支配者は自分自身であることを自覚されて、初めて本当の道が始まるのです。

どうか、そのことをよく心得てください。

ですから、何かの会に入ることが正法ではありませんし、ましてや心の何たるかが分からない人間に師事することも正法ではありません。

心の何たるかが分からない指導者ということですが、反省を説かない指導者は本物ではありませんし、霊道を得るために正法があるのではないのです。間違えてはいけません。

或いは、極端な方法論や戒律というものに重点を置いたものならばこれも違うものになります。

方法論と言いますと、天台智ギは止観をお説きになられたのですが、方法論としてまとめたのは弟子であり、方法論を説いたのではありません。
良く読めば、あくまでも、人の心について説かれたものです。
その上で正しい反省、禅定の方法を説いたことを、私達は表面ではなくその心を汲まなければなりません。

正しい反省の指導も禅定の指導も出来たのは、後にも先にも現生のブッタ、高橋信次師しかおられません。また、ごく一部の今は亡くなられた高弟の方々です。それ以外に今現在誰もいません。

霊道現象というのも、現証として現されたものであり、禅定は霊感を導き出すものではないのです。

紙に反省の内容を書かせて見させたというのも、師が、それが出来たからであります。

けれども、師が一番指導されたのは、嘘のつけない己の心です。
本来なら、指導など必要がないはずです。

師に甘えてはいけないのです。自分でできる筈なのに、歩ける筈なのに歩けないという人と同じです。
勇気を出して、立ち上がることです。その勇気が自分を変えるのです。

次の師の言葉をよく自らの心に聞かせてください。




初めて正法を学ぶ方へ 3 

『 高橋信次師の言葉 』


「 九〇%の意識、これをインドの当時は、「パニャーパラミター」といっておりました。「内在された偉大な智慧」ともいいますが、これをひもとくにはどのようにしたらよいか、それを私が説いているのです。霊感を呼ぶのではないのです。

自分自身の思うことと行なうことが調和された真実の片寄りのない生活行為の中でこそ、それをひもとくことができるのです。 」


「 まず正しい片寄りのない神理、八正道の根本というものを、己自身の心の物差しとして生活することが第一なのです。
この行が積み重ねられた時に、皆様は初めて己自身を悟り得るのです。 」


「 「止観」、止まって見ることが大事です。
我々人間は一〇%の表面意識で人生航路を歩んでいくために、多くの間違いを犯してしまいます。間違いは、間違いであってよいのです。「過ちは改まるに憚ることなかれ」です。

自分自身の心を、片寄りのない正しい心の物差しでみつめ、間違いがあったならば素直にその間違いを訂正して、「神よ、私の罪を許して下さい。ここを間違いました。

原因はこれこれこういう訳です。今度は絶対にこの間違いは犯しません」という反省、即ち止まって見ることが必要なのです。止まって反省した時に、皆様自身の心の曇りは晴れていくのです。

それを、人々はいろいろと病気をしたり、経済的に不調和になると、藁をもつかむ気持ちになって「どこかで拝んで貰えば救われる」とか、「どこかの宗教に入れば救われる」となる。これはとんでもないことです。なぜならば、そのような原因がどこにあつたか、ということを追及することが一番重要であるからです。 」


「 そして決して他力ではなく自力で実践してこそ、偉大なる神の光はえられるのだということを知ります。

神様をいくら拝んでも無駄です。拝む前に自分の心の曇りを払うことが一番重要なのです。その時に初めて、皆様の心は偉大なる神の光によって満たされ、皆様の魂の兄弟たちがあの世から協力してくれます。 」


嘘のつけない自分の心を信じ、良いことは明日も伸ばし、悪いことは勇気を持ってこれを修正するということであり、反省は心を明るくするものであれ暗くするものではないということをよく心得て置かないといけません。
心を暗くする反省はどこかに間違いがあります。



<転載終了>