ねずさんのひとりごとさんのサイトより
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<転載開始>

ブータン王国
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元旦のテレビ番組で、ダショー西岡のことをやってました。
そこで今日は2010年の過去記事をリニューアルして、この西岡京治のお話をしてみたいと思います。

昭和33(1958)年といえば、日清食品が世界初のインスタントラーメンの「チキンラーメン」を発売した年です。

この年、大阪府立大学農学部に、ある依頼がありました。
「ブータンに、日本の農業専門家を派遣してほしい」というのです。

ブータンは、インドと中国にはさまれたチベット仏教国です。
国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念や、さまざまな環境政策、伝統文化保持のための民族衣装着用など、非常に特色のある国でもあります。

国旗のデザインが、これまた難しい。



ブータンの国旗
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要するにブータンという国は、たいへんに伝統を重んじている国家であるわけですが、その分、ある意味閉鎖的な国家ともいえるわけです。
そういう国に派遣され、民衆に溶け込んで農業指導を行う。これが難題です。

ブータン王国で農業指導をするということは、西欧的に現地の人を奴隷として使役して農業を強制する、というものではありません。
いやもしかすると、他の国々ならそういう手法が採られるのかもしれませんが、日本人というのは、古来、あくまでも相手との対等な関係を希求する民族です。

ですからブータンが日本に農業指導を依頼してきたということは、派遣される日本人農業技術者が、ちゃんと人々の生活の中に溶けこみ、「あの人のいうことなら間違いない」という人としての信頼を勝ち得ていくことができる人物である、ということが人選に求められるわけです。

ただ頭ごなしに技術を「教えてやる」方式では、絶対にうまくいかない。
そして現に「うまく行っていない」からこそ、日本に依頼がきたのです。

大阪府立大学の中尾佐助(助教授、当時)は、この依頼をブータンの首相から直接受けました。そのとき国情についても、詳しく説明を受けています。
けれど、そのとき「あの男なら!」と、すぐにピンとくる者がありました。
同学部の学生であった「西岡京治」(当時25歳)です。

性格が、穏やかで謙虚、友誼にも篤く、誠実で努力家、根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な男は、西岡京治しかいない!
助教授は、すぐにそう感じたそうです。
彼はすぐに西岡京治に相談をもちかけました。
「どうだ。行ってくれるか?」

西岡京治は、同じ年にネパール学術探検隊に参加しています。
彼は、ヒマラヤの自然の美しさと、そこに住む人々の貧しさを見ていました。
「俺が彼らの生活をよくすることに少しでも貢献できたなら」
西岡京治は、彼二つ返事でブータン行きを承諾しました。

それから6年、さまざまな紆余曲折があって、昭和39(1964)年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から、西岡京治に、正式な派遣決定の通知が届きました。
西岡は、新妻の里子を伴って、その年の4月に、ブータンに飛びました。

昔からそうなのですが、こうした海外協力隊では、たいていの場合、妻は日本に残して、単身で旅立つ者が多いです。
最初から西岡が、妻を伴ったということは、彼自身に、妻を愛する心と、ブータンに骨をうずめる覚悟があった、ということです。

ブータンに到着した西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向きました。
農業局は、局長も職員もすべて、インド政府から派遣されたインド人でした。

西岡京治は、彼らとの話し合いをもちました。
けれど彼らは、「自分たちはブータンの農業事情を一番知っている、ブータンの農民は遅れているうえに因習深い、何を言っても始まらない」と、西岡をハナからとりあいません。

それどころか、西岡がブータンの農民と接して農業指導を行いたいと申し出ても、その許可さえ与えてくれませんでした。

ブータンに着いて早々からこれです。
西岡は、このとき、何度も心が折れそうになったといいます。
けれど、ここで負けて帰るわけにいかない。
ブータンの貧しい農民たちの姿を実際に目で見て知っているのです。
なんとかして役に立ちたい。

そう思った西岡は、繰り返し彼らに働きかけ、ようやく農業試験場内で、60坪ほどの土地を提供してもらうことに成功しました。

ひとくちに60坪といっても、これを農地としてみたら、ごく狭小な土地です。
しかもそこは、ひどく水はけが悪い。
これでは野菜の栽培すら難しいのです。
要するに、簡単にいえば、日本からやってきた西岡に対する嫌がらせです。
「やれるものなら、やってみろ」というわけです。



それでも西岡は、そこでなんとか頑張ろうと決意しました。
そして農業局に、「ブータン人の実習生」を要求しました。
なぜなら西岡が派遣された目的は、あくまで農業指導であったからです。
荒れ地で、ひとりで栽培し、うまく行っても、それでは意味がないからです。

ようやく許可が出ました。
希望通り、西岡に実習生がつけられました。
けれど、その実習生はなんと12~3歳の子供が3人というものでした。

ここまでされたら、ふつう、怒るかあきらめるかします。
事実、いろいろな国から指導員が派遣されていましたが、みんなこういう仕打ちに耐えかねて怒って帰国しています。

ところが西岡は、あきらめない。
笑顔で少年たちと土を耕し、樹木を抜き、水利を図り、そこで日本から持ち込んだ大根の栽培を開始したのです。

子供達には、畑の耕し方、種の蒔き方、土のかけ方、ひとつひとつを西岡は目の前で実演してみせ、一緒になって畑で働き、大根を育てました。

西岡がなぜ大根を選んだか。
それは大根が収穫が早く、昼夜の寒暖差が大きいほど、おいしく、よく育つ作物だからです。
そして3ヶ月後、その小さな農地に、それまで誰もみたこともないような、おおきな大根が育ちました。

実った大根を抱えて見せた子供たちの笑顔が、たまらなく美しかった。
それは、野菜の栽培など到底無理と思われる荒れ地で、西岡は見事に野菜の栽培に成功してみせた瞬間でした。

西岡の成功を、ブータンの政府が何より喜んでくれました。
そして政府の命令で、今度は試験農場を、水はけのよい高台に移してくれたのです。
耕作地面積も、3倍です。
農業局ではなく、もっと上が動いてくれたのです。

水利がよければ、野菜はますますよく育ちます。
西岡の農場は、狭いけれど、青々とした野菜が見事に育ちました。

この噂は、ブータン国内で大きく広がりました。
ブータンの知事や議員たちも、西岡の試験農場に視察に来るようになったのです。

議員たちは感動しました。
そしてある議員の提案で、ブータンの国会議事堂前で、試験場で栽培した野菜を展示することになりました。

そこで西岡の野菜は、大評判となりました。
なにせ、みたこともないほど肥えた野菜なのです。
しかもおいしくて、みずみずしい。

噂が噂を呼び、ついにはブータン国王から「西岡氏にもっと広い農場用地を提供せよ」という勅命がくだされます。
このときのことを、後に西岡は「ブータンに来て、このときほど嬉しいことはなかった」と述懐しています。

孟子の言葉に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づその心志(しんし)を苦しめ、
その筋骨を労し、その体膚(たいひ)を餓やし、その身を空乏し、行ひその為すところに払乱せしむ。
心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」という言葉があります。

世に大きな貢献をしようとするとき、順風満帆にそれが成功するということは、まずない、といっても過言ではないと思います。
あらゆる迫害やイジメにあっても、それは天が、その人の心を鍛え、忍耐強くし、できないことを
できるようにさせるためだ」という言葉です。
「公(おおやけ)」に尽くすというのは、そういうことであろうと思います。

さて、西岡が国王から与えられた新しい農地は「バロ農場」と名付けられました。
「バロ」というのは地名なのですが、それだけではありません。
ここには、ブータンの国の柱となっているブータン仏教を伝えた、パドマサンババが、空飛ぶ虎の背から降りてきたという伝説が残っている場所なのです。

いまでもこの地では、毎年三月に、一年の豊作を願って、人々が様々な民族衣装や動物や鬼などの仮面をつけて、太鼓や管楽器による民族音楽に乗って歌ったり踊ったりします。
国王は、そういう由緒ある地を、西岡のために提供してくれたのです。
国王のお気持ちは、察して余りあります。

ただし、ここは標高2200メートルの高地です。
決して農業に適した土地とばかりはいえない。
けれど、ここで成功することは、単に収量の多い良い作物を作れたということ以上に、ブータンの人々に大きなメッセージを持つことになるのです。

西岡は、闘志を燃やしました。
昭和46(1971)年、西岡は、この高地で、米作りに挑戦したのです。

ただし、広大な農地での米作りは、西岡ひとりと子供3人でできるような仕事ではありません。
村人たちの協力が必要です。

ところがここでまた難題が持ち上がりました。
日本では田植えというと、縦と横を一定間隔で植える並木植えがあたりまえの習慣なのですが、当時のブータンは、単に種をバラまくだけです。

これだと手押しの除草機が使えず、稲の周りに雑草が繁殖します。
すると本来なら稲にいくべき土地の栄養分が奪われてしまう。
さらに苗の苗との間の風通しも悪くなります。当然生育も悪くなる。

西岡は、村人たちと再三、並植えについて相談を持ちかけました。
けれど村人たちは、
「ワシら、昔からこうやってきた」と、とりあってくれません。

何度も何度も村人たちと話し合いをしました。
そしてようやく一部の若者が「やってみよう!」といってくれ、村の長老の許可も得ることができました。
けれどもし、米の収量が上がらなければ、西岡の信頼は一気に失われてしまう。
西岡は祈るような気持ちで、稲の生育を見守ったそうです。

結果・・・・・
バロ農場は、従来型の雑多な植え方の田と比べて、なんと40%もの増産に成功します。
村人達は、驚き、喜びました。
バロ盆地では、数年のうちに約半数が西岡の持ち込んだ並植え栽培をはじめてくれるようになったのです。
そしてこの農法は、いまではブータンに広く普及し、ブータン王国の8割の田が、並植え方式を採用するに至っています。

昭和45(1970)年、西岡は、国王の命によって、シェムガン県の開発に従事することになりました。
この地は、貧しいブータンの中でも最貧地区、というより極貧地区です。

ここでは焼畑農業が営まれ、収穫量が下がると人々は別な土地に移動していました。
西岡は、ここに10人のスタッフとともに乗り込みます。

しかし、いきなり「よそ」からやってきた西岡の言うことなど、誰も聴こうとしません。
いままで何百年も焼き畑農業でやってきたのです。
それがあたりまえの常識となっている。
新しい農法などを試して、もし失敗でもすれば、その年の内に村人たちは餓死しなきゃらななくなるのです。
そして外国人である西岡の言う方法で、間違いなく成功する保証など、なにもない。

西岡の村人たちとの話し合いは、なんと800回にも及んだそうです。
西岡は根気強く、村人たちを説得し続けました。

西岡がえらいと思うのは、彼がこのとき話し合いをくり返し行ったというだけにとどまりません。
彼は、村人たちにとって新しい農法を教えるというだけでなく、無理な近代化を行わず、あくまで彼らの「身の丈にあった開発」を進めようとしたことです。

身の丈にあわない開発というのは、昨今でも政府開発援助などにおいて、よく見かける光景です。
あるいは、テレビ番組などで未開の地に行って、そこで新しい施設の造り方などを、日本から運び込んだ重機などを使って、いわば豪勢なやり方で、実施していく。

たとえば、水田に水を引くのに際しても、いたずらに巨額の費用をかけて、たとえば重機を用いて水をひき、水を汲み上げるといった具合に、です。
しかし、なるほどそうすれば成功は確実かもしれませんが、日本人スタッフなどが去った後には、むしろ、あの重機があれば、という渇望と無気力という弊害しか現地に残さない。

ですから西岡は、そうならないよう、あくまでも村人たちが持つ範囲のインフラの枠組みの中で、土地を開発し、農地を育てています。
たとえば、水路ひとつとっても、竹などの自然のものを利用して水路を確保したり、あるいは木でできたアブナイ吊り橋を、いきなりコンクリート製の近代的橋に掛け替えたりはしないで、耐久性のすぐれたロープを使って、吊り橋を直したりしたのです。

こうして西岡は村人たちとともに、バロに360本もの水路を完成させ、壊れかけて危険だった吊り橋17本を掛け替えました。
村人たちと一緒に作った手作りの道路は、なんと300kmにも達しています。

そして村人たちと共同で、60ヘクタールもの広大な水田を作りました。
西岡が来る前までの水田は1~2ヘクタールです。50倍の耕地面積です。

同じ人数、同じ労働力、同じ土地で、焼畑農業で農地を転々とさせるのではなく、水路を引き、道を作り、橋を架け、広大な定置農地を確保したのです。

そして、この広大な農地いっぱいに、満面の稲が稔りました。
村人たちにとって、見たこともないような、ものすごい量の収穫高です。

極貧地区は、またたく間に生活が安定しました。
生活にも余裕が生まれ、子どもたちのための学校もできました。
診療所もできました。
そしてなにより、村人たちは定住することができるようになったのです。

西岡たちが村を去る日、集まった全員の村人たちは、
「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった」と、涙を流しながら西岡たち一行を見送ったといいます。

ダショー・西岡
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昭和55(1980)年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価され、国王から「ダショー」の称号を受けました。

「ダショー」というのは、ブータン語で「最高に優れた人」という意味です。
この位は、最高裁の判事クラスしかもらえない称号です。
ブータンでは最も栄誉ある顕彰です。

このとき西岡は47歳でした。
ブータンに来てから16年の歳月が経っていました。
そしてその後も12年間、西岡はブータンにとどまり、農業の指導をし続けています。

時は移って、平成4(1992)年3月21日のことです。
子供の教育のために日本に帰国していた妻・里子さんのもとに、一本の国際電話がはいりました。
ブータンからでした。

「ダショー・ニシオカが亡くなりました・・・」
突然の訃報に動転しながらも、
「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子さんはとっさに
「バロでお願いします。ブータン式の葬式でお願いします」と答えました。

ブータンで28年間、ブータン人になりきってブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫です。夫は、きっとそう願っているに違いない。
彼女は瞬時にそう確信したといいます。

ダショー・西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って、同月26日に行われました。
葬儀は、農業大臣が葬儀委員長を勤めました。
国葬です。

ラマの僧侶の読経が山々にこだましました。
葬儀には、西岡を慕う5千人もの人々が、ブータン全土から集まりました。

ブータンは、国をあげて西岡に感謝の心を捧げてくれたのです。
ブータン国王も、葬儀に参列なさいました。
国王は、このとき、
「肉体は、古い衣装です。そう思いませんか?」
と里子さんにおっしゃられたそうです。

古い衣装を脱ぎ捨てたダショー西岡は、永遠にブータンの民を見守ってくれ続けているに違いない。
国王は、そういう意味でおっしゃられたのです。

ブータンの民族衣装
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昨年、ブータンの国王が来日されました。
この国王は、ダショー西岡当時の国王の子です。

露骨に馬鹿にされたり、いじめられたりすることに、腹をたてて戦うことも大切なことです。
けれど、何があってもくじけずに、自分の持っているすべてを使って、公(おおやけ)のために尽くしぬく。
そこに日本人の本当の意味での勁(つよ)さがあるように思います。

日本は古来、そうやって国を築いてきました。
そしてそういう日本人が、いつまでも安心して暮らし、笑顔で子や孫たちと暮らせる日本にしていくこと、それが過去から今の日本をプレゼントしてもらった私達の日本人としての使命であるように思います。

なぜなら、私達は日本人なのですから。

※ひとこと付け加えさせていただきます。
国際関係において、良心が通用するのは、相手が人の棲む国家である場合だけです。
獣に良心は通じません。
いや、ほんものの獣でも、人の恩を理解し、恩返ししたりすることは多々あるものですが、人の形をした獣には、普通のほ乳類ならたいていの動物が備えているものさえもありません。
あるのは、上下関係と収奪の欲望だけです。
獣以下の人もどきには、毅然として接しなければ、国の道を誤ります。
そのこともあわせて、加えさせていただきたいと思います。

「震災復興すると確信」ブータン国王が国会演説(11/11/17)


ブータン-1


<転載終了>